第7話:見習いピム、拾いました
事件が起きたのは、兄の来訪から数日後の朝だった。
「……パンがねえ」
炊事場から戻ったマルセルさんが、真顔で言った。
「昨日の残りのパンと、干し肉と、チーズの端。まとめて消えてる。サシャ、おまえか」
「た、食べてません! 僕、夜は磨きで手一杯で」
このところ、工房は目の回る忙しさだった。内覧会の評判で注文が積み上がり、皆が夜まで作業台に張り付いている。賄いの残りが誰かの腹に消えたところで、普段なら笑い話だ。
けれど、それが三日続くと、話は変わってくる。
「猫だろ」「猫は戸棚を開けねえよ」「じゃあ、でかい鼠……」
議論に決着をつけたのは、無口なブルーノさんだった。彼は黙って資材小屋へ歩いていき、積み上げた麻袋の一番奥、布の掛かった隙間を指差した。
布をめくると、麻袋の谷間に、女の子が丸まっていた。
齢のころは十四、五。すり切れた上着に、ぼさぼさの赤茶の髪。腕にはしっかりと、うちのパンを抱えている。
「…………」
「…………」
長い沈黙ののち、少女は開き直った。
「返さないよ。もう半分食べたもん」
「……ええと。まず、お名前を伺っても?」
「ピム」
少女は堂々と名乗った。盗みの現場でこの姿勢の良さは、いっそ見事だった。
ピムは、湯気の立つスープを三杯おかわりしながら——尋問のはずが、いつの間にか炊き出しになっていた——ぽつぽつと身の上を話した。
ギヨーム工房の見習いだったこと。親方に口答えして追い出されたこと。帰る家はなく、三日前からうちの資材小屋で寝起きしていたこと。
「ギヨーム工房……」
マルセルさんの眉が動いた。うちから婚礼銀器の注文を横取りした、あの老舗だ。
「なんで口答えなんかしたんだ?」
「先輩の蝋型が歪んでたから、歪んでるって言っただけ。そしたら生意気だって。……歪んでるものを歪んでるって言って殴られるんだから、あそこはもう、おしまいだね」
匙を置いて、ピムはふと、卓の上の書き付けに目を留めた。毛織物商の未亡人からの引き合いの控え。贈答用に、蔦のブローチを十個。卸値のご相談、一個あたり銀貨三枚——アーロン様が「検討中」と付記したものだ。
「はぁ?」
ピムの声が、ひっくり返った。
「この意匠を、銀貨三枚で卸すの? 正気? あたしなら倍取るね」
「ほう」
帳場のアーロン様が、顔を上げた。ペンが、くるりと回る。
「理由を聞きましょう」
「型物じゃない、全部手編みの一点ものでしょ。軽いから年寄りでも一日着けてられる。おまけに他所じゃ真似できない。競り合う相手がいないのに、なんで相場に合わせるの? 贈り物にする客はね、値が張るほど喜ぶんだよ」
工房が、しんとした。
アーロン様は書き付けの「三枚」に線を引き、「六枚」と書き直した。それから、隣のわたしにだけ聞こえる声で言った。
「拾いものです」
「口は達者だがな」
テオバルトさんが、銀線の束とやっとこを、ピムの前に置いた。
「腕は口より正直だ。三日ありゃ分かる。——代表、手本を」
わたしは銀線を二本、撚り合わせて見せた。焼き鈍しの頃合い、撚りの速さ、端の納め方。一度だけ、ゆっくりと。
ピムは瞬きもせずに見ていた。それから自分の手で線を取り——撚った。
わたしの手癖ごと、写し取るように。
「……サシャ。おまえ、いつからそこで口を開けてる」
「だ、だって頭、これ……僕より、器用かもしれない……」
初めて聞く種類の音を立てて、ピムの耳が赤くなった。悪態は達者なくせに、褒め言葉への備えが、まるでないらしい。
「べ、別に、これくらい普通だし! ギヨームのやつらが不器用すぎるだけ!」
「そのギヨーム工房のことですが」
アーロン様が、静かに口を挟んだ。
「内情に、お詳しい?」
「詳しいも何も」
ピムは鼻を鳴らした。
「あそこ、腕のいい職人から順に辞めてくんだよ。稼ぎが議長様への付け届けに化けるから、給金がいっつも遅れるの。上納で回ってる工房ってわけ」
「意匠は? 老舗なら、自前の意匠帳があるでしょう」
「あるわけないじゃん。あそこの意匠帳、全部『借り物』だよ」
ぞくり、と首の後ろが冷えた。
「親方が自分で引いた線なんて、一本も見たことない。どこかの古い帳簿の写しばっかり。写して、彫って、ギルド様の御名で売る。……それが王都の老舗だってさ。笑えるでしょ」
借り物。写し。——三十年前の、古すぎる登録簿。
わたしとアーロン様は、目を見交わした。何かの形が見えかけて、まだ、見えない。
その晩、うちの食卓には、新しい契約書が一枚増えた。
見習い職人ピム、雇い入れの一札。給金は歩合、住み込み、屋根裏の個室付き。条項の中に「賄いは毎日、三食とする」とわざわざ書いてあるのを見つけて、ピムはしばらく黙り、それから「……ふうん」とだけ言って、拙い字で署名した。
夕食のシチューを平らげながら、ピムは、帳簿を挟んで打ち合わせるわたしたちを、じっと観察していた。
「代表と旦那ってさ」
匙をくわえたまま、彼女は言った。
「夫婦っていうか、共犯って感じだよね。……あ、褒めてるよ?」
わたしはスープにむせた。アーロン様は「的確な表現です」と真顔で頷いた。そこは、否定してほしかった。
数日後——毛織物商の未亡人から、新しい手紙が届いた。
ブローチ十個の注文、卸値は六枚のままで確定。そして文末に、思いがけない一文が添えられていた。
シャルロワ侯爵夫人のサロンにて、王都の新しい工芸をご紹介する集いが催されます。ヴェルク工房の品を、ぜひご披露なさいませ——。
「貴族の、サロン……」
読み上げたわたしの手元を、ピムが覗き込んで、露骨に顔をしかめた。
「貴族? やめときなよ。あいつら、銀の重さも量れないくせに」
このときのわたしは、その言葉を、笑って聞いていたのだった。
お読みいただきありがとうございます。第7話、資材小屋から生意気な即戦力が転がり出てきました。ヴェルク工房、五人目の職人です。賄いは三食、契約条項入りです。
それにしても、ギヨーム工房の意匠帳は全部「借り物」。写して、彫って、ギルドの名で売る——その大元の帳簿は、いったい誰の線なのでしょうね。
次話、貴族のサロンへ。ただし待っているのは、拍手ではないようです。ピムの忠告の答え合わせを、ブックマークでお付き合いいただけると嬉しいです。




