家族が増えた練習日
第54話「家族が増えた練習日」
休養日の翌朝、上川町には薄い雲が広がっていた。
空は完全に晴れてはいなかったが、山の稜線ははっきりと見えている。昨夜の冷え込みによって道路脇の草には細かな露が残り、上川駅のホームから聞こえる列車の走行音が、まだ静かな町へゆっくりと広がっていた。
恵は目覚まし時計が鳴る数分前に目を覚ました。
隣では光希が静かな寝息を立てている。
昨日は完全休養日だった。
買い物の後、予定にはなかった湧介と美崎の家へ立ち寄り、ジンギスカンを囲んだ。雪も途中から加わり、恵と光希は祖父母や母と一緒にビールを一杯だけ飲んだ。
競技の話をまったくしなかったわけではない。
それでも、ジャンプの映像を見たり、翌日の練習内容を細かく考えたりすることはなかった。
ジンギスカンの匂い。
湧介のうれしそうな笑顔。
美崎が次々と語る家族の昔話。
雪と一緒に層一へ乾杯した時間。
そうした記憶の方が、昨日一日の中ではずっと大きかった。
恵は布団の中で右足首をゆっくり動かした。
張りはない。
痛みもない。
前日の食事による重さも感じなかった。
念のため、つま先を伸ばし、戻す。左右へ軽く動かしてみても、引っかかる感覚はない。
「今日の脚も、悪くなさそうだわ」
小さくつぶやくと、隣で光希が目を開けた。
「もう確認しとるの?」
「起こした?」
「今起きたべ」
光希は上半身を起こし、自分の右膝をゆっくり曲げ伸ばしした。
恵がその様子を見て笑う。
「光希も同じことしとるしょ」
「めぐが動かし始めたから、俺も気になったんだわ」
「膝、どう?」
「大丈夫だべ。昨日の疲れも残っとらん」
「ビール一杯の影響は?」
「ないと思う」
「思う、でなくて?」
「練習場で確認してもらうべさ」
光希はそう答えると、ベッドから降りた。
二人とも以前なら、体が軽いと分かった時点で自主的な動作確認を始めていただろう。その場で小さく跳んだり、屈伸を何度も繰り返したりして、調子のよさを自分で証明しようとしたかもしれない。
今は、朝の感覚だけで練習内容を決めない。
医療スタッフとコーチの確認を受ける。
そのうえで、その日の体に合った練習を行う。
休養日の翌朝だからこそ、気持ちを急がせない。
それが二人の新しい習慣になり始めていた。
*
台所では、前夜に湧介と美崎から持たされた野菜と、少しだけ残っていたジンギスカンの肉が冷蔵庫へ入っていた。
光希が冷蔵庫を開け、袋の中を見て苦笑する。
「湧介おじいちゃん、なまら持たせてくれたね」
「食べきれんかった肉、全部持って帰れって言っとったもね」
「今夜もジンギスカンになるんでないかい」
「二日続けては重いべさ。野菜だけ使って、肉は冷凍しよう」
「したっけ、朝は軽くする?」
「ご飯と味噌汁。あとは納豆でいいしょ」
「卵焼きは?」
「今日はなし」
「甘いかしょっぱいかで揉めなくて済むべ」
「別に揉めとらんよ。話し合っただけだわ」
恵は味噌汁を温めながら反論した。
結婚してからまだ数日しかたっていない。
それでも、台所での動きには少しずつ役割が生まれていた。
恵が汁物を作り、光希がご飯をよそう。
どちらか一方が疲れていれば、もう一人が多めに動く。
余裕があれば、一緒に作る。
毎日同じ形に決めるのではなく、その日の状態に合わせる。
それは練習と休養の考え方にも似ていた。
「今日の練習、何本くらいになるかな」
光希が尋ねる。
「寄子コーチが決めるべさ」
「めぐ自身は?」
「体が軽いから、飛びたい気持ちはあるよ。でも、本数増やしたいとは言わんつもり」
「本当に?」
「今のところはね」
「練習場着いたら変わるかもしれん?」
「そこは否定できんわ」
二人は顔を見合わせて笑った。
*
朝食を終えると、二人は玄関でそれぞれの荷物を確認した。
恵はジャンプ用の装備。
光希はジャンプとクロスカントリー、両方の練習に必要な道具。
同じ家から出発しても、向かう場所は別だった。
「したっけ、行ってくるべ」
「行ってらっしゃい」
「無理するんでないよ」
「光希もね」
「帰ったら報告するべ」
「見張らない。心配しすぎない」
