北の駅から南の空へ
第84話「北の駅から南の空へ」
二〇四三年四月下旬。
北海道では、ようやく長い冬が終わろうとしていた。
上川町の山々にはまだ白い雪が残り、朝晩の空気には冷たさがある。それでも、道路脇では雪解け水が流れ、木々の枝には小さな芽が見え始めていた。
一方、これから雪たちが向かう沖縄県では、すでに初夏に近い暖かさとなっている。
南十字星が沖縄や八重山諸島の低い南の空へ姿を見せるのは、春からゴールデンウィーク頃にかけてだった。波照間島まで南下すれば、条件が整った夜には、北海道では決して見ることのできない星を観察できる可能性がある。
だから雪たちは、旅立ちの日をこの時期に選んだ。
層一と約束した南十字星を見るために。
*
出発日の朝、上川町はまだ薄暗かった。
空は青みを帯びていたが、太陽は山の向こうに隠れている。駅へ続く道の端には、除雪によって積み上げられた雪が小さく残り、冷たい風が住宅の間を抜けていた。
雪は自宅の玄関で、最後の荷物確認をしていた。
大きすぎないキャリーケース。
機内へ持ち込む手荷物。
財布。
航空券や宿泊予約の控え。
常備薬。
薄手の上着。
沖縄で使う帽子と日焼け止め。
船酔いに備えた酔い止め。
そして、層一の写真と、彼が残していた古いメモ。
『波照間島で、雪と南十字星を見る』
メモは小さく折り畳み、透明な袋へ入れていた。写真とともに、雪の胸ポケットへ収める。
雪は服の上から、そっと胸元を押さえた。
「そうちゃん、一緒に行こうね」
家の中は静かだった。
層一が亡くなってから、雪は何度も一人で朝を迎えてきた。けれど、この朝は孤独ではなかった。
胸ポケットの中には層一がいる。
上川駅では、両親の康夫と愛子が待っている。
そして、恵と光希も見送りに来てくれる予定だった。
「行ってきます」
雪は層一の遺影へ頭を下げ、玄関の扉を閉めた。
*
上川駅の前には、生田康夫と愛子がすでに到着していた。
康夫は薄手の防寒着を着込み、自分のキャリーケースの取っ手を何度も確かめている。愛子は小さなショルダーバッグを肩へ掛け、駅舎の時計を見上げていた。
「おはよう」
雪が声をかけると、二人が振り返った。
「雪、眠れたか」
「少しはね」
「楽しみすぎて、夜中に何度も目覚めたんでないかい」
愛子に見抜かれ、雪は苦笑した。
「二回くらい」
「子どもの遠足みたいだな」
康夫が笑う。
「お父さんだって、昨日の夜に荷物三回確認したって、お母さんから聞いたよ」
「俺は念のためだ」
「人のこと言えんしょ」
三人が笑っていると、駅前へ一台の車が入ってきた。
運転席から光希が降り、助手席から恵が飛び出してくる。
「お母さん!」
早朝とは思えない勢いで駆け寄ってきた恵は、雪の荷物と服装を上から下まで確認した。
「上着、それで大丈夫?」
「北海道では寒いけど、那覇に着いたら脱ぐよ」
「薄い服、手荷物に入っとる?」
「入っとる」
「帽子は?」
「キャリーケース」
「日焼け止めは?」
「手荷物」
「薬は?」
「持ったよ」
「酔い止めは?」
「持った。船に乗るのはまだ二日以上先だけどね」
雪が少し呆れながら答えると、恵は胸を張った。
「早めに確認するのが大事だべさ」
「めぐ、昨日も同じこと聞いとったよ」
光希が横から言う。
「昨日は家で確認しただけ。今日は出発前の最終確認だわ」
「雪さん、旅程表もありますか」
今度は光希が尋ねる。
「光希くんまで始まったね」
「乗り継ぎが多いですから」
「二人とも、私たちを何歳だと思っとるのさ」
愛子が笑う。
「子どもでないんだから、自分のことは自分でできるよ」
「分かっとるけど、心配なんだわ」
恵の声が少しだけ小さくなった。
雪は娘の頬へ手を当てた。
「ありがとう。でも、お母さんたちも無理はしないから。疲れたら休むし、予定が変わっても焦らない」
「本当に?」
「コスキネンコーチから、休む極意は教わったしょ」
「お母さんは教わってないべさ」
「めぐたちから十分聞いたよ」
雪が笑うと、恵もようやく表情を緩めた。
*
やがて、遠くから列車の走行音が聞こえてきた。
まだ静かな上川駅へ、特急オホーツクが近づいてくる。
ディーゼルエンジンの低い音。
