二人で幸せになる日
第50話「二人で幸せになる日」
二〇四二年九月十五日。
上川町の朝は、秋の気配を含んだ澄んだ空気に包まれていた。
夜のうちに少し冷え込んだのか、カフェ雪の窓ガラスには薄い曇りが残っている。東の山並みから昇った朝日が町を照らし始めると、屋根や木々の葉についた露が小さく輝いた。
いつもならコーヒーの香りと常連客の話し声が流れる店内には、白い花と淡い緑の葉が飾られていた。客席のテーブルは壁際へ移され、中央には短い通路が作られている。その先には小さな祭壇があり、層一の遺影が会場全体を見渡せる位置に置かれていた。
遺影の前には、恵が幼い頃に使っていた小さなスキー板が飾られている。
『遠くへ飛ぶ前に。飛ぶことを好きになってくれたら、それでいい。』
層一が残した文字は少し薄れていたが、そこに込められた思いは二十年以上の時を越えて残っていた。
店の奥の部屋では、恵がウエディングドレスに袖を通していた。
純白の布地が体を包み、腰から下へ柔らかく広がっている。派手な装飾は多くないが、胸元や裾には雪の結晶を思わせる細かな刺繍が施されていた。
髪を整えてもらい、ベールをつけた恵は鏡の中の自分を見つめていた。
「何だか、自分でないみたいだわ」
背後でドレスの裾を整えていた雪が顔を上げる。
「何言っとるのさ。どこから見てもめぐだべ」
「普段はジャンプスーツばっかりだからね」
「ジャンプスーツの花嫁は困るしょ」
「それはそれで動きやすそうだけど」
「式の途中で飛びに行くつもりかい」
二人は小さく笑った。
恵は再び鏡へ目を向けた。ベールの向こうに映る自分の姿を見ていると、胸の奥にじわじわと実感が広がってくる。
今日、自分は光希と夫婦になる。
世界大会へ向かう朝とも、オリンピックのスタートゲートへ座る前とも違う緊張だった。あの時は、自分一人の体と技術を信じればよかった。
今日は、自分だけではない。
光希と二人で、これからの人生を歩いていくことを誓う。
「お母さん」
「何さ」
「私、変な顔しとらん?」
「しとらんよ」
「光希、笑わないかな」
「光希くんの方が変な顔しとると思うよ」
「そんなに緊張しとるの?」
「さっき廊下で見たけど、顔なまら固まっとったわ」
恵は思わず吹き出した。
「プロポーズの時みたい?」
「あの時以上かもしれんね」
「また埴輪みたいになっとるのかな」
「あとで自分で確かめたらいいしょ」
雪はそう言いながら笑ったが、目元にはすでに涙が浮かんでいた。
恵は鏡越しにそれへ気づく。
「お母さん、もう泣いとるしょ」
「泣いとらんよ」
「目赤いよ」
「朝早かったからだわ」
「それ、昨日も言っとったべさ」
「今日は本当に早かったも」
雪はごまかすように恵のベールを整えた。
その手が、わずかに震えている。
恵は振り返り、雪の両手を握った。
「お母さん」
「うん?」
「今日まで、本当にありがとう」
雪は一瞬、何も言えなくなった。
「それは式の中で言うんでないの」
「今も言いたかったの」
「まだ化粧崩したくないんだけどね」
「私も」
二人は顔を見合わせ、涙をこらえながら笑った。
*
別の部屋では、光希がタキシード姿で椅子に座っていた。
黒い上着に白いシャツ、胸元には小さな白い花が飾られている。姿勢はまっすぐだったが、両手は膝の上で何度も組み直されていた。
父の青柳隆と、母の真世がその様子を見守っている。
「光希、少し力抜いたらどうだい」
真世が声をかける。
「抜いてるつもりだべ」
「ジャンプ台に座る時より固いぞ」
隆が言うと、光希は苦笑した。
「ジャンプなら、自分のやること決まっとるからさ」
「今日は決まってないのかい」
「決まっとるけど、言葉を噛まないか心配だわ」
「プロポーズの時は、なまら噛んだもね」
真世が笑う。
「母さん、あれは忘れてくれないかい」
「恵さんの自叙伝に書かれるくらいだから、もう無理でないの」
「まだ自叙伝は出てないべ」
「いずれ書かれるしょ」
光希は深く息を吐いた。
その様子を見ていた隆が、少しだけ表情を引き締めた。
「光希」
「うん」
「恵さんを泣かせるようなことはするなよ」
光希は父を見る。
「分かっとる」
「夫婦になれば、うれしいことばかりでない。競技のことで意見がぶつかる日もあるべし、遠征ですれ違う日もある。どっちかが怪我して、どっちかが支えることもあるだろう」
「うん」
