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恵の物語  作者: リンダ


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夫婦になた朝

第51話「夫婦になった朝」


 結婚式の翌朝、上川駅近くの新居には、昨日までとは違う静けさがあった。


 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、まだ新しい床や家具を淡く照らしている。窓の外からは、遠くを走る列車の音が聞こえてきた。


 恵はベッドの中で目を開けると、しばらく天井を見つめていた。


 見慣れない照明。壁際に置かれた段ボール箱。昨日、結婚式から帰ってきたまま置かれている花束。


 そして隣には、光希が眠っている。


 その姿を見た瞬間、恵はようやく昨日の出来事を思い出した。


 自分たちは結婚した。


 婚約者ではなく、今日から夫婦として同じ家で暮らしていく。


「本当に夫婦になったんだね」


 恵が小さくつぶやくと、隣で光希がゆっくり目を開けた。


「朝から確認しとるの?」


「起きとったの?」


「今起きたべ」


 光希は枕元の時計を見ると、少し驚いた顔をした。


「もう七時半だわ」


「休養日なんだから、いいしょ」


「いつもなら、とっくに朝のトレーニング始めとる時間だべ」


「今日は競技者でなくて、新婚夫婦の朝だよ」


「新婚夫婦は七時半まで寝ていいの?」


「知らんけど、たぶんいいべさ」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 恵はベッドから降り、右足を静かに床へ下ろした。痛みも張りもなく、体は軽い。光希も膝をゆっくり曲げ伸ばしし、問題がないことを確かめている。


