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恵の物語  作者: リンダ


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南十字星への旅支度

第55話「南十字星への旅支度」


第一章 北から南へ向かう切符


 波照間島への旅が正式に決まってから、生田家の食卓には、旅行会社でも開けそうなほど多くの資料が並ぶようになった。


 航空会社の時刻表。


 鉄道の時刻表。


 石垣島の宿泊施設を紹介する冊子。


 波照間島行きの船の案内。


 南十字星を観察しやすい時期について書かれた資料。


 そして、二十年以上前に層一と雪が眺めた、色の褪せた波照間島のパンフレット。


 雪は父の康夫、母の愛子と三人でテーブルを囲み、上川から波照間島までの移動経路を一つずつ確認していた。


「まずは上川駅から札幌へ出るべさ」


 康夫が鉄道の時刻表を開き、眼鏡の位置を直した。


「特急オホーツクだね」


 雪が答える。


「札幌まで行ったら、快速エアポートに乗り換えて新千歳空港へ向かう」


 愛子は別の紙へ、乗り換えの順番を書き込んでいた。


「快速エアポートは、できれば指定席を取った方がいいんでないかい」


「ユーシートだね」


「荷物もあるし、札幌から新千歳まで立ったままは大変だべさ」


 康夫は迷うことなくうなずいた。


「三人分、ユーシートを取ろう。旅の最初から疲れてどうするんだ」


「お父さん、張り切っとるね」


「そりゃそうだ。北海道から日本の一番南まで行くんだぞ。途中でへばって波照間島へ着けませんでしたじゃ、層一さんに笑われるべ」


「そうちゃんだったら、自分が一番先に疲れとったかもしれんよ」


「ジャンプでは世界を飛んどったのにか」


「移動中は意外と弱かったんだわ。飛行機の中で眠れないとか、枕が変わったら寝つけないとか、なまら細かい人だったも」


 雪が懐かしそうに笑うと、康夫と愛子もつられて笑った。


 旅程の最初の部分は、比較的すぐに決まった。


 早朝、上川駅から特急オホーツクへ乗る。


 札幌駅で快速エアポートへ乗り換える。


 指定席のユーシートを利用し、新千歳空港まで移動する。


 そこから那覇行きの飛行機へ搭乗する。


 問題は、その先だった。


「新千歳空港から那覇まで飛んだら、もう夕方近くになるんでないかい」


 愛子が航空便の時刻を見ながら言った。


「その日のうちに石垣島へ乗り継げる便はあるみたいだけど、遅れたら厳しいね」


 雪は画面上の時刻を指で追った。


「新千歳から那覇まででも長いもね。そのあとすぐ石垣島行きへ乗るのは、お父さんとお母さんの体も心配だわ」


「雪、自分の心配もしなさい」


 愛子がすぐに返す。


「私はまだ大丈夫だよ」


「そう言う人ほど、最後に疲れが出るんだわ。恵と同じしょ」


「また言われた」


「親子だもの」


 康夫は腕を組み、旅程表を見つめた。


「那覇で一泊するのはどうだ」


「那覇で?」


「朝早く上川を出て、新千歳から那覇まで飛んだところで、その日は終わりにする。次の日に石垣島へ向かえばいい」


 雪は少し考えた。


「それなら、那覇で慌てて乗り継がなくて済むね」


「旅は波照間島へ着くことだけが目的でないべさ。途中も楽しめばいい」


「でも、那覇でどこか見て回る余裕あるかな」


「無理して観光せんでいい。ホテルへ入って、沖縄のご飯食べて、ゆっくり休む。それだけでも十分だ」


 康夫の言葉に、愛子も同意した。


「そうしよう。飛行機の遅れもあるし、最初から詰め込まない方がいいべさ」


 雪は旅行日程の紙へ、ゆっくりと書き込んだ。


 一日目。


 上川駅。


 特急オホーツク。


 札幌駅。


 快速エアポート・ユーシート。


 新千歳空港。


 那覇行き。


 那覇泊。


 文字にしただけで、旅が現実のものになった気がした。


「そうちゃん、見とるかな」


 雪がつぶやく。


「見とるべさ」


 康夫は即座に答えた。


「雪が時刻表とにらめっこしとるの見て、また心配しすぎだって笑っとるぞ」


「そうちゃんの方が、乗り換え時間五分で大丈夫とか言い出す人だったんだわ」


「それなら今回は、層一さんの意見は採用しない方がいいね」


 愛子が笑った。


「今回は安全運行で行くべ」


 康夫が言うと、三人はそろってうなずいた。


第二章 恵と光希の心配性


