ジャンプ台がしゃべった日
第89話「ジャンプ台がしゃべった日」
波照間島で雪たちが静かな時間を過ごしていた頃、上川では恵がいつものジャンプ台へ戻っていた。
空はよく晴れていた。
風は強くない。
助走路の状態にも問題はない。
海斗コーチ、寄子コーチ、コスキネンコーチがそれぞれ準備を進める中、恵はスキー板を持ったままジャンプ台を見上げていた。
「どうしたの?」
寄子が尋ねる。
「ちょっと考えとったんです」
「今日の風?」
「それもあるけど、違うこと」
恵はジャンプ台を見上げたまま、以前、東京の音大生だった光子と優子に聞いた話を思い出していた。
『うちら、ギャグ考える時に、本来しゃべらんものに人格つけたりするとよ』
『例えば自動改札機が疲れとったら、何て言うやろとか』
『エレベーターが今日は上に行きたくなかって思っとったらどうなるとか』
最初に聞いた時は、単純に面白い発想だと思っただけだった。
しかし最近になって、その考え方が競技にも使えるのではないかと思い始めていた。
恵は助走路へ目を向けた。
「もし、このジャンプ台がしゃべったら何て言うんだろう」
寄子が少し笑う。
「とうとうジャンプ台と会話するようになった?」
「光子さんと優子さんのせいです」
「二人なら責任取ってくれそうだね」
恵は目を閉じて想像した。
すると、頭の中でジャンプ台が妙に親しげな道北弁で話し始めた。
『めぐ、今日もそんな力入れとるのかい』
「何で道北弁なのさ」
恵が一人で突っ込み、海斗が振り返った。
「何だ?」
「何でもないです」
もう一度想像する。
『そんなに自分で全部飛ぼうとせんでも、こっちがちゃんと送り出すべさ』
恵は少し黙った。
「送り出す……」
その言葉が妙に引っかかった。
これまで恵は、踏み切りで力を出すことを強く意識していた。
地面を押す。
速度を飛距離へ変える。
空中姿勢を作る。
もちろん、それ自体は間違っていない。
だが最近の自分は、ジャンプを自分一人の力で成立させようとしていたのではないか。
助走路が速度を与えてくれる。
踏み切り台には形と角度がある。
スキー板は空気を受ける。
風も流れている。
そこへ自分の体が乗る。
すべてを操作するのではなく、それぞれの働きへ自分を合わせていく。
「なるほどね」
恵は小さく笑った。
*
一本目。
恵はスタート位置へ座った。
いつもの景色。
しかし、今日は少しだけ見え方が違った。
「よろしくね」
小さく助走路へ話しかける。
寄子が無線越しに尋ねた。
『今、誰に言ったの?』
「助走路」
『本当に会話始めたんだね』
「今日はそういう日なんです」
『分かった。好きにやってみな』
スタート。
恵は助走路へ入った。
以前なら、姿勢を作ろう、速度を逃さないようにしようと細かく考えていた。
今日は違う。
頭の中で助走路が言う。
『余計なことせんでいいから、乗っときな』
「はいはい」
思わず心の中で返事をする。
踏み切り台が近づく。
『ここで急に頑張るんでないよ』
恵は力を入れすぎなかった。
地面から受け取った力へ、自分の動きを軽く合わせる。
空中へ出た。
「あれ?」
一瞬、拍子抜けするほど自然だった。
必死に飛んでいる感覚がない。
スキー板が風を受ける。
恵はさらに想像した。
『めぐ、俺らが風受けるから、変に動かんでよ』
「スキー板までしゃべり始めた」
それでも体は安定していた。
着地。
右脚だけで踏ん張ろうとせず、左右へ自然に重さを分ける。
きれいに着地した。
停止した恵は振り返った。
「今の、どうだった?」
海斗は計測された数字を見ていた。
そして一度、表示を確認し直す。
「恵」
「何?」
「飛距離、見てみ」
恵は表示へ目を向けた。
一瞬、意味が分からなかった。
「え?」
もう一度見る。
「うっそ?」
オリンピックで優勝争いをしていた頃に記録していた飛距離と、ほとんど変わらなかった。
「ちょっと待って」
恵は自分のスキー板を見る。
「ほんの軽く合わせて飛んだだけだけど?」
海斗は映像を確認した。
「だからだよ」
「どういうこと?」
「余分な力が抜けてた」
