もう一度空へ
第48話「着地の向こう側」
第12章「二センチへの挑戦」後半
二センチの跳躍を終えた翌日は、予定どおり完全休養となった。
恵と光希は朝の体調確認だけを受けると、練習着ではなく普段着に着替えた。二人とも足首や膝に痛みはなく、前日の軽い練習による張りもほとんど残っていなかった。
それでもコスキネンコーチは、練習場へ近づくことさえ認めなかった。
「今日はジャンプ台を見に行くのもなしだべさ。見たら頭ん中で飛び始めるっしょ」
「見るだけでも駄目なんですか」
光希が尋ねると、コスキネンは青い目を細めた。
「光希の『見るだけ』は信用ならんべ。助走の姿勢を考えて、踏み切りの映像を思い出して、気づいたら部屋で屈伸しとるもね」
「そこまではしません」
「昨日、廊下で小さく踏み切りの動きしとったべさ」
「見てたんですか」
「コーチだもの。選手がこっそり何かしようとする時の動きは、なまら分かるんだわ」
その横で恵が笑っていると、コスキネンの視線がすぐに向けられた。
「めぐも同じだべ」
「私は何もしてないよ」
「昨日、寝る前に一センチだけ跳んでみようかと思ったっしょ」
恵の笑顔が止まった。
「何で分かったのさ」
「顔に書いてあるたい」
「今、博多弁になったね」
「光子と優子から覚えた。こういう時は博多弁の方が効くんだわ。勝手に跳んだらいかんばい」
来日して約二年。海斗コーチと寄子コーチに招かれてフィンランドからやってきたコスキネンは、当初こそ丁寧な標準語で話していたが、恵や雪、光希と過ごすうちに道北弁を身につけていた。
最近では、光子と優子との映像通話や動画を通して、博多弁まで器用に使うようになっている。本人は場面によって使い分けているつもりだったが、熱が入ると道北弁と博多弁が同じ文章に入り込むことも珍しくなかった。
「したっけ、今日は町へ買い物に行くべ。雪さんも一緒にどうだい」
「いいね。めぐも最近、練習場と家の往復ばっかりだったしょ」
雪が賛成すると、恵も小さくうなずいた。
「買うもの、先に決める?」
「決めなくていいべさ」
「目的もなく歩くの?」
「それが今日の目的だわ」
コスキネンが答えると、恵は少し不思議そうな顔をした。
競技生活では、ほとんどすべての行動に目的があった。何時に起きるのか、何を食べるのか、何分歩くのか、どの筋肉を使うのか。目的のない時間は、無駄な時間のように感じていた。
しかし今日は、買うものすら決めずに町を歩く。
それもまた、休む練習なのだろう。
*
四人は上川の町をゆっくり歩いた。
夏の日差しは強かったが、山から下りてくる風には北海道らしい涼しさが残っていた。道路沿いの花壇には色鮮やかな花が並び、商店の軒先では風鈴が小さな音を立てている。
恵は雪と並び、店先に並ぶ雑貨を眺めた。
「こうして町を歩くの、久しぶりだね」
「めぐ、買い物行っても必要なものだけ買って、すぐ帰ってたもね」
「時間もったいないと思ってたからさ」
「今日は?」
「まだ少し、早く帰った方がいいんでないかって思ってる」
「何のために?」
「明日の準備とか」
「準備は昨日終わっとるしょ」
「そうなんだけどね」
雪は恵の横顔を見ながら、穏やかに笑った。
「何も急がなくていい日もあるんだわ」
二人が入った雑貨店には、木彫りの動物や手作りの食器、北海道の風景を描いた絵はがきが並んでいた。
恵は細長い顔をした鳥の置物を見つけ、すぐに光希を呼んだ。
「光希、これ見てみ」
「何ですか」
「光希に似とる」
光希は鳥と自分を交互に見比べた。
「どこがですか」
「真面目そうに前だけ見とるところ」
「鳥は横を向けないだけでしょう」
「口元も似とるよ」
「これはくちばしです」
雪も二人の横へ来ると、鳥の置物をじっと見つめた。
「少し似とるかもね」
「雪さんまで何言っとるんですか」
光希が困った顔をしたところへ、コスキネンが丸い鳥の置物を持ってきた。