「お前は真面目だから、自分一人で何とかしようとする。恵さんも同じだ。二人とも抱え込みすぎるところがある」
「そうだね」
「だから、何かあった時は黙るんでない。ちゃんと話し合え。勝手に相手のためだと決めつけるな」
光希はゆっくりとうなずいた。
「分かった」
真世も息子の隣へ立った。
「お母さんからも言っとくよ。恵さんを泣かせたら駄目だべさ」
「父さんと同じこと言っとる」
「大事なことだから二回言うの」
「でも」
真世は少し笑った。
「泣かせない夫になることだけ考えなくていいよ」
「どういうこと?」
「悲しくて泣く日もあれば、うれしくて泣く日もある。夫婦になれば、どうしても相手を傷つけてしまうことだってあるべさ」
「うん」
「大事なのは、そのあとだわ。傷つけたことから逃げないで、そばにいて、二人で考えること」
光希は両親の顔を交互に見た。
隆が息子の肩へ手を置く。
「おめでとう、光希」
「父さん」
「二人でしっかり歩いていきなさい。一人で引っ張ろうとするな。恵さんに引っ張ってもらうだけでも駄目だ。二人で歩幅を合わせるんだぞ」
「うん」
真世も光希の腕へそっと触れた。
「恵さんを大切にね」
「大切にする」
「それから、自分のことも大切にするんだよ。体壊してまで頑張ったら、恵さんが悲しむからね」
「分かった」
光希は立ち上がり、両親へ深く頭を下げた。
「今まで育ててくれて、ありがとう」
真世の目に涙が浮かび、隆も息子の肩を強くたたいた。
*
式が始まる時間が近づくと、カフェ雪には多くの人が集まった。
海斗コーチ、寄子コーチ、コスキネンコーチ。恵と光希を幼い頃から知る地元の人々。旭川東高校の恩師や仲間たち。競技関係者。そして両家の親族。
コスキネンは淡い青色のドレスを身につけ、普段の練習場とは違う装いで席についていた。
「光希、なまら緊張しとるべさ」
小声でつぶやくと、寄子が笑う。
「さっきから同じところを三回見てるね」
「助走路なら前だけ見ればいいけど、今日はどこ見ればいいか分からんのだわ」
「コスキネンコーチ、今日は博多弁出さないでくださいね」
海斗が念を押す。
「分かっとるたい」
「もう出てますよ」
「緊張をほぐすためだべさ」
そのやり取りに、周囲から小さな笑いが起こった。
やがて店内の音楽が静かに変わり、全員の視線が入口へ向いた。
最初に現れたのは雪だった。
その隣に、白いウエディングドレスをまとった恵が立っている。
店内が静まり返った。
光希は祭壇の前で、恵の姿を見つめたまま動かなかった。
恵は少し照れくさそうに笑う。
その笑顔を見た瞬間、光希の固かった表情がわずかにほどけた。
雪と恵はゆっくりと通路を歩き始めた。
壁に飾られた幼い頃の写真。
初めてジャンプ台へ立った恵。
中学生になった恵。
高校の制服姿。
世界大会の表彰台。
光希と並んだ写真。
これまでの時間が、二人の歩く通路を囲んでいた。
祭壇の前へ着くと、雪は恵の手を取り、光希へ差し出した。
「光希くん」
「はい」
「めぐを、よろしくね」
光希は深く頭を下げる。
「はい。二人で支え合っていきます」
雪はうなずき、恵の手を光希へ渡した。
恵と光希の手が重なる。
雪は一歩下がったが、その場を離れる前に層一の遺影へ一度だけ目を向けた。
*
式は、二人が自分たちで考えた形で進められた。
豪華な演出はない。
大きな会場もない。
それでも、カフェ雪には二人を支えてきた人々が集まり、温かな空気が満ちていた。
誓いの言葉を交わす前に、雪が一通の古い封筒を手に立った。
会場が静かになる。
封筒には、層一の震える文字でこう書かれていた。
『いつか、恵が結婚する日が来たら渡してほしい』
恵は光希の手を握った。
雪は封筒から手紙を取り出し、ゆっくりと読み始めた。
『恵へ。
この手紙を読んでいる頃、恵はもう大人になっていると思います。
そして、そばには、これからの人生を一緒に歩きたいと思える人がいるのでしょう。
お父さんは、恵が大きくなるところを見られないかもしれません。
初めて歩くところも。
学校へ行くところも。
ジャンプ台へ立つところも。
好きな人を連れてくるところも。
花嫁になるところも。
そばにいてやれないことが、本当に悔しいです。
恵が物心つく頃には、お父さんの顔も声も、思い出としては残っていないかもしれません。
それでも、お父さんは恵を愛しています。
生まれてきてくれたこと。
