第3話:『カセットテープ [SIDE-B] の原罪』
木曜日の夜。
しとやかな長雨が、杉並の閑静な住宅街を濡らしていた。
アスファルトが吸い込んだ雨水が冷たく冷やされ、濡れた街路樹の葉から滴る雫が、一定の刻みでベランダのアルミ手すりを叩いている。
部屋の明かりを極限まで落とした六畳間のリビングには、エアコンの微かな送風音と、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる加湿器の青いLEDライトだけが存在していた。
僕はリビングの壁際に置かれた黒いスチールラックの前に膝をつき、引き出しの最奥に手を伸ばした。
指先に触れたのは、冷たく乾いたプラスチックの質感。
奥から静かに引っ張り出したのは、四角いクリアケースに入った一本の古いカセットテープだった。
手のひらに載せると、すこしズシリとした重みを感じる。
今や日常で見かけることのなくなった、前時代の記憶媒体。
角が丸く擦れて傷だらけになったケースの隙間には、うっすらと白っぽい埃が溜まっていた。
磁気テープは光にかざすとわずかに茶色く変色しており、
外枠のプラスチック部分には、僕の高校時代の拙い字で、黒の油性ペンでこう記されていた。
『SIDE-B:消去不可』
油性インクの文字は部分的にかすれ、
「消去」という文字の横には、当時の僕がカッターの刃で引っ掻いて刻んだ粗いバツ印が残っている。
親指の腹でその引っ掻き傷をなぞると、ザラりとした不快な感触が脳の奥を刺激した。
その刹那、僕の意識は一瞬で十五年前の「あの場所」へと引きずり戻される。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
西暦2011年。木造の旧校舎三階。
ギシギシと床板が軋む暗い廊下の最果てにあった、二坪ほどの狭い放送部室。
当時の部員は、僕と小久保紬の二人だけだった。
部室の中には、放課後の夕日によって引き伸ばされた二つの影と、使い古された真空管アンプの熱気、そしてノイズ混じりのマイクが転がっていた。
放課後を知らせる終業のチャイムが遠くの校舎で鳴り響くと、僕たちは特に理由もなくその狭い部屋に逃げ込み、西日が差し込む窓際で、誰に届くはずもない「架空のラジオ番組」を録音して遊んでいたのだ。
カセットテープのA面(SIDE-A)には、校内放送用の事務的な連絡事項や、昼休みに流す洋楽のプレイリスト、体育祭のBGMが録音されていた。
だが、裏面のB面(SIDE-B)——そこは、僕と紬だけの密室であり、世界の誰の目も届かない完全な領域だった。
『はい、みなさんこんばんは! 放送部がお送りする、誰も聴いていない深夜ラジオのお時間です!』
『……おい小久保、声がでかい。マイクのレベルメーターが赤に振り切ってる』
『いいの! どうせ誰も聴いてないんだから!
ねえ樋口くん、今日の晩ごはん何だと思う?