「こっちは、休む前のめぐだべさ」
「何でさ」
「練習詰め込みすぎて、体も心も重くなっとった頃」
「鳥の体型から話が飛びすぎでないかい」
「でも今は、少し軽くなったっしょ」
コスキネンは丸い鳥を元の棚へ戻した。
「買わなくてもいいんだわ。こういうもの見て笑ったり、町の空気を覚えたりするだけでいい。遠征先の思い出がジャンプ台とホテルだけじゃ、寂しいべさ」
恵は店の中を見回した。
競技とは関係のない品物ばかりだった。何を見ても、飛距離や着地姿勢には結びつかない。それでも、眺めているうちに頭の中からジャンプ台の映像が少しずつ薄れていった。
「競技以外の記憶を作るって、こういうことなんだね」
「そういうことたい」
コスキネンが博多弁で返し、光希が笑った。
「今日は買い物だから博多弁なんですか」
「買い物と食事は博多弁が似合うんだわ」
「その理屈、絶対あとから作ったしょ」
*
昼食は市場近くの小さな食堂で取ることになった。
料理を待っている間、光希が無意識にスマートフォンへ手を伸ばした。画面を開く前に、コスキネンの視線が突き刺さる。
「何を見る気だったんだい」
「海外大会の結果です」
「今日は見なくていいべ」
「でも、フェリックスの状態が気になります」
「フェリックスがお前の昼飯を代わりに食べてくれるとかい」
「食べません」
「したっけ、今は自分の飯に集中しなさい」
光希はしぶしぶスマートフォンを伏せた。
向かい側の恵が笑いをこらえている。
「完全に子どもみたいに怒られとるね」
「めぐもさっき、店の外で通知を見ようとしていましたよね」
「あれは時間を確認しただけだわ」
「目の前に時計がありました」
「細かいなあ」
「二人とも同じだべさ。休みの日まで競技に戻ろうとするんでないの」
雪が笑うと、ちょうど料理が運ばれてきた。
恵は湯気の立つ皿を見て、自然に笑顔になった。
「なまらおいしそう」
「その顔でいいんだわ」
コスキネンが言った。
「選手の顔じゃなくて、普通に腹すかせた人の顔しとる」
「私だって普通にお腹すくよ」
「だったら栄養素ばっかり計算せんで、今日は味わって食べるったい。せっかくの料理がかわいそうばい」
「料理がかわいそうって、初めて聞いたわ」
四人はゆっくり食事を楽しんだ。
途中から恵も光希も、伏せたスマートフォンの存在を忘れていた。
*
午後に戻ると、雪が買い物袋から一組のトランプを取り出した。
「これ、さっき見つけたから買ってきたんだわ」
「トランプ?」
恵が箱を受け取る。
「スマホもパソコンも使わん遊び。今日にはちょうどいいしょ」
四人はテーブルを囲み、まずババ抜きを始めた。
コスキネンは配られたカードを扇状に広げたが、すべて上下が逆だった。
「コーチ、カード逆だよ」
「フィンランドではこっちが正しいんだわ」
「絶対うそでしょ」
「ばれたかい」
恵は目を細めた。
「もしかして、トランプ苦手なんでないの」
「ルールは知っとるけん、問題なか」
「博多弁で押し切ろうとしとる」
同じ数字のカードを捨て終えると、ゲームが始まった。
光希はジャンプの助走に入る時のような真剣な顔で手札を見つめている。
「光希、ただのババ抜きだよ」
「勝負である以上、集中するのは当然だべ」
「休養日に勝負モードになっとるしょ」
「めぐも俺のカード見ようとしてるでしょ」
「見とらんよ」
「今、首伸びたべさ」
「鳥みたいに言わんで」
雪が光希の手札から一枚引いた。カードを確認した瞬間、口元がわずかに動く。
「お母さん、今のジョーカーでないの」
「何でそう思うのさ」
「顔に出とる」
「めぐの方が分かりやすいしょ」
「私は世界で戦ってきた選手だから、心理戦には強いんだわ」
恵が胸を張った直後、コスキネンが一枚引いた。
恵の表情が固まる。
「取られたくないカードだったべ」
「何も言っとらんよ」
「顔に書いとるたい」
「コーチまで何さ」