 その動きを見た恵が目を細めた。


「今、体調確認したしょ」


「めぐもしたべ」


「今日は休養日だよ」


「確認だけならいいしょ」


「夫婦になって最初にすることが、互いの足の状態確認って、色気ないね」


「競技者夫婦だから仕方ないべ」


 光希が真面目に答えたため、恵は吹き出した。


     *


 着替えを済ませた二人は、初めて新居の台所へ並んだ。


 棚には、雪や両家の家族から贈られた食器がきれいに並んでいる。調理器具も一通りそろっていたが、まだどこに何があるのか、二人とも完全には把握していなかった。


「朝ごはん、何にする?」


 恵が冷蔵庫を開けながら尋ねる。


「ご飯と味噌汁。あと卵焼きでいいんでないかい」


「卵焼き、甘い方でいい?」


「俺はしょっぱい方が好きだべ」


 恵は冷蔵庫の扉を開けたまま振り返った。


「しょっぱい方?」


「うん」


「卵焼きは甘いものでしょ」


「それはめぐの家だけでないの」


「お母さんの卵焼き、ずっと甘かったよ」


「うちの母さんは塩とだしだったべ」


「結婚翌朝から、早くも食文化の衝突だわ」


「そんな大げさな話でないしょ」


「二種類作る?」


「朝から?」


「夫婦円満のために」


「卵焼き二本で守られる夫婦円満って、なまら安いね」


 結局、卵を二つの器に分け、恵は砂糖を入れ、光希は塩とだしを加えることになった。


 問題は、二人とも同時に卵焼き器を使いたがったことだった。


「先に私が焼くね」


「何でさ」


「甘い方を先に焼かないと、塩味が残るしょ」


「洗えばいいべ」


「朝から洗う回数増えるべさ」


「なら、しょっぱい方を先にしても同じでないかい」


 二人は卵焼き器を挟み、しばらく見つめ合った。


 恵が先に笑った。


「じゃんけんする?」


「結婚翌日の台所で?」


「公平でしょ」


「いいべ」


 じゃんけんの結果、恵が勝った。


「はい、甘い方から」


「世界一の選手に、じゃんけんで負けたべ」


「ジャンプとじゃんけんは関係ないしょ」


 恵は得意げに卵を流し入れた。


 しかし、新しい卵焼き器に慣れていなかったため、最初の一巻きで形が崩れた。


「あ」


「世界一でも卵焼きは別競技だべ」


「昨日コスキネンコーチも同じこと言っとったね」


「ババ抜きの時だべ」


「光希、笑ってないで手伝ってよ」


「俺の担当はしょっぱい方だべさ」


「夫婦なら助け合うんでなかったの」


 光希は苦笑しながら菜箸を受け取った。


 二人で何とか形を整えたものの、完成した甘い卵焼きは少し不格好になった。


「味がよければいいべ」


「それ、光子さんが言いそう」


 続いて光希のしょっぱい卵焼きを焼くと、今度は形だけはきれいにできた。


「光希の方が上手いの、ちょっと悔しい」


「子どもの頃から母さんの手伝いしとったからね」


「そういうことは結婚前に教えてよ」


「聞かれなかったしょ」


 二人はそれぞれの卵焼きを半分ずつ皿へ盛った。


 食卓へ座り、まず自分の好きな方を食べる。


「やっぱり甘い方がおいしいわ」


「俺はしょっぱい方だべ」


「相手のも食べてみる?」


「それが夫婦の歩み寄りかい」


「たぶん」


 恵は光希の卵焼きを一口食べ、光希も甘い方を口に運んだ。


「しょっぱいのも悪くないね」


「甘いのも、たまにならいいべ」


「毎日交代にする?」


「二種類作る日もあっていいしょ」


「結局、両方食べるんだ」


「夫婦円満だからね」


 朝食だけで、二人はこれまで知らなかった互いの習慣を一つ知った。


     *


 食後は洗濯だった。


 恵が洗濯機を回し、光希が物干し竿の準備をする。


 ところが、今度は洗濯物の干し方で違いが出た。


「光希、シャツは肩の位置合わせて干してよ」


「乾けばいいべ」


「形崩れるしょ」


「競技用の服でないし、大丈夫だべさ」


「毎日着るものだから大事なんだわ」


「靴下は左右まとめて干すの?」


「その方が取り込む時に楽でしょ」


「俺は空いたところへ干す派だべ」


「派閥があるんだね」


「今作っただけだべ」


 光希が適当に干したシャツを、恵が後ろから直していく。


「めぐ、全部直すなら俺が干す意味なくないかい」


「だって気になるんだもん」


「休養日なのに、洗濯物で集中力使い切るべさ」


 恵は手を止めた。


「それもそうだね」


「多少曲がっても乾くっしょ」


「じゃあ今日は光希方式にしてみる」


「それでいいべ」


 ところが数分後、光希が振り返ると、恵はやはりシャツを少しだけ直していた。


「直しとるしょ」


「一枚だけ」


「休むのも練習だべ」


「洗濯物までコーチみたいに言わんでよ」


 二人の笑い声が、まだ新しい家の中へ広がった。


 食器の置き場所も、目覚まし時計の時刻も、使ったタオルをどこへ掛けるかも、少しずつ違っていた。


