休養日から始まる夫婦生活
第52話「休養日から始まる夫婦生活」
結婚式から二日後の朝、雪は久しぶりに層一の夢を見た。
そこは、現実のどこにもない場所だった。
薄い朝霧の向こうに、なだらかな雪原が広がっている。空は淡い青色で、風はなく、雪の表面には朝日が静かに反射していた。
遠くに、一人の男性が立っている。
黒い防寒着。
短い黒髪。
少し照れくさそうに笑う顔。
雪は、その姿を見た瞬間に分かった。
「そうちゃん」
声を出した途端、胸の奥に二十年以上しまい込んできた思いが一気にあふれた。
層一は何も言わず、ゆっくりと雪へ近づいてくる。
病室で最後に見た痩せ細った姿ではない。白血病を発症する前、ジャンプ選手として世界を飛び回っていた頃の、元気な層一だった。
「雪」
懐かしい声だった。
映像の中で聞いた声ではない。
記憶の中で何度も思い出した声でもない。
すぐ目の前から、自分へ向けて呼びかける声だった。
雪は震える足で層一へ歩み寄った。
「そうちゃん、本当にそうちゃんなの?」
「ああ」
層一は穏やかに笑った。
「長い間、恵を育ててくれてありがとう。お疲れさま」
その言葉を聞いた瞬間、雪の目から涙があふれた。
「私、ちゃんと育てられたかな」
「ちゃんとどころでないべさ」
「でも、迷ったこともいっぱいあったよ。怒りすぎた日もあったし、私がしっかりせんとって思って、めぐの気持ちを聞けなかったこともあった」
「それでも、雪はずっとあの子のそばにおった」
「一人で頑張ったわけでないよ。みんなに助けてもらった」
「助けてもらえる場所を作ったのも雪だべ」
層一は雪の前へ立つと、両腕を広げた。
雪は迷うことなく、その胸へ飛び込んだ。
層一の腕が、背中を優しく包む。
温かかった。
病院で抱きしめた時の細い腕ではない。婚約していた頃、遠征から帰ってきた層一に抱きしめられた時と同じ、強くて優しい腕だった。
「そうちゃん」
「うん」
「私、頑張ったよね?」
雪は層一の胸へ顔を埋めたまま尋ねた。
「ああ。雪は恵を立派に育ててくれた」
層一の手が、雪の髪をゆっくりとなでる。
「頑張ったじゃ足りないくらい、頑張ってくれた」
雪は声を上げて泣いた。
「本当は、ずっと言ってほしかった」
「ごめんな。遅くなった」
「遅すぎるよ」
「そうだな」
「めぐ、なまらきれいだったよ」
「見てたべ」
「本当に?」
「ああ。光希くんと並んで、幸せそうに笑っとった」
「手紙も読んだよ」
「雪なら届けてくれると思っとった」
「最後まで読むの、なまら大変だったんだから」
「ありがとう」
層一は、雪をもう一度強く抱きしめた。
「これからは、少し雪自身のためにも生きていいんだぞ」
「そうちゃんがいないのに?」
「俺がおらんからって、雪の人生が終わるわけでないべさ」
「でも、私はそうちゃんが好きだよ」
「知っとる」
「これからもずっと好きだよ」
「それでいい」
層一の声は、どこまでも穏やかだった。
「俺を忘れる必要はない。恵の母親であることをやめる必要もない。ただ、雪が笑える時間を、少しずつ増やせばいい」
「私にできるかな」
「雪ならできるべ」
層一は雪の頬へ触れた。
「もう、ずっと一人で立ってなくていい。疲れたら、生田のお父さんとお母さんにも甘えればいい。恵にも頼ればいい」
「めぐには心配かけたくない」
「また一人で抱えようとしとる」
「そうちゃんに言われたくないよ」
「それもそうだな」
二人は涙を浮かべながら笑った。
その時、遠くから列車の走る音が聞こえた。
雪原の向こうを、一両の列車がゆっくりと進んでいく。
層一の姿が、朝の光の中で少しずつ薄くなり始めた。
「そうちゃん、行っちゃうの?」
「雪が目を覚ます時間だべ」
「もう少しおってよ」
「また会える」
「いつ?」
「雪が俺を思い出した時は、いつでもそばにおる」
層一は最後に、いつもの笑顔を見せた。
「雪、本当にありがとう。お疲れさま」
「そうちゃん」
「これからも、見とるからな」
雪は手を伸ばした。
だが、層一の姿は朝の光へ溶けていった。
*
雪は自分のベッドの上で目を覚ました。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
頬が濡れていた。
枕にも、涙の跡が残っている。
雪はしばらく天井を見つめた後、ゆっくりと上半身を起こした。
「夢だったんだね」
