第1話:『目の前には懐かしい同級生、帰宅後画面の先にいたのは』
ふと、夜中テンションで書いています。
「……樋口くん、久しぶり。相変わらず、何を考えてるか分からない顔してるね」
グラスの中で溶けかけた氷が、カランと甲高い音を立てた。
どこか疲れと見栄が混ざり合った熱気が満ちる居酒屋の個室。
そんな同窓会の喧騒をすり抜けるようにして投げかけられた声に、僕はゆっくりと視線を上げた。
そこに立っていたのは、小久保紬だった。
十五年。
その年月の重さを噛み締めるよりも先に、僕の思考は一瞬だけ過去の残像へと跳躍した。
僕の記憶の中にある彼女は、いつも少し大きめのブレザーの袖を余らせ、放課後の中庭を眩しそうに見つめていた少女だった。
短く切り揃えられた黒髪と、感情がすぐに揺れる大きな瞳が特徴的だった。
だが、目の前に立つ女性は違っていた。
肩まで伸びた髪はゆるやかにウェーブを描き、洗練されたベージュのニットに上品なゴールドのネックレスが映えている。
都会にあう、自分を最も美しく見せる術を知った大人としての佇まい。
「……小久保、か」
声が出た。
自分でも驚くほど、低く、平坦で、愛想のない声だった。
本当はもっと別の言い方があったはずだ。
十五年ぶりだねとか、綺麗になったねとか、元気にしていたかとか。
三十歳の大人として社会の荒波を泳いできた人間なら、いくらでも吐き出せるはずの無難な定型句が、僕の喉の奥で渋滞を起こして消えていく。
「なによ、その顔。幽霊でも見たみたいな顔しちゃって」
紬はクスリと小さく笑うと、僕の隣の空いていた丸椅子を引き、滑り込むように腰掛けた。
ほのかに香る、甘さを抑えた柑橘系の香水。
それが、かつて放課後の放送室で漂っていた、安っぽい石鹸の匂いとは完全に別物であることを突きつけてくる。
「一ノ瀬から聞いてたんだ。樋口くんも今日来るって。だから、ちょっとだけ顔出してみたの」
「一ノ瀬が?」
僕が視線を向けると、三つ隣の席でジョッキを片手に同級生と大笑いしていた一ノ瀬拓海が、こちらに気づいて悪びれもせずヒラヒラと手を振った。
文具メーカー『ステッド・デザイン』での僕の同期であり、今日の雑な同窓会を企画した張本人だ。
余計な気を回しやがって、と心の中で小さく悪態をつく。
「樋口くん、全然変わらないね。相変わらず、何を考えてるか分からない。
文具メーカーでデザイナーやってるんだっけ? 一ノ瀬から聞いたよ。すごく良い仕事してるって」
「大したものは作ってないよ。ただのボールペンの軸とか、ノートの罫線の幅をミリ単位で調整するような地味な仕事だ」
「ふうん。でも、樋口くんらしいよ。昔から、目立たないところで変なところにこだわってたもんね」
紬は手元にあった烏龍茶のグラスを持ち上げ、一口だけ口に含んだ。
その指先には、薄いピンクのネイルが施されていた。
左手の薬指には、何もはめられていない。
だが、それが彼女の「独身」を保証するものではないことくらい、僕にも分かっていた。
三十歳という年齢は、誰もが胸の奥に一冊や二冊の重いアルバムを隠し持っている年頃だ。
「小久保は? 今は何をしてるんだ」
「私はアパレルのPR。プレスって言った方が分かりやすいかな。
自社の服を雑誌に載せてもらったり、イベント仕切ったり。
毎日忙しくて、自分が何歳なのかも忘れそうになるよ」
「……そうか。華やかな世界だな。似合ってると思う」
「お世辞はいいよ。樋口くんが言うと、なんだか嘘っぽく聞こえる」
紬は自虐的に笑うと、少しだけ眉をひそめた。
その一瞬の表情の陰りに、僕はかつての知っている「十五歳の小久保紬」の面影を見た気がした。
僕と紬は、高校時代、同じ放送部に所属していた。
と言っても、部員は僕と彼女の二人だけ。
放課後、誰もいなくなった木造校舎の端にある狭い放送部室で、
僕たちは古いマイクに向かい、誰にも放送されない「架空のラジオ番組」を録音して遊んでいた。
二人だけの密室。二人だけの発信。
あの日々は、僕の人生の中で最も鮮やかで、そして最も決定的な「過ち」を犯した場所でもあった。
「ねえ、樋口くん」
紬がグラスを置き、僕の目をまっすぐに見つめてきた。
その瞳の奥には、十五年前のあの日から澱のように溜まり続けていたであろう、冷ややかで、けれどどこか確かめようとするような視線があった。
「あのさ。あの頃のこと、覚えてる?」