「世界一になっても、ババ抜きは別競技だべさ」
最も表情を変えない光希が有利に見えたが、恵は自分がカードを選ぶたびに光希の呼吸が止まることへ気づいた。
「光希がジョーカー持っとる」
「根拠は何ですか」
「私がカード選ぶたび、息止めとるも」
「止めてません」
「ジャンプでは呼吸止めない練習しとるのに、ババ抜きで止めてどうするのさ」
雪が吹き出し、コスキネンも腹を抱えて笑った。
「助走より緊張しとるべさ」
「競技の癖を見るのは禁止です」
「そんなルールないもん」
最後までジョーカーを持っていたのは、コスキネンだった。
「コーチの負けだわ」
「もう一回やるべ」
「ずいぶん本気になったね」
「次は負けんばい」
「休養日に熱くなりすぎでないかい」
恵が寄子コーチの言い方をまねると、雪と光希が笑った。
コスキネンは少し考えた後、真面目な顔で答えた。
「したっけ、あと二回までにする。できるうちに終える。それが今日のテーマだべさ」
「トランプまで練習みたいになっとるよ」
「私も休む練習中たい」
ババ抜きの次は七並べ、その後は神経衰弱を行った。
勝ったり、負けたり、カードの位置を間違えたりするたびに笑い声が上がった。途中からは誰が一番強いのかなど、誰も気にしなくなっていた。
飛距離も得点も順位もない。
誰かに報告する必要もない。
ただ四人でテーブルを囲み、その場を楽しんでいた。
ゲームを終えた頃には、窓の外が夕暮れの色に染まっていた。
「スマホ見なくても、あっという間だったね」
恵がカードを片づけながら言った。
「ジャンプのこと、考えたかい」
コスキネンに尋ねられ、恵は少し考えた。
「買い物の最初は考えとった。でも、トランプ始めてから忘れとったわ」
「俺もだべ」
光希も答えた。
「それでいいんだわ。休養は体を動かさんことだけじゃないべさ。競技から意識を離せば、頭の疲れも抜けていく」
「強い選手は、ずっと競技のこと考えとるもんだと思ってた」
「それで強くなれる時期もある。ばってん、何年も続けたら心が先に疲れるたい」
コスキネンは、恵と光希を交互に見つめた。
「二人が目指しとるのは、一回だけ大会に戻ることじゃなかろうもん。戻った後も、長く飛び続けたいんだべ」
二人は顔を見合わせ、同時にうなずいた。
*
その日から、練習と休養を一日おきに行う日程が本格的に始まった。
練習日には短い時間で集中し、跳躍の高さや助走距離を少しずつ増やした。動作の質が落ちる前に終えることが、何よりも重視された。
「まだできます」
光希が訴えると、コスキネンは腕時計を見ながら答えた。
「今日は終わりだべさ。余力は次の練習に持って帰りなさい」
「あと一本だけ」
「しつこかよ。終わりって言うたら終わりたい」
「また博多弁になっとりますよ」
「言うこと聞かん時は博多弁の方が効くんだわ」
恵にも同じだった。
調子のよい日に本数を増やそうとすると、寄子コーチが止めた。
「体が軽い日に終えられる選手が、長く続けられるんだよ」
「調子よいのにもったいなくない?」
「今日使い切る方がもったいないでしょう」
以前なら不満を隠せなかった恵も、今では素直にスキー板を片づけられるようになっていた。
休養日には、雪と料理を作ったり、町を散歩したり、クラシック音楽や唱歌を聴いたりした。光希やコスキネンが合流する日は、トランプを広げた。
スマートフォンやパソコンを完全に禁止したわけではない。必要な連絡には使ったが、海外選手の結果や練習映像を一日中追い続けることはやめた。
競技から少し離れ、家族や仲間と話し、町を歩き、食事を味わう。
何の記録にも残らない遊びに夢中になる。
そうした時間が、次の練習に向かう集中力を生み出していった。
疲れが残らなくなると、一回ごとの動きも明らかに変わった。
二センチだった跳躍は五センチになり、十センチになった。やがて低い台を使った着地確認へ進み、短い助走からの小さな跳躍も許可された。
