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恵の物語  作者: リンダ


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夫婦の休養計画

第53話「夫婦の休養計画」


 結婚後初めての練習日を無事に終えた翌朝、恵と光希は目覚まし時計を鳴らさずに目を覚ました。


 新居の窓から差し込む朝日は柔らかく、上川駅の方角からは、列車がゆっくり走り出す音が聞こえてきた。昨日までなら、その音を聞いた瞬間に一日の予定を頭の中で組み立てていただろう。


 何時に朝食を終えるのか。何時に練習場へ向かうのか。準備運動を何分行い、映像をどこまで確認するのか。


 しかし、今日は完全休養日だった。


 恵は布団の中で体を伸ばし、隣でまだ目を閉じている光希へ声をかけた。


「今日は完全休養日だね」


 光希は薄く目を開け、枕元の時計を確認した。


「うん。練習なし。走り込みもなし。自主トレもなしだべ」


「昨日の映像を見るのもなし?」


「それ、俺に聞いとるふりして、めぐが見たいだけでないかい」


 見抜かれた恵は、少し笑った。


「一本だけならいいかなと思ったんだわ」


「一本見たら、次も見るべさ。踏み切りの場面だけ何回も戻すしょ」


「光希だって、クロスカントリーのデータ見たいんでないの」


「見たい」


「正直だね」


「でも、今日は見ないべ」


 光希は枕元のスマートフォンを裏返した。


「午前中は、スマホとパソコン使わないことにするかい」


「何もしない日なのに、計画立てるの?」


「何も決めなかったら、二人とも練習映像を見始めるべさ」


「それもそうだね」


 恵はベッドから降りると、リビングのテーブルへノートを持ってきた。


「午前中はスマホなし。買い物は一緒に行く。昼は簡単にする。午後はトランプか音楽」


 光希は隣からノートをのぞき込んだ。


「めぐ、休養日がもう予定でいっぱいになっとるよ」


「でも、何も決めないと落ち着かないんだわ」


「休むことまで完璧にしようとしとらん?」


 恵はペンを止め、光希を見た。


「光希に言われたくないべさ」


「俺も同じだから分かるんだわ」


 その時、テーブルの上に置いていたスマートフォンが鳴った。画面にはコスキネンコーチの名前が表示されている。


 恵が通話に出ると、フィンランド出身の女性コーチの明るい声が聞こえてきた。


『おはよう。二人ともちゃんと休んどるかい』


「今、休養日の予定を決めとったところ」


『予定?』


「午前中はスマホとパソコンなし。買い物に行って、昼は簡単にして、午後は音楽かトランプ」


 電話の向こうで、コスキネンは数秒黙った。


『めぐ』


「何さ」


