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白い結婚ですが、旦那様と工房を共同経営しています ~寝室は別、決算は一緒。封じられた没落令嬢の才能に、初めて値が付きました~  作者: 月守いとは


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第11話:三十年前の工房

裁定に勝った夜の工房は、通夜のように静かだった。


誰も祝杯の話をしなかった。炉の残り火だけが赤くて、あのピムでさえ、口を開かなかった。


テオバルトさんは、奥の棚から古い木箱を出してきた。いつか、わたしの帳面と見比べていた、色褪せた図面の束の箱。


「……座ってくれ。全員だ」


老職人は、図面を一枚ずつ、作業台に並べていった。スズラン。葡萄蔓。蔦。どれも、線の端を花の芯に隠した——わたしと同じ納め方の、図面たち。


「三十年前、この工房は、エレオノーラの工房だった」


炉の火が、ぱちりと爆ぜた。


「あの人は平民の生まれだ。親方を持たず、独学で線を覚えた。誰の型にも似ていなかった。……モントレーの名は、後から付いたもんだ。俺の知ってるあの人は、ただのエレオノーラだった」


「俺は、あの人の線を打つ職人だった。あの人が描いて、俺が打つ。長いこと、この台で、そうやって食ってきた」


「王妃様付きになってからも、ですか」


「ああ。宮廷に上がっても、あの人はここで描いた。豪華な仕事場は線が硬くなる、と言ってな」


テオバルトさんは、少しだけ笑った。すぐに、その笑いは消えた。


「——そこへ、あの男が来た」


「ボードワン・グレアム。当時はギルドの若い書記だった。切れ者でな。『意匠は財産です。登録して守らねば、いずれ皆盗まれる』と言って、登録制度の旗を振った。誰も反対しなかった。正しく聞こえたからだ」


「あの男は言った。『登録には写しが要ります。写字が済むまで、原本をお預かりします』と。……エレオノーラの意匠帳、三十七冊。全部だ。全部、持っていった」


「返ってこなかったのですね」


アーロン様が、静かに言った。テオバルトさんは頷いた。


「季節がふた巡りして、出来上がった登録簿を見たら——三十七冊は『ギルドへの寄託』になっていた。寄託者の欄にはB・グレアムの名前があって、あの人の名前は、どこにもなかった」


「俺は会館に怒鳴り込んだ。階段で、あの男の胸ぐらを掴んだ。……翌月、俺は規約違反とやらで、職人資格を取り上げられた。何の規約かは、今でも知らん」


マルセルさんが何かを言いかけて、呑み込んだ。サシャさんは俯いて、膝の上で拳を握っていた。


「エレオノーラは、どうしたのですか。あれほどの人が、なぜ黙って」


「黙らされたんだ」


テオバルトさんの声が、初めて掠れた。


「ちょうど、あの人の一人娘が——侯爵家に、嫁いだばかりだった」


心臓が、冷えた。


娘。侯爵家。それは、つまり。


「……わたしの、母」


「あの男は、あの人にこう言ったそうだ。『騒げば、娘御の嫁ぎ先に泥がかかりますな。平民上がりの母親が、ギルドと揉めている、と』。……あの人は、呑んだ。罪人の記録と引き換えに、娘の家の体面を買った。宮廷を退いて、それきり二度と、表で線を引かなかった」


工房が、しんとしていた。


わたしは、母の顔を思い出していた。はしたない、と言った母の。図面を燃やす火を、じっと見ていた母の。母は、知っていたのだろうか。線がこの家に何を運んでくるのかを、怖れていたのだろうか。——わからない。今はまだ、わからない。


「俺は資格を失って、流れの研ぎ屋をして食ってた。あの人が死んだと聞いて戻ってきたら、工房は人手に渡って、名前も変わってた。……それでも、道具ごと居着いた。他に行くところも、なかったしな」


テオバルトさんは、並べた図面の上に、そっと大きな手を置いた。


「あの人は、最後まで怒らなかった。一度だけ、言った。——『線は、紙の外には盗めないよ、テオ』」


「……だから、あんたが初めてここに来て、あの線を引いたとき」


老職人の目が、わたしを見た。岩みたいな目が、濡れていた。


「腰が抜けるかと思った。紙の外に、線が生きてた。あの人は、宮廷にもギルドにも遺さなかったものを——孫娘にだけ、こっそり遺してやがった」


「あんたの線は、あの人の続きだ。……俺は、それをもう一度潰されるのを見るのは、御免だ」


わたしは、何も言えなかった。言葉の代わりに、並んだ祖母の図面の、花の芯をひとつ、指でなぞった。祖母の線とわたしの線が、作業台の上で、続きになっていた。


「……あたしが写させられてた帳簿だ」


ぽつりと言ったのは、ピムだった。


「ギヨームんとこで、毎晩夜なべで写してた登録帳。あれ全部、代表の、ばあちゃんの……」


言いかけて、ピムは袖で乱暴に目を擦った。


長い沈黙のあと、口を開いたのは、アーロン様だった。


「整理します」


いつもの、帳簿を付けるときの声だった。この人は、こういうときに、こういう声を出す。今夜は、それがありがたかった。


「盗まれたのは、意匠帳三十七冊。盗んだ者はそれを元手に三十年、業界を縛って議長の席に座っている。原本は今も、ボードワンの手の中です」


アーロン様は、卓の上の裁定通知を、くるりとこちらへ向けた。


「——取り返しましょう。合法的に、かつ、儲かる形で」


「……できるのか、そんなことが」


「簡単ではありません。盗品と証明するには、物証と、発言力が要ります。物証は、これから探す。発言力は——名です。誰にも無視できない名を、この工房が持つこと」


アーロン様の指が、卓を、とん、と突いた。


「秋の大市。王都中の工房が品を並べ、最優秀の名が満座で読み上げられる、年に一度の品評市です。……出ましょう。ヴェルク工房の名で」


テオバルトさんは、図面の束を静かに木箱へ戻した。蓋を閉める前に、一番上の一枚だけを取り出して、わたしの帳面の隣に置いた。


「仕込みは明日からだ。……代表、寝ろ。線が濁る」


本日の損益。失ったもの、祖母についての無知。得たもの、取り返すべきものの、正確な目録。


お読みいただきありがとうございます。第11話、三十年前の工房のお話でした。線は、紙の外には盗めない。


物語の看板を、ここで掛け替えます。工房の再建から——祖母の意匠の、奪還へ。まずは秋の大市。


ですが次話、その仕込みの矢先に、工房から銀が消えます。正確には——入ってこなくなります。


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