それでも、休養日は削られなかった。
練習量が増えた時ほど、コスキネンは休む日を守らせた。
「体力が戻ったから休まなくていいんでない。体力が戻ったからこそ、壊す前に休むんだべさ」
その考え方は、二人が後に長い現役生活を続けるための土台になっていった。
第48話 終
次回予告
第49話「もう一度、空へ」
地面から一センチ。
二センチ。
そして低い台からの小さな跳躍。
焦らずに積み重ねてきた恵へ、ついにジャンプ台での飛行許可が下りる。
最初に戻るのは、幼い頃に飛んだものと同じほど小さなジャンプ台。
一方、光希も通常の助走へ段階的に戻っていく。
サマージャンプ大会まで残された時間は、決して長くない。
それでも二人は、練習と休養を一日おきに続ける。
そして九月。
競技へ戻った二人を待っているのは、もう一つの大切な舞台だった。
カフェ雪で行われる結婚式。
競技者としての復帰と、夫婦としての出発。
次回、第49話「もう一度、空へ」。
帰ってきた空の先で、二人の新しい人生が始まる。
第49話「もう一度、空へ」
第1章「幼い日のジャンプ台」
医師と理学療法士による最終確認の日、恵は診察室の椅子へ座りながら、右足を何度も見そうになる自分を必死に抑えていた。
可動域、筋力、片脚での安定性、着地時の反応速度は、すべて復帰基準を満たしている。短い助走からの跳躍でも、右脚の遅れは見られなくなっていた。
「今日から、小さなジャンプ台での練習を許可します」
医師の言葉を聞いた瞬間、恵はすぐには返事ができなかった。
「本当に、飛んでいいんですか」
「段階を守ることが条件です。最初から通常の台へは戻りません」
「はい」
「本数は寄子コーチの判断に従ってください」
「はい」
「違和感が出れば、その場で中止です」
「分かりました」
診察室を出ると、雪が廊下で待っていた。
「どうだった?」
恵は少しだけ唇を震わせながら答えた。
「飛んでいいって」
雪の表情がゆっくりとほどけた。
「よかったね」
「うん」
「泣くかい?」
「まだ泣かない」
「飛んだ後?」
「たぶんね」
*
復帰最初の舞台に選ばれたのは、幼い頃に初めて飛んだものと同じ規模の小さなジャンプ台だった。
恵は久しぶりにジャンプスーツへ袖を通し、ヘルメットをかぶった。現在の装備は、幼い頃に使っていたものとは比べものにならないほど大きい。
それでも台の上へ立つと、胸の奥に幼い日の記憶がよみがえった。
層一と雪に手を引かれた朝。
大きすぎるヘルメット。
初めて空中へ飛び出した瞬間。
「鳥になった」と笑った自分。
「緊張しとる?」
寄子コーチが尋ねる。
「なまら緊張しとる」
「怖い?」
「少し。でも、飛びたい」
「今日は距離を求めないよ」
「うん」
「着地まで戻ってくること。それだけ」
恵は大きく息を吐いた。
「さて、今日も楽しむべ」
助走を始める。
速度は低い。
風が頬をなでる。
踏み切り台が近づく。
地面を強く蹴らず、戻ってきた感覚へ体を預ける。
スキー板が雪面から離れた。
一瞬、空中へ出る。
鳥になったような感覚。
そして、着地。
右脚と左脚が同時に衝撃を受け止め、体は静かに斜面を滑っていった。
停止した恵は、しばらく動かなかった。
「めぐ!」
雪の声が聞こえる。
恵は振り返り、両手を高く上げた。
「飛べたべ!」
雪は目元を押さえながら笑った。
「おかえり、めぐ」
その言葉を聞いた瞬間、恵の目から涙がこぼれた。
第2章「一日おきの復帰」
復帰後も、練習は一日おきに行われた。
小さな台から始まり、少しずつ助走距離と飛距離を伸ばしていく。調子がよい日でも、寄子コーチは決められた本数で終了させた。
「今日なら、もう一本いけるよ」
「だから終わるんだよ」
「その答え、もう覚えたわ」
「覚えたなら、自分から言ってみて」
恵は名残惜しそうにジャンプ台を見上げた後、笑って答えた。
「今日はここまで。余力は次に持って帰る」
