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恵の物語  作者: リンダ


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約束の朝

 第87話「約束の朝」


 波照間島で南十字星を見届けた翌朝。


 雪は、目覚まし時計が鳴るより少し早く目を覚ました。


 民宿の部屋には、薄い朝の光が差し込んでいる。


 窓の外から聞こえてくるのは、上川の朝とはまったく違う鳥の声だった。風がサトウキビの葉を揺らし、ときおり遠くから海の音が届いてくる。


 雪は布団の中でしばらく動かなかった。


 昨夜のことを思い出していた。


 水平線へ沈んだ夕日。


 暗くなっていく空。


 北海道で見るより、ずっと低い位置にあった北斗七星と北極星。


 そして、南の水平線近くへ現れた南十字星。


「そうちゃん、見える?」


 そう呼びかけた時、聞こえた気がした層一の声。


『綺麗だな』


『ありがとう、雪。約束を果たしてくれて』


 夢だったのか。


 記憶が聞かせてくれた声だったのか。


 雪には分からない。


 それでも、何も問題はなかった。


 自分には確かに聞こえた。


 それだけで十分だった。


 雪は枕元に置いていた層一の写真を手に取った。


「おはよう、そうちゃん」


 写真の中の層一は、いつもの若い笑顔のままだった。


「昨日、見えたね」


 少し間を置き、雪は笑った。


「長かったねぇ」


 二十年以上。


 恵を産み。


 層一を失い。


 母親として生き。


 泣きながら朝を迎えた日もあった。


 恵が初めて歩いた日。


 学校へ入った日。


 ジャンプを始めた日。


 勝った日。


 負けた日。


 怪我をした日。


 オリンピックへ行った日。


 そして結婚した日。


 そのすべてを越えて、ようやく波照間島の空へたどり着いた。


「待たせてごめんね」


 昨夜も言った言葉を、もう一度口にする。


 だが、今朝は少しだけ意味が違っていた。


「でも、急がなくてよかったのかもしれんね」


 もし二十年前に来ていれば、それは層一との新婚旅行のような旅になっただろう。


 もちろん、それも幸せだったはずだ。


 しかし今、雪は娘を育て終えた一人の母親として、この島へ来ていた。


 生田康夫と愛子とともに。


 恵と光希に送り出されて。


 これまで歩いてきた人生を全部抱えて、この空を見上げることができた。


「これも、私たちの約束の形なんだべね」


 雪は写真を胸へ抱き寄せた。


 *


 しばらくすると、部屋の外から足音が聞こえてきた。


「雪、起きとるかい」


 愛子だった。


「起きとるよ」


 雪が扉を開けると、愛子はすでに着替えを済ませていた。


「よく眠れた?」


「うん。布団入ったら、すぐだったわ」


「昨日あれだけ星見上げとったもね」


「首、痛くない?」


「少しだけ」


 二人は顔を見合わせて笑った。


「お父さんは?」


「もう起きとる。朝から外見て、島一周もう一回自転車で行けるんでないかって言っとるよ」


「やめさせて」


「私もそう言った」


「昨日十分走ったしょ」


「本人は元気だって言っとるけどね」


 そこへ康夫が現れた。


「誰が止めるって?」


「お父さん」


「何だ」


「今日は朝から自転車で島一周は禁止」


「まだ何も言っとらんべ」


「お母さんから聞いた」


「ちょっと考えただけだ」


「その考えが危ないんだわ」


 雪がそう言うと、康夫は少し不満そうな顔をした。


「波照間島まで来たんだから、少しくらい」


「今日は歩いて散策するべ。ゆっくり」


「昨日の俺と同じこと言っとるな」


「旅も休養も同じだって分かったから」


 愛子が笑う。


「雪までコスキネンコーチみたいになってきたね」


「博多弁は使えんけどね」


 *


 民宿の食堂には、朝から温かな料理が並んでいた。


 炊きたてのご飯。


 味噌汁。


 島野菜の小鉢。


 焼き魚。


 卵料理。


 もずく。


 地元で採れた果物。


 三人は席へ座り、手を合わせた。


「いただきます」


 雪は味噌汁を一口飲み、ほっと息を吐いた。


「おいしいね」


「昨日も思ったけど、味が優しいんだわ」


 愛子が島野菜を口へ運ぶ。


 康夫は焼き魚を食べながら、窓の外へ目を向けた。


「この島の人たちは、こういう朝を毎日迎えとるんだな」