 これまで長い時間を一緒に過ごしてきた二人だったが、同じ家で暮らさなければ分からないことは多い。


 恵は、その違いを面倒だとは思わなかった。


 知らなかった光希を知る。


 光希にも、自分の知らなかった部分を知ってもらう。


 その一つ一つが、夫婦になっていく過程なのだと思えた。


     *


 昼前になると、二人はリビングのテーブルへトランプを広げた。


「夫婦になって最初の休養日も、やっぱりトランプなんだね」


 恵がカードを切りながら言う。


「スマホとパソコンばっかり見ないようにって、コスキネンコーチに言われとるからね」


「今日はコーチいないし、ずるしても分からんよ」


「休養日にずるする必要ないべ」


「でも勝負は勝負だしょ」


「めぐ、コスキネンコーチみたいになっとるよ」


 ババ抜きを始めると、二人だけでは誰がジョーカーを持っているかすぐ分かってしまう。


 恵は笑いを隠せず、光希は緊張すると呼吸を止める。


「光希、また息止めたべ」


「止めてない」


「絶対持っとるしょ」


「めぐは顔で全部分かるべ」


「どっちも弱いね」


「したっけ、次は神経衰弱にする?」


「新婚初日の勝負として、なまら地味だわ」


「休養日は地味でいいべさ」


 二人はカードを裏返して並べた。


 競技の話をしない時間。


 記録を求めない時間。


 ただ相手の表情を見て、カードをめくり、間違えて笑う時間。


 結婚したからといって、特別なことばかりしなくてもよい。


 こうした何気ない時間を一緒に積み重ねることが、暮らすということなのだろう。


     *


 一方その頃、カフェ雪の入口には「本日休業」の札が掛けられていた。


 結婚式翌日ということもあり、雪は一日店を休むことにしていた。


 朝、いつもの時間に目を覚ましたものの、厨房へ向かう必要はない。恵の朝食を用意する必要もない。店の掃除も、仕込みも、今日はしなくてよかった。


 静かな家の中で一人朝食を取ると、雪は何度も向かい側の空いた椅子へ目を向けた。


 昨日まで、そこには恵が座っていた。


 遠征の予定を話したり、練習の愚痴をこぼしたり、時には眠そうな顔で味噌汁を飲んだりしていた。


 今日は誰もいない。


「行ったんだねぇ」


 雪は小さくつぶやいた。


 娘が幸せになったことは、心からうれしい。


 光希なら安心して任せられる。


 それでも、寂しさはなくならなかった。


 雪は食器を片づけると、しばらく層一の遺影の前へ座った。


「そうちゃん、今日は実家行ってくるね」


 遺影の中の層一は、昨日と変わらず微笑んでいる。


「久しぶりに、お父さんとお母さんに甘えてみたくなったんだわ」


 恵の母として生きてきた二十年余り。


 層一を亡くしてからは、泣きたい日にも恵の前では笑おうとした。弱音を吐きたい時にも、自分がしっかりしなければと思った。


 昨日、娘を無事に送り出した。


 肩の荷が下りた今、少しくらい自分も誰かの娘へ戻ってよいのではないか。


 そう思った。


     *


 生田家の玄関へ到着すると、雪は少し緊張しながら呼び鈴を押した。


 扉を開けた母は、雪の顔を見るなり、少し驚いたように目を見開いた。


「あら、雪。今日は店でないのかい」


「休みにしたんだわ」


「昨日の今日だものね。入んなさい」


 家の中へ入ると、父も居間から顔を出した。


「来たのか、雪」


「うん。何となく、顔見たくなってさ」


「珍しいな。雪から来るなんて」


「失礼だねぇ」


 口ではそう返したものの、雪の声にはいつもの力がなかった。


 母は娘の様子を見て、何も聞かずに温かいお茶を用意した。


 三人で居間のテーブルを囲む。


 壁には、雪の幼い頃の写真や、学生時代の写真が今も飾られていた。ここへ来れば、雪はカフェの店主でも、世界王者の母でもない。


 生田家の娘だった。


「昨日は、いい式だったね」


 母が言った。


「うん。みんなのおかげだわ」


「恵、きれいだったな」


 父も静かにうなずいた。


「そうちゃんにも見せたかった」


 雪が口にすると、声がわずかに震えた。


「昨夜、店で一人になってから、なまら泣いたんだわ」


「そうか」


「恵を無事に送り出せたから、肩の荷が下りた気もする。でも、朝起きたら家が静かでさ。あの子の椅子が空いとるの見たら、やっぱり寂しくて」


 母は雪の手へ自分の手を重ねた。


「寂しくて当たり前だよ」


「でも、幸せなことだべさ」


「幸せと寂しさは、一緒にあっていいんだわ」


 その言葉を聞いた瞬間、雪の目に涙が浮かんだ。


「お母さん」


「何さ」


「今日だけ、少し甘えていい?」


 母は優しく笑った。


「今日だけと言わんで、いつでも甘えればいいしょ。雪は何歳になっても、うちらの娘だべさ」


 雪は席を立つと、母の肩へ顔を寄せた。


 子どもの頃以来かもしれない。


 母に抱きしめられると、長い間張りつめていたものが少しずつほどけていった。