線路を伝う振動。
やがて、ホームの向こうにヘッドライトが現れた。
「来たね」
雪がつぶやく。
列車は速度を落としながらホームへ入り、停車した。
扉が開く。
雪たちは荷物を持ち、乗車口へ向かった。
「お母さん、那覇に着いたら連絡してね」
「分かった」
「飛行機の中でも水分取って」
「分かった」
「ずっと座りっぱなしでなくて、時々足動かしてね」
「分かったって」
「無理に観光しなくていいからね」
「今日はホテルに行くだけだよ」
「南十字星は波照間島に着いてからだから、那覇で夜更かししたら駄目だよ」
「めぐ」
「何さ」
「もう列車出るよ」
雪が笑いながら言うと、恵は少し照れたように口を閉じた。
光希は康夫と愛子の荷物を車内へ運び、最後に雪のキャリーケースを載せた。
「気をつけて行ってきてください」
「ありがとう、光希くん」
康夫が光希の肩へ手を置く。
「恵のこと頼んだぞ」
「はい」
「でも恵だけでなく、自分の膝も大事にな」
「分かっています」
愛子も恵の手を握った。
「雪のことは、うちらが見とるからね」
「おじいちゃんとおばあちゃんも無理しないでよ」
「はいはい」
発車を知らせる放送が流れた。
雪は胸ポケットへ手を当てる。
「そうちゃん、一緒に乗るよ」
三人は列車へ乗り込んだ。
扉が閉まる。
ホームに立つ恵と光希が大きく手を振った。
列車がゆっくりと動き始める。
「行ってらっしゃい!」
恵の声が窓の向こうから聞こえた。
雪も何度も手を振る。
ホームが後ろへ流れ、恵と光希の姿が小さくなっていった。
やがて上川駅が見えなくなる。
雪は座席へ腰を下ろすと、胸ポケットから層一の写真を少しだけ取り出した。
「出発したよ、そうちゃん」
写真の中の層一は、若い日の笑顔を浮かべていた。
*
特急オホーツクは、春を迎え始めた北海道の大地を走った。
山の斜面にはまだ雪が残り、川には雪解け水が流れている。日陰では白い雪が厚く残っている一方、日の当たる場所では茶色い土や枯れ草が見えていた。
冬と春が同じ車窓の中に存在している。
雪は窓側の席に座り、景色を眺めていた。
「波照間島では、もう初夏みたいな暖かさなんだよね」
愛子が旅行冊子を見ながら言う。
「北海道から何千キロも南だからね」
「朝は雪を見て、夕方には南国の風に当たるのか」
康夫が窓の外を見ながら笑う。
「同じ日本とは思えんべさ」
「そうちゃんも、この景色見とるかな」
雪は写真を窓側へ少し向けた。
「層一さんも、北海道から沖縄へ向かう旅を楽しんどるべ」
愛子の言葉に、雪はうなずいた。
「そうちゃん、移動中はすぐ疲れたって言いそうだけどね」
「世界中を遠征しとった選手でないのか」
「飛行機では眠れん、列車の枕は合わん、ホテルの布団が違うって、意外となまら細かかったんだわ」
「雪の前では甘えとったんだな」
康夫が言うと、雪は少し照れながら笑った。
「そうかもしれんね」
列車は旭川を経て、札幌へ向かう。
旅はまだ始まったばかりだった。
*
札幌駅へ到着すると、三人は案内表示を確認しながら快速エアポートのホームへ向かった。
駅構内には、通勤客や旅行者が行き交っている。
康夫がキャリーケースを引き、雪が少し前を歩く。愛子は二人の間に入り、歩調を整えていた。
「お父さん、疲れてない?」
「まだ上川から札幌まで来ただけだべ」
「足、痛くなったら言ってね」
「雪も、自分の心配をしなさい」
愛子がすぐに言う。
「私は大丈夫だよ」
「その言い方、恵そっくりだわ」
「また言われた」
予約していた快速エアポートのユーシートへ乗り込むと、三人は並んで座った。
指定席へ腰を下ろし、荷物を棚へ置く。
「ユーシートにして正解だったね」
愛子が背もたれへ体を預けた。
「ここで立ちっぱなしだったら、飛行機へ乗る前に疲れとったべさ」
「無理せず行く旅だからな」
康夫は腕を組み、満足そうにうなずいた。
列車が札幌駅を離れる。
都市の建物が車窓を流れ、やがて住宅街や広い道路が見えてくる。
雪は層一の写真を窓へ向けた。
「そうちゃん、今度は快速エアポートだよ」
「層一さんも指定席かい」
愛子が尋ねる。
「胸ポケットの特等席」
「一番揺れない席だな」
