第13話:夜なべと、銀の栞
銀が届いてからの十日を、わたしはたぶん、一生忘れない。
工房の灯りは、日付が変わっても消えなくなった。夜なべ、というものを、こんなにも長く続けたのは初めてだった。
大市の出品作——温めてきた図面を、わたしはついに作業台へ広げた。
「連作『月と蔓』。中心は、この髪飾りです」
細い銀線で編んだ蔓が、満ちていく月を抱く意匠。髪に挿せば髪飾り、留め具を替えれば襟元のブローチになる。その周りに、月の満ち欠けを抱いた小さな連作を並べる。
線の一本一本に、祖母に習ったすべてを注ぎ込んだ。編み終いは、線の端を花の芯に隠す。あの人の癖ごと、わたしが継ぐ。
図面を見たテオバルトさんは、長いあいだ、黙っていた。
「……月と蔓か」
「祖母の帳面には、ない意匠です。でも」
「ああ。——続きだ。誰が見てもな」
それだけ言って、老職人は道具箱を開けた。それで、十分だった。
夜なべの工房は、静かで、忙しい。ブルーノさんの炉が銀線を鈍し、マルセルさんの指が鎖を組み、サシャさんの磨き布が細い線の上を走る。
「代表、その蔓、あたしにも編ませて」
隣に陣取ったピムが、手を出してきた。
「……なに、その顔。あたしの編み、もう売り物になるって親方が言ったもん」
「言ってません、とは言えないのが悔しいですね。では、この蔓の下絵を。線が乱れたら取り上げますよ」
「乱れないね。あたし、目と指だけはいいんだ」
生意気な弟子の編んだ蔓は、悔しいことに、本当に乱れなかった。
日付の変わる頃、職人たちを寝かせて、わたしとアーロン様が帳場に残るのが、いつの間にか習いになっていた。
図面の進み。銀線の残り。売り台の割り付け。帳簿と図面を挟んで、蝋燭一本の灯りの下、額が触れそうな距離で、小さな声で数を数える。
「主作の仕上がりが、前日ぎりぎりです。連作は十二点……いえ、十一点にしましょう。一点分の銀線を、直しの予備に回します」
「賛成です。売り台は、この並びで」
図面の上で、ペン先と指先がぶつかった。どちらからともなく、笑った。
ふと、変なことを思う。世の夫婦は、夜更けに二人きりで、何を話すのだろう。うちは、銀の割り付けの話をする。愛の言葉の代わりに、在庫の数を数える。……それが、たぶん、うちの形なのだ。
「アーロン様。大市、勝てるでしょうか」
「勝てば、うちの名が上がり、議長の面目は下がり、意匠帳への道が一歩近づきます。おまけに褒賞金と受注が付く。これは」
「——儲かりますね?」
先回りして言ったら、アーロン様は、灯りの向こうで目を細めた。
「ええ。とても」
乾杯の言葉。わたしたちの。夜なべの疲れがその一言で軽くなるのだから、ずいぶん安い体質になったものだと思う。
その夜更けのことだった。
売上見込みの控えを取ろうと、アーロン様の机の、帳面の山に手を伸ばした。一番下の一冊を引き抜いたとき——頁の間から、何かが滑り落ちた。
銀の、栞だった。
拾い上げて、息が止まった。
銀線を編んだ、葉を一枚かたどった小さな栞。古びて、光は鈍い。けれど、この編み目。この線の走り。そして編み終いの端は、葉脈の付け根に——隠してある。
わたしの癖だ。それも、今よりずっと若い、線のまだ細かった頃の。
間違えようがない。これは、わたしが編んだものだ。祖母が亡くなって間もない頃、実家の目を盗んで編み、名前も出せないまま、教会の慈善市にそっと出した——あの栞だ。
なぜ。
なぜ、これを、この人が持っているの。
「クラリス様、湯が沸きました。今夜はもう——」
戻ってきたアーロン様が、わたしの手元を見て、止まった。
見たことのない顔だった。議長室でも、裁定の壇の前でも、眉ひとつ動かさなかった人の顔から、すっと色が引いていた。
「あの……これ、帳面の間から、落ちて」
「返してください」
声より先に、手が動いていた。わたしの手のひらから、奪うように栞を取り返して——それから、自分のその手を見下ろして、我に返ったように息を吐いた。
「……失礼しました。乱暴を」
「いえ。……アーロン様、それは」
「それは」
長い沈黙があった。蝋燭の芯が、じ、と鳴いた。
「……それは、僕のものです」
僕。
初めて聞く一人称だった。いつもの「私」が剥がれ落ちた、その下にあった声。
アーロン様は栞を上着の内へ仕舞うと、もう何も言わずに、湯の支度へ戻ってしまった。その背中に、第七条、と喉まで出かかった。隠し事はしない約束でしょう、と。
——でも。
あの条項が守るのは「工房の存続に関わる危機」だ。あの栞は、たぶん、違う。条項の外側にある、あの人だけの、何かだ。
契約書を盾に踏み込むのは、簡単で。簡単だからこそ、してはいけない気がした。
わたしは問いを呑み込んだ。呑み込んだ問いは、その夜じゅう、胸の奥で細い銀線みたいに、きりきりと巻きついたまま解けなかった。
あれは、わたしの線だ。若いわたしの編んだ栞を、この人は、帳面に挟んで持ち歩いている。
——いつから? どうして?
夜なべは続き、連作は一点ずつ仕上がり、そして、大市の前夜が来た。
戸締まりの見回りに出たピムが、血相を変えて駆け戻ってきたのは、その晩のことだ。
「代表、旦那。……外。塀の向こうに、変なやつがいる」
街灯の届かない暗がりに、見慣れない人影が、ひとつ。
じっと、工房を見ていた。
お読みいただきありがとうございます。第13話、帳簿と図面を挟んだ、うちの夫婦の夜なべでした。愛の言葉の代わりに、在庫の数を数える二人です。
そして、旦那様の帳面から落ちた銀の栞。「それは、僕のものです」——いつもの「私」が剥がれた、一言でした。あの栞がなぜ彼の手に? 答えはまだ先です。次話、大市前夜。塀の外の人影が、動きます。




