↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
恵の物語  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
103/140

島の一日、何もしない時間

 第88話「島の一日、何もしない時間」


 南十字星を見届けた翌日。


 波照間島の朝は、前日までと同じように静かだった。


 けれど雪の心の中では、何かが少しだけ変わっていた。


 二十年以上抱えてきた約束を果たしたからといって、層一を失った寂しさが消えたわけではない。


 それでも、胸の奥にずっと引っかかっていたものが、少しだけほどけた気がしていた。


 民宿で朝食を済ませたあと、愛子が湯飲みを置きながら言った。


「今日は、予定を詰め込まない日にしないかい」


 康夫が顔を上げる。


「昨日も結構歩いたしな」


「せっかく島まで来たんだから、何もしない時間もあっていいべさ」


 雪は少し笑った。


「お母さん、それコスキネンコーチみたいだね」


「恵たちから聞いてたら、私まで覚えたんだわ」


「休養日かい」


「そう。旅の休養日」


 康夫はしばらく考えてから、うなずいた。


「したっけ、今日は行きたいところがあれば行く。疲れたら帰る。それくらいでいいな」


 雪も賛成した。


 そこで民宿の女将へ、近くにのんびり過ごせる場所がないか尋ねてみた。


「それなら、島のヤギ牧場へ行ってみたらどうですか」


「ヤギ牧場?」


「乳しぼり体験もできますよ。子ヤギもいますし」


 愛子の表情が一気に明るくなった。


「行ってみたいねぇ」


 康夫も笑う。


「昨日、恵が映像通話でヤギ見て喜んどったもな」


「めぐに写真送ったら、なまら喜ぶべさ」


 三人は午前中のうちに、島の小さなヤギ牧場へ向かうことにした。


 *


 牧場へ近づくと、最初に聞こえてきたのはヤギの声だった。


「メェー」


 少し高い声。


 低い声。


 子ヤギらしい細い声。


 柵の向こうには、何頭ものヤギがのんびりと草を食べていた。


 白いヤギ。


 茶色い模様のあるヤギ。


 まだ体の小さな子ヤギ。


 雪が近づくと、一頭の子ヤギがこちらへ顔を向けた。


「あら、かわいい」


 愛子がすぐに声を上げる。


「お母さん、昨日のめぐと同じ反応しとるよ」


「かわいいものはかわいいべさ」


 牧場のスタッフが三人を迎え、簡単に説明してくれた。


 波照間島では昔から家畜と人の暮らしが近く、ヤギも島の生活に根付いている。


 餌やりや掃除。


 乳しぼり。


 子ヤギの世話。


 毎日欠かすことのできない仕事がある。


「まず、餌をあげてみますか」


 三人は小さな籠を渡された。


 中には草や飼料が入っている。


 雪が手のひらへ少し乗せ、ヤギの前へ差し出した。


 するとヤギはすぐに首を伸ばし、器用に唇を動かしながら食べ始めた。


「くすぐったい」


 雪が笑う。


「歯、当たらんのか」


 康夫が心配そうに見る。


「唇で上手に取っとるよ」


 愛子も餌を差し出す。


「なまら優しく食べるねぇ」


 子ヤギたちも母ヤギの近くを走り回っていた。


 そのうち一頭が、母ヤギの腹の下へ潜り込む。


 そして自然な動きで乳房を探し、母乳を飲み始めた。


 雪の表情が静かになった。


「見て」


 愛子も気づく。


「おっぱい飲んどるね」


 子ヤギは小さな尾を震わせながら、夢中で母乳を飲んでいる。


 母ヤギは嫌がる様子もなく、その場に立ったまま子を受け入れていた。


 とても当たり前の光景だった。


 けれど雪には、その姿が妙に胸へ響いた。


「生きるために飲んどるんだね」


 雪が小さくつぶやく。


「生まれたばかりの命は、自分だけでは生きられんもね」


 愛子が答える。


 雪は子ヤギから目を離さなかった。


「めぐも、こんなだったんだよね」


 その言葉に、愛子が雪を見る。


「もちろん人間だから全然違うけど」


 雪は少し笑った。


「生まれてすぐの頃、何もできなくて。泣いて、おっぱい飲んで、眠って」


 康夫も静かに聞いていた。


「そうちゃんが亡くなってからは、あの子を生かさないとって、そればっかり考えとった」


 雪の声には、重さがあった。


「風邪ひいただけでも怖かった。熱出したら、夜中ずっと起きとったこともあったし」


 愛子が懐かしそうに言う。


「雪、よく電話してきたね」


「これ大丈夫かなって」


「何回もな」


 康夫も笑う。


「夜中の二時に電話きた時もあったぞ」


「覚えとる」


「俺は寝ぼけて、今何時だと思っとるって言った」


「そのあと、お母さんに怒られとったしょ」


「当然だよ。娘が不安で電話してきとるんだから」


 三人は少し笑った。


 それでも視線は、母ヤギと子ヤギへ戻っていった。


 命が生まれる。


 誰かが育てる。