康夫の言葉に、三人は笑った。
*
新千歳空港へ着くと、雪は一気に旅の実感が増した。
大きな出発案内板。
各地へ向かう便の表示。
キャリーケースを引く旅行客。
土産物店から漂う菓子や海産物の香り。
案内板には、これから搭乗する那覇行きの便名が表示されていた。
「本当に沖縄へ行くんだね」
「ここまで来て、まだ実感なかったのかい」
愛子が笑う。
「上川から札幌までは、まだ見慣れた北海道だったからさ」
康夫も案内板を見上げた。
「那覇行きって文字を見ると、さすがに遠くへ行く感じがするな」
預け荷物の手続きを終え、保安検査へ向かう。
雪は層一の写真とメモを、キャリーケースへ入れなかった。
胸ポケットから出し、小さなケースへ入れ、手荷物の奥へ大切にしまう。
「検査中に落としたら大変だからね」
愛子が言う。
「うん。飛行機へ乗ったら、また胸ポケットへ戻す」
保安検査を無事に終え、三人は搭乗口近くの座席へ座った。
窓の向こうには、那覇へ向かう航空機が停まっている。
地上係員が忙しく動き、荷物を積み込んでいた。
「大きい飛行機だな」
康夫が窓へ顔を近づける。
「お父さん、子どもみたいだよ」
「飛行機は何回見ても大きいべさ」
「帰りは窓側に座りたい?」
「もちろんだ」
「予約しとくよ」
やがて、搭乗開始を知らせる案内が流れた。
雪は層一の写真を胸ポケットへ戻す。
「そうちゃん、飛行機に乗るよ」
*
機内では、雪が窓側、愛子が中央、康夫が通路側へ座った。
三人はシートベルトを締め、手荷物を確認する。
航空機がゆっくりと動き始めると、雪は窓の外へ目を向けた。
春を迎え始めた北海道の空。
滑走路の向こうには、まだ雪をいただく山々が見える。
「緊張しとる?」
愛子が尋ねる。
「少し」
「飛行機が怖いのかい」
「それもあるけど、そうちゃんとの約束が本当に動き始めた気がしてさ」
雪は胸ポケットの写真へ触れた。
「そうちゃん、やっと長年の夢がかなうね」
航空機は滑走路へ入り、エンジン音が一気に大きくなった。
機体が加速する。
座席へ背中が押しつけられる。
そして、地面から離れた。
新千歳空港が窓の下へ遠ざかり、北海道の町や道路が小さくなっていく。
雲の上へ出ると、青い空がどこまでも広がっていた。
雪は層一の写真を少しだけ取り出し、窓の方へ向けた。
「見える? そうちゃん」
愛子が娘の横顔を見つめる。
雪の表情は、これまでよりも柔らかかった。
寂しさが消えたわけではない。
それでも、愛した人との約束へ向かっている喜びが、はっきりと表れていた。
*
航空機は一路、南へ向かった。
北海道を離れ、本州上空を通り、さらに南へ進んでいく。
長い飛行時間だったが、三人は無理をしなかった。
飲み物を取り、時々足首を動かす。
通路を歩ける時間には、少し体を動かす。
眠くなれば目を閉じる。
雪は窓の外を見たり、層一との思い出を振り返ったりしながら過ごした。
「お父さん、窓側座りたかったんでないの」
雪が尋ねる。
「今回は雪と層一さんの旅だべ。二人に見せた方がいい」
「ありがとう」
「帰りは俺が窓側な」
「もう何回も聞いたよ」
愛子が笑う。
機内では、翌日の予定も確認した。
那覇へ到着した日は、ホテルへ移動して休む。
無理に観光を入れない。
翌朝、体調に問題がなければ、那覇空港から石垣島へ飛ぶ。
南十字星を見るのは、波照間島へ着いてからだ。
春からゴールデンウィーク頃にかけて、南の低い空へ現れる南十字星。
観察には空の暗さだけでなく、雲や水平線付近の視界も重要になる。
焦っても、星は姿を見せない。
見ることができる夜を、静かに待つしかない。
「見えなかったら、どうする?」
愛子が尋ねる。
「また次の夜を見る」
「それでも見えなかったら?」
「また来ればいい」
康夫が答える。
「簡単に言うね」
「約束を果たすのに、期限はないべさ」
雪は静かにうなずいた。
「そうだね」
*
那覇空港への到着が近づくと、窓の下に明るい青色の海が見えてきた。
北海道で見る海とは、明らかに色が違う。
強い日差しを受けて輝く海。
白い波。
小さな島影。
「お母さん、見て」
雪が愛子へ声をかける。
「本当になまら青いね」
