海の向こうの約束
第86話「海の向こうの約束」
石垣島の朝は、穏やかな青空から始まった。
ホテルの窓を開けると、潮の香りを含んだ風が部屋へ流れ込んでくる。
雪は胸ポケットから層一の写真を取り出し、窓の外へ向けた。
「そうちゃん、おはよう。今日はいよいよ波照間島だよ」
写真の中の層一は、若い日の笑顔のままだった。
愛子も起きてきて、窓の外を見上げる。
「今日は昨日より空が明るいねぇ」
「風も弱そうだわ」
康夫はスマートフォンで船会社の運航情報を確認していた。
「朝の便、予定どおり運航だ」
三人は思わず顔を見合わせた。
「よかった」
雪の口から自然にその言葉がこぼれた。
ここまで来て欠航になれば仕方がない。
そう考えていたものの、やはり予定どおり島へ渡れることは素直にうれしかった。
「でも外洋へ出たら揺れるって書いとる」
康夫が画面を見せる。
「酔い止め、飲んだかい」
「めぐに言われなくても飲んだよ」
雪が笑う。
「お母さんも?」
「もちろん」
「俺も飲んだ」
三人は朝食を済ませると、余裕を持って石垣港離島ターミナルへ向かった。
*
ターミナルには、大きな荷物を持った旅行者や、地元の人たちが集まっていた。
波照間島行きの高速船が静かに桟橋へ停泊している。
白い船体が朝日を受けて輝いていた。
雪は胸ポケットへ手を添える。
そこには層一の写真。
手荷物の中には、あのメモが入っている。
『波照間島で、雪と南十字星を見る』
係員の案内を受けながら船へ乗り込む。
三人は窓側の席へ腰を下ろした。
「いよいよだね」
愛子が小さくつぶやく。
「あと少しだ」
康夫もうなずく。
やがてエンジン音が響き、船はゆっくりと岸壁を離れた。
石垣港の建物が少しずつ遠ざかっていく。
最初は穏やかな海だった。
港の中では波も小さく、船は静かに滑るように進んでいく。
しかし、防波堤を抜けて外洋へ出ると景色が変わった。
船体が上下に揺れる。
時折、左右へも大きく傾く。
波しぶきが窓を打った。
康夫は自然と手すりを握る。
「思ったより揺れるな」
愛子は目を閉じ、ゆっくり呼吸を整えていた。
「大丈夫?」
雪が尋ねる。
「うん。酔い止め効いとるから平気」
雪も胸元へ手を当てた。
「そうちゃん、もう少しだからね」
船は青い海を切り裂くように南へ進んでいく。
窓の外には、どこまでも続く水平線。
空と海しかない世界だった。
*
およそ一時間ほど過ぎた頃だった。
船内から小さな歓声が上がる。
「あっ、見えてきた!」
誰かの声に、雪たちも窓の外へ目を向けた。
水平線の向こうに、小さな緑色の島影が浮かんでいた。
「あれが……」
「波照間島だべ」
康夫が静かに言った。
島は少しずつ大きくなっていく。
灯台。
白い建物。
港。
島全体が、ゆっくりと姿を現した。
雪の目には涙が浮かんでいた。
「そうちゃん……」
二十年以上前。
二人で旅行雑誌を見ながら話した島。
夢のまま終わると思っていた場所。
その島が、今、目の前にある。
「着いたよ」
写真へ語りかける声は、小さく震えていた。
*
船は波照間港へ到着した。
三人は荷物を受け取り、ゆっくり桟橋を歩く。
暖かな風。
どこまでも高い空。
静かな島の空気。
「本当に来たんだね」
愛子が何度も周囲を見回していた。
「夢みたいだ」
康夫も静かに笑う。
予約していた民宿の送迎車が迎えに来ており、三人は民宿へ向かった。
荷物を部屋へ置くと、宿の女将が笑顔で迎えてくれる。
「今日は天気も良さそうですよ」
「夜は星が見えそうですか」
雪が尋ねる。
「雲が増えなければ期待できますよ」
その一言だけで、雪の胸はいっぱいになった。
*
午後。
三人は民宿で借りた自転車へ乗った。
「島一周できるくらいの広さなんですよ」
女将の言葉どおり、波照間島は自転車で十分に巡ることのできる大きさだった。
車は少なく、ゆっくりとした時間が流れている。
サトウキビ畑。
青い海。
放牧されているヤギ。
島を渡る風。
どこを走っても、北海道とはまったく違う景色だった。
「なまら気持ちいいねぇ」
愛子が笑う。
「時間までゆっくり回ろう」
雪も笑顔でペダルをこぐ。
三人は島のあちこちを巡りながら、波照間島星空観測タワーへ到着した。
展望台から見渡す景色は、三百六十度、海と空だった。
「今夜ここで星を見るんだね」
雪がつぶやく。
「南十字星、見えるといいねぇ」
愛子が空を見上げる。
昼間の青空はどこまでも高く、夜への期待が自然と膨らんでいった。
*
その後、三人は島のお土産店へ立ち寄った。
店内には黒糖や泡盛、手作りの工芸品などが並んでいる。
雪は棚の一角で足を止めた。
「これ……」
そこには『泡盛 あわなみ』と書かれた瓶が並んでいた。
「波照間島限定ですよ」
店の人が笑顔で説明する。
「島の人にも人気のお酒です」
康夫が瓶を手に取り、しみじみと眺めた。
「記念になるな」
「お父さん、飲みすぎたら駄目だよ」
「分かっとる」
雪も一本購入した。
「これは帰ったら、そうちゃんにも報告しながら少し飲もうかな」
「きっと喜ぶべさ」
愛子が微笑んだ。
*
夕方、民宿へ戻ると、食堂には地元の食材を使った料理が並んでいた。
新鮮な魚の刺身。
島野菜の天ぷら。
もずく。
島豆腐。
ラフテー。
島の食材を使った煮物。
そして温かいご飯。
「いただきます」
三人は手を合わせた。
「北海道とは全然違う味だね」
「でも、どれも優しい味だわ」
雪は一品一品をゆっくり味わった。
長い年月を経て、ようやくたどり着いた波照間島。
明日は、いや、もう数時間後には。
層一と約束した南十字星を見上げる夜がやってくる。
雪は胸ポケットへそっと手を添えた。
「そうちゃん」
窓の外では、ゆっくりと夕日が海へ沈み始めていた。
第59話 終
次回予告
第60話「南十字星の約束」
夜の波照間島。
星空観測タワーへ向かった雪、康夫、愛子。
街明かりの少ない島の夜空には、無数の星が広がっていく。
やがて南の水平線近くに、小さく輝く四つの星。
二十年以上前、層一と約束した南十字星が、ついに雪の前へ姿を現す。
胸ポケットから取り出した一枚の写真。
「そうちゃん、見えたよ」
涙の向こうに輝く星空。
その時、雪は長い年月をかけて胸にしまい続けてきた思いを、静かに空へ語りかける。
次回、第60話「南十字星の約束」。
約束は、時間に負けなかった。
二十年以上の歳月を越え、愛した人と見上げる星空が、そこにあった。