うちね、カレーなんだよ。絶対カレーの匂いがするもん』
『……自分の服からカレーの匂いがしてるだけだろ。バカかお前は』
テープのノイズの向こうで弾けるように笑う、幼く、高めの紬の声。
そして、それにボソボソと不機嫌そうに応えながらも、どこか口元を緩ませている僕の不器用な声。
僕たちは毎日、放課後の数時間をそのB面に費やした。
下らない授業の愚痴、好きな音楽のイントロ、テストの点数、将来の漠然とした不安。
そんな「何物でもない言葉たち」をカセットテープの磁気膜の上に吹き込んでは、
二人で一本のヘッドホンを分け合い、右耳と左耳で同じ音を聴いて大笑いしていた。
夕空が茜色から群青色へとグラデーションを描いて変わっていく時間。
部室のカビくさい匂いと、紬の制服の袖口から漂う安っぽい花火のような石鹸の香り。
あの頃、僕たちの世界はその狭い部室と、回るカセットテープの円運動の中だけに存在していた。
世界に自分たちしかいないような、無敵で、けれどどこまでも脆い全能感に満ちた日々。
だが——そのカセットテープには、決して「上書き(消去)」してはならない、最後の三分間が存在していた。
高校二年の十二月。初雪が校庭の黒い土を白く覆った日の夕方。
あの日も、僕たちはB面に録音をしていた。
外はシンシンと雪が降り積もり、古い反射式石油ストーブの上で沸騰するヤカンの水蒸気が、窓ガラスを真っ白に曇らせていた。
録音終了を示す赤いインジケーターランプが明滅する中、紬がふとトークの手を止め、曇った窓ガラスに指で小さな丸を描いた。
『ねえ、樋口くん』
『……なんだよ』
『もしもこのラジオが、本当のラジオで……世界中の人に聴かれてたら、どうする?』
『バカ言え。こんなボロ部室のテープ、僕たち以外に聴く奴なんていないよ。
校長にバレたら怒られるレベルの下ネタと愚痴しか入ってないろ』
『そうだよね……。でもね、もし本当のラジオで、誰かが聴いてくれてたら
……私、樋口くに言いたいことがあったんだけどな』
テープの磁気ノイズの向こうで、紬の吐息が微かに乱れたのが分かった。
彼女は赤くなった耳を隠すように首をすくめ、震える指先でスカートのひだを強く握りしめながら、言葉を繋いだ。
『私ね……樋口くんと一緒にいる時間が、一番好きなんだよ』
告白だった。
装飾も何もない、不器用で、けれどこれ以上ないほどまっすぐに差し出された感情の提示。
その時、十五歳の僕はどう反応したか。
身体中の血が逆流するような衝撃と同時に、狂おしいほどの「恐怖」が脳裏を支配したのだ。
もし、この好意を受け入れてしまったら?
もし、恋人なんて特別な関係になって、いつか喧嘩をして破局してしまったら?
この心地よい放課後の密室は、二度と戻ってこない。明日からの日常が壊れてしまう。
何より、自分のような地味で無口で、何一つ誇れるものがない人間が、彼女の「特別な男」であり続けられるはずがないという、卑屈な保身。
傷つくのが怖かったのだ。
彼女に失望されるくらいなら、最初から「誰も踏み込ませない場所」に逃げ込みたかった。
僕は冷たくあざ笑うように鼻を鳴らすと、カセットデッキの『STOP』ボタンを乱暴に叩いた。
ガチャン!と重い金属音が響き、テープの回転が止まる。
『はいはい、お疲れ様。小久保、冗談が下手だな。
マイクが入ってるからって、調子に乗るなよ。
そういう芝居がかったやつ、冷めるからやめろって』
……それが、僕の返答だった。
紬の顔から、すべての血の気が引いていくのが目に見えた。
彼女の瞳が揺れ、大きな涙の粒がボロボロと溢れ落ちてスカートのひだに染みを作っていく。
彼女は唇を血が滲むほど強く噛み締め、一度も僕の顔を見ようとしなかった。
翌日から、彼女は放送部に来なくなった。
気まずい沈黙と拒絶の空気が二人の間を支配し、冬休みが明け、卒業を迎えるまでの年間、僕たちは一度もまともに目を合わせることなく、言葉を交わすこともなく、それぞれの道を歩み出した。
僕が自分の保身のためについた冷たい嘘。
彼女が人生で初めて振り絞った勇気を、「下手な冗談」として踏みにじった、最低な自爆行為。
