第2話:『交わらない東京、重ねる周波数』
月曜日の朝八時十五分。
JR中央線の快速電車は、今朝も濁った人間たちの吐息と湿気で満たされていた。
つり革に捕まりながら、僕はスマートフォンの画面に目を落としていた。
画面に表示されているのは、僕が勤める文具メーカー『ステッド・デザイン』の社内チャットアプリだ。プロダクトデザイン部と営業部、開発部が入り乱れるグループチャットでは、今週金曜日に迫った秋の新作文具発表会に向けた細かな連絡事項が絶え間なく流れている。
——「樋口主任、修正分のボールペンクリップの3Dデータ、工場に転送完了しました」
——「了解。寸法精度は±0.05ミリで指定通りか確認頼む」
フリック入力で簡潔に返信を打ち込み、画面を閉じる。
画面が暗転し、鏡のようになった黒いディスプレイに、自分の顔が映り込んだ。
目の下のクマは、土曜日の夜——あの同窓会と生配信があった夜から、さらに濃くなっていた。
あの日から二日が過ぎた。
僕の日常は何ひとつ変わっていない。
毎朝決まった時刻に起き、満員電車に揺られ、マンションから港区のオフィスへと向かう。
だが、僕の頭の中の半分は、常にあの「チャット欄の文字」に支配されていた。
『夜のくじら:サクさん、聞いてくれますか。今日、私、十五年ぶりに昔の好きな人に会いました』
あのアカウントの向こうにいたのは、小久保紬だった。
同窓会で僕に冷たい視線を向け、「あまり覚えてないな」という僕の最低な嘘に傷ついて去っていった彼女。
彼女は僕が「配信者サク」であることを知らない。
そして僕だけが、彼女が『夜のくじら』であることを知っている。
知ってしまった。知ってしまったからこそ、僕の日常は狂い始めていた。
街を歩いていても、すれ違う女性のボブヘアや、淡いベージュのコートに過敏に反応してしまう。
アパレルのPRをやっていると言っていた。
港区や渋谷、原宿のどこかで、彼女も今、満員電車に揉まれながら誰かとビジネスの連絡を取り合っているのだろうか。
東京という多種多様な人々が大量にひしめく巨大な都市において、連絡先すら持たない人間と偶然再会する確率なんて、ゼロに等しい。
現実での僕たちは、二度と交わることのない平行線だ。
それなのに、深夜の午前二時という歪な周波数の中だけで、僕たちは誰よりも近くに存在してしまう。
「樋口、お前また顔色悪いぞ。ちゃんと寝てんのか?」
新橋駅の改札を出たところで、後ろから肩を叩かれた。
振り返ると、スーツの第一ボタンを少し緩めた一ノ瀬拓海が、缶コーヒーを片手に並んで歩き出してきた。
「寝てるよ。……ただの寝不足だ」
「嘘つけ。土曜の同窓会のあと、お前ひとりでめちゃくちゃ飲んでただろ。
小久保が帰ったあと、お前ずっと般若みたいな顔して飲んでたからな」
「……そんな顔してない」
「してたっての。……まあ、お前が小久保のこと引きずってんのは昔から知ってるけどさ。
せっかく十五年ぶりに会えたんだから、連絡先くらい聞けばよかったのに」
一ノ瀬は缶コーヒーのプルタブをチッと鳴らして開け、溜息をついた。
「小久保だって、お前と話したそうだったぞ。なのに冷たくあしらってさ。
お前、本当に損な性格してるよな」
「僕たちの間には、もう何もないんだよ。一ノ瀬」
僕は歩調を早めながら、自分に言い聞かせるように言った。
「十五年前の高校時代に、僕が彼女を傷つけた。
それで終わりだ。いまさら連絡先を聞いてどうする?
お茶でも飲んで『あの時はごめん』って謝るのか?
