南国の味と、明日の空
第85話「南国の味と、明日の空」
那覇で迎えた二日目の朝、雪はカーテンの隙間から差し込む明るい光で目を覚ました。
北海道の朝とは違い、部屋の中にはすでに柔らかな暖かさが満ちている。隣のベッドでは愛子がまだ目を閉じていたが、枕元の時計へ目を向けたところで、ほぼ同時に体を起こした。
「おはよう、雪」
「おはよう。よく眠れた?」
「うん。歩き回ったから、布団に入ったらすぐだったわ」
雪も大きく伸びをした。万座ビーチで海を歩いた疲れは少し残っていたが、足腰に強い張りはない。前日に無理をせず、夕食後も早めにホテルへ戻ったことがよかったのだろう。
窓辺の小さなテーブルには、層一の写真が置かれていた。
「そうちゃん、おはよう」
雪が声をかけると、愛子も写真へ笑いかけた。
「層一さん、今日は石垣島だよ」
その時、隣室から康夫が扉を軽くたたいた。
「起きとるか」
「起きとるよ」
「天気予報、見てみれ」
雪が扉を開けると、康夫はスマートフォンの画面を見せた。
前日の夜には、八重山地方の周辺に雨雲と風の予報が出ていた。石垣島行きの航空便へ大きな影響が出る可能性は低いとされていたものの、天候は変わりやすい。三人は、朝の状況を確認してから移動するかどうか判断しようと決めていた。
画面に表示されていたのは、雲は多いものの、日中は大きく崩れないという予報だった。
「飛行機も、今のところ予定どおりだって」
康夫が言う。
「したっけ、石垣島へ行けそうだね」
愛子が安堵の息を吐いた。
「でも無理はせんぞ。空港へ行って欠航や遅れが出とったら、その場で考える」
「分かっとるよ」
雪は層一の写真を手に取り、胸ポケットへしまった。
「そうちゃん、今日はもう少し南へ行けるよ」
*
ホテルで軽い朝食を取り、三人は那覇空港へ向かった。
前日の長時間移動があったため、朝から観光を入れることはしなかった。荷物をまとめ、体調を確認し、空港へ向かう。それだけに集中する。
那覇空港の出発案内板には、石垣島行きの便が予定どおり表示されていた。
「よかったね」
愛子が言う。
「まずは飛行機が飛んでくれんとな」
康夫は案内表示を確認し、預け荷物の手続きを進めた。
雪は層一の写真を手荷物へ入れたまま、保安検査を通過した。搭乗口の近くへ着くと、三人は窓際の席へ座り、しばらく滑走路を眺めた。
「新千歳から那覇までの飛行機に比べたら、今日は短いんだよね」
愛子が尋ねる。
「うん。昨日よりはずっと短いよ」
「それでも、島まで飛行機で行くって不思議だな」
康夫が言う。
「北海道だって、島の中を移動するだけで何時間もかかるしょ」
「確かにそうだべ」
搭乗が始まり、三人は石垣島行きの航空機へ乗り込んだ。
機体が那覇空港を離れると、窓の下には青い海が広がった。
いくつもの島。
海の中に浮かぶ白い雲の影。
深い青から明るい水色へ変化する海面。
雪は層一の写真を窓の方へ向けた。
「そうちゃん、また南へ進んどるよ」
愛子は娘の横顔を見て、そっと微笑んだ。
「昨日より、もっと楽しそうな顔しとるね」
「そう?」
「波照間島が近づいてきたからでないかい」
雪は窓の外へ目を戻した。
「近づくほど、本当に行くんだって思うんだわ」
「行くんだぞ」
康夫が通路側から言う。
「長いこと待ったんだから、急がず行けばいい」
「うん」
*
航空機が石垣島へ近づくと、窓の外の海はさらに色を変えた。
島の周囲には浅瀬が広がり、白い砂の上を覆う水がエメラルドグリーンに輝いている。海岸線の近くには濃い緑が広がり、北海道では見たことのない植物が島を覆っていた。
「なまらきれいだね」