「そうだね」


 雪も外を見た。


 青空。


 サトウキビ畑。


 ゆっくり流れる雲。


 遠くには海。


「上川とは全然違うね」


「冬になっても、こっちは雪降らんのだろうな」


「北海道の人からしたら、それだけでも不思議だべさ」


 愛子が笑った。


 雪は少し考えた後、スマートフォンを取り出した。


「めぐたち、もう起きとるかな」


「北海道とは時間同じだべ」


「そうだけど、今日練習日だったしょ」


「朝食終わったくらいでないかい」


 雪は恵へメッセージを送った。


『起きとる? 朝ごはん終わったら少し電話できる?』


 返事は一分もしないうちに届いた。


『起きとるよ。光希も一緒。今朝ごはん終わったところ。』


 続けて、


『昨日の南十字星の話、聞きたい。』


 雪は画面を見ながら笑った。


「早いね」


「恵、待っとったんでないかい」


「多分ね」


 *


 朝食を終えた三人は、民宿の外へ出た。


 まだ日差しはそれほど強くない。


 風には海の匂いが混じっていた。


 雪はスマートフォンから恵へ映像通話をかける。


 数回の呼び出し音のあと、画面いっぱいに恵の顔が映った。


『お母さん!』


「近い、近い。顔しか見えんよ」


『あ、ごめん』


 カメラが少し離れ、その横から光希も顔を出した。


『雪さん、おはようございます』


「おはよう。二人とももう準備できとるの?」


『今日は午後から練習だから、まだ家だよ』


 恵はすぐに尋ねた。


『昨日、本当に南十字星見えたの?』


「見えたよ」


『ちゃんと?』


「ちゃんと十字に見えた」


『写真は?』


「撮ったけどね、やっぱり目で見た方がずっときれいだったわ」


『お父さんにも見せた?』


 その質問に、雪は一瞬だけ黙った。


 そして胸ポケットへ手を添えた。


「うん。一緒に見たよ」


 恵の表情が柔らかくなった。


『そっか』


「そうちゃんに、とうとう来たよって言った」


『うん』


「そしたらね」


 雪は少し迷った。


「お父さんの声が聞こえた気がしたんだわ」


 恵は何も茶化さなかった。


『何て?』


「綺麗だなって。約束を果たしてくれてありがとうって」


 恵の目が少し潤んだ。


『お父さん、本当に一緒に見とったんだね』


「そうだったらいいな」


『そうだよ。絶対』


 光希も隣で静かにうなずいた。


『二十年以上越しですもんね』


「長かったねぇ」


『お母さん』


「何?」


『夢、かなえたんだね』


 その一言に、雪の胸が温かくなった。


「うん」


 大きく笑うのではなく、静かに答えた。


「かなったよ」


 *


 恵が言った。


『島、見たい』


「今から見せようと思って電話したんだわ」


 雪はスマートフォンのカメラを外側へ切り替えた。


 画面いっぱいに、波照間島の朝が映る。


 青い空。


 低い石垣。


 細い道。


 道の両側へ広がるサトウキビ畑。


 その向こうには、少しだけ海が見えている。


『うわぁ……』


 恵の声が聞こえた。


『昨日の夜と全然違うね』


「夜は本当に真っ暗だったからね」


『道、静かだね』


「車も少ないよ」


 康夫がカメラの前へ顔を出した。


「めぐ、見えとるか?」


『康夫おじいちゃん、おはよう!』


「おはよう。昨日は南十字星ばっちり見えたぞ」


『写真見たよ。おじいちゃんも夜更かししたしょ』


「昨日だけだ」


 横から愛子が顔を出す。


「本当はもっと見とるって言っとったんだよ」


「お母さん、それ言わんでいいべ」


『おじいちゃん、ちゃんと休んでよ』


「北海道からまで怒られるのか」


 全員が笑った。


 *


 三人はそのまま、映像通話をつないだまま島を歩き始めた。


 民宿の近くを抜け、畑の間を進む。


 風がサトウキビの葉を大きく揺らしていた。


「音聞こえる?」


『ザワザワって聞こえる』


「これ全部サトウキビだよ」


『北海道じゃ見ない景色だね』


「全然違うべさ」


 雪は道端の花を映した。


 赤や黄色の南国らしい花。


 石垣の隙間から伸びる植物。


 時折、ヤギの声も聞こえる。


『今、何か鳴いた?』


「ヤギでないかい」


『ヤギおるの?』


「昨日も見たよ」


『見たい!』


「めぐ、何歳なのさ」


『何歳でもヤギ見たいべさ』


 光希が笑う。


『俺も見たいです』


