風にも性格がある
第90話「風にも性格がある」
翌日の上川は、朝から落ち着かない風が吹いていた。
ジャンプ台の上に立つ吹き流しも、一定の方向を向いてくれない。
少し前までは向かい風だったのに、数分後には横風になる。さらに弱い追い風へ変わったかと思えば、また向かい風が戻ってくる。
海斗コーチは風向計を確認しながら空を見上げた。
「今日は難しいぞ」
寄子コーチもタブレットのデータを確認する。
「昨日みたいに、一本ごとの数字だけで判断しない方がいいね。条件がかなり変わってる」
恵はヘルメットを抱えながら吹き流しを見た。
「本当に気まぐれだねぇ」
すると、昨日からすっかり定着し始めた妙な想像が頭の中に浮かんだ。
『俺に文句言われても知らんぞ』
「はい?」
『俺は風だぞ。向きなんて好きに変えるべさ』
「いや、選手は困るんだけど」
『そんなの俺に聞くんじゃない。俺は気まぐれなんだよ』
恵は吹き出した。
近くにいた寄子が振り返る。
「今度は誰と話してるの?」
「風です」
「ついに自然現象まで登場したね」
「今日の風、なまら態度悪いです」
「何て?」
「そんなの俺に聞くんじゃない。俺は気まぐれなんだよって」
海斗まで笑った。
「ずいぶん開き直った風だな」
「でも、言われてみたらそうなんですよね」
恵は吹き流しを見つめた。
「風に、昨日と同じになってってお願いしても無理だしょ」
「そうだな」
「だったら、風を私に合わせようとするんでなくて、私がその時の風を感じればいい」
海斗の表情が少し変わった。
「そこは大事なところだな」
ギャグから始まった話だったが、内容は完全に競技の話になっていた。
「風に逆らうんでなく、風を利用する?」
「それだけでもないな」
海斗は答えた。
「風に合わせようと意識しすぎれば、それも力みになる。まず変化を感じる。そこから必要以上に邪魔しないことだ」
「昨日のジャンプ台と同じか」
「そうかもしれない」
恵は笑った。
「したっけ、今日も相談してきます」
*
一本目。
スタート位置についた恵は、助走路の先を見つめた。
「今日もよろしくね」
頭の中で、ジャンプ台が答える。
『おう。今日も俺に任せろ』
「昨日より自信満々だね」
『昨日ちゃんと飛ばしてやったべ』
「私も飛んだんだけど」
『細かいこと言うな』
恵は笑いそうになるのをこらえた。
風を見る。
今度は風が言う。
『俺のことは当てにするなよ』
「分かっとるよ」
『途中で変わるかもしれんぞ』
「それも分かった」
『したっけ、自分で何とかしろ』
「結局そこ?」
スタートの合図が出た。
恵の表情が変わる。
助走へ入った。
姿勢を必要以上に固定しない。
速度を感じる。
風を感じる。
踏み切り台が近づく。
『俺に任せろ』
昨日と同じ声が頭の中に響いた。
恵は軽く合わせた。
踏み切り。
空中へ出る。
直後、風の感触が変わった。
わずかな横風。
以前なら反射的に体を固めていた。
だが今日は違った。
「来たね」
風を押さえ込もうとしない。
板へ伝わる空気の圧力を感じ、必要な範囲だけ姿勢を整える。
そして着地。
きれいなテレマークが入った。
*
停止した恵が戻ってくる。
海斗がすぐに聞いた。
「どうだった?」
「面白かった」
「感想が完全に変わったな」
寄子が笑った。
「それで、今日はジャンプ台は何て言ってた?」
恵は真顔で答えた。
「今日も俺に任せろって」
「頼もしいジャンプ台だねぇ」
「昨日より自信つけてました」
海斗が笑う。
「風は?」
「そんなの俺に聞くんじゃない。俺は気まぐれなんだよって」
寄子が吹き出した。
「最悪だね、その風」
「でも、正しいんですよ」
恵は吹き流しを指さした。
「風に『この向きで吹いて』って言っても無理だしょ。だから今日は、風にあらがわないで、その時その時の風に合わせてやってみました」
海斗がうなずく。
「空中で横風を受けた時も、前みたいに上半身を固めなかった」
「分かりました?」
「映像でも分かる」
「ちょっと怖かったけど、風が変わったって思っただけでした」
「それが大きい」
寄子も続ける。
「悪い風が来た、どうしよう、じゃなくて、今はこういう風なんだって受け止められたんだね」
「うん」
恵はジャンプ台を振り返った。
「何か、ジャンプがまた面白くなってきたわ」
*
ところが、この奇妙な方法に完全に巻き込まれていた人物がもう一人いた。
光希だった。
午後。
ノルディック複合のローラースキー練習を終えた光希が合流してきた。
恵が尋ねる。
「どうだった?」
「普通」
「本当に?」
「普通だって」
恵は夫の顔をじっと見る。
「何さ」
「やったしょ」
「何を」
「脳内ギャグコント」
「……」
光希が目をそらした。
「やったんだ」
「少しだけだべ」
「何と話したの?」
「言いたくない」
「絶対面白いやつだ」
「面白くない」
「教えて」
「嫌だ」
そこへラーシュコーチがやってきた。
「私が教えようか」
「ラーシュ!」
光希が慌てる。
恵の目が輝いた。
「何があったんですか?」
ラーシュは笑いをこらえながら話し始めた。
「今日のローラースキーで、光希は右へ重心が寄る癖が少し出ていた」
「うん」
「それで私が、昨日の恵みたいにローラースキーへ人格を与えてみたらどうだ、と言った」