 そして、やがてその子も大人になる。


 雪はふと恵の結婚式を思い出した。


 白いウエディングドレス。


 光希と並んだ娘。


 層一の手紙。


 そして、二人で幸せになると誓った言葉。


「そのうち、めぐもお母さんになる日が来るのかもしれんね」


 愛子が言った。


 雪は少し驚いたように母を見る。


「まだ結婚したばっかりだよ」


「今すぐって話でないよ」


「分かっとるけど」


 雪はもう一度、子ヤギを見た。


 もし恵に子どもが生まれたら。


 小さな赤ん坊を抱き。


 母乳を飲ませ。


 夜泣きに付き合い。


 熱を出せば心配し。


 少しずつ成長していく姿を見守る。


 自分が恵にしてきたことを、今度は恵が次の命へつないでいく。


「不思議だね」


「何が?」


「私がめぐを育てて、めぐもいつか自分の子を育てるかもしれない」


 雪は少し笑った。


「命って、こうやって次に渡っていくんだね」


 愛子が静かにうなずいた。


「雪も、私からつながった命だよ」


 雪は母を見る。


「そして、恵へつながった」


「うん」


「その先へつながっていくかもしれない」


 康夫が照れくさそうに口を挟む。


「俺も入っとるからな」


「お父さんも当然入っとるよ」


「さっきから母娘だけの話みたいになっとったから」


「お父さん、こういう時だけ存在感出そうとするねぇ」


 愛子に言われ、雪が吹き出した。


 *


 その後、雪は乳しぼり体験にも挑戦した。


 スタッフから手の使い方を教わる。


「上から順番に指を閉じる感じです」


「こう?」


「そうです。強く引っ張らなくていいですよ」


 雪は慎重に手を動かした。


 最初は何も出ない。


「あれ」


「もう少し根元をしっかり押さえて」


「難しいね」


 もう一度。


 今度は細い乳が容器へ飛んだ。


「あ、出た!」


 雪が思わず声を上げる。


 愛子が笑う。


「初めてジャンプ飛んだ子どもみたいだよ」


「だって、出たんだも」


 康夫も挑戦した。


 しかし、なかなかうまくいかない。


「何で俺だけ出ないんだ」


「力入りすぎなんでないかい」


 雪が言う。


「ジャンプと一緒だわ」


「何が」


「力みすぎると、うまくいかん」


「乳しぼりまでジャンプに結びつけるのか」


 愛子が笑い出す。


「恵に報告したら、絶対競技のヒントにするね」


「めぐならやりそうだわ」


 *


 牧場を出る前、雪は子ヤギをもう一度見に行った。


 さっき母乳を飲んでいた子ヤギは、今度は母ヤギの隣で丸くなっていた。


 安心しきった顔で眠っている。


 雪はその姿を見ながら、胸ポケットの層一の写真へ触れた。


「そうちゃん」


 小さく語りかける。


「私たちのめぐ、大きくなったよ」


 ジャンプ台で世界と戦う選手になった。


 結婚した。


 夫婦として新しい人生を始めた。


「そのうち、あの子も誰かのお母さんになるかもしれんね」


 写真の中の層一が、少し笑ったような気がした。


「そうなったら、私、おばあちゃんだわ」


 その言葉を自分で口にして、雪は少し照れた。


「まだ想像できんけどね」


 愛子が後ろから声をかける。


「私だって、雪が恵を産む前は自分がおばあちゃんになるなんて実感なかったよ」


「そうなの?」


「当たり前だべさ」


「でも、生まれた瞬間からおばあちゃんだった?」


「そうだねぇ」


 愛子はゆっくり笑った。


「抱いた瞬間、不思議なくらい自然だったよ」


 雪は眠る子ヤギを見つめた。


「命って、誰かの役割まで変えていくんだね」


「親になって」


「祖父母になって」


「また次の世代が生まれる」


「そういうことだべさ」


 *


 一方、上川では。


 恵と光希が練習場へ向かっていた。


 雪から送られてきた一枚の写真を、恵がスマートフォンで見ている。


 母ヤギのそばで眠る小さな子ヤギ。


『今日はヤギ牧場へ行ったよ。赤ちゃんヤギが母乳を飲んどった。命が次へつながっていくって、こういうことなんだね。』


 恵は何度も写真を見た。


「かわいいね」


 光希が隣からのぞき込む。


「うん」


「雪さん、楽しんどるね」


「うん。でも、お母さんらしいことも考えとる」


「何て?」


 恵はメッセージの続きを見せた。


『めぐも、いつかお母さんになる日が来るかもしれないね。急がなくていいけど。その時は、私も少し手伝わせてね。』


 恵の顔が少し赤くなった。


「お母さん、旅行先で何考えとるのさ」


 光希も少し照れた。


「まだ結婚したばっかりだべ」


「本当にね」


 それでも恵は、もう一度子ヤギの写真を見た。


 もし、いつか自分にも子どもが生まれたら。


 自分の腕で抱き。


 母乳を飲ませ。


 守りながら育てていく。


 それは、ジャンプ台で世界一になることとはまったく違う人生だ。


 でも、いつかそんな未来が来るかもしれない。