 その夜、雪は決まったばかりの旅程を恵へ伝えるため、新居へ電話をかけた。


「まず上川から特急オホーツクで札幌へ出るんだわ」


『うん』


「札幌から快速エアポート。ユーシートは三人分取ることにした」


『それがいいべさ。荷物もあるし』


「新千歳空港から那覇行きへ乗る」


『那覇に着いたら、その日のうちに石垣島へ行くの?』


「最初はそう考えたんだけどね。那覇で一泊することにした」


 電話の向こうで、恵が明らかに安心した息を吐いた。


『よかった。一日で石垣まで行くって言ったら、絶対止めようと思っとった』


「止めるって、お母さんは子どもでないよ」


『分かっとるけど、朝から鉄道乗って飛行機で那覇まで行って、そのあとまた乗り継ぎなんて疲れるしょ』


「お父さんとお母さんも同じこと言っとったわ」


『したっけ、那覇でゆっくりしてね。無理に観光入れたら駄目だよ』


「まだ何も言っとらんのに、先回りしてくるね」


『だって、お母さん、せっかく沖縄まで来たんだからって動き回りそうだも』


 その横から、光希の声が聞こえた。


『雪さん、荷物はできるだけ軽くした方がいいですよ』


「光希くんまで心配しとるの?」


『階段や乗り換えもありますから。大きい荷物一つより、小さめに分けた方が』


『いや、分けたら持つ数増えるしょ』


 恵がすぐに口を挟む。


『キャリーケース一つと、手荷物くらいがいいんでないかい』


『でも船へ乗る時は、小さい方が扱いやすいべ』


『したっけ、宅配便で石垣のホテルへ先に送る?』


『まだ出発日も確定してないのに、そこまで決める?』


 雪は受話器を持ったまま笑い出した。


「二人とも、私たちより先に荷造り始めそうだね」


『だって、波照間島まで行くんでしょ』


「そうだけど」


『酔い止めも用意してね』


『日焼け止めも必要だべ』


『帽子も』


『夜は風があるかもしれんから、薄い上着も』


「めぐ、光希くん」


『何?』


「お母さんたち、自分で準備できるからね」


 電話の向こうが少し静かになった。


『分かっとるよ』


「本当に?」


『心配なだけだわ』


 恵の声が少し小さくなる。


 雪はその気持ちを責めるつもりはなかった。


 これまで自分が恵を心配してきたように、今度は恵が母の遠出を心配している。


 親子の立場が、少しずつ変わり始めているのだろう。


「ありがとう。でも、お母さんも康夫おじいちゃんも愛子おばあちゃんも、無理はしないから」


『体調悪かったら、途中で予定変えてね』


「もちろん」


『船が欠航したら、無理に別の方法探さないで石垣島で待つんだよ』


「分かった」


『南十字星が見えなくても、一晩中外にいたら駄目だからね』


「そこまで言うかい」


『お母さん、見えるまで待つって言いそうだも』


「少しは思うかもしれん」


『ほら』


 恵の声が強くなり、雪はまた笑った。


「したっけ、ちゃんと休みながら行ってくる。これでいい?」


『うん』


『光希くんも安心した?』


『少しだけです』


「二人とも、コスキネンコーチに休養の意味教わったんでしょ。私たちの旅にも同じこと当てはめればいいんだわ」


『確かに』


「急がない。疲れたら休む。予定どおりに行かなくても焦らない」


『お母さん、なまら立派なこと言うね』


「めぐに言われたくないべさ」


 三人の笑い声が電話を通して重なった。


第三章 博多から届く旅支度会議


 波照間島旅行の話は、やがて美香、光子、優子にも伝わった。


 きっかけは、恵が三人のグループへ送った一通のメッセージだった。


『お母さんが、生田のおじいちゃんとおばあちゃんと波照間島へ行くことになりました。お父さんと約束していた南十字星を見る旅です』


 数分もしないうちに、光子から映像通話がかかってきた。


 画面には東京の音大生寮の部屋が映り、授業を終えた美香、光子、優子が横一列に並んでいる。


『雪さん、波照間島に行くと?』


「そうなんだわ」


『なまら遠い……じゃなかった、ばり遠いやないですか』


 光子が道北弁を言いかけ、途中から博多弁へ戻る。


 雪は思わず笑った。


「光子ちゃんまで混ざっとるね」


『コスキネンコーチと話しよったら、うちらにも道北弁が移ってきよるとです』


『逆輸入されよるばい』


 優子が真顔で言い、美香が隣で笑った。


『新千歳から那覇までは直行便ですか?』


「その予定だよ」


『那覇に着いた日は、もうホテルに入ると?』