『休む予定を詰め込みすぎたら、休養日に忙しくなるべさ』


「そんなに詰め込んどらんよ」


『そげん完璧に休まんでよか』


「また博多弁出たね」


『休みの日まで満点取ろうとせんでよかと。買い物して、行きたいところがあったら寄って、疲れたら帰って昼寝すればいいんだわ』


「予定どおりに休まなくてもいい?」


『予定どおりに休むって何さ。休養日にまで自分を追い込んだら、練習日と変わらんべ』


 隣で聞いていた光希が笑いをこらえている。


「光希、何笑っとるの」


「めぐ、完全に見抜かれとるからさ」


『光希も同じだべ。めぐだけの話でないたい』


「俺もですか」


『二人で休養日の成績競争を始めそうだから、先に言っとくんだわ。今日は結果なし。何時までに何をするか決めなくていい』


「したっけ、買い物だけ行って、あとはその時に考えるべ」


『それでよか。楽しんでおいで』


 通話が終わると、恵はノートに書いた予定を見つめた。


「全部消す?」


「買い物だけ残すべ」


「トランプは?」


「やりたくなったらやる」


「音楽は?」


「聴きたくなったら聴く」


「昼寝は?」


「眠くなったらする」


 恵は予定の部分へ横線を引いた後、少し考えてノートを閉じた。


「もう何も書かんことにするわ」


「それが一番休養日らしいべ」


 二人は笑いながら朝食の準備を始めた。


     *


 朝食を終えた二人は、日用品と夕食の材料を買うために町へ出かけた。


 新居で暮らし始めると、結婚前には気づかなかった細かな物が必要になった。保存容器、台所のふきん、洗濯ばさみ、予備のタオル。二人は売り場を歩きながら、少しずつ必要な物を買い物かごへ入れていった。


「台所のふきん、もう二枚くらい欲しいね」


「俺は洗濯ばさみが足りないと思うべ」


「光希、洗濯物は適当に干すのに、洗濯ばさみは気になるんだね」


「風で飛んだら困るしょ」


「シャツの肩は曲がってもいいのに?」


「乾けばいいべ」


「基準がよく分からんわ」


「暮らしながら決めていけばいいべさ」


 食料品売り場では、恵が野菜を見ながら尋ねた。


「今日の夜、何にする?」


「昨日の餃子、少し残っとるよ」


「したっけ、汁物だけ作ればいいね」


「簡単でいいべ。今日は休養日だから」


 買い物を終えて店の外へ出ると、恵は駐車場へ向かわず、少し離れた住宅街の方向を見た。


「どうしたの?」


「おじいちゃんとおばあちゃんの家、ここから近いしょ」


 恵が言う祖父母とは、亡き父・層一の両親である湧介と美崎のことだった。


 層一が亡くなった後も、湧介と美崎は雪と恵を家族として支え続けてきた。恵が幼い頃には、練習や大会の送迎を手伝い、雪が店や仕事で忙しい時には、恵を家へ泊めることもあった。