そんなの、僕の自己満足でしかない。彼女には彼女の、三十歳としての立派な生活があるんだから」
「……相変わらず、理屈っぽい奴だなあ」
一ノ瀬は呆れたように頭を掻いた。
「まあいいや。今日の14時から、新作の宣伝PRの打ち合わせだぞ。
今回、外部のアパレルブランドとコラボしてノベルティ作るだろ?
向こうのPR担当が来るから、遅れんなよ」
「わかってる。デザイン案はもう固まってる」
オフィスビルの自動ドアを潜り、エレベーターに乗り込む。
金属の壁に囲まれた密室の中で、僕はポケットの中のスマートフォンを握りしめた。
今日の深夜二時は、水曜日。
『午前二時の迷子たち』の定期生配信の夜だ。
彼女は、今夜も来るだろうか。
僕が「サク」としてかけた、あの身勝手な言葉を聞いて、失望してもう二度と来なくなってしまっただろうか。
期待と恐怖が、交互に胸を締め付けていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
同日の午後二時。本社ビル八階の第3会議室。
ガラス張りの会議室の外には、東京のビル群と曇り空が広がっていた。
僕はパソコンをプロジェクターに接続し、今回の秋の新作文具シリーズ『Stellar』のプレゼン資料を画面に映し出していた。
「——今回のコンセプトは『働く大人のための、静かな文房具』です。
派手な装飾を削ぎ落とし、手に馴染むマットな質感と、
長時間の筆記でも疲れない低重心設計にこだわりました。
そして、今回アパレルブランド『KNOX』様とのコラボノベルティとして提案したいのが、このレザー調のペンケースです」
会議室の長テーブルには、僕たちステッド・デザインのプロダクトチーム3名と、営業の一ノ瀬。
そして、テーブルの反対側には、今回コラボレーションを打診しているアパレルブランド『KNOX』の広報チームの女性二人が座っていた。
「……なるほど。非常に洗練されていて、うちのブランドのターゲット層である三十代女性にも刺さりそうですね」
そう言って書類に目を落としたのは、KNOX側の担当者……ではなく、彼女の隣に座っていた若い女性社員だった。
「小久保先輩、どう思われますか?」
若い女性社員が、隣に座る上司に声をかける。
その瞬間、僕の息が止まった。
書類の影から顔を上げたのは、小久保紬だった。
黒のジャケットに、洗練された白のブラウス。
髪を後ろで一つにまとめ、知性的なフレームの眼鏡をかけた彼女が、驚いたように目を見開いて僕を見つめていた。
……嘘だろ。
心が激しく警鐘を鳴らした。
アパレルブランド『KNOX』。
それが、彼女の勤めている会社だったのか。
一ノ瀬は知っていたのか? いや、一ノ瀬の顔を見ると、彼もまた目を丸くして固まっていた。
KNOX側の担当者名までは把握していなかったのだろう。
「……樋口……くん……?」
紬の唇から、小さな声が漏れた。
「えっ、小久保さん、ステッド・デザインの樋口主任とお知り合いなんですか?」
部下の女性が不思議そうに二人を見比べる。
会議室の中に、気まずい静寂が流れた。
十五年ぶりの同窓会で冷たく別れたばかりの二人が、
わずか々々二日後に、ビジネスパートナーとしてテーブルを挟んで対峙している。
なんという悪趣味な偶然だろう。
僕は必死で感情を殺し、喉の奥を鳴らしてビジネス用のスマイルを作った。
「……初めまして。ステッド・デザインの樋口です。小久保様とは、高校時代の同級生でして」
「あ……はい。同級生、でした」
紬もすぐにプロの顔を取り戻し、姿勢を正した。
だが、彼女が手にしたペンの指先が、わずかに震えているのを僕は見逃さなかった。
「奇遇ですね! 世間は狭いなあ」
一ノ瀬が空気を読んだように大声で笑い、場を和ませようとする。