二人は前回の練習日と同じように、軽く拳を合わせた。
夫婦になったからといって、互いの体調をすべて管理し合うわけではない。
恵には恵のコーチがいる。
光希には光希のコーチがいる。
医療スタッフもいる。
それぞれが自分の状態を正直に伝え、必要な判断を受ける。その力を信じることも、夫婦として支え合うことの一つだった。
*
恵がジャンプ台へ到着すると、海斗コーチと寄子コーチ、理学療法士がすでに準備を始めていた。
「おはよう」
「おはようございます」
恵が近づくと、寄子はまず歩き方を確認した。
「昨日はどう過ごしたの?」
「買い物のあと、湧介おじいちゃんと美崎おばあちゃんの家へ寄ったんだわ」
「いい休養日になった?」
「うん。ジンギスカン食べて、ビール一杯だけ飲んだ」
海斗が顔を上げる。
「ビール?」
「一杯だけだよ。光希も私も、そのあとは水にしたし、夜も早めに寝た」
「今日の体調は?」
「足首に張りなし。睡眠も取れたし、体も重くない」
理学療法士が恵の足首を確認する。
可動域。
筋肉の反応。
ふくらはぎの張り。
足裏の感覚。
片脚立ちでの安定性。
いずれも問題はなかった。
「飲酒による明らかな影響はありませんね」
「よかった」
恵が安堵すると、寄子が少し笑った。
「一杯飲んだこと自体を責めるつもりはないよ。大切なのは、次の日に自分の体を正確に見られるかどうかだから」
「休養日に少し楽しむことと、競技者として体を守ること、両方考える?」
「そう。全部禁止すれば簡単だけど、それでは長い競技生活は苦しくなるでしょう」
海斗も静かに続けた。
「競技を続けるために生活があるんじゃない。生活の中に競技がある。その順番を忘れないことだ」
恵はその言葉を胸の中で繰り返した。
生活の中に競技がある。
以前の自分は、競技の周りに生活を押し込めていたのかもしれない。
食事も睡眠も人との時間も、すべてジャンプのために管理する。
その考え方が必要な時期もあった。
けれど、結婚し、長く現役を続けようとする今は、それだけでは足りない。
家族と食卓を囲む日もある。
祖父母と一杯だけ飲む日もある。
競技を忘れて笑う日もある。
それを含めて、自分の人生だった。
「今日は通常の台で四本」
寄子が告げた。
「四本だけ?」
「今、少ないと思ったね」
「少しだけ」
「昨日休んだから体が軽い。軽い日に本数を増やしたくなる。でも、今日は軽さを確認する日であって、使い切る日ではないよ」
「分かりました」
「四本とも質が保てたら終了」
「はい」
恵はジャンプ台を見上げた。
今日は四本。
以前なら少ないと感じた。
今は、その四本を大切に飛べばよいと思える。
*
一本目。
助走姿勢に入る。
視線を前へ置き、足裏でレールの感覚を確かめる。
踏み切り台が近づく。
無理に前へ出ようとせず、タイミングを合わせて地面を押す。
体が空中へ出る。
風を受ける。
空中姿勢は安定していた。
着地も大きく乱れない。
停止した恵は、自分からすぐに足首の感覚を確認した。
痛みはない。
右脚だけに衝撃が集まった感覚もない。
「一本目、問題なし」
無線から寄子の声が届く。
「飛距離は気にしないで」
「分かっとる」
二本目では、少しだけ踏み切りが遅れた。
以前なら、その一本を失敗と考え、すぐに次で取り返そうとしただろう。
今日は違った。
遅れた原因を簡単に整理し、それ以上は引きずらない。
三本目。
踏み切りのタイミングが合う。
空中へ出た瞬間、体が自然に前へ伸びた。
飛距離は二本目より明らかに伸びたが、恵は着地後も表情を変えなかった。
「今の感覚、よかったです」
「どこが?」
「踏み切りで力を出そうとしなかった。助走の流れが、そのまま空中へつながった感じ」
「いいね。次が最後」
四本目。
恵は結果をそろえようとしなかった。
三本目と同じ飛び方を再現しようとも考えない。
今日の風。
今日の体。
今の助走速度。
その一つ一つを受け取り、最後の一本へ向かう。
踏み切り。
飛行。
着地。
四本目も安定した。
恵は停止すると、自分からスキー板を外した。
「今日はここまでにするべ」