「寄っていく?」


 光希が尋ねる。


「急に行って迷惑でないかな」


「留守だったら帰ればいいしょ」


「電話した方がいい?」


「直接行って驚かせるのもいいんでないかい」


 恵は少し考えた後、うなずいた。


「したっけ、行ってみるべ」


 二人は車へ買い物袋を置き、湧介と美崎の家へ向かった。


     *


 玄関のチャイムを押すと、家の奥から足音が近づいてきた。


「誰だい」


 湧介の声が聞こえる。


「私だよ」


「恵かぁ?」


 玄関が勢いよく開き、湧介が顔を出した。その後ろから美崎もやってくる。


「本当に恵でないかい。光希くんも一緒か」


「こんにちは。急に来てすみません」


「何言っとるのさ。孫夫婦が来て迷惑なわけないべ」


 湧介はうれしそうに光希の肩をたたいた。


「今日は晩飯食っていくか?」


「今日は二人とも完全休養日なんだわ。買い物終わった後、ちょっと顔出そうと思ってさ」


「そうか、そうか。早く入って」


 美崎も笑顔で二人を手招きした。


「ちょうどよかった。今日はジンギスカンにしようと思っとったんだわ。一緒に食べよ」


「本当にいいの?」


「肉も野菜もあるし、二人増えたくらい、どうにでもなるべさ」


 湧介は光希の顔をあらためて見つめた。


「光希くん、もう恵の旦那さんなんだもなぁ」


「はい。まだ自分でも慣れませんけど」


「俺も慣れんわ。少し前まで恵の婚約者だったのに、今は孫夫婦だべさ」


「結婚式から何日かたっとるよ」


「年寄りには、まだ昨日みたいなもんだ」


 湧介のうれしそうな表情を見て、恵も笑顔になった。


     *


 居間には、恵が幼い頃から見慣れた物がそのまま残っていた。


 壁に掛けられた古い時計。美崎が育てている鉢植え。湧介がいつも座る座椅子。棚には、恵が幼い頃に描いた絵や、初めてジャンプ大会で優勝した時の写真が飾られている。


 光希は、小さなヘルメットをかぶった恵の写真の前で足を止めた。


「これ、めぐ何歳?」


「五歳くらいでないかな」


「ヘルメット、なまら大きいね」


「顔ほとんど見えんしょ」


 台所から美崎が声をかける。


「その頃は、ジャンプ台へ行く前の日からヘルメット抱えて寝ようとしとったんだよ」


「おばあちゃん、その話もう何回も聞いたべさ」


「光希くんは聞いてないしょ」


「雪さんから聞きました」


「お母さん、何でも話しとるね」


 恵が少し恥ずかしそうにすると、湧介が笑った。


「夫婦になったんだから、昔の恥ずかしい話も全部知ってもらえばいいんだわ」


「おじいちゃんの恥ずかしい話も聞かせてよ」


「俺にはそんなもんない」


 美崎がすぐに台所から声を飛ばした。


「あるべさ。若い頃、飲みすぎて玄関と物置を間違えた話とか」


「それは今関係ないべ」


「光希くん、あとでゆっくり教えるからね」


「お願いします」


「光希まで乗らんでよ」


 家の中に笑い声が広がった。


     *


 夕方になると、居間のテーブルへジンギスカン鍋が置かれた。


 肉が焼け始めると、香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がった。玉ねぎ、もやし、ピーマン、キャベツが鍋の周囲へ並べられ、肉の脂とたれが野菜へ染み込んでいく。


 湧介は冷蔵庫を開け、ビールを数本取り出した。


「恵、もう酒飲める年だよな」


「二十歳越えとるから大丈夫よ」


「そうだったな。俺の中では、まだ小さい頃のままなんだわ」


 湧介は光希へ顔を向ける。


「光希くんも一緒に飲もうか」


「少しだけなら」


「今日は完全休養日なんだべ。明日は練習か?」


「はい。だから本当に一杯だけにします」


「そのくらいがいいな。飲みすぎたらコーチに怒られるべさ」


「コスキネンコーチなら、道北弁と博多弁の両方で怒ると思う」


 恵が言うと、湧介が声を上げて笑った。


「フィンランドの人に博多弁で怒られるのか。それは怖いな」


 美崎がグラスを並べていると、玄関のチャイムが鳴った。


「誰だべ」


 美崎が玄関へ向かう。


 しばらくすると、聞き慣れた女性の声がした。


「お父さん、お母さん、いる?」


「雪さんかい。入んなさい」


 居間へ現れたのは雪だった。


 雪は恵と光希を見て、驚いたように目を見開いた。


「あら、二人も来とったの?」


「買い物のあと寄ったんだわ」


「お母さんこそ、どうしたのさ」


「今日は店を早めに終わらせたからね。お父さんとお母さんの顔を見ようと思って」


 雪にとって、生田康夫と愛子は実の両親であり、湧介と美崎は亡き夫・層一の両親だった。


 層一が亡くなった後も、雪は二人を「お父さん」「お母さん」と呼び続けている。湧介と美崎も雪を深く気遣い、長年家族として支えてきたが、呼び方は昔から変わらず「雪さん」だった。