愛子が窓越しに景色を見つめた。
「昨日の那覇の海とも違うな」
康夫も少し身を乗り出した。
航空機は大きく旋回し、滑走路へ向かって高度を下げた。
着陸の振動が伝わり、機体が速度を落としていく。
石垣島へ到着した。
雪は胸ポケットへ手を添えた。
「そうちゃん、石垣島まで来たよ」
*
空港を出ると、那覇よりもさらに南国らしい空気が三人を包んだ。
強い日差し。
湿り気を含んだ暖かな風。
低く広がる雲。
遠くから聞こえる鳥の声。
康夫は帽子をかぶりながら、周囲を見回した。
「北海道から本当に遠くまで来たな」
「でも、まだ波照間島でないんだよね」
愛子が言う。
「明日、船が出ればね」
雪は空を見上げた。
雲はあるものの、雨が降りそうな暗さはない。風も昨日の予報で心配していたほど強くなかった。
三人はその日の宿泊先へ荷物を預けた後、午後の時間を使って川平湾へ向かうことにした。
明日は波照間島へ渡る予定である。長く歩き回る観光は避ける。それでも、石垣島へ来たからには、この島の海を少しだけ見てみたい。
選んだのが、川平湾のグラスボートだった。
*
川平湾へ到着すると、三人は再び言葉を失った。
白い砂浜と、入り江いっぱいに広がる青い海。
海面にはいくつもの小さな島影が浮かび、空の色を映した水が、場所によって明るい青や深い緑へ変化している。
「昨日の万座ビーチもきれいだったけど、ここはまた全然違うね」
雪が言う。
「絵の中みたいだわ」
愛子は景色を撮ろうとスマートフォンを構えたが、画面を見た後、少し困ったように笑った。
「写真だと、この色が全部入らんね」
「目で見た方がいいべさ」
康夫が言う。
「写真は後で見返せるけど、今ここにおる時間は今しかない」
「お父さん、旅に来てから急にいいこと言うね」
「普段から言っとる」
「聞いたことないよ」
三人は笑いながら、グラスボートの乗船場所へ向かった。
受付を済ませ、救命胴衣を確認し、ほかの観光客たちとともに船へ乗り込む。
船の中央には、大きなガラス窓が設けられていた。座席へ腰を下ろすと、足元のさらに下に海中が見える仕組みになっている。
「こんな船あるんだねぇ」
愛子は子どものようにガラスをのぞき込んだ。
「まだ岸を離れとらんぞ」
康夫が言う。
「分かっとるけど、もう魚見えるも」
雪も隣へ座り、胸ポケットから層一の写真を少し取り出した。
「そうちゃんも見えるようにしようか」
写真を落とさないように両手で持ち、ガラス窓の方へ向ける。
やがてエンジン音が響き、船がゆっくりと岸を離れた。
*
水深が深くなるにつれ、足元の景色が変わっていった。
白い砂。
岩のように見える大きなサンゴ。
枝を広げたようなサンゴ礁。
その間を泳ぐ、黄色や青、黒い模様の小さな魚たち。
太陽の光が水面を通り抜け、海底へ揺れる光の模様を作っている。
「見て、お母さん」
雪が指をさした。
「青い魚、なまらきれいだよ」
「こっちには黄色いのもおる」
愛子はガラスへ顔を近づけた。
康夫も反対側の窓から海中を見ていた。
「これがサンゴか」
「北海道の海じゃ見られんもね」
「海の中に森があるみたいだな」
船内の案内係が、サンゴの種類や魚の名前を説明していく。
大きなサンゴの間を、群れになった魚が通り抜ける。
海底近くには、ゆっくりと動くナマコの姿もあった。
愛子が思わず身を引く。
「あれは、ちょっと見た目が不思議だね」
「海の掃除してくれる大事な生き物だって」
雪が案内を聞きながら答える。
「見た目で判断したら駄目だべさ」
康夫が言う。
「お父さん、さっき少し驚いとったしょ」