「小久保さん、うちの樋口は口下手ですが、デザインの腕は確かですから。
今回のノベルティの仕様についても、ご要望があればどんどん言ってやってください」
「ええ……助かります。拝見させていただきますね」
紬は手元の資料に視線を落とした。
プレゼンが再開されたが、僕の声は自分でもわかるほど硬くなっていた。
スクリーンに映し出されるカラーサンプルや素材の選定理由を説明しながら、視線の端で紬の様子を伺う。
彼女は真剣な表情でメモを取り、時折鋭い質問を投げかけてきた。
「樋口さん。このペンケースの革の質感ですが、うちの今季のメインカラーである『アッシュグレー』に合わせることは可能ですか? もう少し落ち着いたトーンにしたいのですが」
「……可能です。染色テストのサンプルを今週末までに用意します」
「助かります。それから、ブランドロゴの刻印位置ですが、主張しすぎないよう内側のスリット部分に入れていただくことはできますか?」
「ええ、問題ありません。デザインデータに反映させておきます」
整然とした、完璧なビジネスの会話。
誰から見ても、優秀なデザイナーと優秀なPRディレクターのやり取りだった。
だが、互いの視線が交差する一瞬の合間に、そこには「言葉にならないノイズ」が過剰に含まれていた。
彼女の瞳が語っていた。
『どうしてあなたがここにいるの?』
『あまり覚えてないって言ったくせに、どうしてそんな顔で仕事をしてるの?』
そして僕の瞳もまた、無言で語ってしまっていた。
『忘れたわけじゃない。忘れられるはずがないんだ』
一時間の打ち合わせは、生きた心地がしないまま終了した。
「では、本日の修正案を反映させたデータを、明日の夕方までにメールでお送りします」
会議室の出口で、僕は紬に向かって頭を下げた。
「よろしくお願いします、樋口さん」
紬はビジネスライクな笑みを浮かべ、丁寧にお辞儀をし、部下の女性とともにエレベーターに乗って去っていった。
『株式会社KNOX プレス事業部 ディレクター 小久保 紬』
名刺には、彼女の会社のメールアドレスと、直通の電話番号が印刷されていた。
十五年間、喉から手が出るほど欲しかった彼女の連絡先が、こんなにあっけなく、ビジネスの名刺という形で僕の手の中に収まってしまった。
一人残された会議室で、僕は手の中の名刺をじっと見つめた。
現実の距離が、急速に縮まっていく。
だが、この名刺に書かれた番号に電話をして、「日曜日のラジオの『夜のくじら』さんですよね」なんて聞けるはずがないのだ。
仕事仲間としての仮面を被ったまま、僕たちはまた夜を迎える。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
水曜日の深夜一時五十五分。
自室のデスクの前で、僕はヘッドホンを装着し、マイクの前に坐していた。
昼間の打ち合わせの記憶が、何度も脳裏を焼き尽くすように蘇る。
名刺に書かれた『小久保 紬』の文字。
会議室で見せた、プロとしての完璧な顔と、一瞬だけ揺らいだ瞳。
彼女は、今夜の生配信に来るだろうか。
昼間に元カレである僕と仕事で再会し、嫌な思いをしたばかりだ。
疲れ切って、もう寝ているかもしれない。
あるいは、サク(僕)のラジオなんて聴く気分になれないかもしれない。
いや……逆だ。
現実世界で嫌なことがあった夜だからこそ、彼女は『夜のくじら』として、この深夜の密室に逃げ込んでくるのではないか。
心臓の鼓動が速くなる。
手汗でマウスが滑りそうだった。
午前二時ちょうど。僕は配信開始ボタンをクリックした。
『配信中』
「——こんばんは。時刻は午前二時になりました。
今夜も始まりました、『午前二時の迷子たち』。パーソナリティのサクです」
声を整える。昼間の「樋口主任」の声でもなく、高校時代の「樋口くん」の声でもない。