雪とお父さんのところへ来てくれたこと。
それだけで、恵はお父さんにとって一番大切な宝物です。
結婚する人と、何でも話せる夫婦になってください。
つらい時に一人で頑張らず、助けてと言える人になってください。
相手が苦しい時には、無理に引っ張るのではなく、隣で立ち止まれる人になってください。
幸せにしてもらおうと思わなくていい。
相手を一人で幸せにしようとしなくてもいい。
二人で幸せになってください。
恵が笑って生きてくれたら、お父さんはそれで幸せです。
結婚、おめでとう。
お父さんより。』
雪の声は、最後の一文で大きく震えた。
会場のあちこちから鼻をすする音が聞こえる。
恵は涙をこらえられず、光希の手を強く握った。
「お父さん……」
光希も目元を赤くしながら、隣に立つ恵を見つめていた。
雪は手紙を畳み、恵へ渡した。
「お父さんからだよ」
恵は手紙を胸へ抱いた。
「ありがとう、お母さん」
「うん」
「お父さんにも、ちゃんと届くように誓うから」
*
恵と光希は向かい合った。
先に光希が、自分の言葉で誓いを述べる。
「恵を幸せにすると、一人で約束するつもりはありません」
恵は涙を流しながらも、まっすぐ光希を見つめていた。
「俺一人の力で、恵の人生を幸せにできるとは思っていません。恵が苦しい時にはそばにいて、俺が苦しい時には助けてほしいと言います」
光希は一度息を整えた。
「前へ進む日も、立ち止まる日も、勝った日も、負けた日も、二人で話し合います。恵の夢を大切にし、俺自身の夢も大切にします」
そして、はっきりと告げる。
「恵と二人で幸せになることを誓います」
次に、恵が口を開いた。
「私は光希に守ってもらうだけの妻にはなりません」
声は震えていたが、言葉は途切れなかった。
「光希が前へ進めない時には、無理に押さないで隣にいます。私が苦しい時には、一人で抱え込まずに助けてほしいと伝えます」
恵は光希の手を握り直した。
「私たちは、どちらか一人が我慢して成り立つ夫婦にはなりません。競技も暮らしも、二人で考えます」
少し笑いながら続ける。
「休む日も、トランプで負ける日も、一緒に楽しみます」
会場から小さな笑いが起きた。
コスキネンが目元を押さえながら、隣の寄子へささやく。
「トランプは私も入るべさ」
「今は静かにして」
恵は最後に、光希の目を見つめた。
「光希と二人で幸せになることを誓います」
二人は指輪を交換した。
光希の指が緊張でわずかに震え、指輪が途中で止まりそうになる。
「光希、落ち着いて」
「分かっとる」
「競技より緊張しとるしょ」
「恵が笑うからだべ」
小さなやり取りに、会場が温かな笑いに包まれた。
指輪が恵の薬指へ収まると、大きな拍手が起こった。
二人は顔を見合わせ、少し照れくさそうに笑った。
*
式の後、青柳家の両親である隆と真世が、恵と光希の前へ立った。
隆はまず恵へ深く頭を下げた。
「恵さん、光希を選んでくれてありがとう」
「こちらこそ、光希さんを育ててくださって、ありがとうございます」
「光希は真面目すぎて、時々周りが見えなくなる。競技のことになると、自分を追い込みすぎるところもある」
「私も同じだから、二人で気をつけます」
恵が答えると、隆はうなずいた。
そして息子へ顔を向ける。
「光希。恵さんを泣かせるようなことはするな」
「うん」
「ただ、喧嘩を一度もしない夫婦になれという意味でないぞ。意見が違う時は、ちゃんと話せ。恵さんを傷つけた時は逃げるな」
「分かった」
「おめでとう。二人でしっかり歩いていきなさい」
真世は恵の手を取った。
「恵さん、今日から娘だと思っとるからね」
「ありがとうございます」
「光希が何か変なことしたら、遠慮なく私たちに言うんだよ」
「母さん」
「大事なことでしょう」
真世は笑いながら、今度は息子を見る。
「恵さんを大切にね。それと、自分の体も大切にするんだよ」
「うん」
「二人とも頑張りすぎるから、どっちかが止めるんでなくて、二人で止まれる夫婦になりなさい」
「はい」
恵と光希は並んで頭を下げた。
「ありがとうございます」
*
招待客が帰り、店内が静かになったのは、夕方を過ぎた頃だった。
白い花はまだ店内を飾り、使われたグラスや食器がテーブルの上に残っている。恵と光希は両家の家族とともに片づけを手伝おうとしたが、雪や地元の人々に止められ、新居へ向かうことになった。