「うん。翌日に石垣島へ飛ぶことにした」


『それがいいです』


 美香は落ち着いた声でうなずいた。


『一日で詰め込みすぎると、旅の最初で疲れてしまいますから』


『沖縄は北海道と暑さの種類が全然違うけん、初日は体を慣らす日くらいに考えた方がよかですよ』


 光子が言う。


『日差しが強かけん、帽子、日焼け止め、飲み物は絶対です』


 優子も続ける。


『ばってん、荷物増やしすぎたら移動が大変ばい。何でも持っていったら、最終的に引っ越しになるけん』


「そこまで持っていかんよ」


『うちらなら持っていきそうやけどね』


 美香が光子と優子を見る。


『光子は絶対、使わんものまで詰めるよね』


『何で私だけ?』


『優子もたい。二人とも旅行になると、念のためが多すぎるっちゃん』


『美香お姉ちゃんは?』


『必要なものだけ持っていくよ』


『一番大きい楽器ケース持ち歩いとる人が言うても説得力なかばい』


 優子の一言で、三人が同時に笑い出した。


 雪もつられて笑った。


「何だか、まだ準備始めてもないのに、にぎやかになってきたわ」


『雪さん』


 美香が少し表情をやわらげた。


『層一さんとの約束、かなうといいですね』


「うん」


『南十字星が見えるように、東京からも祈っています』


『見えんかったら、また行けばよかです』


 光子が言った。


『そうたい。一回で全部かなえようとせんでよか』


 優子も続ける。


 その言葉は、康夫が言ったものと同じだった。


 見えなければ、また行けばよい。


 約束を果たすことに期限はない。


 雪は画面の向こうの三人へ、穏やかにうなずいた。


「ありがとう。そうちゃんの写真も一緒に持っていくから、四人で見てくるね」


『気をつけて行ってきてください』


『お土産は気にせんでよかですよ』


『でも黒糖は少し気になる』


 優子が言い、光子がすぐに突っ込む。


『気にしとるやん!』


 最後はいつものように笑いで終わった。


第四章 層一が残した旅のメモ


 旅程の相談を終えた夜、雪は層一の遺影をきれいに拭こうと、写真立てを棚から下ろした。


 波照間島へ持っていく写真を、どれにするか決めたかった。


 現在飾っている遺影は少し大きい。


 旅へ持参するなら、若い頃の層一が自然に笑っている、小さな写真の方がよいかもしれない。


 雪は写真立ての裏側を開いた。


 その時、薄く折り畳まれた紙が一枚、床へ落ちた。


「何だろう」


 拾い上げると、紙は古く、折り目の部分が少し弱くなっていた。


 慎重に広げる。


 そこに書かれていたのは、層一の字だった。


『雪と行きたい場所』


 一、波照間島で南十字星を見る。


 二、京都で紅葉を見る。


 三、北海道を鉄道で一周する。


 四、雪が行きたいと言った場所へ行く。


 雪は、しばらく息をすることさえ忘れた。


 その下には、小さな文字で追記があった。


『まずは波照間島。


 結婚して少し落ち着いたら、必ず休みを取る。


 雪は、俺がまた練習を入れると思っている。


 今度は本当に休む。


 波照間島で、雪と南十字星を見る。』


 最後の一文を読んだ瞬間、雪の目から涙が落ちた。


「そうちゃん……」


 あの約束を覚えていたのは、自分だけではなかった。


 層一もまた、実現させるつもりでいた。


 遠征や練習の合間に、旅の計画を考えていた。


 けれど病気によって、その時間は突然奪われた。


 雪はメモを胸へ抱いた。


「本当に行くつもりだったんだね」


 笑いながらも、涙は止まらなかった。


「私、また練習入れるしょって、なまら疑っとったもね」


 遺影の中の層一は、少し困ったように笑っているようにも見えた。


「ごめんね。ちゃんと信じればよかった」


 もちろん、層一は何も答えない。


 雪はメモを遺影の前へ置いた。


「そうちゃん。今度こそ行くよ」


 声は震えていたが、迷いはなかった。


「上川から特急オホーツクで札幌へ行く。札幌から快速エアポートのユーシートに乗って、新千歳空港へ行くよ」


 まるで層一へ旅程を説明するように話した。


「そこから飛行機で那覇へ行く。初日は那覇で泊まることにした。無理して石垣島まで行かんよ」


 少し笑う。


「そうちゃんだったら、一日で行けるべって言いそうだけど、今回は却下だわ」


 メモを指先でそっとなぞる。