低く、穏やかで、誰の傷も否定しない「配信者サク」の声。
チャット欄が勢いよく流れ始める。
《サクさんこんばんは!》
《水曜日のこの時間を待ってました》
《仕事終わりの癒やし……》
《今夜も寒いですね》
「みなさん、今夜も集まってくれてありがとうございます。
水曜日の深夜、一週間の折り返し地点ですね。
お仕事の方も、勉強中の方も、ひと息ついて聴いていただけたら嬉しいです」
僕はコメントを拾いながら、画面の右端に表示される閲覧者リストとチャット欄を、穴が開くほど見つめていた。
開始から五分。
十分。
来ない。
『夜のくじら』の名前は、どこにもなかった。
胸の奥で、安堵と、激しい落胆が入り交じる。
これで良かったのだ。
彼女は現実の生活に戻り、ラジオなんて聴かずに温かい布団で眠っている。
それが健全な大人の姿だ。
「……では、次のコメントに参りましょうか。『ペンネーム:みかん缶』さんからいただきました……」
僕が原稿を読むフリをして言葉を紡ごうとした、その時だった。
画面のチャット欄に、すっとその文字が躍り出た。
『夜のくじら』
《夜のくじら:サクさん、こんばんは。遅くなってすみません》
息が止まった。
来た。彼女は、来たのだ。
チャット欄の常連たちが《あ、くじらさんだ》《こんばんは!》《日曜日は大丈夫でしたか?》と温かく迎えるコメントを書き込む。
僕はマイクに向かって、震えそうになる声を必死で押さえつけながら語りかけた。
「……こんばんは、夜のくじらさん。来てくれてありがとうございます。今夜もお忙しかったですか?」
画面の向こうで、彼女が文字を打ち込むまでの数秒間。
僕の部屋の静寂が、痛いほど重く感じられた。
そして、流れてきたコメント。
『夜のくじら:はい……今日は、本当に最悪な一日でした』
……最悪な一日。
それは、昼間に僕と仕事の打ち合わせをしたことだった。
僕の胸に、鋭い痛みが走る。
『夜のくじら:日曜日にお話しした、15年ぶりに再会した元カレのこと、覚えていますか?』
「……ええ。覚えていますよ」
覚えているどころではない。僕自身のことだ。
『夜のくじら:
今日、仕事の打ち合わせで、その人と鉢合わせしちゃったんです。
相手はうちの会社の取引先のデザイナーとして来ていて……逃げようにも逃げられませんでした』
チャット欄が騒がしくなる。
《うわっ! 仕事で鉢合わせ!?》
《気まずすぎる!!》
《そんな漫画みたいなことある!?》
僕の指先は冷たくなり、マイクの前で固まっていた。
紬は、スマホの画面に向かって、どんな顔でこの文章を打ち込んでいるのだろう。
自室のベッドの上で、膝を抱えながら、僕という見知らぬ配信者に縋るように打っているのだろうか。
『夜のくじら:
その人、仕事中はすごく完璧なプロの顔をしていて。
私が『覚えてない』って言われたことに傷ついてるのなんて全然知らずに、
平然と名刺を出してきて……なんだか、私だけが昔のことに囚われてバカみたいでした』
『夜のくじら:私、仕事中、泣きそうになるのを必死で耐えてました』
——泣きそうになるのを、必死で耐えていた。
あの会議室で、完璧なPRディレクターとして振る舞い、僕に鋭い質問を投げかけていた彼女の裏側で、そんな感情が渦巻いていたなんて。
僕は自分の無神経さと、愚かさに、血を吐くような後悔を感じた。
「あまり覚えてないな」
僕が保身のためについたあの嘘が、彼女をどれほど傷つけ、どれほど追い詰めていたのか。
目の前にいる彼女に「ごめん」と言えなかった報いが、こうして深夜の生配信という形で、僕の心臓を抉り出している。
「……夜のくじらさん」
僕はマイクに向かって、低く、切ない声を漏らした。
「それは……本当にお辛かったですね」
『夜のくじら:
