第8話:社交界は嗤う
サロンへ持っていく品は、十二点に絞った。
髪飾りが五つ、ブローチが五つ、それから小さな銀線の花籠がふたつ。ピムは荷造りを手伝いながら、最後まで仏頂面だった。
「ほんとに行くの? 貴族のとこ」
「ええ。王都で商いを広げるなら、いつかは通る道ですもの」
「ふうん。……壊されたら、あたしが直したげるから」
品物の心配ではなく、そういう心配をされているのだと気づいたのは、馬車に乗ってからだった。
シャルロワ侯爵邸は、春の庭園ごと飾り立てたような屋敷だった。通された広間には、扇と香水と、絹の衣擦れの音。夜会続きだった娘時代、わたしがよく知っていた世界だ。
——そして、よく知っていたはずの世界は、足を踏み入れた瞬間の空気で分かる。
今日のわたしは、客ではなかった。
「まあ、ようこそ。モントレーの——いえ、今は、ヴェルクの奥様?」
サロンの主、イザボー・シャルロワ侯爵夫人は、絵姿のように美しい人だった。完璧な微笑みのまま、彼女は扇の先で、わたしの全身を撫でるように見た。
「皆様、ご覧になって。あの侯爵令嬢が、ご自分でお店をお持ちになったんですって。ご立派だわあ」
さざなみのように、笑いが広がった。扇の陰の、上品な笑い。
「商人の妻に堕ちても、背筋だけはお家柄ねえ」
「ねえ、噂はほんとうですの? ご自分で、鏨を? ——鏨を握る手で、よく茶器が持てますこと」
はしたない。
母の声が、耳の奥で鳴った。図面を描くたび、燃やされるたび、繰り返し刷り込まれた音。二十二年かけて染みたものは、黒字の帳簿一冊では、まだ抜けてくれないらしい。
わたしは、勧められた茶器を持ち上げた。指先の鏨だこと小さな火傷の痕が、レースの手袋越しでも、自分では分かる。工房では誇りだったものが、この広間では、見世物だった。
音を立てずに、茶器を置いた。それだけは、意地だった。
品物は、広間を一巡りした。
「あら、綺麗」「まあ、可愛らしいこと」「よく出来ているわ。ほんとうの工房の品みたい」
ほんとうの工房の品ですが。
褒め言葉は絹のようになめらかで、そして、誰ひとり、値段を訊かなかった。買うことは、認めることだからだ。この広間の全員がそれを心得た顔で、綺麗事だけを口にして、品を隣へ回していく。
一つも、売れなかった。
「そうだわ」
頃合いを見て、イザボー夫人が、扇をぱちりと閉じた。
「せっかくの機会ですもの。ここで彫って見せてくださらない? 職人の手業なんて、皆様なかなか御覧になれませんでしょう。余興には、ちょうどいいわ」
広間が、くすくすと沸いた。
「お代は弾みましてよ。——銅貨で」
どっと、笑いが弾けた。
立ち上がりかけた自分が、何を言おうとしたのか、今でも分からない。申し訳ありません、だったかもしれない。喉に染みた癖は、こういうときに限って口を開く。
その前に、隣で、手袋の革が小さく鳴った。
「お断りします」
アーロン様だった。声は静かだった。静かなまま、広間の笑いを、刃物のように断ち切った。
「本日お持ちしたのは商品の目録であって、余興の演目ではありません。それに——」
彼は立ち上がり、わたしの前に、半歩だけ出た。
「出るのはあなたの品だ。あなたが値引きされる謂れはない」
丁寧語が、剥がれていた。
いつもは綺麗に面取りされているこの人の言葉が、その一言だけ、研ぎ上げたままの角で放たれた。広間の誰よりも、わたしが一番、驚いていたと思う。
イザボー夫人の扇が、止まっていた。アーロン様は深く一礼して、常の声に戻った。
「品はすべて、引き上げます。当工房の売り値は、値の分かる市場でのみ通用いたしますので。……ああ、ご心配なく。本日の件で賠償の請求などはいたしません。市場が、代わりに取り立てますから」
帰りの馬車が動き出しても、わたしはしばらく、口が利けなかった。
膝の上の品箱。十二点、ひとつも減っていない。徹夜で線を撚った皆の顔が浮かんで、目の奥が熱くなった。
「……申し訳、ありません。せっかくの商機を、わたしの古巣のせいで」
「収支を報告します」
アーロン様は、窓の外を見たまま言った。
「売上ゼロ。損失、馬車代と半日分の時間。ただし、当工房の売り値は守られました。値崩れは、一度許すと戻せませんので」
「アーロン様は」
訊くつもりのなかった問いが、こぼれた。
「損得で動く方でしょう。あの場では、頭を下げてでも品を売るのが、商いとしては正しかったはずです。……なぜ、怒ってくださったのですか」
長い、沈黙があった。
ペンもないのに、彼の指が癖の形に動きかけて、止まった。
「……本件は」
ようやく出てきた声は、いつもの帳簿の声より、少しだけ低かった。
「投資対効果の説明が、困難です」
それきり、彼は窓の外に戻ってしまった。わたしは膝の上の箱を抱え直して、俯いた。頬が熱いのは、悔し涙の残りということにしておく。わたしの帳簿には、どうも近ごろ、勘定の合わない頁が増えていく一方だ。
屋敷の門を出たところで、馬車が停められた。
御者と何事か言い交わして、従僕がひとり、窓辺に駆け寄ってくる。差し出されたのは一通の書状——厚い紙に、古い公爵家の紋章の封蝋。
「アデライド老公爵夫人様より、ヴェルク工房の御二方へ。本日のサロンのお話を、お聞き及びとのことにございます」
アーロン様が封書を検めて、わたしを見た。
「アデライド公爵夫人。資料によれば——社交界最高の目利き、と」
「ええ。……お祖母様の代から、王都で一番、目と舌の肥えたお方。そして一番、歯に衣を着せないお方です」
呼び出し状だった。目利きに呼ばれるのは、栄誉なのか、それとも、とどめの一撃なのか。
膝の上の箱を、わたしは強く抱え直した。
お読みいただきありがとうございます。第8話、十二点持って行って、売上はゼロ。代わりに、値引きさせなかったものがひとつだけあった回でした。
損得の人が損得を捨てると、「説明が困難」になるそうです。帳簿に付けられないその支出、いったい何の勘定なのでしょうね。
次話、社交界最高の目利き、アデライド老公爵夫人のもとへ。目利きは、お世辞を言いません——良くも、悪くも。ブックマークで見届けていただけると嬉しいです。