一瞬、心臓が跳ね上がった。
喉が急激に干からびていくのを感じる。
あの頃。
彼女が言う「あの頃」が何を指しているのか、僕に分からないはずがなかった。
高校二年の冬。
雪がちらつく放課後の部室。
カセットテープが回転するカチャカチャという機械音の中で、彼女が僕に投げかけた、あの届かなかった言葉。
——『ねえ、樋口くん。もしもこのラジオが、本当のラジオだったら……私、樋口くんに言いたいことがあったんだけどな』
あの時、僕はどうしてあんな返しをしたのか。
「バカ言えよ、誰も聞いてないだろ」と冷たく笑い、マイクのスイッチを切り、彼女の言葉を「冗談」として踏みにじってしまった。
もし思っている言葉と違ったら、一方通行の思いだったら……と自分が傷つくのが怖くて。
彼女の感情を引き受けるだけの自信がなくて。
自分の保身のために、彼女の勇気を無かったことにした。
その結果、僕たちの関係はゆっくりと破綻し、卒業とともに連絡を絶った。
「……あまり、覚えてないな。もう十五年も前のことだし」
僕は自分の声が震えないように、細心の注意を払いながら嘘をついた。
最も安全で、最も最低な回答。
どこかまだ見栄を張っての誤答。
紬の瞳から、すっと温度が消えていくのが見えた。
彼女は唇の端をわずかに吊り上げ、小さく息を吐いた。
「そうだよね。樋口くんにとっては、そんな大した思い出じゃないもんね。ごめん、変なこと聞いちゃった」
「いや……」
「私、そろそろ行くね。明日も朝から展示会の搬入があるから」
紬は立ち上がった。
僕が何かを言いかける前に、彼女はバッグを持ち上げ、整った背筋を伸ばして個室の出口へと歩き出した。
一ノ瀬たちが「えー、小久保もう帰るの!?」と声をあげていたが、彼女は営業用の完璧な笑顔でそれをかわし、一度も振り返ることなく店の扉の向こうへと消えていった。
残されたのは、ぬるくなった烏龍茶のグラスと、僕の胸の中に広がる重く苦い泥のような徒労感だけだった。
「お前、本当に相変わらずだな」
いつの間にか隣に座っていた一ノ瀬が、呆れたようにため息をついた。
「小久保、お前が来るって聞いたからわざわざ顔出したんだぞ。もう少しマシな態度取れなかったのかよ」
「……僕と小久保は、もう何の関係もない。いまさら話すことなんてないよ」
「お前な。そういうところがさ……」
一ノ瀬の言葉を遮るように、僕は残っていたハイボールを口に流し込んだ。
アルコールが胃を灼く。
だが、胸の奥にある冷たい塊は、少しも溶けてはくれなかった。
僕たちはもう大人だ。
三十歳。
過去の甘酸っぱい思い出にしがみつくような年齢でもないし、傷つけ合った過去を笑い飛ばせるほど、僕は器用でもなかった。
二人の人生は、あの高校の放送室で永遠に分かれ、二度と交わることのない平行線をたどっている。
それでいいのだと、僕は自分に言い聞かせていた。
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深夜一時四分。
東京都中野区にある築十五年の中古マンション。
その一室で、僕は玄関の鍵を閉め、靴を脱ぎ捨てた。
暗闇の中に浮かび上がる、整然としすぎたリビング。
生活感の希薄な部屋だった。
無駄な家具は置かず、壁には遮音シートが整然と貼られている。
僕がこの部屋で暮らしている唯一の証明は、部屋の隅にある小さなデスクの上に集約されていた。
デスクの上に鎮座するのは、ダイナミックマイク『SM7B』と、オーディオインターフェース、そしてモニター用のヘッドホン。
コートを脱ぎ、洗面所で冷たい水で顔を洗う。
鏡に映った自分の顔は、相変わらず無表情で、目の下にうっすらと隈が浮き出ていた。
「何を考えているか分からない顔」
紬の言葉が脳裏をよぎる。
僕はタオルで顔を拭くと、リビングに戻り、エアコンのスイッチを入れた。
室温が少しずつ上がっていくのを感じながら、パソコンの電源を入れる。
ここからが僕のもう一つの顔だった。
『午前二時の迷子たち』
それは、僕が趣味で密かに続けている、顔出しなしの音声生配信の番組名だ。
プラットフォームは、ネット上で誰でも無料で聴くことができる音声配信サービス。
週に二回、水曜と土曜の深夜二時から、およそ一時間だけ配信を行っている。
配信者としての僕の名前はそのまま、「サク」。
顔は出さない。自分の本名も、職業も、住んでいる場所も明かさない。