「驚いただけだ。嫌とは言っとらん」
三人は声を抑えながら笑った。
船がサンゴ礁の上を進むたび、違う海中景観が現れた。
北海道の海にも美しさはある。
冷たい海。
流氷。
昆布の森。
北の魚たち。
しかし、目の前に広がるのは、それとはまったく異なる南の海だった。
雪は層一の写真へ小さく話しかけた。
「そうちゃん、見える? 海の中が、なまらきれいだよ」
層一と一緒に来ていれば、どんな顔をしただろう。
おそらく誰より先にガラスへ顔を近づけ、魚を見つけるたびに雪を呼んだに違いない。
世界のジャンプ台を飛び回っていた層一も、この海を見れば、きっと競技のことを忘れて夢中になっただろう。
その姿を想像すると、雪の胸は寂しさよりも、温かな懐かしさで満たされた。
*
グラスボートがサンゴ礁の上で速度を落とした時、向かい側に座っていた一人の女性が、何度か雪の顔を見ていることに気づいた。
女性は夫らしい男性と一緒に乗っており、手元には観光パンフレットを持っていた。
しばらく迷っていたようだったが、やがて遠慮がちに雪へ声をかけた。
「あの、すみません」
雪が顔を上げる。
「はい?」
「もし人違いだったら、本当に申し訳ないんですが」
女性は一度言葉を切った。
「スキージャンプの上川恵選手のお母さまですよね?」
雪は少し驚いた後、穏やかにうなずいた。
「はい。恵の母です」
女性の表情が明るくなった。
「やっぱりそうでしたか。テレビで何度か拝見していて」
「こんな遠いところで気づかれるとは思わんかったわ」
「恵選手と目元がよく似ていらっしゃいます」
愛子が隣でうれしそうに笑った。
「親子だからねぇ」
女性は雪の手にある層一の写真へ目を向けたが、すぐに視線を戻した。
「ご家族で旅行ですか?」
「生田家の父と母と一緒なんです」
雪は康夫と愛子を紹介した。
「娘も結婚して、独り立ちしましたしね。私も、少し自分の時間を歩いてみようと思ったんです」
「恵選手、ご結婚されたんですよね。本当におめでとうございます」
「ありがとうございます」
雪は層一の写真を大切に両手で持った。
「それと、亡くなった主人と、生前話してたんです」
「ご主人と?」
「沖縄の波照間島に行ってみたいねって。そこで南十字星を見ようって」
女性は静かに話を聞いていた。
「でも、主人が病気になって、約束を果たせないまま亡くなりました。それから二十年以上たったんですけど、娘が結婚して、私も一つ大きな役目を終えたような気持ちになって」
雪は少し照れたように笑った。
「それで、明日波照間島へ向かって、南十字星を眺めようと思ってます」
女性の目が少し潤んだ。
「ご主人も一緒なんですね」
「はい。写真ですけどね」
「写真だけではないと思います」
女性は海中を指した。
「今もきっと、この景色を一緒に見ていらっしゃると思います」
雪は写真へ目を落とした。
「そうだといいですね」
「絶対そうです」
女性の夫も隣から頭を下げた。
「南十字星が見えるといいですね」
「ありがとうございます」
「恵選手のこと、これからも応援しています」
「娘に伝えますね」
「雪さんも、旅を楽しんでください」
「はい。ありがとうございます」
会話を終えた後、女性は少し離れた座席へ戻った。
愛子が雪の横顔を見た。
「また気づかれたね」
「沖縄に来て二回目だわ」
「恵が有名になっただけでなく、雪もテレビに出とったからな」
康夫が言う。
「私は何もしてないのにね」
「何もしてない人が、恵をここまで育てられるわけないべさ」
愛子の言葉に、雪はすぐには答えなかった。
自分では、ただ母親として必要なことをしてきただけだと思っている。
