第12話:銀が来ない
銀が、来ない。
大市への出品を決めてからの工房は、それは景気のいい音がしていた——三日前までは。
「銀の地金、今日も来ません。これで三日です」
空の荷受け台の前で、サシャさんが泣きそうな顔をした。
秋の大市は、王都中の工房が出品作を競う、年に一度の審査会だ。あそこで名を取れば、ギルドの看板がなくても客と販路がつく。祖母の意匠帳を取り戻す長い戦の、最初の足場になる。……はずだった。銀がなければ、話はそこで終わる。
マルセルさんが材料商を回って、夕方に帰ってきた。顔を見れば、結果はわかった。
「全滅だ。三軒とも『あいにく品切れで』だと。目も合わせやしねえ」
「品切れなんぞ、あるか」
テオバルトさんが吐き捨てた。
「銀は倉で唸ってる。卸すな、と言われてるんだ」
誰に、とは、誰も言わなかった。言うまでもない。裁定で満座の恥をかいた議長は、もう表には出てこない。爪の先ひとつ見せずに、材料の道だけを、静かに締めてくる。
「裁定には、勝ちましたのに」
「勝ったから、です」アーロン様が帳面を繰った。「正面が破られたので、兵糧を断ちに来た。手としては教科書どおりです。……在庫を検めましょう」
銀線の棚は、数えるほどだった。
「作れて、髪飾りが四、五点。大市の出品規定の点数にも届きません。このままでは、戦う前に不戦敗です」
淡々と言うその声に、工房がしんと冷えた。炉に火はあるのに、材料がない。手はあるのに、仕事にならない。じわじわと真綿で締めるような、嫌な手だった。
その夜の帳場で、アーロン様は一枚の書付を机に置いた。
「ギルドの息のかかった卸から買えないのなら、かかっていない相手から買います」
「そんな方が、王都にいるのですか」
「一人だけ。ギルドの網の外で、銀を動かしている男が」
覗き込んだテオバルトさんの眉間に、深い皺が寄った。
「……ダンフォードか」
「ダンフォード商会。総帥、マーカス・ダンフォード。型打ちの安い銀器を量産して、街道筋の市を席巻している新興です」
「あれは銀細工じゃねえ。銀の形をした、何かだ」
「同感です。ですが彼は銀を持っていて、ギルドの言うことを聞かない。——敵の敵です。今は」
ダンフォード商会は、川向こうにあった。工房というより、倉庫だった。
案内された建屋の中で、わたしは立ち尽くした。長い作業台が奥までどこまでも続き、揃いの前掛けの工員たちが、同じ型を、同じ速さで打ち続けている。
金槌の音が、全部、揃っていた。それが一番、怖かった。
「音が揃うと、無駄が減る」
背後で声がした。飾り気のない上着の男が立っていて、値踏みの速い目が、わたしとアーロン様を順に見た。
「マーカス・ダンフォードだ。噂の夫婦がうちに来るとはね。裁定で、ギルドのじいさんに一泡吹かせたんだって?」
「銀の地金と線材を買いに来ました」アーロン様は前置きを切り捨てた。「ギルド筋の卸には、すべて断られましたので」
「だろうね」
ダンフォード氏は悪びれもせず、工場のほうへ顎をしゃくった。
「先に言っておく。おれは、あんたたちの言う『職人の技』ってやつを買わない。あれは原価だよ。手間の分だけ高くつく、ただの原価だ。うちはそれを型で削って、この値段にした」
頭に血が上りかけた。——上りかけて、隣のアーロン様が口を開かないことに気づいた。
そうだ。ここから先は、まず数字の話。わたしの番は、そのあとに来る。
「原価のお話でしたら、早い」アーロン様が帳面を開いた。「大市までの分と、以後半年の線材を定期で。前払い。値は相場の二分増しで」
「二分? ずいぶん気前がいいな」
「ギルドを通らない銀の道への、通行料です。安いものです」
ダンフォード氏が片眉を上げ、部下に目配せした。見本の地金が運ばれてくる。——今度は、わたしの番だった。
「この銀は使えません。線引きには、もう一段純度の高いものを。それから、焼き鈍しでこの色の出る地金は、全部弾いてくださいな」
「見ただけでかい」
「引くのは、うちの職人ですもの。手間は増やさない主義ですの」
一拍あって、ダンフォード氏は声を立てて笑った。
「通行料の話をする旦那に、原価の話をする女将か。……いいだろう、その条件で売る。ギルドのじいさんどもの網は、おれにとっても目障りなんでね」
商談は、四半刻で終わった。その間、わたしとアーロン様は、一度も相談しなかった。する必要がなかった。どちらが、どこで、何を言うか——打ち合わせてもいないのに、最初から決まっていたみたいに。
取引の書面に、並んで署名する。ダンフォード氏はそれを眺めて、面白そうに目を細めた。
「白い結婚、と聞いていたがね。ずいぶん値の張る白だ」
聞き流した。頬が熱くなったのは、倉庫が暑かったからだと思う。
帰り際、戸口で、ダンフォード氏は言った。
「面白い夫婦だ。せいぜい大市で暴れてくれ。ギルドの古い網が破れたら——次は喰う側で会おう」
その目は笑っていて、けれど最後まで、値踏みのままだった。
三日後、銀は届いた。約束どおりの純度で、約束の刻限に。
地金を検めたテオバルトさんが、長く唸った。
「……いい銀だ。忌々しいことに」
工房に、線引きの音が戻ってきた。炉が熾り、銀線が伸び、夜なべの灯りがともる。
ただし——大市まで、あと十日。
お読みいただきありがとうございます。第12話、議長は表に出ないまま、銀の道だけを静かに締めてきました。そこで頼った相手が、よりにもよって「技は原価」と言い切る量産商会。マーカス・ダンフォード、いずれ大きな敵になる男の顔見せでした。
銀は届きました。残り、十日。次話、夜なべの帳場で、旦那様の帳面から「見覚えのあるもの」が滑り落ちます。