そうつぶやいたものの、層一に抱きしめられた温かさは、まだ背中に残っているような気がした。
雪は寝室を出ると、層一の遺影の前へ座った。
写真の中の層一は、昨夜までと変わらない笑顔を見せている。
「そうちゃん」
雪は遺影へ向かって微笑んだ。
「来てくれたんだね」
涙は流れていたが、結婚式の夜に泣き崩れた時とは違った。
寂しさだけではない。
長い間、誰かに言ってほしかった言葉を、ようやく受け取れたような安堵があった。
「ありがとう。私、もう少しだけ自分を褒めてもいいのかもしれんね」
雪は遺影の前へ温かいお茶を置いた。
「今日は店を開けるよ。めぐがおらんから、前より静かかもしれんけど、私の暮らしも続くもね」
それから少し笑って付け加えた。
「疲れたら、また実家に甘えに行くわ」
*
同じ朝、恵と光希は結婚後初めての練習日を迎えていた。
二人は同じ家で朝食を取り、ほぼ同じ時間に家を出たものの、向かう練習場は違う。
恵はジャンプ台へ。
光希はノルディック複合の練習場へ。
玄関で靴を履きながら、恵が光希の右膝へ目を向けた。
「膝、大丈夫?」
「大丈夫だべ。めぐの足首は?」
「問題ないよ」
「無理するんでないよ」
「光希もね」
二人は顔を見合わせた。
「夫婦になって最初の会話が、また足の状態確認だね」
「昨日も同じこと言っとったべ」
「毎日言うことになるんでないかい」
「それはちょっと嫌だな」
「じゃあ、お互い自分のコーチを信じるべ」
「うん。帰ってきてから報告する」
「見張らない」
「心配しすぎない」
二人は小さく拳を合わせた。
「したっけ、行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
光希は玄関を出た後、一度振り返った。
「めぐ」
「何さ」
「無事に帰ってこいよ」
「光希もね」
*
ジャンプ台へ到着すると、恵は寄子コーチから体調を聞かれた。
「新婚最初の朝はどうだった?」
「卵焼きの味で揉めたわ」
「甘い派と、しょっぱい派?」
「そう。私は甘い方」
「光希はしょっぱい方だね」
「何で知っとるのさ」
「昔、合宿の朝食で砂糖入りの卵焼き見て、少し困った顔してたから」
「そんな昔から違いが出とったんだね」
寄子は笑いながら、恵の歩き方と足首の状態を確認した。
「光希のこと、気になる?」
「少し」
「膝の状態?」
「うん。結婚したばっかりで、また怪我したらって思うとさ」
「光希も、めぐのこと同じように心配してるだろうね」
「たぶん」
「でも夫婦になったからって、ずっと見張る必要はないべさ」
寄子の言葉に、恵は少し考えた。
「心配するのと、見張るのは違う?」
「違うよ。心配するのは大切。でも、相手の体や練習まで自分が管理しようとしたら、二人とも疲れる」
「信じるってこと?」
「光希が自分の状態を判断できること。コーチやスタッフに正直に伝えられること。それを信じる」
「もし無理してたら?」
「帰ってきた時に話を聞けばいい。めぐが遠くから全部防ごうとしなくていいんだよ」
恵はジャンプ台を見上げた。
「夫婦って、難しいね」
「結婚三日目で全部分かったら怖いよ」
「それもそうだわ」
練習が始まると、恵は自分の動きへ集中した。
助走姿勢。
踏み切り。
空中姿勢。
着地。
光希の膝を考えそうになった時は、目の前の一本へ意識を戻す。
今、自分ができることは、自分の体を守りながら質の高いジャンプをすることだった。
*
光希の練習場では、コスキネンが準備運動の様子を見ていた。
「光希、さっきから時計ばっかり見とるべ」
「帰る時間を確認してるだけです」
「恵の練習が終わる時間、気になっとるんでないの」
「少しだけ」
「めぐは寄子と海斗に任せたらいいべさ」
「分かっとります」
「分かっとる顔でないたい」
「また博多弁になってますよ」
「光希が言うこと聞かん時は、博多弁の出番だべ」
コスキネンは腕を組んだ。
「夫婦になったからって、相手の練習まで背負う必要はない。自分の体に集中しなさい」
「でも、足首の状態が」
「めぐは自分で休むことを覚えた。寄子も海斗もおる。光希がここで心配し続けても、めぐの足首は一ミリも良くならんべさ」
「それはそうですけど」
「逆に、光希が集中せんで膝痛めたら、めぐがもっと心配するべ」
光希は返す言葉を失った。
「それぞれ自分の練習をして、無事に家へ帰る。それが今日の夫婦の仕事たい」