寄子が少し驚いた顔をする。
「こちらから言う前に終わるの?」
「四本とも質を保てたから。もう一本やったら、もっと飛べるかもしれん。でも、今日はその確認の日でないしょ」
「正解」
海斗も満足そうにうなずいた。
「結婚して、さらに賢くなったか」
「それは分からんけど、休むのは少し上手になったべ」
*
一方、光希の練習場では、コスキネンコーチが朝から記録用紙を手に待っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「昨日、何しとった?」
「買い物のあと、湧介おじいちゃんと美崎おばあちゃんの家へ寄りました」
「そこで?」
「ジンギスカンを食べて、ビール一杯だけ飲みました」
コスキネンは記録用紙から顔を上げた。
「ビール飲んだって?」
「一杯だけだべさ」
「正直でよろしい」
コスキネンは光希の顔色を確認し、続けて尋ねる。
「睡眠は?」
「十分取れました」
「水分は?」
「帰宅後も水を飲みました」
「膝の状態は?」
「違和感ありません」
「朝食は?」
「ご飯と味噌汁と納豆です」
「二日酔いは?」
「一杯で二日酔いにはならんべ」
「人によるたい」
「また博多弁ですね」
「次の日の体調は、自分でしっかり確認せんといかんばい」
コスキネンはそう言ってから、光希の膝の状態を確認した。
屈伸。
片脚での安定。
軽い踏み切り動作。
ローラースキーでの短い走行。
いずれも問題はない。
「今日はジャンプのあと、クロスカントリーは短めにするべ」
「昨日休んだので、もう少し距離を伸ばせると思います」
「休んだから伸ばすんでない。休んだから、戻った状態を確認するんだわ」
「恵も同じこと言われとりそうですね」
「似た者夫婦たい」
「そこだけ博多弁にする必要ありますか」
「言いやすいんだわ」
コスキネンは少し笑った後、真剣な表情へ戻った。
「酒を完全に禁止するつもりはない。家族と一緒に飲む一杯が、心を休ませることもあるべさ」
「はい」
「ばってん、競技者なら、自分がどのくらいで体に影響が出るか知らんといかん。飲んだ翌日に体が重ければ、練習内容を変える。睡眠が浅ければ、量を減らす。楽しかったから全部よし、ではないんだわ」
「分かりました」
「楽しむことと、自分の体へ責任を持つこと。両方できればよか」
光希はうなずき、練習へ向かった。
*
その頃、カフェ雪では朝の客足が一段落していた。
常連客へコーヒーを運び、食器を片づけた雪は、店の奥にある収納棚の前へ立った。
層一の夢を見てから、自分の過去を避けずに振り返れるようになっていた。
これまでは、思い出の品を開くたびに胸が痛んだ。
層一と叶えられなかった約束。
行くはずだった場所。
二人で始めるはずだった暮らし。
それを目にすると、自分だけが残されたような寂しさが強くなった。
けれど、夢の中で層一から「これからは雪自身のためにも生きていい」と言われた。
それ以来、雪の中で少しずつ考えが変わっていた。
思い出は、自分を過去へ縛るものではない。
これから歩くための道しるべにもなるのかもしれない。
雪は収納棚の一番下にある段ボール箱を引き出した。
箱のふたには、若い頃の自分の字で書かれている。
『旅行関係』
「まだあったんだね」
箱を開けると、古い旅行雑誌、鉄道や飛行機の時刻表、観光パンフレット、切り抜いた新聞記事などが入っていた。
層一と婚約した頃、二人で行きたい場所を話しながら集めたものだった。
北海道の温泉。
東北の桜。
京都の紅葉。
九州の鉄道旅。
沖縄の離島。
雪は一冊ずつ手に取り、懐かしそうにページをめくった。
その中から、表紙の色が少し褪せたパンフレットが現れる。
青い海。
白い砂浜。
サトウキビ畑。
そして、夜空に輝く星々。
表紙には大きく書かれていた。
『波照間島』
雪の手が止まった。
「そうちゃん……」
記憶の中から、若い層一の声がよみがえる。
*
まだ二人が婚約したばかりの頃。
層一は遠征から戻ると、雪の部屋へ一冊の旅行雑誌を持ってきた。
「雪、ここ見てみ」
「どこ?」
「沖縄の波照間島」
「はてるまじま?」
