第15話:その名は、ヴェルク工房
秋の大市の会場は、王都の大広場そのものだった。
何十もの工房の天幕が並び、銀と金が朝の光を弾き、王都中の目利きと財布が練り歩く。年に一度、腕だけがものを言う日——ということに、建前では、なっている。
ギヨーム工房の天幕は、会場の一等地にあった。
出品作は、大人の腕でも抱えきれない銀の大燭台。獅子と葡萄の彫刻がびっしりと巻きつき、磨き抜かれ、ご丁寧に金まで差してある。豪奢という言葉が、服を着て立っているようだった。
その斜向かいの、うちの売り台。白い布の上に、月と蔓の連作十一点と、主作の髪飾りがひとつ。あの燭台の隣では、吹けば飛ぶような細工だ。
「勝負になるのかね」と、通りすがりの誰かが言った。
なる、とわたしは思った。祖母の線と、この工房の昨夜を、わたしは知っている。
審査は、目利きの一団が各工房を回る形で進んだ。ギヨーム工房の前では感嘆の声が上がり、当主のギヨーム・ラフォンが揉み手で口上を述べるのが、遠目に見えた。
やがて、目利きたちが、うちの売り台の前に立った。
年配の審査員が、主作を手に取り、光にかざす。透かしの隙間を朝の光が抜けて、白い布の上に、月と蔓の影が落ちた。
「……軽いな。彫り出しの三分の一もない」
「銀線細工です。祖母から習いました。彫らずに、編んで作ります」
「連作の並びは、月の満ち欠けか。——だが、この欠けた月の雲は、ほどき線の継ぎだね? 昨日今日の仕事だ。なぜ」
見抜かれた。さすがに、目利きだ。わたしは背筋を伸ばした。
「昨夜、何者かに五点を潰されました。夜明けまでに、工房の全員で編み直したものです。潰れた編みをほどいて、雲に変えました。——欠けたことのある月のほうが、満ちる姿はきれいだと、うちの工房は考えましたので」
審査員の手が、止まった。誰の天幕のほうも見なかったのは、目利きの礼儀というものだったのだと思う。ただ長いあいだ主作を見つめて、無言で、隣の審査員に回した。
昼過ぎ、広場の壇上で、発表があった。
「本年の秋の大市、最優秀——」
読み上げる声が、一拍、置いた。
「ヴェルク工房」
一瞬、広場から音が消えて、それから、割れるように沸いた。
壇に上がったのは、わたしだった。アーロン様が「意匠の代表が受けるべき賞です」と、背中を押したからだ。
満座の視線の中で、わたしは——胸を張った。
はしたない、と燃やされた線。お遊びと笑われた線。その線がいま、王都でいちばん高い場所にいる。うつむく理由は、もう、どこにもなかった。
壇の下、主催側の席に、ボードワン議長の顔が見えた。拍手の形に手を動かしながら、その顔が、満座の中で、はっきりと歪んでいた。目は、いつもどおり笑っていなかった。今日は——口元さえも。
午後、ギヨーム工房の天幕からは、潮が引くように人が消えた。「前夜の狼藉の噂、聞いたかい」という囁きが、どこからともなく広場を巡っていた。市場というものは、裁判所より早く、そして正確に、裁く。
売り台に戻ると、職人のみんなが待っていた。
テオバルトさんが、一歩、前へ出た。何か長いことを言うのかと思った。老職人は、一言だけだった。
「エレオノーラの弟子として、恥じない仕事だった」
わたしは、泣かなかった。泣かない代わりに、深く頭を下げた。職人が親方にするお辞儀を、見よう見まねで。
そのあとで、壇上の布告官が、もうひとつの報せを読み上げた。
「王室より布告——来春、王室御用達工房の選定コンペを、当広場にて開催する」
広場が、二度目にどよめいた。王室御用達。工房にとって、これ以上のない看板。あちこちの天幕から、算盤を弾く音が聞こえてくるようだった。
——表彰の品を抱え直したとき、ふと、気づいてしまった。
主作の、編み終いの納め方。葉脈の付け根に、線の端を隠す、あの癖。
あの銀の栞と、同じ線だ。
当たり前だ。どちらも、わたしの線なのだから。でも、それなら。あの栞を何年も前から持っていたあの人は、初夜に図面帳を「査定」するより、ずっと前から——わたしの線を、知っていた?
「クラリス様」
アーロン様の声に、我に返った。帰り支度の人混みの向こうを、彼はじっと見ていた。
視線の先。広場の端で、ボードワン議長と、マーカス・ダンフォードが、並んで立ち話をしていた。網を張る側と、網を破る側だったはずの、二人が。
「……仲がよろしいこと」
「よろしくはないでしょう。ですが、共通の議題ができたようです」
議題。つまり、うちのことだ。
その夜、工房の祝いの席が果てたあと、わたしとアーロン様は、いつものように帳場に残った。
「本日の売上、受注見込み、それから最優秀の褒賞金。……これは、儲かりましたね」
「ええ、儲かりました」
乾杯の言葉を交わして、それから、わたしは訊いた。一日じゅう抱えてきた問いを。
「アーロン様。——なぜ、わたしと結婚してくださったの?」
ペンを回す手が、止まった。
「図面帳をご覧になる前から、わたしの線をご存じだったのではありませんか。あの栞は、わたしが昔、慈善市に出したものです。わたしの、線です」
長い、長い沈黙だった。蝋燭の芯が、一度、爆ぜた。
アーロン様は、目を逸らさなかった。ごまかしの笑みも、作らなかった。ただ、静かに言った。
「……その質問への回答は、まだ査定中です」
「査定中」
「ええ。数字にならないものを数えるのに、時間がかかっています。——虚偽の申告だけは、しないと決めておりますので」
それだけだった。それだけなのに、胸の奥のざわめきは、不思議と、嫌なものではなくなっていた。
いいでしょう、旦那様。わたしは共同代表として、気が長くて、そして、しつこい。
蝋燭の灯りが、帳簿の上に、二人分の影をひとつの壁に落としていた。来春には御用達のコンペが来る。祖母の意匠帳は、まだ敵の手の中。この人の胸の内には、査定中の秘密がひとつ。
——白い結婚の帳簿は、当分、閉じられそうにない。
お読みいただきありがとうございます。その名は、ヴェルク工房。錆びた看板から始まった工房が、王都でいちばん高い壇の上に立ちました。
けれど、議長の隣に立っていたのは量産のダンフォード。来春には王室御用達コンペ。そして「査定中」のままの、旦那様の秘密——次章、祖母の意匠帳を取り戻す戦いが始まります。