サクさん……私、どうしたらいいんでしょう。
これからその人と、何度も仕事で会わなきゃいけないんです。
顔を見るたびに、昔の楽しかった記憶と、日曜日に冷たく拒絶された記憶が混ざり合って、頭がおかしくなりそうで……』
チャット欄のリスナーたちがアドバイスを書き込んでいく。
《仕事だと割り切るしかないよ!》
《別の担当者に代わってもらえないの?》
《つらいね……無理しないでね》
だが、紬が求めているのは、そんなありきたりな励ましではないことを、僕は知っていた。
彼女は、救いを求めている。
十五年前の放課後、放送室で途切れてしまった「言葉の続き」を、ずっと探しているのだ。
僕はマイクを握りしめた。
画面の向こうの彼女に向かって、配信者「サク」としてではなく、一人の男として、届かない本音を語りかけずにはいられなかった。
「……夜のくじらさん。そのお相手の男性の気持ちを代弁することは、僕にはできません。でも……」
僕は呼吸を整え、言葉を選びながらマイクに語りかけた。
「でも、もしもその男性が……本当はあなたのことを一日も忘れたことがなくて、急な再会に戸惑って、自分の情けなさを隠すために嘘をついてしまったのだとしたら」
チャット欄の動きが、ぴたりと止まった。
「もしもその人が、あなたと仕事で再会できたことを、心の底から奇跡だと思っていて
……でも、過去にあなたを傷つけた罪悪感から、合わせる顔がなくて素直になれないでいるのだとしたら」
画面の向こうで、紬が息を呑む気配がしたような気がした。
「……その人は、最低な男です。素直になれず、あなたを傷つけ、自分の保身ばかり考えている。
でも……あなたを拒絶したくてそんな嘘をついたわけじゃないことだけは、分かってあげてほしいんです」
言いすぎてしまった。
配信者としての領域を超え、あまりにも個人的で、身勝手な弁明を。
チャット欄にリスナーたちの困惑したコメントが流れる。
《サクさん、なんか今日熱い……?》
《相手の男の擁護?》
《サクさん、知り合いの話みたいに話すじゃん》
しまった、と冷や汗が流れた。
熱くなりすぎて、客観性を失っていた。
これ以上語れば、僕が「樋口朔」本人であることが勘づかれてしまうかもしれない。
僕は慌てて咳払いをし、声を元の静かなトーンに戻した。
「……すみません。少し、熱くなってしまいましたね。
僕の勝手な推測です。夜のくじらさんが、これ以上傷つかないことを一番に祈っています」
静寂が流れた。
『夜のくじら』からの返信は、すぐには来なかった。
画面上の閲覧者数は千人を超えている。その全員が、画面の向こうの『夜のくじら』の反応を待っていた。
やがて、ぽつりと打ち込まれたコメント。
『夜のくじら:……サクさん』
『夜のくじら:サクさんって、ときどき……ずるい言い方をしますね』
胸がドクンと鳴った。
『夜のくじら:そんな風に優しく言われたら、私が……あの人を嫌いになりきれなくなっちゃうじゃないですか』
『夜のくじら:……今夜は、もう落ちます。ありがとうございました』
『夜のくじら』のアカウントが、チャット欄から消えた。
画面に残されたのは、僕の虚しい吐息と、他のリスナーたちの雑多なコメントだけだった。
僕は椅子に深々と身体をあずけ、天井を見上げた。
「ずるい」
彼女はそう言った。
そうだ。
僕はズルい男だ。
現実では仮面を被って知らん顔をし、深夜の電波の向こうでは優しい配信者のフリをして、自分に都合の良い弁明を彼女の心に植え付けようとしている。
明日の朝になれば、また僕たちは「樋口主任」と「小久保ディレクター」として、ビジネスのメールをやり取りするのだ。
交わらない東京の空の下で。
僕たちの歪な周波数は、解けないノイズを抱えたまま、夜の闇へと溶けていった。