「日本で、一般の人が行ける一番南の場所なんだって」
雪は雑誌を受け取り、ページをのぞき込んだ。
北海道とはまるで違う風景が広がっている。
青い海。
南国の植物。
白い雲。
夜空には、北海道からは見ることが難しい星々が輝いていた。
「南十字星も見えることがあるんだって」
「南十字星って、南半球の星でないの?」
「日本の中でも、かなり南へ行けば見える時期があるみたいだべ」
「見てみたいね」
「うん。二人で行こう」
「いつ?」
「結婚して、少し落ち着いたら」
「ジャンプの遠征ばっかりで、休み取れるの?」
「何とかするべさ」
「そうちゃん、そう言っていつも練習入れるしょ」
「今度は絶対休む」
「本当に?」
「本当。波照間島で南十字星見る。そのくらいの休みは取るべ」
層一はそう言って笑った。
雪も笑いながら、雑誌のページへ指を置いた。
「したっけ、約束ね」
「約束だ」
二人は小指を絡めた。
けれど、その約束がかなう前に、層一は白血病を発症した。
治療。
入院。
結婚。
恵の誕生。
そして層一との別れ。
波照間島のパンフレットは、箱の奥へしまわれたままになった。
*
雪はカフェ雪の窓辺の席へ座り、古いパンフレットをテーブルへ広げた。
写真の中の海は、年月がたっても青かった。
南十字星の説明。
星空観察に適した時期。
石垣島から船で渡る必要があること。
移動だけでも長い時間がかかること。
新千歳空港から那覇へ飛び、那覇から石垣島へ乗り継ぐ。
さらに石垣島の港から船に乗り、波照間島へ渡る。
同じ日本国内でありながら、上川から向かえば簡単に到着できる場所ではない。
上川から新千歳空港までの移動もある。
飛行機の乗り継ぎ。
石垣島での宿泊が必要になる場合もある。
天候や海の状態によっては、船が欠航する可能性もある。
出発してから波照間島へ着くまで、順調でも丸一日以上かかる。
「遠いねぇ」
雪は一人でつぶやいた。
若い頃なら、その長さも旅の楽しみだと思えただろう。
今の自分にとっては、両親の年齢や体力も考えなければならない。
自分一人で行くなら、気楽かもしれない。
しかし、一人で波照間島へ立ち、南十字星を見上げた時、自分は何を感じるだろう。
層一との約束を果たした喜び。
隣に層一がいない寂しさ。
その両方を、一人で受け止められるだろうか。
雪はパンフレットの上へ指を置いた。
「それでも、行きたい」
その気持ちは、はっきりしていた。
層一との思い出を確認するためだけではない。
自分自身が、南十字星を見てみたい。
雪原でもジャンプ台でもない空。
日本の南の果てから見上げる星。
層一が見たかった景色を、自分の目でも見たい。
そして、これからの自分の人生へ持ち帰りたい。
*
店の営業を終えた夜、雪は実家へ電話をかけた。
数回呼び出し音が鳴った後、父の康夫が出た。
『もしもし』
「お父さん、私」
『雪か。どうした』
「お母さんもいる?」
『いるぞ。ちょっと待て』
電話の向こうで康夫が愛子を呼ぶ声が聞こえた。
しばらくして、愛子の声も加わる。
『雪、何かあったのかい』
「ううん。相談したいことがあって」
『何さ』
雪はテーブルの上に広げた波照間島のパンフレットを見つめた。
「そうちゃんと、昔一緒に行こうって約束してた場所があるんだわ」
電話の向こうが静かになる。
『どこだい』
「沖縄の波照間島」
『波照間島?』
愛子が聞き返す。
「日本で、一般の人が行ける一番南の場所なんだって。そうちゃんとそこで南十字星を見ようって話してたの」
『そうだったのか』
康夫の声が少し低くなる。
「でも、その前にそうちゃんが病気になって、結局行けなかった」
『うん』
「今日、昔のパンフレットが出てきたんだわ」
雪は一度言葉を止めた。
「私、行ってみたい」
自分の口から出したことで、その気持ちはさらに確かなものになった。
『一人でかい』
「最初は、そのつもりだった」
『だった?』
「お父さんとお母さんに、一緒に行ってもらえたらって思って」
電話の向こうで、二人が顔を見合わせているような気配がした。