それが、僕と小久保紬の間に十五年間横たわり続ける、決して消すことのできない「原罪」だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「……ハァ」
深い、胸の底を削り取るような溜息が、雨の音の中に溶けて消えた。
僕はカセットテープをケースに戻し、吸い込まれるようにデスクの最奥の引き出しへと仕舞い込んだ。
再生機すら持っていないというのに、
僕は十五年間、引っ越しを繰り返すたびにこのテープだけは捨てずに持ち歩いていたのだ。
自らの犯した罪の証拠として。
あるいは、二度と手に入らない美しい過去の遺物として。
デスクの上のスマートフォンがブブッと鈍い振動音を立てた。
画面に視線をやると、社内チャットアプリの通知アイコンが点滅していた。
送り主の欄には、『小久保 紬(KNOX)』という文字。
『樋口様
お世話になっております。
KNOXの小久保です。
先日の打ち合わせでご相談いたしました、コラボノベルティ(レザーペンケース)のアッシュグレーのカラーサンプルについて、明日弊社のオフィスにて実物を確認させていただくことは可能でしょうか。
お忙しいところ大変恐縮ですが、ご検討のほどよろしくお願いいたします』
行間から一切の感情が削ぎ落とされた、どこまでも完璧で、丁寧で、ビジネスライクな文面。
十五年前のあの日、雪の降る部室で涙を浮かべて僕を見つめていた少女の面影は、この無機質なテキストのどこにも存在しない。
彼女は十五年という時間の中で大人になり、社会の荒波に揉まれ、己の弱さや過去の傷を覆い隠すための立派な鎧を身につけたのだ。
僕はキーボードを叩き、短く素っ気ない返信を作成した。
『小久保様
お世話になっております。ステッド・デザインの樋口です。
明日の15時、修正サンプルを持参して御社にお伺いいたします。
どうぞよろしくお願いいたします』
送信ボタンを押すと、一秒と置かずに『既読』の二文字がついた。
しかし、それ以上の返信は返ってこなかった。
現実世界での僕たちは、こうして仕事の用件だけを無機質にやり取りする「大人のビジネスパートナー」だ。
そこには過去の感情も、青臭い感傷も、一切のノイズも挟まる余地はない。
完璧に制御された社会人の振る舞い。
だが——彼女は深夜になると、『夜のくじら』という姿に変身する。
そして、僕が「サク」として配信しているラジオのチャット欄で、今なお十五年前の傷口を痛ましそうになぞり続けているのだ。
『私だけが昔のことに囚われてバカみたいでした』
『そんな風に優しく言われたら、私が……あの人を嫌いになりきれなくなっちゃうじゃないですか』
昨夜、画面の向こうで彼女が打ち込んだ言葉たちが、脳裏で毒のように渦巻いていた。
彼女は忘れてなどいなかったのだ。
僕が同窓会の夜に「あまり覚えてないな」と保身のための嘘をついたことで、
彼女は十五年前と同じように、再び自分の存在を拒絶されたのだと思い込み、
一人で深夜のベッドの上で傷ついていた。
「……バカだな、僕は」
僕は頭を抱え、両手で顔を覆った。
自分が傷つくのを恐れてついた浅はかな嘘が、巡り巡って、世界で一番傷つけたくなかった彼女を二重に追い詰めている。
今さら彼女に向かって「実はあの生配信のサクは僕で、高校時代のことも全部覚えていて、君のことが忘れられなかったんだ」なんて打ち明けたらどうなる?
彼女は僕を蔑み、心底嫌悪するだろう。
自分の誰にも言えない脆弱な本音を、二年間も元カレに覗き見されていたという不気味さと激しい不信感。
今度こそ、彼女は僕の視界から完全に姿を消すはずだ。
正体を明かす勇気もない。
かといって、現実の「樋口主任」として彼女に向き合う覚悟もない。
僕は身動きが取れないまま、己の嘘で作られた歪んだ二重生活の底へと、じわじわと沈んでいくしかなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
翌金曜日の午後三時。
雨上がりの水たまりが日光を反射する、港区南青山のオフィス街。
その一角に佇む『KNOX』の本社ビルは、洗練されたコンクリート打ちっぱなしの外観を誇っていた。
ガラス張りのエントランスを一歩くぐると、ほのかに甘くスパイシーなブランドオリジナルのアロマ香水が漂っている。