「頑張ったね、雪」


 母の声が耳元で聞こえる。


「一人で、よう恵を育てた」


「一人でないよ。みんな助けてくれたも」


「それでも、母親として一番近くで育てたのは雪だよ」


 雪は母の肩へ顔を伏せたまま泣いた。


 父も向かい側で目元を押さえていた。


     *


 しばらくして落ち着くと、父が昔を思い出すように話し始めた。


「雪が層一さんと付き合い始めた頃、覚えとるか」


「覚えとるよ」


「お前、最初はなかなか話さんかったべ」


「だって、恥ずかしかったんだも」


 母が笑う。


「顔に全部出とったけどね。家へ帰ってきても、ずっと機嫌よくて」


「そんなに?」


「何を聞いても、別に何もないって言いながら笑っとった」


 雪は少し照れながら、お茶へ手を伸ばした。


「そうちゃんと最初に会った頃は、まさか結婚するなんて思ってなかったからさ」


「層一さんは、最初から雪を見る目が違ったぞ」


 父が言う。


「お父さん、分かっとったの?」


「父親だからな」


「どんな目だったのさ」


「大事にしたい人を見る目だ」


 雪は答えず、湯飲みを見つめた。


「婚約したいって言いに来た日のことも覚えとる」


 父は懐かしそうに続ける。


「層一さん、ジャンプの大会より緊張しとったんでないか」


「手、なまら震えとったよね」


 母が笑う。


「私の前では平気な顔しとったのに」


「玄関入る前、何度も深呼吸しとったぞ」


「知らんかった」


 父はその日の層一の言葉を思い出していた。


「雪さんを幸せにしますって言ったんだ」


「うん」


「したっけ、俺は聞いた。幸せにするって、一人で全部背負えるのかって」


「お父さん、そんなこと言ったの?」


「言ったぞ。結婚は一人が相手を幸せにすることじゃない。二人で暮らして、二人で幸せを作ることだってな」


 雪は驚いたように父を見た。


 昨日、恵と光希が交わした誓い。


「幸せにするとは言いません。二人で幸せになることを誓います」


 その言葉は、まるで二十年以上前の会話から受け継がれたようだった。


「そうちゃん、何て答えたの」


「少し考えてから、雪さんと一緒に幸せになりますって言った」


 雪の目に再び涙が浮かんだ。


「そうだったんだ」


「恵たちの誓いを聞いて、思い出したべさ」


 母もうなずいた。


「親子だねぇ。層一さんと雪が選んだ道を、恵たちも同じように選んだんだわ」


 雪は静かに笑った。


「そうちゃん、ちゃんと恵に残してくれたんだね。手紙だけでなくて、考え方まで」


「恵が受け取ったんだよ」


「光希くんもね」


 母は雪の手を握ったまま、穏やかに続けた。


「雪はこれまで、恵のお母さんとして頑張ってきた。でもこれからは、雪自身の時間も大切にすればいい」


「自分の時間かい」


「店を続けてもいい。旅に出てもいい。何もしない日を作ってもいい。うちらのところへ来て、ただご飯食べて帰ってもいいんだわ」


 父も深くうなずいた。


「肩の荷が下りたなら、すぐ次の荷物を背負う必要はないぞ」


「何かしてないと落ち着かないんだわ」


「それ、恵と同じでないかい」


 母に言われ、雪は吹き出した。


「本当だね。休むの下手なの、私から移ったのかもしれん」


「したっけ今日は、何もしないでゆっくりしていきなさい」


 母が立ち上がる。


「お昼、雪の好きだったもの作るから」


「子どもの頃の?」


「そうだよ」


「なまら久しぶりだわ」


 雪の表情は、家へ来た時より少し明るくなっていた。


     *


 昼食の後、雪は居間のソファへ横になった。


 母が毛布を掛ける。


「昼寝してもいいよ」


「子どもみたいだね」


「今日は娘に戻りに来たんでしょう」


「そうだった」


 雪は目を閉じた。


 台所から聞こえる母の食器を片づける音。


 新聞をめくる父の音。


 子どもの頃から変わらない家の匂い。


 恵を育てるために、ずっと自分が誰かを守る側にいた。


 今日は、守られる側へ戻ってもよい。


「お母さん」


「何さ」


「ありがとう」


「ゆっくり休みなさい」


 雪は久しぶりに、何も心配せず眠りへ落ちていった。


     *


 夕方、新居では恵と光希が夕食の相談をしていた。


「何作る?」


「朝、卵焼きで結構頑張ったから、簡単なのでいいべ」


「休養日だからね」


「鍋にする?」


「九月に鍋?」


「北海道なら早くないしょ」


「じゃあ鍋にするべ」


 二人は冷蔵庫を開け、ある材料だけで作ることにした。


 食材を切りながら、恵はふと雪のことを思い出した。


「お母さん、今日何しとるかな」


「店休みだべ」


「一人で寂しくしてないかな」


「連絡する?」


 恵はスマートフォンを手に取りかけたが、少し考えて置いた。


「あとでいいわ」


「どうして?」


「お母さんにも、お母さんの時間があるしょ」


