第14話:大市前夜の狼藉
人影は、マルセルさんが提灯を持って出たときには、もう消えていた。
「逃げ足の早えこって。物盗りの下見か?」
「物盗りなら、灯りの点いている家は張りません」
アーロン様は暗がりをしばらく見つめて、それから静かに指示を出した。
「主作と図面は、今夜は母屋の帳場へ。連作は箱ごと作業場の棚に。戸締まりは二重に。ブルーノさん、恐縮ですが、仮眠は炉の隣でお願いします」
用心深いこと、と、そのときのわたしは、まだどこか呑気に思っていた。
——未明。
ブルーノさんの怒鳴り声で、工房中が飛び起きた。
作業場の裏戸が、こじ開けられていた。無口な炉番が跳ね起きたときには、賊はもう闇の中。そして、棚にあった連作の箱が、床にぶちまけられていた。
灯りをかざして、膝から力が抜けた。
十一点の連作のうち、五点。銀線の月が、編んだ蔓ごと、踏み潰されていた。
丹精した細工の潰れた姿というのは、見てはいけないもののようだった。ひしゃげた月。千切れた蔓。サシャさんが、声を殺して泣いた。
ピムが、潰れた一点を拾い、千切られた吊り輪の断面に目を寄せた。
「……代表。これ、刃物の癖がある。ハサミの刃を最後まで閉じないで、ひねって千切ってる。——これ、ギヨームんとこの銀バサミの潰し方だ」
「わかるの?」
「わかるよ。あたし、毎日あれで手ぇ切りそうになってたもん」
工房が、静まり返った。
「訴えるか」マルセルさんが吐き捨てる。「証人は子どものピム一人、証拠は切り口の癖。……弱えな、くそ」
「弱い上に、遅い」アーロン様が言った。「訴えは、受理までどんなに急いでも数日。大市は明日の朝です。彼らの狙いは有罪判決ではなく、うちの欠場。訴えに使う時間そのものが、敵の得点になります」
じゃあ、どうする。誰も口にしなかったけれど、全員の目が、同じことを訊いていた。
口を開いたのは、テオバルトさんだった。
「作り直す」
老職人は、潰れた月をひとつ、大きな手のひらに載せた。
「夜明けまでに、五点。……間に合わせる。うちは、そういう工房だ」
そこから夜明けまでのことは、正直、記憶が飛び飛びだ。
まず、わたしが図面を引き直した。五点を一から編み直す時間は、ない。ならば。
「潰れた五点、捨てません。編み地の生きている部分を切り出して——欠けた月に、作り替えます」
「欠けた月?」
「連作の並びを、変えるんです。満ちていく月だけの連作から、欠けて、また満ちていく月の連作に。欠けた月には、ほどいた銀線で細い雲をかけます。……欠けたことのある月のほうが、満ちる姿は、きれいです」
テオバルトさんは、引き直した図面を三つ数えるほど見て、頷いた。
「彫りなら直しは利かねえ。だが編みなら、ほどいて継げる。——いける。全員、持ち場へ」
ブルーノさんは、炉に付きっきりになった。細い銀線は、焼き鈍しの頃合いがひとつ狂えば、全部が台無しになる。大きな背中は、夜明けまで一度も、炉の前から動かなかった。
サシャさんは、切り出した編み地から潰れの傷を磨きで消した。「僕、磨きだけは、誰にも負けませんから」と、泣いたあとの掠れた声で言って。
マルセルさんの鎖組みは、いつもの倍の速さで、いつもの精度だった。あの人の軽口が一晩ひとつも出なかったのは、たぶん、初めてのことだ。
ピムの細い指は、わたしの隣で、雲の編みを受け持った。
「あたしの編み、売り物になるって言ったよね」
「言いました」
「……見てて」
わたし自身は、欠けた月の輪郭を編み直した。潰れた編み地から生きた線を選り分け、継いで、継ぎ目は雲の下に隠す。
手を動かしながら、思い出していた。最初の仕事の、あの形見のブローチ。折れた蔓は継がずに、伸ばす。——折れた場所から先は、続きの物語になるのだと、この工房でわたしが最初に引いた線が、そう言っていた。
そしてアーロン様は、作業場の隅に立ったまま、一晩中、帳面と時計だけを見ていた。
「サシャさん、三点目の磨きは四半刻で切り上げて次へ。仕上げの差は、最後にまとめて取ります」
「ピム、雲の二本目からは線を一段細く。そのほうが速い」
「頭、夜明けの鐘までに検品の時間を四半刻残します。逆算すると、編み止めは——」
手は動かせない。銀にも触れない。その人が、五人の限界と工程を分刻みで測って、組んで、配って、支え続けた。
一度だけ、わたしは訊いた。
「……間に合いますか」
アーロン様は、帳面から目も上げずに答えた。
「間に合います。既に計算済みです」
その声を疑う理由は、この工房のどこにも、もうなかった。
窓の外が藍色に変わる頃には、指先の感覚は、もうなかった。それでも、誰の手も止まらなかった。炉の火と、磨きの音と、分刻みの声。工房がひとつの生き物みたいに、息をしていた。
夜明けの鐘と、ほとんど同時だった。
最後の一点——細い雲のかかった、欠けていく月が、検品台に載った。テオバルトさんが矯めつ眇めつして、頷いた。
十一点、そろった。欠けて、また満ちる、月と蔓の連作。真ん中には、無傷の主作。
「積み込め!」
荷車に木箱を積み、朝靄の職人街を、わたしたちは大市の会場へ向かった。
徹夜明けの、誰の顔にも、疲れより濃いものが乗っていた。
戦いに行く顔、というのだと思う。
お読みいただきありがとうございます。第14話、大市前夜の狼藉と、一晩の作り直しでした。「間に合わせる。うちは、そういう工房だ」——この一言が書きたくて、ここまで来た気がします。
欠けた月は、雲をまとって、また満ちる連作になりました。夜明け、荷車は会場へ。次話、秋の大市。決戦です。