スーツ姿の社員やお洒落なアパレル関係者が行き交うロビーで、僕は黒い革製のサンプルケースを抱え、姿勢を正して立っていた。
「樋口さん、お待たせいたしました」
奥のエレベーターホールから現れた紬は、シックな黒のセットアップスーツに身を包み、カツカツとヒールの音を響かせて歩いてきた。
昨日社内チャットでやり取りした通りの、スキのないPRディレクターの顔だ。
髪は後ろで綺麗にまとめられ、知性的な眼鏡の奥の瞳は、一切の揺らぎを見せていない。
「お遠いところ、わざわざ足をお運びいただきありがとうございます。奥の会議室へどうぞ」
「いえ、こちらこそお時間いただきありがとうございます」
通されたのは、壁一面に今季のコレクションの洋服や生地見本が整然と並ぶ、ガラス張りの商談ルームだった。
僕は鞄からサンプルを取り出し、テーブルの白いクロスのうえに並べた。
「こちらが、昨日ご相談いただきました『アッシュグレー』のレザーサンプルになります。
室内光では落ち着いた印象ですが、自然光の下では微かに青みがかって見えるよう、特別な染色を施しています」
「……綺麗ですね」
紬はサンプルを手にとり、細くしなやかな指先で、愛おしそうに革の表面をゆっくりとなぞった。
その手元の所作に、かつて放送部室でカセットテープのケースを弄んでいた少女の面影が一瞬だけ重なる。
「イメージ通りです。手触りも滑らかですし、うちの顧客層にもきっと響くと思います」
「ありがとうございます。では、この仕様で最終的な量産体制に入ります」
仕事の会話は、わずか十分ほどで滞りなく終了した。
彼女は手帳に細かなチェックを書き込み、僕は手元の資料を整理して鞄へとしまおうとした。
その時だった。
紬がふとペンを動かす手を止め、窓の外の曇り空を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……樋口さんって、今でもラジオ聴いてる?」
心臓が跳ね上がった。
鞄に手を突っ込んだ体勢のまま、僕の全身の筋肉が凍りつく。
「……え?」
「ううん、なんとなく」
紬は自笑するように首を少し傾けた。
「高校の時、放送部でラジオごっこやってたじゃない。
さっきサンプル触ってたら、ふとあの部室の匂いを思い出して……。
樋口さん、大人になった今でも、そういうの聴いたりしてるのかなって」
彼女の静かな瞳が、まっすぐに僕を捉えていた。
探るような、試すような、けれどどこか縋るような、絶妙な距離感の視線。
喉の奥がカラカラに乾き、息が詰まる。
僕は生唾を飲み込み、表情筋が引きつらないよう全神経を注ぎ込みながら、声を平坦に保った。
「……ううん。最近は仕事が忙しくて、全然聴いてないな。移動中にニュースを見るくらいだよ」
まただ。
またしても僕は、保身のための嘘を重ねてしまった。
自分がまさにその「ラジオ(生配信)」のパーソナリティであり、昨夜彼女の悲痛なコメントを受け止め、マイク越しに声をかけた本人であるという事実を隠して。
「……そう。そうだよね。仕事、忙しいもんね」
紬は寂しげに目を伏せ、小さく、自分を納得させるように頷いた。
「ごめんね、変なこと聞いちゃって。
……サンプル、ありがとうございました。
とても素晴らしい仕上がりです。期待していますね」
「……はい。失礼いたします」
僕は深々とお辞儀をし、逃げるように商談ルームを後にした。
エレベーターに乗り込み、扉が閉まる直前。
チラリと見えた紬の横顔は、どこか遠くを見つめるように、とても寂しそうだった。
一階へと降りていくエレベーターの中で、僕は自分の胸を強く握りしめた。
彼女は探していたのだ。
現実の冷たい僕の中に、「深夜のラジオのサク」の面影を。
あるいは「あの頃の樋口くん」の優しさを。
けれど、僕はどこまでも保身の鎧を脱ぎ捨てることができず、彼女の手を振り払い続けている。
傷つくのが怖いから。
一度壊れてしまった関係を、変えようとしてもう一度壊してしまうのが怖くて、
僕は「社会人」の仮面を被り逃げ続けているのだ。
『SIDE-B:消去不可』
あのカセットテープに刻まれた原罪は、十五年の時を経てなお、僕たちの間を深く、冷たく隔てていた。