「夫婦そろって何さ」


 少し進むと、本当に一頭のヤギが柵の向こうから顔を出した。


『いた!』


 画面の向こうから恵の明るい声が響く。


「めぐ、声大きいって」


『ごめん。でも、なまらかわいい』


 雪は笑いながらカメラをヤギへ向け続けた。


 *


 さらに歩くと、島の生活に欠かせない水について書かれた案内があった。


 康夫が説明板を読みながら言う。


「島には大きな川がないんだな」


「昨日、民宿の人も言っとったね」


 雪がうなずく。


「地下水や、農業用のため池なんかを大事に使ってきたんだって」


『北海道と全然違うんだね』


 恵の声が聞こえる。


「上川なら雪解け水もあるし、川もいっぱいあるしょ」


『当たり前だと思っとったけど、場所が変われば水のあり方も全然違うんだ』


 光希が言った。


『競技でも似とるかもしれんね』


「どういうこと?」


『同じ方法が、どこでも正解とは限らんってこと。環境が違えば、合わせ方も変わる』


 恵がすぐに反応した。


『光希、休養日にまで競技へつなげとるしょ』


『めぐも今、少し納得した顔したべ』


『それは……したけど』


 雪は二人のやり取りを聞きながら笑った。


「そういう見方もあるんだね」


 *


 しばらく歩いたところで、雪たちは海が見渡せる場所へ出た。


「めぐ、光希くん。見て」


 カメラを南へ向ける。


 青い海が、画面いっぱいに広がった。


 昨日乗ってきた高速船の航路も、その向こうにある。


『うわぁ……』


 恵がしばらく言葉を失った。


『ここが、日本の南の果てなんだ』


「そうだよ」


『お母さん、本当に遠くまで行ったね』


「上川から考えたら、なまら遠かったわ」


『特急オホーツク乗って、快速エアポート乗って、飛行機二回乗って、船まで乗ったもね』


「数えたらすごいねぇ」


 愛子が笑う。


『でも、行ってよかった?』


 恵の問いに、雪は迷わなかった。


「よかったよ」


『南十字星が見えたから?』


「それもある」


 雪は海を見ながら、ゆっくり続けた。


「でもね、南十字星だけでないんだわ」


『うん』


「那覇の海も、川平湾のサンゴも、この島の畑も、民宿のご飯も、全部そうちゃんと見たかった景色なんだと思う」


 胸ポケットへ手を添える。


「約束をかなえるって、最後の目的地に着くことだけでないんだね」


 恵は黙って聞いていた。


「そこへ向かう途中の時間も、全部約束の中に入っとるんだわ」


『そっか』


「だから、お母さん、今すごく楽しいよ」


 恵の表情が明るくなった。


『その顔見たら分かる』


「そんなに?」


『なまら分かるよ』


 光希も笑った。


『雪さん、上川にいる時より表情が柔らかいです』


「二人して何さ」


 *


 三人は、日本最南端の碑へ向かった。


 そこから見えるのは、遮るものの少ない青い海と空だった。


 碑の前へ立った雪は、いったん映像通話を切らずに、恵と光希にも見えるようスマートフォンを固定した。


「着いたよ」


『見えとるよ』


 雪は胸ポケットから層一の写真を取り出した。


 風に飛ばされないよう、両手で大切に持つ。


「そうちゃん」


 康夫と愛子は少し後ろへ下がった。


 画面の向こうの恵と光希も黙った。


 雪は海を見つめた。


「昨日、約束を一つかなえられたね」


 写真の中の層一へ微笑む。


「私、ずっと母親として頑張らんとって思ってた」


「めぐを守らんとって」


「そうちゃんの分まで頑張らんとって」


 風が雪の髪を揺らした。


「でも、めぐはもう自分の人生を歩き始めたよ」


 画面の向こうで、恵が静かに聞いている。


「光希くんと結婚して、二人で支え合って生きていくって決めた」


「だからね」


 雪は一度息を吸った。


「私も、これから自分の人生を歩いていくよ」


 声は震えていなかった。


「そうちゃんのことは、これからもずっと愛しとる」


「忘れるつもりなんてないよ」


「でも、寂しいだけの人生にはしない」


 康夫が静かに目を閉じた。


 愛子は娘の背中を見守っている。


「いろんなところに行って、いろんなもの見て、おいしいもの食べて、笑って」


「めぐたちの帰ってくる場所も守って」


「お父さんとお母さんにも、まだまだ甘えて」


 愛子が少し笑った。


「私、これからも前を向いて歩いていくよ」


 雪は層一の写真を胸へ抱いた。


「そうちゃん、見とってね」