ただ、深夜に眠れない人間たちや、誰にも言えない悩みを抱えた人間たちが集まるチャット欄のコメントを拾い、低い声で淡々と答えていく。それだけの素朴な配信だ。
最初は単なる暇つぶしだった。
だが、現実世界で言葉を飲み込み続け、誰にも自分の本音を見せられなくなった僕にとって、
この画面越しの「顔も見えない相手に対する無責任な対話」だけが、唯一息ができる場所になっていた。
現在のチャンネル登録者数は約三千人。
深夜の怪しい個人配信としては、それなりに人が集まる方だった。
マイクの位置を調整し、ヘッドホンを耳に装着する。
オーディオインターフェースのゲインを上げると、自分の吐息や部屋の微かなノイズが耳元に届いた。
時刻は、午前一時五十五分。
僕は配信管理画面を開き、配信開始ボタンにマウスカーソルを合わせた。
同窓会で酒を飲んだ夜だ。
本当ならさっさと布団に入って寝てしまうべきだった。
だが、胸の中に渦巻くあの不快な重濁感を吐き出さなければ、今夜はとても眠れそうになかった。
マウスをシングルクリックする。
『配信中』の赤いインジケーターが点灯した。
「——こんばんは。時刻は午前二時になりました。みなさん、今夜も起きていますか。
『午前二時の迷子たち』、今夜も静かに始めていきたいと思います。パーソナリティの、サクです」
マイクに向かって声を張らず、少し低めのトーンで囁くように語りかける。
配信を開始して数秒で、画面の右側に配置されたリアルタイムチャット欄が動き始めた。
《こんばんはサクさん!》
《待ってました》
《今夜も眠れなくて来ちゃいました》
《サクさんの声聴くと落ち着く……》
画面上に流れていく匿名のアカウント名と、短いコメントの数々。
僕はそれらをひとつひとつ目で追いながら、穏やかなトーンで言葉を返していく。
「こんばんは。みなさん、遅くまでお疲れ様です。今夜の東京は、少し風が冷たいですね。
僕はちょっと先ほどまで外で用事がありまして、少しお酒を飲んで帰ってきたところです。
みなさんは、どんな夜を過ごしていますか?」
チャット欄が軽快に流れていく。
仕事が終わらないという愚痴、明日のテストへの不安、恋人との喧嘩、ただの世間話。
顔も名前も知らない見知らぬ誰かたちの日常が、文字となってスクロールしていく。
僕はそれらのコメントをいくつか拾い、否定も肯定もせず、
ただ「そうなんですね」「それは大変でしたね」と寄り添うように言葉を繋いでいった。
配信を始めて二十分が経過した頃だった。
画面のチャット欄に、すっと滑り込んできた一つのアカウント名があった。
『夜のくじら』
その名前を見た瞬間、僕の指先がわずかに凍りついた。
『夜のくじら』は、この番組が始まった二年前から、ほぼ毎回の配信に顔を出してくれる常連のリスナーだった。
配信中、めったにコメントを連投することはない。
けれど、番組の終盤になると、ぽつりと一つだけ、自分の胸の奥底にある傷口を開くような、静かで脆いコメントを残していく人物。
その『夜のくじら』が、チャット欄にコメントを書き込んだ。
『夜のくじら:サクさん、こんばんは。今夜も配信してくれてありがとうございます』
「あ……こんばんは、夜のくじらさん。今夜も来てくれてありがとうございます。起きていらっしゃったんですね」
僕はマイクに向かって語りかけた。
『夜のくじら』からの次のコメントが打たれるまで、数秒のタイムラグがあった。画面の向こうで、彼女(あるいは彼)がスマホのキーボードを打つ指が迷っているのが伝わってくるようだった。
そして、流れてきたコメント。
『夜のくじら:
サクさん、聞いてくれますか。今日、私、十五年ぶりに昔の好きな人に会いました』
ドクン、と心臓が強く脈打った。
十五年ぶり。
その数字の奇妙な一致に、胸の奥が不穏に騒ぎ立てる。
だが、僕は平静を装い、いつもの「配信者サク」の声でマイクに言葉を乗せた。
「……十五年ぶりの再会ですか。それは、すごいですね。
十五年というと、随分と長い時間です。どんな再会だったんですか?」
チャット欄の他のリスナーたちも、興味津々といった様子でコメントを打ち込み始めている。
《えっ、ドラマみたい!》
《15年はヤバい》
《元カレってことですか?》
そうした周囲の雑音を無視するように、『夜のくじら』からの次の言葉が画面に表示された。