「正解」
休養日には、恵は雪と買い物へ行き、家で料理をした。トランプを広げる日もあれば、黒川修司から贈られたアルバムを聴く日もあった。
光子、優子、美香から新しいギャグコントが届くこともあった。
練習のことを完全に忘れる時間を持つほど、次の練習では集中力が高まった。以前のように疲れた体を無理に動かすこともなくなり、一回ごとの動きが鮮明に感じられるようになっていった。
光希も同じ日程で復帰を進めていた。
「今日はどうだった?」
夜の電話で恵が尋ねる。
『助走距離が少し伸びたべ。でも本数は増えなかった』
「不満そうだね」
『少しだけ』
「コスキネンコーチに何て言われたのさ」
『もう一本やりたい顔しとるばい、って』
「博多弁で止められたんだ」
『最後は、しつこかよって言われた』
恵は声を上げて笑った。
「効いた?」
『なまら効いたべ』
第3章「サマージャンプへの帰還」
八月末、恵はサマージャンプ大会への出場許可を得た。
復帰戦であるため、結果を求めすぎないことが条件だった。海斗コーチ、寄子コーチ、コスキネンコーチ、医療スタッフの全員が慎重に話し合い、練習後の疲労反応まで確認したうえでの決定だった。
「優勝を目指すなとは言わない」
海斗コーチが言った。
「でも、優勝するために体を壊すな」
「分かっとる」
「本当に?」
「前よりは」
「前よりじゃ困るんだけどな」
「今度は、終わるべき時に終われる」
寄子コーチが隣でうなずいた。
「復帰戦の目標は、二本飛んで、自分の足で帰ってくること。それができれば十分だよ」
「うん」
大会当日、恵は久しぶりに多くの観客が見守るジャンプ台へ立った。
名前が呼ばれると、会場から大きな拍手が起きた。
優勝を期待する声ではない。
戻ってきた選手を迎える拍手だった。
恵はスタート位置につき、深く息を吐いた。
「ただいま」
小さくつぶやき、助走を始めた。
一本目は安全を優先した飛行だった。飛距離は上位選手に届かなかったが、着地は安定していた。
二本目では、少しだけ攻めた。
風を感じ、踏み切りのタイミングを合わせ、空中姿勢へ入る。
以前のように力任せではない。
休養を知った体が、必要な瞬間に必要な力だけを使っている。
恵は全体の三位に入った。
優勝ではなかった。
それでも表彰台へ立った時、金メダルを獲得した時とは違う喜びがあった。
「復帰戦で三位だべ!」
雪が客席から叫ぶ。
恵は銅メダルを掲げながら笑った。
「ちゃんと帰ってきたよ!」
その日の夜、恵はノートへ書いた。
『世界一になった日より、今日の三位の方が嬉しいかもしれない。
休んだ。
一センチから始めた。
飛ばない日もあった。
それでも、また表彰台へ戻れた。
順位より、自分の足で帰れたことがうれしい。』
第4章「光希の復帰戦」
光希もノルディック複合の大会へ復帰した。
前半のジャンプでは大きな飛距離を狙わず、安定した着地を優先した。クロスカントリーでも序盤から飛ばさず、終盤へ力を残した。
結果は二位。
優勝はフェリックス・アドラーだった。
ゴール後、フェリックスが光希へ近づき、手を差し出した。
「戻ってきたな」
「まだ完全ではないべ」
「それでも、お前が後ろにいると落ち着かない」
「次は勝つからね」
「待っている」
二人は笑いながら握手を交わした。
光希は、負けた悔しさを抱えながらも、以前のように追加練習へ向かおうとはしなかった。
その日は予定どおり体を休め、翌日は完全休養を取った。
コスキネンがトランプを持って部屋へ現れる。
「復帰祝いに、ババ抜きするべ」
「なぜババ抜きなんですか」
「私がまだ勝ってないからたい」
「コーチの復讐戦ですよね」
「休養日を楽しむためだべさ」
第5章「花嫁になる準備」
九月に入ると、カフェ雪での結婚式準備が本格化した。
店内のテーブルを移動し、式のための空間を作る。窓辺には地元の人たちが育てた花を飾り、壁には恵と光希の幼い頃からの写真を並べることになった。