 波照間島の風が、静かに吹き抜けた。


 *


 少しして、スマートフォンから恵の声が聞こえた。


『お母さん』


「何?」


『それでいいと思う』


 恵の目には涙が浮かんでいた。


『私、お母さんがずっと一人で頑張っとったの知っとるから』


「めぐ」


『私のために、自分のやりたいこと我慢したこともあったしょ』


「それは親だから」


『それでも』


 恵は小さく首を振った。


『これからは、お母さんのやりたいこともいっぱいやってよ』


「うん」


『旅行もして』


「うん」


『カフェも無理しないで』


「分かった」


『おじいちゃんとおばあちゃんにも甘えて』


「昨日からそればっかり言われとるわ」


 少し笑いが生まれる。


『それから、たまには私にも甘えてよ』


 その言葉だけは、雪がすぐに返せなかった。


「めぐに?」


『うん。もう私、大人だよ』


「知っとるよ」


『結婚もしたし』


「それは知っとる」


『だから、お母さんがつらい時は、私にも言って』


 雪の目に涙が浮かんだ。


『今までお母さんが私を支えてくれたんだから、今度は私がお母さんの話を聞くことだってできるしょ』


「そうだね」


 雪は涙を拭きながら笑った。


「したっけ、その時は頼むわ」


『任せといて』


「世界一のジャンパーに人生相談するの、料金高そうだね」


『お母さんは無料だべさ』


 光希が横から言う。


『俺も話くらいなら聞きますよ』


「光希くんまで?」


『家族ですから』


 雪はまた涙を拭いた。


「本当に家族が増えたんだねぇ」


 *


 映像通話を終える前に、雪はもう一度カメラを海へ向けた。


「二人とも、最後にもう一回見ときな」


『うん』


「これが、今日の波照間島」


 青い海。


 サトウキビ畑。


 高い空。


 春の暖かな風。


 画面の向こうには、北海道の新居にいる恵と光希。


 日本の北と南が、一つの小さな画面でつながっていた。


『お母さん』


「何?」


『帰ってきたら、全部聞かせてね』


「写真もいっぱいあるよ」


『そういう意味でなくて』


「ん?」


『お母さんが何を感じたか、全部聞きたい』


 雪は少し驚き、そして笑った。


「分かった」


『気をつけて帰ってきてね』


「まだ何日か島におるよ」


『分かっとる。でも先に言っとく』


「めぐらしいね」


『したっけ、またね』


「うん。またね」


 通話が終わった。


 雪は暗くなった画面を少しだけ見つめた。


「いい娘に育ったね」


 愛子が言う。


「うん」


「層一さんも、そう思っとるべ」


 康夫も海を見ながらうなずいた。


 雪は胸ポケットの写真へ触れた。


「そうちゃん」


 笑顔になる。


「私たち、ちゃんと育てられたみたいだね」


 南十字星を見届けた翌朝。


 二十年以上抱き続けた約束は、一つの終わりを迎えた。


 しかし、それは別れではなかった。


 雪がこれから自分自身の人生を歩いていくための、新しい出発だった。


 第61話 終


 次回予告


 第62話「島の一日、何もしない時間」


 南十字星を見届け、日本最南端の碑で層一へ新しい約束をした雪。


 しかし、波照間島滞在はまだ続く。


「せっかくだから、今日は何もしない日にしないかい」


 愛子の提案で、三人は観光予定をいったん白紙へ戻す。


 浜辺で海を眺める。


 島のカフェで冷たい飲み物を味わう。


 サトウキビ畑を吹き抜ける風の音を聞く。


 昼寝をする。


 そして夕方、民宿の縁側で何気ない昔話をする。


 そんな中、康夫がぽつりと尋ねる。


「雪。層一さんと結婚した時、本当はどんな家庭を作りたかったんだ?」


 雪が初めて両親へ語る、若い頃に思い描いていた家族の未来。


 一方、上川では恵と光希が練習へ戻る。


 そこで恵は、光子と優子から教わった「ものに人格を与えて考える」というギャグコントの発想を、ジャンプへ試してみる。


「もし、このジャンプ台がしゃべったら、何て言うんだろう」


 その遊びのような発想から、恵はこれまで見落としていた小さな技術的な違いへ気づいていく。


 次回、第62話「島の一日、何もしない時間」。


 立ち止まるから見える景色がある。


 そして、少し違う角度から見ることで、昨日まで見えなかった答えが見えてくる。

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