「遠いよ。上川から新千歳空港へ出て、新千歳から那覇。那覇から石垣島へ飛んで、そこから船で波照間島まで行かないといけない」
『ずいぶん乗り継ぐんだな』
「同じ日本なのに、着くまで丸一日以上かかると思う。船も海が荒れたら出ないことがあるみたい」
『うちらの年齢も心配してるのかい』
愛子に尋ねられ、雪は正直に答えた。
「うん。長い移動になるし、無理させたくない」
『でも、雪は一緒に行きたいんだべ』
「行きたい」
『したっけ、行こう』
康夫の答えは早かった。
「本当に?」
『一人で行くのが寂しいなら、うちらと行けばいいべさ』
「でも、お父さんたち、疲れない?」
『疲れたら途中で休めばいい。石垣島で一泊してから船に乗ってもいいし、日程をゆっくり組めばいいべ』
愛子も続けた。
『雪、うちらだって波照間島なんて行ったことないよ。南十字星も見てみたい』
「でも、これは私とそうちゃんの約束で」
『だから一緒に行くんだわ』
愛子の声は優しかった。
『層一さんとの約束を、雪が一人で背負う必要はないしょ』
その言葉に、雪の目が熱くなった。
『それにね』
愛子は少し笑いながら続けた。
『雪が小さい頃は、うちらがいろんなところへ連れていった。今度は大人になった雪に、南の島へ連れていってもらうのも悪くないべさ』
「お母さん」
『三人で行こう。層一さんの写真も持って』
康夫も力強く言った。
『正式決定だな。生田家三人で波照間島だ』
「本当にいいの?」
『何回聞くんだ』
「だって、遠いんだよ」
『遠いから旅なんだべ』
「飛行機二回乗るよ」
『乗ればいい』
「船もあるよ」
『船にも乗る』
「天気悪かったら、南十字星見えないかもしれんよ」
『その時は、また行けばいい』
康夫の迷いのない返事に、雪はとうとう笑った。
「お父さん、そんなに簡単に言うけどね」
『行く前から心配ばっかりしても始まらんべ。まずは日程を調べる。体調も整える。それから無理のない計画を立てる』
「そうだね」
『雪、一人で何でも決めるんでないぞ。うちらも自分の体のことは自分で考える』
「分かった」
『それから、恵にも話しなさい』
「心配すると思う」
『心配させないために黙る方が、あとで怒られるべさ』
「それ、そうちゃんにも言われそうだわ」
三人は電話越しに笑った。
*
通話を終えた後、雪は層一の遺影の前へ座った。
手には波照間島のパンフレットがある。
「そうちゃん」
写真の中の層一へ、ゆっくりと話しかける。
「波照間島、行くことにしたよ」
声に出すと、胸が少し震えた。
「お父さんとお母さんと三人で行く。そうちゃんの写真も一緒に持っていくからね」
遺影の層一は、若い頃の笑顔を浮かべている。
「新千歳から那覇に行って、那覇から石垣島。そこから船だって。なまら遠いよ」
雪は笑いながら涙を拭いた。
「そうちゃん、本当にこんな遠いところへ私を連れていくつもりだったの?」
もちろん答えはない。
それでも、層一なら「遠い方が旅らしいべ」と笑ったような気がした。
「南十字星、見られるかな」
雪はパンフレットに載っている夜空の写真を見た。
「見えなくても、行くだけでいいのかもしれんね。でも、できれば見たい。そうちゃんと約束した星だから」
窓の外には、北海道の夜空が広がっていた。
同じ空のはるか南。
波照間島から見える星空。
その景色へ向かう旅が、正式に決まった。
*
その夜、練習を終えた恵と光希は、新居で夕食を取っていた。
恵は四本のジャンプをすべて安定して終えた。
光希もジャンプと短いクロスカントリー練習を問題なく終えている。
「コスキネンコーチ、ビールのこと何て言った?」
恵が尋ねる。
「正直でよろしいって。そのあと、体調は自分でしっかり確認せんといかんばいって言われた」
「やっぱり博多弁出たんだ」
「めぐは?」
「寄子コーチに、生活の中に競技があるって言われた」
「競技の中に生活があるんでなくて?」
「うん。家族と食事する日も、少し飲む日も含めて生活だからって」
「いい言葉だね」
「長く競技続けるなら、そういう時間も大事なんだと思う」
その時、恵のスマートフォンが鳴った。
画面には雪の名前が表示されている。
「お母さんだ」
