南十字星の約束後編
第86話 南十字星の約束後編
雪は、民宿で早めの夕食を終えると、胸ポケットへ層一の写真をそっとしまった。
「行こうか」
康夫が静かに立ち上がる。
「うん」
愛子も懐中電灯を手にした。
三人は夜風を感じながら、ゆっくりと星空観測タワーへ向かった。
昼間とはまったく違う島だった。
車の音はほとんど聞こえない。
聞こえるのは、風が草を揺らす音と、波の音、そして虫たちの鳴き声だけ。
「静かだねぇ」
愛子が小さな声でつぶやく。
「北海道の夜とも違う静けさだ」
康夫も空を見上げながら歩く。
星空観測タワーへ着く頃、西の空では太陽がゆっくり水平線へ近づいていた。
海が黄金色に染まり、やがて空はオレンジ色から茜色へ、さらに紫色へと姿を変えていく。
雪は胸ポケットから層一の写真を取り出した。
「そうちゃん、もうすぐだよ」
写真の中の層一は、若い頃と変わらない優しい笑顔を見せている。
やがて、太陽がゆっくりと水平線の向こうへ沈んでいった。
島を包んでいた光が少しずつ消え、夜が静かに訪れる。
空には、一つ、また一つと星が姿を現し始めた。
「あっ、見えてきた」
愛子が思わず声を上げる。
「本当だ」
康夫も空を見上げる。
街明かりの少ない波照間島では、北海道でも見たことがないほど多くの星が夜空を埋め尽くしていた。
天の川が白く帯のように空を横切り、無数の星々がまるで降ってくるように輝いている。
雪は空を見上げながら、ふと北の空へ目を向けた。
「あれ……」
思わず小さくつぶやく。
「北斗七星が、低い」
康夫もうなずいた。
「北海道で見た時より、ずいぶん低いな」
「北極星も、こんな高さだったっけ」
愛子も驚いたように見上げる。
北海道では高く見えていた北斗七星も北極星も、この島では地平線に近い位置で静かに輝いていた。
その違いだけで、自分たちがどれほど南まで来たのかが実感できた。
「本当に、日本の南まで来たんだね」
雪はしみじみと言った。
そして、ゆっくりと体を南の空へ向ける。
水平線近くには、まだ薄い雲が残っていた。
三人は静かに待った。
焦る必要はない。
ここまで二十年以上待ったのだ。
あと数分くらい、いくらでも待てる。
風が少し吹き、南の水平線を覆っていた雲がゆっくりと流れていく。
その瞬間だった。
「あっ……」
雪の声が震えた。
水平線のすぐ上。
小さく十字を描く四つの星。
憧れ続けた南十字星が、静かに姿を現した。
「見えた……」
愛子も涙ぐむ。
「本当に見えたね」
康夫も目を細めながら、静かにうなずいた。
雪は写真を胸の前へ掲げた。
「そうちゃん……見える?」
涙が頬を伝う。
「とうとう来たよ」
声が震える。
「約束の地に」
夜風が静かに吹き抜ける。
「長い間、待たせてごめんね」
雪は写真を見つめたまま、何度も涙をぬぐった。
その時だった。
耳元で、とても懐かしい声が聞こえた気がした。
「綺麗だな」
雪はゆっくり目を閉じる。
その声は、二十年以上前と何も変わらなかった。
「ありがとう、雪」
優しく包み込むような声。
「約束を果たしてくれて」
雪は静かにうなずいた。
「うん……」
涙が止まらなかった。
「やっと来られたよ」
写真をそっと胸へ抱き寄せる。
「そうちゃんと一緒に、この星を見たかった」
南十字星は静かに輝き続けている。
その光は、二十年以上という歳月を越え、二人の約束を静かに照らしていた。
康夫と愛子は何も言わず、少し離れた場所から娘の背中を見守っていた。
二人には、雪が今、層一と話しているように見えた。
誰も言葉を挟がない。
この時間は、雪と層一だけの時間だった。
やがて雪は涙をぬぐい、夜空を見上げて微笑んだ。
「そうちゃん。また一つ約束をかなえられたね」
南十字星は、波照間島の静かな夜空で、いつまでも優しく輝き続けていた。
⸻
第60話 終
次回予告
第61話「約束の朝」
波照間島で迎える朝。
南十字星を見届けた雪、康夫、愛子は、日本最南端の碑を訪れる。
その場所で雪は、層一へ新たな約束を語る。
「私はこれからも前を向いて歩いていくよ」
一方、上川では恵と光希が練習を終え、母から送られてきた満天の星空の写真を見つめていた。
「お母さん、夢をかなえたんだね」
娘の言葉に、雪は静かに笑う。
人生には、すぐにかなう夢もあれば、二十年以上かけてかなう夢もある。
次回、第61話「約束の朝」。
約束は終わりではない。
かなえた夢は、新しい人生への出発点になる。