「お父さんとお母さんも一緒に行ってくれる。そうちゃんの写真も、このメモも持っていく」


 窓の外には、北海道の星空が広がっていた。


 波照間島の南十字星とは違う、見慣れた北の空。


 雪はその空を見上げた。


「二十年以上待ったんだも。急がなくていいよね」


 旅はもう始まっている。


 まだ切符も航空券も手元にはない。


 荷物もまとめていない。


 それでも、層一のメモを見つけた瞬間、止まっていた約束の針が確かに動き出した。


第五章 出発日の決定


 数日後、生田家では再び三人が集まり、具体的な日程を決めることになった。


 南十字星が見えやすい時期。


 康夫と愛子の通院予定。


 カフェ雪の休業期間。


 飛行機の空席。


 那覇と石垣島の宿泊先。


 波照間島の宿泊施設。


 すべてを照らし合わせる必要があった。


「カフェは何日休めるんだ」


 康夫が尋ねる。


「一週間くらいなら大丈夫だと思う。常連さんにも早めに伝えるし、仕入れ先にも連絡する」


「一週間で足りるかい」


 愛子が心配そうに言う。


「移動だけでかなり時間使うし、船が欠航したら予定がずれるべさ」


「予備日を入れて、八日か九日にする?」


「その方がいい」


 康夫はカレンダーを指した。


「一日目は那覇まで。二日目に石垣島へ飛ぶ。石垣島でも一泊する」


「波照間島へ渡るのは三日目?」


「朝の船が出ればな」


「欠航したら、石垣島でもう一泊」


「波照間島では最低二泊したいね」


 雪が言う。


「星は一晩だけじゃ見えないかもしれんも」


「二泊で足りるか?」


「できれば三泊したい」


「したっけ、波照間島に三泊。帰りも石垣島と那覇で余裕を取る」


 愛子が紙へ日程を書きながら笑った。


「ずいぶんゆっくりした旅になったね」


「それでいいんだわ」


 雪は迷わず答えた。


「そうちゃんとの旅だからって、一日も無駄にしたくないって考えたら、また予定詰め込みそうになる。でも、急ぐ必要ないもね」


「そうだ」


 康夫がうなずいた。


「旅先で疲れたら休む。天気悪ければ待つ。星が見えなければ、次の夜を見る。それでも見えなかったら、また考える」


「また来ればいい?」


「そういうことだ」


 出発日は、翌年の南十字星を観察しやすい時期に合わせて決まった。


 雪はカレンダーへ丸をつけた。


 そこから始まる九日間。


 北海道から沖縄へ。


 日本の北から、一般の人が行ける最南端へ。


 二十年以上前に層一と交わした約束を胸に、生田家三人で向かう旅。


「決まったね」


 愛子が言う。


「うん」


「楽しみかい」


 雪は少し考えてから答えた。


「楽しみ。怖さもあるけどね」


「何が怖いんだ」


「南十字星を見たら、そうちゃんがおらんことを、また強く感じるかもしれん」


 康夫と愛子は黙って雪の言葉を聞いた。


「でも、それでも行きたい」


「それなら行けばいい」


 康夫の答えは簡潔だった。


「泣きたくなったら、波照間島で泣けばいい。うちらが隣におる」


 雪は小さくうなずいた。


「ありがとう」


 旅程表の一番上に、雪は題名を書いた。


『そうちゃんと南十字星を見る旅』


 その下へ、小さく付け加えた。


『康夫、愛子、雪。そして層一の四人旅』


第55話 終


次回予告


第56話「北の駅から南の空へ」


 ついに迎えた出発の日。


 まだ薄暗い上川駅。


 雪、生田康夫、愛子は、大きすぎない荷物を持ってホームへ立つ。


 見送りに来た恵と光希は、最後まで注意事項を伝え続ける。


「お母さん、疲れたらすぐ休むんだよ」


「船の前に酔い止め飲むの忘れんでね」


「まだ船は二日以上先だべさ」


 やがて、特急オホーツクがホームへ入ってくる。


 雪は層一の写真と、あのメモを手荷物へ大切にしまう。


『波照間島で、雪と南十字星を見る』


 列車は上川駅を発車し、札幌へ向かう。


 札幌駅では快速エアポートへ乗り換え、三人は予約していたユーシートへ座る。


 車窓の景色が都市から空港へ変わり、新千歳空港へ到着。


 長い保安検査を終えた先で待つのは、那覇行きの航空機。


 北海道から沖縄へ。


 北の空から南の空へ。


 次回、第56話「北の駅から南の空へ」。


 二十年以上止まっていた約束が、列車の車輪と飛行機の翼に乗り、ついに旅立つ。

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