「最後だけ博多弁ですね」
「大事なところは博多弁だべ」
「混ざってます」
光希は苦笑しながら、ようやく練習へ意識を戻した。
*
カフェ雪では、結婚式後初めての営業が始まった。
開店前、雪は恵がいつも座っていた席へ一度だけ目を向けた。
椅子は空いている。
その静けさに胸が少し締めつけられたが、今朝の夢で聞いた層一の言葉を思い出す。
『これからは、少し雪自身のためにも生きていい』
雪は深呼吸をし、入口の札を「営業中」へ裏返した。
常連客たちは店へ入ると、すぐに店内の変化へ気づいた。
「あれ、今日は恵ちゃんおらんのかい」
「もう新居だもの」
「分かっとるけど、何だか静かだねぇ」
「前は練習前にコーヒー飲んどったもね」
雪はカップへコーヒーを注ぎながら笑った。
「寂しくないって言えば、うそになるよ。でも、あの子が幸せなら、それでいいんだわ」
「雪さん、昨日眠れたかい」
「うん。そうちゃんの夢見た」
常連客たちが静かになる。
「何て言っとったの」
「恵を育ててくれてありがとうって。お疲れさまって言ってくれた」
雪は少し目を潤ませながらも、笑顔を崩さなかった。
「ようやく、そうちゃんに褒めてもらえた気がしたわ」
「本当に、お疲れさまだね」
常連の一人がそう言うと、ほかの人々もうなずいた。
雪は照れくさそうに笑い、コーヒーを運んだ。
「したっけ、今日は皆さんに甘えて、のんびり営業させてもらうわ」
「いつも十分働いとるから、たまにはいいべさ」
店内には以前と少し違う、穏やかな時間が流れ始めた。
*
夕方、恵と光希はほぼ同じ時間に新居へ戻った。
先に玄関へ着いた恵が鍵を開けようとすると、後ろから光希の声がした。
「めぐ、今帰ったの?」
「うん。光希も?」
「ちょうどだべ」
二人は並んで玄関へ入った。
「足首は?」
「問題なし。光希の膝は?」
「大丈夫」
「練習どうだった?」
「帰ってから話す約束だったもね」
「うん」
リビングへ入ると、二人は練習内容や体の状態を簡単に報告し合った。
恵は予定された本数で練習を終えた。
光希も膝に違和感はなく、コスキネンの指示どおり余力を残して終了した。
「お互い、ちゃんと帰ってきたね」
「今日の仕事、達成だべ」
そこで、二人は同時に台所を見た。
「夕食、どうする?」
恵が尋ねる。
「めぐ、疲れとるしょ。俺が作るべ」
「光希も疲れとるべさ」
「じゃあ、簡単なものにする?」
「でも、冷蔵庫にひき肉とニラあったよね」
「餃子にする?」
「二人で作るべ」
光希は少し驚いた。
「疲れとるのに?」
「一人で全部やるから疲れるんだべさ。二人で作ればいいしょ」
「そうだね」
二人は着替えを済ませ、並んで台所へ立った。
恵がニラとキャベツを刻み、光希がひき肉をこねる。
「光希、混ぜすぎでないかい」
「粘りが出るまで混ぜるって書いとるべ」
「でも、なまら本気でこねとるよ」
「中途半端にやったら、まとまらんしょ」
「何でも競技みたいにやるんだから」
「めぐもキャベツの大きさ、全部そろえようとしてるべ」
「食感が大事だわ」
「お互い様だね」
具が完成すると、今度は皮へ包む作業が始まった。
恵は最初の一個を慎重に包んだが、具を入れすぎて皮が閉じなかった。
「あれ」
「入れすぎだべ」
「これくらい入れないと、食べ応えないしょ」
「閉じなかったら焼けんべさ」
「光希、やってみて」
光希が包んだ餃子は、ひだこそ整っていたものの、具が少なすぎて平たくなった。
「光希の、なまら細いね」
「閉じることを優先したべ」
「守りに入りすぎだわ」
「めぐは攻めすぎだべ」
二人は互いの餃子を見比べ、笑った。
「したっけ、間を取る?」
「二人で一個ずつ包んでみるべ」
恵が具の量を決め、光希が皮を閉じる。
今度はちょうどよい形になった。
「できた」
「夫婦の共同作業、二日目は餃子だね」
「結婚式のケーキ入刀より生活感あるべ」
「こっちの方が私たちらしいしょ」
包み終えた餃子をフライパンへ並べる。
焼き目を確認し、水を加え、ふたをする。
蒸し焼きの音が台所へ広がり、ニラとひき肉の香りが立ち始めた。
「なまらいい匂い」
「焦がすなよ」
「光希こそ、ふた開けすぎでないかい」
「気になるんだべ」
「ジャンプ台の風待ちみたいに落ち着きなさい」
「餃子の方が状態見えんから緊張するべ」
水分が飛び、最後にごま油を回しかける。
