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白い結婚ですが、旦那様と工房を共同経営しています ~寝室は別、決算は一緒。封じられた没落令嬢の才能に、初めて値が付きました~  作者: 月守いとは


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第6話:お兄様、お帰りはあちらです

完売の評判というものは、銀線よりも速く王都を巡るらしい。


内覧会から数日、工房には手紙が届き始めていた。次の内覧はいつかと問うもの。娘の婚礼支度にぜひというもの。姪の分もお揃いで、というもの。


「猫の手も借りてえ。……いや、猫じゃ磨けねえか」


マルセルさんが鎖を組みながらうめき、サシャさんは磨き台に突っ伏したまま「腕が、もう一組欲しいです」と真剣な声で言った。嬉しい悲鳴というものを、わたしは生まれて初めて実物で聞いた。


その夕方のことだ。家の玄関が、遠慮のない拳の音で鳴った。


「クラリス! いるのだろう!」


聞き間違えようのない声だった。帳簿を付けていたアーロン様が顔を上げ、わたしを見た。


「お帰りいただきますか。玄関を開けない、という経営判断もあります」


「……いいえ。開けます」


いつか一度は来ると、思っていたのだ。それなら、逃げた記録より、開けて突き返した記録を帳簿に残したい。


扉の外には、兄のオーギュストが立っていた。婚礼の日、妹を銀貨に換えて晴れ晴れと笑っていた、あの顔のままで。


「やあ、久しいな。……ふん、商人の家にしては、しけた玄関だ」


「お兄様。御用でしたら、先触れをいただきたく」


「身内の家に先触れだと? 相変わらず可愛げのない」


兄は返事も待たずに上がり込み、居間の一番いい椅子に、どかりと座った。わたしは茶を淹れた。アーロン様は名乗りもしない義兄に一礼して、その向かいに静かに腰を下ろした。


「単刀直入に言おう。金だ」


兄は茶を一息で飲み干して、こともなげに言った。


「金貸しどもがうるさくてな。利払いが滞っている。当座、金貨で三十もあれば黙らせられる。——聞いたぞ、おまえの工房とやら、ずいぶん繁盛しているそうじゃないか」


「お耳が早いことですわ」


「感心しているのではない!」


兄は音を立てて茶器を置いた。


「侯爵家の娘が、軒先で物売りだと? 恥さらしめ。母上も嘆いておられたぞ。はしたない、今からでも真似事はやめさせよ、と。……だがまあ、稼ぎは稼ぎだ。元はと言えばモントレーの家名あっての縁組。その稼ぎ、家に還すのが筋というものだろう」


見事なものだと思った。侮辱と無心が、ひとつの文の中で手を取り合っている。


はしたない。母の声で鳴る言葉。昔のわたしなら、ここで俯いた。申し訳ありません、と先に言う癖が、この喉には染み付いている。実際、言いかけて——


ふと、思い出したのだ。空になった内覧会の長机と、帳簿の上の小さな黒い数字を。あの数字の中には、徹夜した職人四人の手間賃が入っている。


わたしは俯く代わりに、帳場から帳簿を持ってきて、兄の前に開いた。


「内覧会の売上は、銀貨で百八枚でした」


「ほう。やはりあるではないか」


「ここから銀材の仕入れ、炭代、職人四人のお給金、店先の設え。残りは次の銀線の仕入れに、もう充ててあります。お渡しできるお金は、一枚もございません」


「……小賢しい帳面遊びを」


「それから、お兄様」


声は荒げなかった。ただ、帳簿を閉じる音が、少しだけ大きくなっただけ。


「モントレー家の差し迫ったお借金は、この婚礼で清算されたはずです。対価は、わたしでした。——わたしはもう、家への支払いを済ませております。この身ひとつで、耳を揃えて」


「き、きさま……兄に向かって、その口の利き方は」


「補足いたします」


それまで黙っていたアーロン様が、書類を一枚、卓の上に滑らせた。


「婚礼時に清算したモントレー家の債務の一覧と、領収書の写しです。ついでに申し上げますと、ご当家はその後、この一年で新たに三件の借入をなさっている。利率は相場の倍。……よく貸すものです、失礼ながら、あの台所事情のお家に」


「な……なぜ、それを」


「商人ですので。お取引の前に、お相手の帳尻は拝見します」


アーロン様の声は、どこまでも丁寧だった。丁寧なまま、部屋の温度だけが下がっていく。議長室で浴びたものと同じ種類の、けれどもっと静かな威圧だった。


「むしろ興味深いのは、貸し手のほうです。モントレー家の債権は、二年前からひとつ処に買い集められています。王都の金融組合——事務所は、ギルド連合会館の裏通りにあります。潰れかけの家の債権など、本来は紙屑だ。紙屑を熱心に集める者は、紙のほうに用があるものですが」


「し、知るか! 貸すというから借りたまでだ!」


兄が立ち上がり、椅子が派手な音を立てた。赤黒い顔が、わたしとアーロン様を交互に睨む。もう金の話にならないことだけは、分かったらしい。


わたしは先に立って玄関へ歩き、自分の手で、扉を開けた。


「お兄様。お帰りはあちらです」


生まれて初めて、兄に言えた台詞だった。声は震えなかった。膝は少し震えていたけれど、スカートの中のことは、わたしだけの帳簿につけておく。


兄は肩を怒らせて敷居をまたぎ、夜の通りで一度だけ振り返った。


「……その工房、長くないぞ。金貸しどもが言っていた、おまえたちは目をつけられている、とな。——忠告は、したからな!」


足音が遠ざかり、通りが静かになった。


扉を閉めた途端、膝の震えが今ごろになって本気を出してきて、わたしはその場にしゃがみ込みそうになった。しゃがむ前に、隣から声がした。


「本日の収支を報告します。支出、茶葉一杯分。回収——二十二年分の未払いを、ほんの一部」


「……ふふ。ほんとうに、ほんの一部ですこと」


「ええ。残債は追々、取り立てましょう。利息付きで」


顔を上げると、アーロン様の指先でペンがくるりと回った。たったそれだけのことで膝の震えが止まったのだから、わたしの体の帳簿は、ずいぶん単純にできているらしい。


ただ——寝る前に、ひとつだけ引っかかった。


目をつけられている、と兄は言った。金貸しが、なぜ、うちの工房を。


その晩のわたしは、それを「兄の負け惜しみ」の欄に記帳して、頁を閉じてしまったのだった。


お読みいただきありがとうございます。第6話、生まれて初めて「お帰りはあちらです」が言えた回でした。膝は震えていましたが、言えたものは言えたのです。


それにしても、潰れかけの侯爵家の債権を買い集める金融組合——事務所は、ギルド会館の裏通り。妙な符合ですが、彼女はまだ「負け惜しみの欄」に記帳したままです。


次話、大忙しの工房に、小さな泥棒が忍び込みます。口の悪い、けれどとんでもない拾いものです。ブックマークで見守っていただけると嬉しいです。


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