愛子は窓の外を見ながら目を細めた。
康夫も身を乗り出す。
「俺にも見せてくれ」
「シートベルト外したら駄目だよ」
「分かっとる」
「帰りは絶対窓側にするからね」
「忘れるなよ」
機体は少しずつ高度を下げていった。
南国らしい植物。
北海道とは違う色の屋根。
明るい街並み。
海に囲まれた空港。
やがて車輪が滑走路へ触れ、大きな振動が伝わった。
機体が減速する。
那覇空港へ到着した。
雪は胸ポケットへ手を置く。
「そうちゃん、沖縄に着いたよ」
*
航空機を降り、到着口へ向かう通路へ出た瞬間、三人は北海道との違いを感じた。
「やっぱり暖かいね」
愛子が上着の前を開ける。
「上川を出た時と全然違うべさ」
康夫も防寒着を脱ぎ、腕へ掛けた。
「まだ空港の中なのに、空気がやわらかいな」
雪は周囲を見回した。
空港内には南国らしい植物が飾られている。
沖縄の音楽。
鮮やかな色の土産物。
半袖姿の人々。
春先の北海道から、いきなり初夏のような土地へ来たのだ。
荷物を受け取り、空港の外へ出る。
暖かな風が三人を包んだ。
道路沿いにはヤシの木が並び、強い日差しが建物や車を照らしている。
愛子は空を見上げた。
「北海道の春から、急に夏へ来たみたいだね」
「服を重ねてきて正解だったな」
康夫が言う。
「上川で半袖だったら凍えるし、ここで防寒着のままだったら汗だくだべさ」
雪は深く息を吸った。
潮の匂い。
暖かな風。
聞き慣れない鳥の声。
北海道とはまるで違う植物。
そのすべてが、遠くまで来たことを実感させてくれた。
「雪」
愛子が呼びかけた。
「何さ」
「幸せそうな顔しとるよ」
雪は少し驚いた。
「そう?」
「うん。層一さんと旅行しとる時みたいな顔だわ」
康夫も、娘の表情を見ながら穏やかにうなずいた。
「雪がそんな顔しとるのを見られて、本当によかった」
「お父さん、お母さん」
「波照間島は、まだずっと先だけどな」
「うん」
雪は胸ポケットへ触れ、微笑んだ。
「でも、もう夢の途中に入った気がするんだわ」
康夫がキャリーケースの取っ手を握り直した。
「したっけ、今日はホテルへ行って、ゆっくり休むべ」
「沖縄料理も食べたいね」
愛子が言う。
「食べすぎない程度にな」
「お父さんが一番食べそうだけどね」
「俺は旅先の文化を学ぶために食べるんだ」
「都合いい言い方だわ」
三人は笑いながら、那覇市内へ向かう車へ乗り込んだ。
車窓には、北海道とはまるで違う南国の風景が流れていく。
ヤシの木。
鮮やかな花。
赤い瓦屋根。
夕方になっても残る暖かな光。
雪は層一の写真を手の中へ出し、窓の外へ向けた。
「そうちゃん、見える?」
二十年以上止まっていた約束は、もう過去のものではなかった。
春の北海道から、初夏の沖縄へ。
雪、層一、康夫、愛子の四人旅は、北の駅と空を越え、ついに南の地へ到着した。
第56話 終
次回予告
第57話「那覇の夜、四人の食卓」
北海道からの長い移動を終え、那覇市内のホテルへ到着した雪、康夫、愛子。
疲れはある。
それでも、窓の外に広がる南国の町へ、三人の心は弾む。
夕食に選んだのは、ホテル近くの沖縄料理店。
ゴーヤーチャンプルー。
沖縄そば。
海ぶどう。
ラフテー。
初めて味わう料理を前に、康夫は北海道との違いに驚き、愛子は一品ずつ写真へ残していく。
雪は層一の写真を、空いている席へそっと置く。
「そうちゃんも一緒に食べよう」
三人ではなく、四人で囲む沖縄最初の食卓。
食後、ホテルへ戻る途中で見上げた春の夜空。
南十字星は、まだここからは見えない。
それでも北海道とは違う星の高さと夜の空気が、旅の始まりを静かに告げる。
翌朝、三人は那覇空港から石垣島へ向かう。
その先には、さらに船で渡る波照間島が待っている。
しかし、春の八重山の海は穏やかな日ばかりではない。
天気予報には、南から近づく雨雲と風の表示。
石垣島行きの飛行機は予定どおり飛ぶのか。
波照間島行きの船へ影響は出るのか。
次回、第57話「那覇の夜、四人の食卓」。
旅は、予定どおり進むことだけが大切なのではない。
知らない土地で同じ食卓を囲む時間も、約束をかなえるための大切な一歩になる。