「今日は二人でゆっくりしなさい」
雪に言われ、恵は何度も振り返りながら店を出た。
入口の前で、もう一度雪へ抱きつく。
「お母さん、ありがとう」
「幸せになるんだよ」
「うん。二人でなる」
光希も深く頭を下げた。
「雪さん、これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ。めぐのこと、よろしくね」
「はい」
二人を乗せた車が見えなくなるまで、雪は店の前に立っていた。
やがて夕暮れの道から車の姿が消える。
雪は一人で店内へ戻った。
店の中は、朝とはまるで違っていた。
人々の笑い声も、拍手もない。
白い花と、静かな椅子。
祭壇には、層一の遺影が残っていた。
雪はゆっくりと遺影の前へ歩いた。
写真の中の層一は、若い頃の笑顔のままだった。
今日の恵の姿を見ることなく、二十年前で時間を止めたままの顔。
雪は祭壇の前へ座り、遺影へ手を伸ばした。
「そうちゃん」
声を出した瞬間、胸の奥に押し込めていたものが一気にこみ上げた。
「恵は、無事にお嫁に行ったよ」
声が震える。
「なまらきれいだったわ。幸せそうな顔しとった」
層一の遺影は、何も答えない。
それでも雪は、写真の向こうに愛した人がいるように語り続けた。
「光希くんも、緊張しながらちゃんと誓ってくれたよ。二人で幸せになるって」
涙が頬を伝う。
「そうちゃんが残した手紙も読んだよ。めぐ、なまら泣いとった。私も最後まで読めるか分からんかったけど、ちゃんと届けたよ」
雪は遺影を胸へ抱いた。
「そうちゃん、ありがとう」
その一言を口にすると、もう耐えられなかった。
「恵を私のところへ残してくれて、ありがとう。あの子がおったから、私、今日まで生きてこられた」
雪は床へ膝をつき、遺影を抱いたまま泣き崩れた。
「本当は、一緒に見たかったよ。そうちゃんにも、めぐの花嫁姿を見てほしかった」
声を抑えることもできなかった。
「どうしておらんのさ。今日くらい、隣におってほしかった。二人で、めぐを送り出したかったよ」
二十年以上、一人で抱えてきた寂しさが涙となってあふれ出す。
恵を育てるために、母として強くあろうとしてきた。
再婚を考えたことがなかったわけではない。周囲から勧められたこともあった。
それでも、雪が生涯をかけて愛した人は層一だけだった。
恵が独り立ちし、光希と新しい生活を始めた今、長い間胸の奥へしまっていた思いが、静かな店内であふれ出していた。
「そうちゃんに会いたい」
雪は遺影へ頬を寄せた。
「もう一回だけでいいから、声聞きたい。めぐ、きれいだったなって、一緒に話したい」
窓の外では、夕日が山の向こうへ沈もうとしていた。
カフェ雪の店内に、赤い光が差し込む。
層一の遺影も、その光を受けて柔らかく輝いていた。
雪は長い間、声を上げて泣いた。
それは悲しみだけの涙ではなかった。
恵を無事に育て上げた安堵。
娘が信頼できる人と出会えた喜び。
層一との約束を果たした思い。
そして、愛した人が今も隣にいない寂しさ。
すべてが混ざった涙だった。
しばらくして、雪は少しずつ呼吸を整えた。
遺影を祭壇へ戻し、写真の中の層一へ微笑みかける。
「そうちゃん。私、これから少しずつ、自分の人生も歩いてみるね」
涙で顔は濡れていたが、その表情は穏やかだった。
「でも、ずっと愛しとるよ」
静かなカフェ雪の中で、その言葉だけがいつまでも残っていた。
第50話 終
次回予告
第51話「夫婦になった朝」
結婚式の翌朝。
上川駅近くの新居で、初めて同じ朝を迎える恵と光希。
だが、夫婦になったからといって、生活が突然うまく回るわけではない。
朝食を作ろうとして、卵焼きの味で早くも意見が分かれる。
「私は甘い方が好きだわ」
「俺はしょっぱい方だべ」
「二種類作る?」
「朝から?」
さらに洗濯物の干し方、食器の置き場所、目覚まし時計の時刻まで、これまで知らなかった違いが次々に見えてくる。
一方、カフェ雪では、式の片づけを終えた雪が一人の朝を迎えていた。
娘を送り出した家。
静かになった食卓。
それでも、窓から差し込む光の中には、新しい人生の始まりがあった。
そして恵と光希は、夫婦として初めての休養日を迎える。
次回、第51話「夫婦になった朝」。
結婚はゴールではない。
二人で暮らしながら、お互いの違いを知っていく日々の始まりである。