海斗は再生速度を落とし、踏み切りの瞬間を示した。
「ここ。前までの恵は、いいジャンプをしようとすると踏み切り直前に少し上半身へ力が入ってた」
「うん」
「今日はない」
映像を進める。
「踏み切りで無理に飛び出そうとしてない。助走速度を邪魔せず、そのまま空中へ持っていけてる」
さらに空中姿勢。
「ここも自然。板を無理に操作しようとしてない」
最後に着地。
「着地まで流れが一度も切れてない」
恵は画面をじっと見つめた。
「私、自分で飛ぼうとしすぎてた?」
「そうかもしれないな」
海斗はうなずいた。
「今日は助走から踏み切り、空中、着地まで、全部が一つの動きになってた」
「軽く合わせただけなのに」
「軽く合わせたから、持ってる力が全部使えたんだよ」
寄子も映像を見ながら言う。
「頑張ってないように感じるジャンプほど、実は効率がいいこともあるんだよ」
「でも、ここまで飛ぶとは思わんかった」
「私たちも少し驚いた」
恵はジャンプ台を見上げた。
「台に教えられたみたいだわ」
海斗が笑う。
「ジャンプ台は何て言ったんだ?」
「そんなに全部自分でやろうとせんでいいって」
「道北弁で?」
「なぜか道北弁で」
周囲に笑いが起きた。
*
二本目へ向かう前、恵は少し考えた。
今のジャンプを再現しよう。
その考えが浮かんだ瞬間、自分で首を振った。
「違う、違う」
寄子が尋ねる。
「何が違うの?」
「今のジャンプをコピーしようとしたら、また力入るしょ」
「いい判断だね」
「今日は今日のジャンプをする」
恵はもう一度ジャンプ台を見上げた。
「今日は昨日の私と、ちょっと違うからね」
自分でも妙なことを言っていると思った。
しかし不思議と恥ずかしくない。
ジャンプ台が答える。
『知っとるよ。毎日同じ人間なんておらんべさ』
「それ、いいこと言うね」
寄子が無線越しに笑った。
『またしゃべってる?』
「今日は台との会話が忙しいんです」
『練習より疲れないようにね』
*
二本目。
助走。
踏み切り。
飛行。
着地。
一本目ほどの飛距離ではなかった。
それでも、安定したジャンプだった。
恵は着地後、数字を見ても悔しがらなかった。
「今のは今のでいいね」
海斗がうなずく。
「そう。それが大事だ」
「一本目と違ったけど、失敗ではない」
「条件も違う。風も違う。恵自身も一本目から少し疲れてる」
「毎回同じにしようとしなくていい?」
「基本の技術はそろえる。でも、全く同じジャンプなんて存在しない」
その言葉を聞いた恵は、光子と優子のギャグ作りを思い出した。
毎日の生活の小さな違い。
昨日と今日。
同じ駅でも、同じ改札でも、見る人や時間が変われば違って見える。
だからネタになる。
競技も同じなのかもしれない。
毎日同じフォームを機械のように繰り返すのではない。
変わる体。
変わる風。
変わる雪面。
変わる感覚。
それらを感じながら、その日の自分に合う形を見つける。
「これかも」
恵がつぶやいた。
*
練習後、海斗、寄子、コスキネンと一緒に映像を確認した。
特に一本目を細かく見る。
助走姿勢は以前よりわずかに自然だった。
股関節の角度を無理に固定していない。
踏み切り直前の肩にも余計な緊張がない。
足首、膝、股関節の連動が滑らかだった。
空中姿勢では、板を無理に開こうとせず、風圧に合わせて自然な位置へ収まっている。
着地でも右脚だけに頼らず、左右へ衝撃が分散されていた。
コスキネンが腕を組んだ。
「面白いねぇ」
「何が?」
「フォームを変えようとして変えたんでないんだべ」
「うん」
「考え方を変えたら、フォームが変わった」
恵は映像を見る。
「これが今の私に合ったフォームなのかな」
「一本だけで決めるのは早い」
海斗が答える。
「でも、大きなヒントにはなる」
寄子も続けた。
「二十歳前後の頃と今では、筋力も体の感覚も違う。過去の自分の最高のフォームをそのまま再現するより、今の恵が一番自然に動けるフォームを作る方がいい」
「今の自分に合わせる」
「そう」
コスキネンが笑う。
「昔の恵をコピーせんでよかと」
「博多弁出た」