 湧介はすぐにビールを一本持ち上げた。


「雪さんも一緒に飲むか?」


 雪はジンギスカン鍋と、並んだグラスを見て微笑んだ。


「したっけ、私も一緒に飲もうかな」


「車は?」


「今日は歩いてきたから大丈夫よ」


「それなら決まりだべさ」


 美崎が雪のためのグラスを一つ追加した。


「雪さん、こっち座りなさい。ちょうど肉も焼けるところだから」


「ありがとう、お母さん」


 雪は美崎の隣へ腰を下ろした。


     *


 五人が席につくと、湧介は全員のグラスへビールを注いだ。


 泡がゆっくりと盛り上がる。


 湧介は自分のグラスを持ち上げ、目の前の恵と光希、隣の雪を順番に見た。


「何に乾杯する?」


 恵が尋ねる。


「孫夫婦の新しい生活と、雪さんが恵を立派に育ててくれたことに乾杯だべ」


 雪は少し照れたように笑った。


「私はまだ母親を卒業したわけでないよ」


「でも一区切りだべさ。雪さんが長い間頑張ってくれたから、今日こうして孫夫婦と一緒に飯を食えるんだわ」


 美崎も雪へ優しい視線を向けた。


「本当にありがとうね、雪さん」


「お父さん、お母さんにも、ずっと助けてもらったからだよ」


「それでも一番近くで恵を育てたのは雪さんだべ」


 湧介はあらためてグラスを掲げた。


「したっけ、恵と光希くんの結婚、それから雪さんが恵を立派に育ててくれたことに乾杯だ」


「乾杯」


 グラスが静かに触れ合った。


 湧介はビールを一口飲むと、満足そうに目を細めた。


「うまいなぁ」


「いつものビールでしょ」


 美崎が言う。


「いつものとは違うべさ。雪さんと孫夫婦と飲むビールは、なまらうまいんだわ」


 湧介は本当にうれしそうな顔をしていた。


「こうやって俺も、孫夫婦と酒が飲めるようになったんだなぁ」


 恵は祖父の横顔を見ながら、少し照れくさそうに笑った。


「私、もう子どもでないよ」


「分かっとる。でも、祖父にとって孫は何歳になっても孫だべさ」


「光希くんも、今日から孫だからね」


 美崎が言うと、光希は少し驚いた顔をした。


「俺もですか」


「恵と結婚したんだから、そうに決まっとるしょ」


 湧介もグラスを持ったままうなずく。


「遠慮するんでないぞ。練習で疲れた時でも、飯食いたい時でも来ればいい」


「ありがとうございます」


「ただし、恵を泣かせたら俺が黙っとらんからな」


「お父さん、それ光希くんの両親も言っとったよ」


 雪が笑う。


「大事なことは何度言ってもいいべさ」


 光希はまじめな顔で頭を下げた。


「恵を大切にします。でも、俺一人が支えるんでなく、二人で支え合っていきます」


「それでいい」


 湧介は満足そうにうなずいた。


     *


 ジンギスカン鍋から肉を取る役は、いつの間にか湧介になっていた。


「恵、もっと食べれ」


「さっきから私の皿ばっかり増えとるよ」


「選手は食べんと駄目だべ」


「休養日だからって、食べすぎも駄目なんだわ」


「今日くらいいいしょ」


「おじいちゃん、コスキネンコーチに怒られるよ」


「ここまで怒りに来るのか」


「来そうだから怖いんだわ」


 光希の皿にも肉が次々と置かれていく。


「光希くんも食べれ」


「ありがとうございます。でも十分いただいてます」


「若いんだから遠慮すんな」