通話に出ると、雪の声が聞こえた。
『めぐ、今話せる?』
「うん。どうしたの?」
『相談というか、報告があるんだわ』
「何さ」
『お母さん、旅行へ行くことにした』
恵は少し驚き、箸を置いた。
「旅行?」
『波照間島』
「沖縄の?」
『そう。お父さんと昔、一緒に行って南十字星を見ようって約束してた場所』
恵はしばらく黙った。
層一と雪の、果たせなかった約束。
「一人で行くの?」
『生田のおじいちゃんとおばあちゃんも一緒に行ってくれることになった』
「康夫おじいちゃんと愛子おばあちゃん?」
『うん。三人で』
「遠いしょ。大丈夫なの?」
『ほら、もう心配しとる』
「だって、上川から新千歳まで行って、那覇で乗り換えて、石垣島から船でしょ」
『ちゃんと調べて、無理のない日程にするよ。石垣島で一泊してから渡ることも考えとる』
「船、揺れるかもしれんよ」
『天気悪かったら無理に乗らん』
「おじいちゃんとおばあちゃんの体調も」
『二人とも、自分たちのことは自分で判断するって』
恵は口を閉じた。
心配だから止めたい気持ち。
しかし、それは雪が長い間抱いていた夢でもある。
自分が結婚して新しい人生を始めたように、雪にもこれからの時間がある。
「お母さん」
『うん』
「行ってきな」
電話の向こうで、雪が息をのむ気配がした。
「なまら遠いし、心配はするよ。でも、お父さんと約束した場所なんでしょ」
『うん』
「南十字星、見てきて」
『ありがとう、めぐ』
「写真いっぱい撮ってきてね」
『そうする』
「お父さんの写真も持っていく?」
『もちろん』
「したっけ、四人旅だね」
雪が小さく笑った。
『そうだね。四人で行ってくる』
通話を終えた後、恵はしばらくスマートフォンを見つめていた。
「雪さん、旅行へ行くの?」
光希が尋ねる。
「うん。波照間島。生田のおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に」
「南十字星を見るため?」
「お父さんと約束してたんだって」
「いい旅になるといいね」
「心配だけどね」
「見張らない。心配しすぎない」
光希が玄関で交わした言葉を繰り返すと、恵は少し笑った。
「お母さんにも同じこと言われるとは思わんかったわ」
「雪さんは自分で計画立てられる。康夫さんと愛子さんも一緒におる。めぐが全部背負わなくていいべ」
「うん」
「帰ってきたら、話聞けばいい」
「南十字星、見えるといいね」
二人は窓の外を見た。
北海道の夜空には、見慣れた星々が輝いている。
遠い南の島では、また違う星空が待っている。
雪は層一との約束を胸に、新しい旅へ向かう。
それは過去へ戻る旅ではない。
愛した人との思いを抱きながら、自分自身の未来へ進む旅だった。
第54話 終
次回予告
第55話「南十字星への旅支度」
波照間島行きを正式に決めた雪と、生田康夫、愛子。
しかし、上川から日本最南端の島へ向かう旅は簡単ではない。
上川から新千歳空港までの移動。
新千歳から那覇への長時間飛行。
那覇から石垣島への乗り継ぎ。
そして石垣港から波照間島へ渡る船。
海が荒れれば欠航もある。
島へ渡れても、雲が広がれば南十字星は見えない。
「一日で全部移動するのは無理でないかい」
「石垣島で一泊した方がいいべさ」
三人は体力と安全を優先し、余裕のある日程を組み始める。
一方、恵と光希は、雪たちの旅程を心配するあまり、次々に必要な物を挙げ始める。
「酔い止めは?」
「日焼け止めも必要だべ」
「夜は意外と冷えるかもしれんよ」
それを聞いた雪は笑う。
「めぐ、お母さんは子どもでないよ」
さらに光子、優子、美香へ旅の話が伝わり、博多からも大量の助言が届く。
「沖縄行くなら、暑さ対策は絶対たい」
「でも荷物増やしすぎたら移動が大変ばい」
北海道、博多、沖縄をつなぐ、にぎやかな旅支度が始まる。
そして雪は、層一の遺影の裏から一枚の古いメモを見つける。
『波照間島で、雪と南十字星を見る』
次回、第55話「南十字星への旅支度」。
二十年以上止まっていた約束が、航空券と船の時刻表の上で、ゆっくりと動き始める。