「大事なとこだからたい」
「また混ざっとるしょ」
コスキネンは笑いながら続けた。
「昨日の自分とも競わない。オリンピックで勝った時の自分とも競わない。今日の恵が、一番無理なく力を出せる形を探せばいいんだわ」
恵はしばらく画面を見た。
そして笑った。
「したっけ、ジャンプ台と相談しながら探してみるべ」
「本当に会話を続けるんだね」
「意外と優秀なコーチだから」
海斗が吹き出した。
「俺たちの立場なくなるな」
「大丈夫。台は技術的な説明してくれんから」
「そこは人間が必要か」
「はい」
*
その日の夜、恵は光子と優子へ電話をかけた。
「二人のギャグコントの考え方、ジャンプに使ってみたよ」
画面の向こうで光子と優子が固まる。
『は?』
『どういうこと?』
「ジャンプ台に人格つけてみた」
二人が同時に吹き出した。
『本当にやったと!?』
「やってみたら、なまら飛んだ」
『ジャンプ台、何て言ったと?』
「そんなに全部自分で飛ぼうとせんでいいって」
優子が腹を抱える。
『ジャンプ台、めっちゃまともなこと言うやん!』
光子も笑う。
『うちらの自動改札機より賢いやん!』
「しかも道北弁」
『何でたい!』
三人の笑い声が通話越しに響いた。
しばらく笑ったあと、光子が言った。
『でも、それ面白かね』
「何が?」
『うちらがネタ考える時も、物を違う角度から見るやろ』
『当たり前に見えとったものが、急に別のものに見えてくるっちゃん』
優子も続ける。
『恵さんも、ジャンプを飛ぶだけの場所として見んかったけん、違うことに気づいたんやない?』
「多分ね」
『したっけ……』
光子がわざと道北弁を使う。
『ジャンプ台と仲良くしときんしゃい』
「最後博多弁になっとるよ」
『ハイブリッドたい』
また三人で笑った。
恵は電話を切ったあと、今日の記録をノートへ書いた。
『今日は、ジャンプ台と話した。
もちろん本当にしゃべったわけではない。
でも、しゃべると思って考えたら、自分が台をどう見ているか分かった。
私はずっと、ジャンプ台を攻略するものだと思っていた。
でも今日は、一緒に飛ぶ相手だと思った。
すると力が抜けた。
オリンピックで一番飛べていた頃と、ほとんど同じ距離が出た。
過去の自分へ戻る必要はない。
今の私で、もっと飛べるかもしれない。』
最後に一行を加える。
『明日もよろしくね、ジャンプ台。』
恵はノートを閉じた。
世界一になったことのある選手が、ギャグコントから新しいフォームのヒントを見つける。
そんな教科書は、おそらくどこにもない。
それでも恵にとっては、大きな発見だった。
強くなるとは、難しいことを増やすことだけではない。
時には肩の力を抜き、遊ぶように考えてみる。
ほんの少し見方を変えれば、昨日まで気づかなかった自分の力が姿を現すこともあるのだった。
第63話 終
次回予告
第64話「風にも性格がある」
新しいフォームの手がかりをつかんだ恵。
しかし翌日のジャンプ台では、風向きが安定しない。
追い風。
向かい風。
横から入る風。
以前なら「条件が悪い」とだけ考えていた恵だったが、今度は風にも人格を与えてみる。
「今日は、なまら気分屋だね」
頭の中の風が答える。
『そっちが俺に合わせればいいしょ』
「風まで偉そうだわ」
だが、そのやり取りから恵は、風へ抵抗するのではなく、変化を早く感じ取り、自分の姿勢を必要以上に固定しないことへ意識を向け始める。
一方、ノルディック複合の光希も、妻の奇妙な練習方法に半信半疑。
「物に人格つけるだけで、本当に何か変わるの?」
「やってみればいいしょ」
ローラースキーを見つめた光希の頭に、なぜか妙に厳しい声が響く。
『お前、今日右に乗りすぎだべ』
「……こいつ、なまら細かいな」
夫婦そろって始まる、前代未聞の「ギャグコント式技術研究」。
そこへ海斗、寄子、コスキネン、ラーシュまで巻き込まれ、笑いながらも本格的な技術分析が始まる。
次回、第64話「風にも性格がある」。
自然を支配することはできない。
けれど、相手を知ろうとすれば、自分の動きは変えられる。