「お父さん、光希くんの皿、肉で山になっとるよ」


 美崎に言われ、湧介はようやく箸を止めた。


「少し張り切りすぎたか」


「孫夫婦と食べるの、うれしいんだね」


 雪が言うと、湧介は照れくさそうにビールを飲んだ。


「そりゃ、うれしいべさ。恵が小さい頃は、まさか一緒に酒を飲む日が来るなんて考えもしなかった」


「私が大人になると思ってなかったの?」


「思っとったけど、ずっと先のことだと思っとったんだわ。したっけ、あっという間だった」


 湧介の声が少し静かになる。


「層一にも、この席におってほしかったな」


 居間の空気が一瞬だけ変わった。


 雪はグラスを見つめた後、穏やかに答えた。


「うん。そうちゃんも、きっと一緒に飲みたかったと思う」


「今頃、どこかで見とるべ」


「そうだね」


 美崎は雪の肩へそっと手を置いた。


「雪さん、層一も喜んどるよ。恵がこんなに立派になって、光希くんと一緒に笑っとるんだから」


「うん」


 恵は自分のグラスを少し持ち上げた。


「お父さんにも乾杯する?」


 湧介がうなずいた。


「そうするべ」


 五人は再びグラスを上げた。


「層一に」


「そうちゃんに」


「お父さんに」


「乾杯」


 恵はビールを一口飲み、胸の中で父へ語りかけた。


 お父さん、私、光希と夫婦になったよ。


 今日はおじいちゃんとおばあちゃんと、お母さんと一緒に笑ってるよ。


 会うことはできなくても、父から受け取ったものは、家族の中で生き続けていた。


     *


 食事が進むにつれ、話題は昔の出来事へ移っていった。


 湧介と美崎は、恵が幼い頃、ジャンプ台へ行く日の朝だけは誰よりも早く起きていたことや、初めて大会で優勝した後も、すぐ次の練習へ行きたがって雪に止められたことを話した。


「今と変わっとらんね」


 光希が笑う。


「最近は休むの上手になったも」


 恵が反論する。


「少しだけね」


 雪が横から言う。


「お母さんまで何さ」


「でも本当に変わったよ。前なら、休養日にここへ寄っても、頭の中では明日の練習考えとったしょ」


 恵は少し考えた。


「今日は、ほとんど考えとらんかったわ」


「ジンギスカンに集中しとるからでないかい」


 美崎が言うと、全員が笑った。


「それでいいんだべ」


 湧介はビールを飲みながら、ゆっくりと続けた。


「働く時は働く。休む時は休む。家族と飯食う時は、飯と話に集中する。昔の人は、案外そうやって暮らしとったんだわ」


「お父さんも、若い頃は休むの下手だったしょ」


 美崎がすぐに指摘する。


「昔の話はいいべ」


「さっきから恵の昔話ばっかりしとるのに?」


「俺の話はまた今度だ」


「都合いいねぇ」


 光希が笑いながら湧介へ尋ねた。


「今度、聞かせてください」


「何をだ」


「玄関と物置を間違えた話です」


「誰から聞いた」


「美崎おばあちゃんです」


 湧介は妻を見た。


「全部話しとるのか」


「孫夫婦には、正しい家族の歴史を伝えんとね」


 居間には再び大きな笑い声が広がった。


     *


 食事が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 恵と光希は翌日の練習を考え、ビールは最初の一杯だけにしていた。雪も少量で止め、水へ切り替えている。