「ラーシュまでやらせたの?」
「研究だ」
「絶対楽しんどるしょ」
光希がぼそっと言った。
「最初は何も浮かばんかったんだよ」
「それで?」
「走ってたら、だんだん……」
「だんだん?」
光希は観念した。
「右のローラースキーがしゃべり始めた」
恵はもう笑い始めている。
「何て?」
「お前、今日こっちばっかり乗っとるべって」
「そのまんまだべさ!」
「俺だってそう思ったよ!」
さらに光希は続けた。
「したっけ左が怒った」
「左右で会話始めたの?」
「始まったんだわ」
頭の中では、こうだった。
『おい光希、今日また右ばっかり使っとるべ』
『俺のこと忘れとらんか?』
「左が寂しがっとる!」
「笑うなって!」
恵は腹を抱えた。
「それで?」
「右が言い返した」
『俺だって好きで荷重受けとるんでないわ。こいつが勝手に寄ってくるんだべ』
「ローラースキー同士で責任の押し付け合い始めた!」
「そうなんだよ!」
ラーシュが横から淡々と付け加えた。
「その直後、光希の左右の荷重差が小さくなった」
恵の笑いが止まった。
「本当に?」
「ああ」
光希もうなずいた。
「右がしゃべってると思ったら、自分がどれくらい右へ乗っとるか、急に分かりやすくなったんだわ」
「感覚として?」
「うん」
さらに光希はポールを見た。
「こいつらも途中からうるさかった」
「ポールまで?」
「右のポールが『今日、突く位置遅いぞ』って」
恵は再び吹き出した。
「それもう完全に脳内コーチ陣だべさ!」
「俺も途中から何の練習しとるのか分からんくなった!」
*
そこへ海斗、寄子、コスキネンも集まってきた。
事情を聞いたコスキネンは腹を抱えて笑った。
「光希、ローラースキーに説教されたんかい!」
「笑わんでください」
「でも面白か!」
「博多弁まで出とるしょ」
笑いが落ち着いたところで、海斗が真面目な表情になった。
「でも、これ、単なるギャグで終わらせない方がいいかもしれないな」
恵と光希が海斗を見る。
「人格を与えることで、感覚を言語化できてる」
寄子もうなずいた。
「右へ乗りすぎている、というデータだけを見るより、『右の板が重いって言ってる』と考えた方が、本人には感覚として伝わりやすい場合がある」
コスキネンも腕を組んだ。
「恵も同じだべ。風速何メートル、風向何度って数字は必要。でも実際に飛んどる時、数字ばっかり考えられんしょ」
「うん」
「だから体で感じたものを、自分が理解しやすい言葉に変える」
恵は納得した。
「それが私の場合、ギャグコントだったんだ」
「そういうことたい」
「また博多弁」
「今日はサービスだべさ」
全員が笑った。
*
帰り道。
恵と光希は並んで歩いていた。
「まさか光子さんと優子さんのギャグコントが、ここまで競技に入ってくると思わんかったね」
「本当だよ」
「でも面白い」
「俺はローラースキーに怒られたけどね」
「明日は謝っとけば?」
「何て?」
「昨日は右ばっかり使ってごめんって」
「絶対言わん」
「もう話しかけとる時点で同じだべさ」
光希は反論できなかった。
恵は空を見上げた。
風が頬をなでる。
「今日の風、今は優しいね」
「またしゃべらせるの?」
「今は何も言っとらんよ」
少し間を置く。
「でも、こう言っとるかも」
「何て?」
「今日はもう仕事終わったべ。早く家帰れって」
光希が笑った。
「したっけ、言うこと聞くべ」
「うん」
二人は並んで新居へ帰っていった。
風を支配することはできない。
ジャンプ台を思いどおりに変えることもできない。
自分の体さえ、毎日まったく同じではない。
だからこそ、相手の声を想像してみる。
今日は何を伝えているのか。
昨日とは何が違うのか。
遊びから始まった脳内ギャグコントは、いつの間にか二人にとって、自分の感覚を見つめ直す新しい方法になり始めていた。
第64話 終
次回予告
第65話「笑いをデータにしてみたら」
ジャンプ台、風、スキー板。
そして光希のローラースキーとポール。
次々と人格を与えられていく競技用具たち。
しかし海斗コーチは、ここで一つの提案をする。
「面白いだけで終わらせないで、本当に効果があるのか調べてみよう」
同じ選手。
同じ練習。
通常の技術指示を受けた時と、本人が感覚を言葉や人格へ置き換えた時。
踏み切りのタイミング、左右の荷重、姿勢の変化、着地の安定性を映像とデータで比較していく。
すると恵のジャンプには、ある興味深い傾向が現れる。
「力を抜こう」と意識した時よりも、
「ジャンプ台に任せる」
と考えた時の方が、自然に余分な緊張が抜けていた。
一方、光希にも、
「左右均等に乗る」
と考えるより、
「左のローラースキーを寂しがらせない」
と考えた時の方が、荷重差が小さくなるという妙な結果が出る。
「何だ、このデータ……」
海斗が頭を抱れる横で、コスキネンは大笑い。
「世界初でないかい。ギャグコント式スポーツ科学!」
そして博多の光子と優子へ結果を報告すると、
「待って! うちら、そんな高度なこと考えてギャグ作っとらんばい!」
本人たちが一番困惑する事態へ。
次回、第65話「笑いをデータにしてみたら」。
数字で測れるものと、数字では測りきれない感覚。
その間にあるものを探した時、恵はまた一つ、自分だけの飛び方へ近づいていく