「うん」


「私が巣立ったからって、毎日心配して連絡したら、お母さんも自分の生活に戻れないべさ」


「でも、夜に一回くらい電話するべ」


「うん。夜にする」


 恵は包丁を動かしながら、少し笑った。


「夫婦になったんだね」


「朝も同じこと言っとったべ」


「一日で何回確認してもいいしょ」


「明日も言うの?」


「たぶん」


 光希も笑った。


     *


 夜、生田家から帰宅した雪のもとへ、恵から電話が入った。


「もしもし、お母さん。今日は何しとったの?」


「実家行ってきたんだわ」


「おじいちゃんとおばあちゃんのところ?」


「うん。久しぶりに甘えてきた」


 恵は少し驚いた後、うれしそうに笑った。


「よかったね」


「お母さんが甘えるなんて、珍しいしょ」


「何さ、その言い方」


「だって、いつも自分で何でもやるもん」


「今日くらいいいべさ」


「毎日でもいいんでないの」


「めぐまで同じこと言うんだね」


「おばあちゃんたちも言った?」


「いつでも甘えればいいって」


 雪は層一の遺影を見ながら、静かに続けた。


「お父さんと婚約した時の話も聞いたよ」


「どんな話?」


「そうちゃん、なまら緊張しながら、私と一緒に幸せになりますって言ったんだって」


 電話の向こうで、恵が黙った。


「私たちの誓いと同じだね」


「そうだね」


「お父さんから受け継いだのかな」


「きっとね」


 少しの沈黙の後、恵が柔らかい声で言った。


「お母さん、今まで本当にありがとう」


「昨日も言われたべ」


「何回言ってもいいしょ」


「そうだね」


「これからは、お母さんも自分の人生を楽しんでね」


「めぐに言われるとは思わなかったわ」


「さて、明日も楽しむべって、お母さんも言えばいいしょ」


 雪は笑った。


「本当に、お父さんそっくりだね」


「お母さんもね」


 電話を終えた後、雪は静かな家の中を見回した。


 恵の椅子は空いている。


 寂しさは消えない。


 けれど、今日はその寂しさを無理に消そうとは思わなかった。


 娘が巣立った喜びと、家が静かになった寂しさは、どちらも本当の気持ちだった。


 雪は層一の遺影へ語りかけた。


「そうちゃん。めぐは今日から、光希くんと暮らし始めたよ」


 少し笑いながら続ける。


「私は今日、久しぶりに娘に戻ってきたんだわ。お父さんとお母さんに甘えて、昼寝までしてきた」


 遺影の中の層一は、変わらない笑顔を見せている。


「肩の荷は下りたけど、寂しいよ。でも、それでいいんだって」


 雪は窓の外へ目を向けた。


 上川駅近くの町に、夜の灯りがともっている。


 そのどこかに、恵と光希の新しい家がある。


 娘の帰る場所は変わった。


 けれど、カフェ雪が帰る場所でなくなったわけではない。


 そして雪にも、今なお帰れる場所がある。


 生田家。


 両親の待つ家。


 いつでも娘へ戻れる場所。


「私も少しずつ、自分の時間を歩いてみるね」


 雪は遺影へ微笑みかけた。


「そうちゃんも、見とってね」


 結婚式の翌朝。


 恵と光希は、互いの違いを知りながら夫婦としての暮らしを始めた。


 雪は娘を送り出した寂しさを抱えながら、久しぶりに自分も誰かの娘へ戻った。


 新しい生活は、華やかな出来事だけで始まるのではない。


 卵焼きの味。


 洗濯物の干し方。


 空になった椅子。


 母の肩。


 父が語る昔話。


 そうした小さな違いや記憶を一つずつ受け止めながら、それぞれの新しい日常が動き始めていた。


第51話 終


次回予告


第52話「休養日から始まる夫婦生活」


 結婚後初めての練習日。


 恵と光希は、それぞれジャンプ台と複合競技の練習場へ戻る。


 夫婦になっても、競技では別々の選手。


 恵が無理をしていないか気になる光希。


 光希の膝の状態を心配する恵。


 しかし、互いを気にしすぎれば、自分の練習へ集中できなくなる。


「夫婦になったからって、ずっと見張る必要ないべさ」


 寄子コーチの言葉に、二人は競技者として互いを信じる意味を考え始める。


 一方、カフェ雪では営業が再開される。


 常連客たちは恵がいない店内の静けさへすぐに気づくが、雪は笑顔でコーヒーを入れる。


「寂しくないって言えば、うそになるよ。でも、あの子が幸せなら、それでいいんだわ」


 そして夜。


 練習を終えた恵と光希は、夫婦として初めて同じ家へ帰ってくる。


 どちらが夕食を作るのか。


 疲れている時に、どう支え合うのか。


 新婚生活最初の小さな試練が待っていた。


 次回、第52話「休養日から始まる夫婦生活」。


 一緒に暮らすとは、毎日相手のために頑張ることではない。


 疲れた時に、二人で頑張らない方法を見つけることでもある。

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