皿をかぶせ、二人でフライパンをひっくり返した。
こんがりと焼けた餃子が、きれいに皿へ並んでいる。
二人はしばらく無言で見つめた。
「成功したべ」
「なまらうまくできたね」
恵が両手を上げると、光希も笑顔で手を合わせた。
「やった」
「世界大会で勝ったみたいな喜び方だね」
「初めて二人で作った餃子だから、同じくらい大事だべさ」
食卓へ並べ、二人で一つ目を口へ運ぶ。
外は香ばしく、中から熱い肉汁が広がった。
「おいしい!」
「うん。これは成功だべ」
「私の具の量と、光希の包み方がよかったんだね」
「一人だったら、めぐは閉じられない餃子ばっかりになっとったべ」
「光希一人なら、中身の少ない餃子だったしょ」
「二人でちょうどよかった」
恵は笑いながら、もう一つ餃子を取った。
「こういうことなのかもね」
「何が?」
「夫婦になるって。一人で全部できるようになるんでなくて、二人の違うところを合わせて、ちょうどよくする」
「朝の卵焼きは、まだ二種類だけどね」
「あれは無理に合わせなくていいべさ」
「違うままでもいいこともある?」
「うん。甘いのとしょっぱいの、両方食べればいいしょ」
「餃子も、次は違う具を二種類作るかい」
「もう次の話しとるの?」
「今日うまくいったからね」
上機嫌な二人の笑い声が、新居の食卓へ広がった。
疲れている時に、どちらか一人が無理をして相手のために頑張るのではない。
二人でできる範囲を考える。
簡単な料理を選ぶ。
失敗しても笑う。
それもまた、夫婦として支え合う方法だった。
*
夕食後、恵は雪へ電話をかけた。
「もしもし、お母さん。今日どうだった?」
「店開けたよ。常連さんたち来てくれた」
「寂しくなかった?」
「少しね。でも大丈夫だわ」
雪は少し間を置いてから続けた。
「今朝、そうちゃんの夢見たんだわ」
「お父さんの?」
「うん。長い間、恵を育ててくれてありがとうって。お疲れさまって言ってくれた」
恵は電話の向こうで黙った。
「お母さん、よかったね」
「うん」
「お父さん、お母さんが頑張ったこと、ちゃんと見とったんだね」
「そうみたいだわ」
「何か、ほかに話した?」
「これからは少し、自分のためにも生きていいって」
「お父さん、いいこと言うね」
「夢の中ではね」
二人は小さく笑った。
「めぐたちは夕食どうしたの?」
「光希と餃子作ったよ」
「初日から餃子?」
「ひき肉とニラあったからさ。二人で包んだら、なまらうまくできた」
「喧嘩しなかった?」
「具の量で少し意見割れたけど、間を取ったべ」
「夫婦らしくなってきたね」
「まだ三日目だよ」
「これからだわ」
「うん。これからだね」
電話を終えた雪は、層一の遺影へ笑いかけた。
「めぐたち、餃子作ったんだって。楽しそうにやっとるよ」
一方、新居では、恵と光希が食器を一緒に洗っていた。
洗う人。
すすぐ人。
拭いて棚へ戻す人。
まだ役割は決まっていない。
その日の疲れや気分に合わせて、二人で変えていけばよい。
夫婦になったからといって、毎日相手のために頑張り続ける必要はない。
疲れた時は、一緒に頑張らない方法を探す。
心配な時は、見張るのではなく、相手が無事に帰ってくることを信じる。
そして一日の終わりに、同じ食卓へ戻ってくる。
その小さな積み重ねが、二人の夫婦生活を少しずつ形作り始めていた。
第52話 終
次回予告
第53話「夫婦の休養計画」
結婚後初めての練習日を無事に終えた恵と光希。
しかし、翌日は再び完全休養日。
二人は新居で、夫婦として初めての休養計画を立てる。
「何もしない日なのに、計画立てるの?」
「何も決めなかったら、二人とも練習映像見始めるべさ」
午前中はスマートフォンとパソコンを使わない。
買い物は一緒に行く。
昼食は簡単にする。
午後はトランプか音楽。
だが、休養まで細かく決め始めた二人を見たコスキネンコーチは、道北弁と博多弁を交えて笑い飛ばす。
「休む予定を詰め込みすぎたら、休養日に忙しくなるべさ。そげん完璧に休まんでよか」
一方、カフェ雪では、層一の夢を見た雪が、自分のために新しいことを始めようと考える。
長く休んでいた趣味。
若い頃に好きだった音楽。
そして、層一と行くはずだった場所への小さな旅。
次回、第53話「夫婦の休養計画」。
休む時間に正解はない。
何もしない自由も、思い出をたどる時間も、それぞれの明日を支えていく。