「光希」


「何?」


「命って不思議だね」


「急にどうしたのさ」


「私、お母さんから生まれて、お母さんはおばあちゃんから生まれて、その前にもずっと誰かがおったんだよね」


「そうだね」


「それがずっと続いて、私がおる」


 光希は静かにうなずいた。


「その先も続くかもしれない」


「うん」


 恵はスマートフォンをしまった。


「でも、今はまず練習だべ」


「そこは現役選手だね」


「その前に休む時は休む」


「それもね」


 二人は笑いながら練習場へ向かった。


 *


 波照間島では、雪たちが民宿へ戻っていた。


 昼食を取った後、三人とも予定を入れずに昼寝をした。


 愛子が提案した通り、本当に何もしない時間を過ごす。


 夕方。


 民宿の縁側へ三人が並んで座った。


 サトウキビ畑の向こうへ太陽が傾き始めている。


 康夫がぽつりと尋ねた。


「雪」


「何?」


「層一さんと結婚した時、本当はどんな家庭を作りたかったんだ?」


 雪は少し驚いた。


「急に何さ」


「今日、子ヤギ見ながら家族の話しとったからな」


 愛子も娘を見る。


「聞いたことなかったね」


 雪は夕焼けを眺めながら、少し考えた。


「普通の家庭だよ」


「普通?」


「朝起きて、三人でご飯食べて」


 雪は笑った。


「そうちゃんが遠征へ行く時は、私とめぐでいってらっしゃいって言って」


「帰ってきたら、おかえりって言う」


「休みの日には、三人でどこか行って」


「たまには夫婦喧嘩もして」


「めぐが大きくなったら、そうちゃんと二人で、あの子の彼氏のこと心配して」


 康夫と愛子が静かに聞いている。


「結婚するって言ったら、そうちゃん絶対泣いたと思う」


「俺より泣いたかもな」


 康夫が言う。


「うん。なまら泣いたと思う」


 雪は少し涙を浮かべながら笑った。


「特別なこと、何もいらなかったんだわ」


「ただ、一緒に年を取りたかった」


 縁側に沈黙が落ちる。


 愛子が娘の手を握った。


「その未来は、かなわなかったね」


「うん」


 雪は正直に答えた。


「かなわなかった」


 少し間を置く。


「でも、全部なくなったわけでないんだよね」


「恵がおる」


「そうちゃんとの思い出もある」


「そして、今は光希くんも家族になった」


「お父さんとお母さんもずっとおる」


 雪は夕焼けを見つめた。


「思い描いた家庭とは違ったけど、私、ちゃんと家族の中で生きてきたんだね」


「そうだよ」


 愛子が即座に答えた。


 康夫もうなずく。


「雪は一人で生きとったんでない」


「うん」


 雪は笑った。


「今日、改めてそう思ったわ」


 遠くから、ヤギの鳴き声が聞こえた。


 三人は顔を見合わせる。


「今日の子ヤギ、元気に大きくなるといいね」


 雪が言う。


「なるべさ」


 愛子が答える。


「命は、ちゃんと次へ進んでいくからね」


 夕日がゆっくりと沈んでいった。


 波照間島の何もしない一日は、結果も記録も残さなかった。


 けれど雪の心には、南十字星とはまた違う大切なものが残った。


 命は生まれ。


 育てられ。


 そして次の命へつながっていく。


 層一から恵へ。


 雪から恵へ。


 いつか恵から、その先の未来へ。


 その流れの中に、自分たちもいる。


 そう思うと、雪は自分が歩いてきた二十年以上の時間を、以前よりも少し優しく受け止めることができた。


 第62話 終

 次回予告

 第63話「ジャンプ台がしゃべった日」


 波照間島で命のつながりを感じた雪。


 一方、上川では恵が通常練習へ戻る。


 そこで、以前光子と優子から聞いた言葉を思い出す。


「本来しゃべらんものに人格をつけたら、違うものが見えてくるっちゃん」


 恵は半信半疑のまま、ジャンプ台を見上げる。


「もし、このジャンプ台がしゃべったら何て言うんだろう」


 すると頭の中に浮かんだのは、


『そんなに力入れんでも、こっちがちゃんと送り出すべさ』


 という、なぜか道北弁を話すジャンプ台。


「何でジャンプ台まで道北弁なのさ」


 思わず吹き出した恵。


 だが、その遊びの中から、これまで見えていなかった技術的な癖に気づき始める。


 踏み切り台。


 風。


 スキー板。


 助走路。


 それぞれに人格を与えて考えることで、自分が一方的に「操作しよう」としすぎていたことへ気づく恵。


 さらに光希も巻き込まれ、


「ローラースキーが怒っとるように見えてきたべ」


「それ、疲れすぎでない?」


 と練習場は妙な方向へ進み始める。


 次回、第63話「ジャンプ台がしゃべった日」。


 笑いは緊張をほどき、視点を変える。


 そして視点が変われば、技術の見え方まで変わっていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。