それでも、その歩みを見てくれていた人がいる。
遠い沖縄の海で、初めて会った人から言葉をかけてもらう。
そのことが、雪には少し不思議で、同時にありがたかった。
*
グラスボートは、ゆっくりと岸へ戻っていった。
最後まで三人は足元の海を見つめ、魚やサンゴを探した。
船を降りると、愛子は大きく息を吐いた。
「なまらきれいだったね」
「船酔いは大丈夫だった?」
雪が尋ねる。
「全然大丈夫。海も穏やかだったしね」
「お父さんは?」
「俺も問題ない」
「明日の船は、これより長いんだよ」
「だから今日は早めに休むんだべ」
康夫はすっかり休養の考え方を身につけたような口調で答えた。
「お父さん、コスキネンコーチみたいになっとるね」
「フィンランド人のコーチから学んだことを、北海道の年寄りが沖縄で実践する。国際的だべさ」
愛子と雪は声を上げて笑った。
三人は川平湾の景色をもう一度眺めた後、宿泊先へ戻ることにした。
予定には、ほかの観光地も候補として書かれていた。
しかし今日はここまでで十分だった。
美しい海を見た。
サンゴ礁を見た。
層一にも、その景色を見せることができた。
そして、旅を応援してくれる人の言葉を受け取った。
これ以上詰め込む必要はない。
*
ホテルへ戻る車の中で、雪は川平湾で撮った写真を恵へ送った。
『石垣島へ無事に着きました。川平湾のグラスボートに乗って、サンゴと魚を見たよ。北海道では見られない景色だったわ。』
少しして、恵から返事が届いた。
『なまらきれい。お母さんたち、船酔い大丈夫だった? 明日の船はもっと長いから、今夜はちゃんと寝てね。』
光希からも続けて届く。
『無事に石垣島へ到着して安心しました。明日は船の運航状況を必ず確認して、無理をしないでください。』
雪は二人のメッセージを康夫と愛子へ見せた。
「また休んでねって言われたわ」
「正しいこと言っとる」
康夫はうなずいた。
「今夜は酒もなしだな」
「明日の船に備えるなら、その方がいいね」
愛子も同意した。
雪は胸ポケットの層一の写真へ触れた。
「そうちゃん、いよいよ明日だよ」
石垣島から、さらに南へ。
船に乗って、波照間島へ。
二十年以上前の約束の場所は、もう海の向こうに見えないほど遠い場所ではなかった。
あと一日。
あと一度、船へ乗れば届く。
しかし雪は、急ごうとは思わなかった。
明日の天気。
風。
船の運航。
三人の体調。
すべてを確認し、安全に渡る。
約束をかなえるために大切なのは、一刻も早く到着することではない。
層一とともに、両親とともに、無事にその場所へ立つことだった。
第58話 終
次回予告
第59話「海の向こうの約束」
石垣島で迎える朝。
雪、康夫、愛子は、波照間島行きの船の運航情報を確認する。
前日まで心配されていた風は弱まり、朝の便は予定どおり運航。
だが、外洋へ出れば船は大きく揺れる可能性がある。
「酔い止め、飲んだかい」
「めぐに言われなくても飲んだよ」
三人は石垣港離島ターミナルへ向かう。
胸ポケットには層一の写真。
手荷物の中には、あのメモ。
『波照間島で、雪と南十字星を見る』
船が港を離れ、石垣島の街が少しずつ遠ざかっていく。
穏やかな内海を抜けると、外洋の波が船体を揺らし始める。
康夫は手すりを握り、愛子は目を閉じる。
雪は胸元へ手を当てる。
「そうちゃん、もう少しだからね」
そして長い船旅の先に現れる、小さな島影。
一般の人が行ける日本最南端の島、波照間島。
次回、第59話「海の向こうの約束」。
二十年以上待ち続けた場所が、ついに水平線の向こうから姿を現す。