 湧介は二杯目をゆっくり飲みながら、孫夫婦を何度も見つめていた。


「本当にうれしそうだね」


 美崎が言う。


「うれしいんだから仕方ないべさ」


「顔に全部出とるよ」


「いいんだわ。今日くらい」


 湧介は少し照れながら、恵と光希へ言った。


「また来いよ。休養日でなくても、何もなくても来ればいい」


「うん」


「今度は、二人で何か作って持ってくるべ」


 光希が答えると、美崎が尋ねた。


「餃子はどうだい」


「この前、二人で作ったんだわ。なまらうまくできたよ」


「したっけ、次は餃子とジンギスカンの交換会だな」


「食べ合わせ、大丈夫かな」


「家族で食えば、何でもうまいべさ」


 湧介のその言葉に、恵は静かに笑った。


 帰り際、美崎は雪へ声をかけた。


「雪さん、今日は来てくれてありがとうね」


「こちらこそ。お父さんとお母さんと一緒に飲めてよかった」


「またいつでも来なさい。恵たちが結婚して家が静かになった時も、一人で我慢するんでないよ」


「うん。ありがとう、お母さん」


 湧介も玄関まで見送りに出た。


「雪さんも無理するんでないぞ。店ばっかり働いて、また休むの忘れたら駄目だべ」


「恵と同じこと言われとるね」


「親子だからな」


 雪は笑いながら、二人へ深く頭を下げた。


「お父さん、お母さん、これからもよろしくお願いします」


「こちらこそだべさ。雪さんは、これからも大事な家族だからな」


 湧介の言葉に、雪は少し目を潤ませながらうなずいた。


     *


 帰宅後、恵と光希は新居のリビングへ並んで座った。


「今日、楽しかったね」


「うん。予定になかったけど、行ってよかったべ」


「休養日を計画で埋めなくて正解だったわ」


「コスキネンコーチに報告する?」


「湧介おじいちゃんと美崎おばあちゃんの家でジンギスカン食べて、ビール一杯だけ飲んだって?」


「正直に言った方がいいべ。体調もちゃんと報告すればいいべさ」


「たぶん怒られないしょ」


「湧介おじいちゃん、本当にうれしそうだったね」


「私が結婚したこと、まだ実感なかったんだと思う」


「俺も孫って言われて、少しびっくりしたべ」


「嫌だった?」


「まさか。うれしかった」


 恵は光希の肩へ少し体を預けた。


「家族、増えたね」


「うん」


「光希の家族も私の家族になって、私の家族も光希の家族になった」


「付き合ってた頃とは、少し違うね」


「うん。夫婦になったんだわ」


「今日何回目の確認だべ」


「まだ言うよ」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 休養日は、何もしないだけの日ではなかった。


 思いがけない場所へ立ち寄り、家族と食卓を囲み、昔話を聞き、同じグラスを掲げる。そんな時間もまた、心を休ませ、明日へ向かう力を蓄える大切な時間だった。


 一日の最後、恵は休養ノートを開いた。


『今日は、買い物のあとで湧介おじいちゃんと美崎おばあちゃんの家へ寄った。


 予定にはなかった。


 ジンギスカンを食べた。


 おじいちゃんとおばあちゃんと、お母さんと光希と一緒にビールを飲んだ。


 おじいちゃんが、孫夫婦と飲めるようになったと笑っていた。


 おじいちゃんとおばあちゃんは、お母さんのことを雪さんと呼んでいた。


 その呼び方は昔から変わらない。


 でも二人の言葉や表情から、お母さんを本当の家族として大切にしていることが伝わった。


 競技のことは、ほとんど考えなかった。


 休養日に予定どおり休めたかどうかは分からない。


 でも、心から笑えた。


 きっと、それで十分なんだと思う。』


 恵は最後の一行を書き、ノートを閉じた。


第53話 終


次回予告


第54話「家族が増えた練習日」


 休養日の翌朝、恵と光希はそれぞれの練習場へ向かう。


 前日のジンギスカンと家族との時間で心は軽く、体にも疲労は残っていない。


 しかし、練習場ではコスキネンコーチが二人の休養日の過ごし方を細かく確認する。


「ビール飲んだって?」


「一杯だけだべさ」


「正直でよろしい。でも次の日の体調は、自分でしっかり確認せんといかんばい」


 一方、雪はカフェ雪で、層一と行くはずだった旅行先の資料を広げる。


 長い間、棚の奥へしまっていた古い観光案内。そこに記されていたのは、層一がいつか雪と行きたいと話していた場所だった。


 娘を送り出し、母親としての大きな役目を終えた雪は、その場所へ一人で行くことを考え始める。


 その夜、生田康夫と愛子から雪へ電話が入る。


「一人で行くのが寂しいなら、うちらと行けばいいべさ」


 層一との思い出を胸に、雪は新しい旅へ踏み出せるのか。


 そして練習を終えた恵と光希のもとへ、青柳家と上川家の両方から連絡が入る。


「今度は両家みんなで食事しないかい」


 夫婦になった二人を中心に、新しい家族の輪が少しずつ広がっていく。


 次回、第54話「家族が増えた練習日」。


 結婚によって増えたのは、責任だけではない。


 帰れる家と、心配してくれる人と、同じ食卓を囲む笑顔も増えていた。

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