『夜のくじら:同窓会だったんです。ずっと会いたくなかったような、
でも、どこかでずっと会いたかったような人でした。
……でも、やっぱり会わなければよかったです』
喉が急速に渇いていく。
僕は無意識のうちに、モニターの画面に顔を近づけていた。
『夜のくじら:
その人、相変わらず何を考えているのか分からない顔をしていて。
私が勇気を出して『昔のこと覚えてる?』って聞いたら、なんて言ったと思いますか?」
画面の文字が、僕の視界の中で激しく揺れ動いた。
『夜のくじら:
『あまり覚えてないな』って。
笑っちゃいますよね。
私にとっては、人生が変わってしまうくらい大切な記憶だったのに。
その人にとっては、忘れてしまう程度の過去だったんです』
『夜のくじら:相変わらず最低で、不器用で……やっぱり、大嫌いなままでした』
静寂。
部屋の中を支配していたエアコンのモーター音が、急激に巨大なノイズとなって僕の耳孔を刺した。
ヘッドホンから聞こえる自分の吐息が、荒く乱れている。
手先が冷たくなり、思考が真っ白に染まっていく。
小久保紬。
夜のくじら。
……目の前で冷たく僕をあしらい、去っていった元カノが。
深夜、僕が自分を隠して配信しているこのラジオの画面の向こうで、
僕の声を聴き、僕にリアルタイムで本音を打ち込んでいた。
そんな……バカなことが、あってたまるか。
チャット欄は『夜のくじら』への同情や、その「相手の男」に対する非難の言葉で溢れかえっていた。
《うわ、その男最悪じゃん!》
《15年ぶりの再会でそれはショックすぎる……》
《そんな男、忘れちゃいなよ!》
《夜のくじらさん、かわいそう><》
画面上に躍る「最悪な男」という文字の群れ。
それがすべて、いまマイクの前で凍りついている僕自身を指しているのだという事実に、目眩がした。
僕はマイクのミュートボタンを押そうとして、指が激しく震えていることに気づいた。
言わなければならない。
「僕だ」と。
「僕が、あの時の樋口朔だ」と。
忘れてなんていなかった。忘れられるはずがなかった。
あの一言は、嘘だったんだと。
だが——僕の指は、キーボードの上で固まったまま動かなかった。
もし、ここで正体を明かしたらどうなる?
「実は僕がサクでした」と明かしたら?
紬は僕を蔑むだろう。
自分の情けない本音を、二年間も元カレに覗き見されていたという恐怖と怒りで、二度と僕の前に現れなくなるだろう。
この、深夜のわずかな電波だけで繋がっていた密やかな関係すら、木っ端微塵に砕け散ってしまう。
僕は、怖かったのだ。
十五年前と同じように。
自分が傷つくのが、彼女に完全に拒絶されるのが怖くて、またしても本当の自分を隠す道を選んでしまった。
僕は震える息を整え、ミュートボタンを押すのをやめた。
そして、喉の奥から声を絞り出した。
できる限り、声が裏返らないように。
「配信者サク」という仮面を、全力で顔に張り付けながら。
「……そうですか」
マイクに乗った僕の声は、自分でも恐ろしいほど静かだった。
「それは……とても、悲しい再会でしたね」
チャット欄のスクロールが、少しだけ緩やかになった。
「15年という時間は、人を大きく変えてしまいます。
その男性も……もしかしたら、素直になれなかっただけなのかもしれません。
本当は覚えているのに、自分を守るために、嘘をついてしまったのかもしれません」
言いながら、吐き気がした。
自分の醜い言い訳を、ラジオの電波を使って彼女に押し付けている。
なんて卑怯で、なんて惨めな男だろう。
画面の向こうの『夜のくじら』から、しばらく応答はなかった。
数分間の静寂の後、ぽつりと最後のコメントが打たれた。
『夜のくじら:
サクさんは優しくフォローしてくれますけど……男の人って、みんなそうやって言い訳するんですね。
……すみません、愚痴を言っちゃって。今夜はもう寝ます。おやすみなさい』
『夜のくじら』のアカウントが、閲覧者リストから消えた。
彼女は去った。
画面の向こうの、自分の部屋のベッドの上で、悲しみに暮れながらスマホを伏せたのだろう。
僕はただ、呆然と暗いモニターを見つめていた。
日常では交わることのない二人。
けれど深夜の電波の向こうで、彼女は僕という存在を知らないまま、僕に話しかけていた。
僕たちの、不器用で、歪な日常が、こうして幕を開けたのだった。