問題は、雪と地元の人たちが選ぶ写真だった。
「お母さん、この写真は駄目だって」
恵が手にしているのは、幼い頃、寝癖で髪が四方へ跳ねたまま朝食を食べている写真だった。
「かわいいしょ」
「結婚式で出す写真でないべさ」
「光希くんにも見てもらわんと」
「もう見たよ」
背後から光希の声が聞こえ、恵が勢いよく振り返った。
「いつ見たのさ」
「雪さんが送ってくれたべ」
「お母さん!」
「仲良くなるには、昔の姿も知ってもらわんとね」
「光希だって変な写真あるしょ」
「ありますよ」
光希は迷うことなく一枚の写真を差し出した。
そこには、小学生の光希が雪の上で派手に転び、頭から雪へ突っ込んでいる姿が写っていた。
「自分から出すの?」
「隠すと、あとで余計に使われるべ」
「学習しとるね」
二人は写真を見比べ、笑い合った。
競技復帰へ向けて緊張していた数週間前とは違う。店内には穏やかな時間が流れ、二人は少しずつ夫婦になる準備を進めていた。
第6章「最後の練習」
結婚式の三日前、恵と光希は式前最後の練習を行った。
恵は通常のジャンプ台へ戻り、安定した飛行を二本そろえた。光希もジャンプと短いクロスカントリー調整を終えた。
どちらも余力を残して練習を終えた。
「もう一本行けそうだけど、今日は終わりにするべ」
恵が自分から言うと、寄子コーチはうれしそうに笑った。
「本当に変わったね」
「結婚式で足引きずりたくないからさ」
「それだけ?」
「その先も飛びたいから」
一方、光希もコスキネンへ自分から申告した。
「今日はここまでにします」
「どうしたんだい。熱でもあるかい」
「自分から終わるように言っただけで、そこまで驚かなくてもいいしょ」
「前のお前なら、あと一本、あと一キロって言っとったべさ」
「明後日は結婚式です」
「結婚式の後も競技は続く」
「だから休みます」
コスキネンは満足そうにうなずいた。
「よくできましたたい」
「子ども扱いしないでください」
第7章「結婚式前夜」
二〇四二年九月十四日。
カフェ雪での挙式を翌日に控え、店内の準備はほぼ整っていた。
白い花。
小さな祭壇。
家族や仲間たちが座る椅子。
層一の遺影は、会場全体を見渡せる場所に置かれていた。
その前には、恵が幼い頃に使っていた小さなスキー板が飾られている。
『遠くへ飛ぶ前に。飛ぶことを好きになってくれたら、それでいい。』
板に残された層一の言葉は、明日、新しい人生へ踏み出す娘を見守っていた。
夜になり、手伝いに来ていた人たちが帰ると、店内には雪と恵だけが残った。
光希は両親のもとへ戻り、明日に備えている。
恵は式で読む手紙を手に、窓辺の席へ座っていた。
「緊張しとる?」
雪が温かい飲み物を置きながら尋ねる。
「ジャンプ台より緊張するかもしれん」
「落ちても怪我しないけどね」
「言葉を噛んだら、光希に一生言われそうだわ」
「あのプロポーズの時、光希くんもなまら噛んどったしょ」
「埴輪みたいな顔しとった」
二人は思い出し笑いをした。
やがて、恵の視線が層一の遺影へ向いた。
「お父さん、明日見てくれるかな」
「見るべさ」
「花嫁姿、似合うって言ってくれるかな」
「そうちゃんだもの。最初は泣いて何も言えんと思う」
「お母さんも泣くしょ」
「泣かんよ」
「もう目赤いよ」
「これは店の掃除でほこりが入っただけ」
「さっき掃除終わったべさ」
雪はごまかすように笑った。
しばらくして、二人は層一の遺影の前へ並んで座った。
「そうちゃん」
恵の前ではお父さんと呼ぶ雪が、今だけは愛した人の名を口にする。
「明日、めぐが花嫁になるよ。小さかっためぐが、光希くんと一緒に新しい家族を作るんだわ」
声が少し震えていた。
「私、ちゃんと育てられたかな」
恵が雪の手を握る。
「ちゃんとどころでないよ。お母さんが育ててくれたから、私ここまで来られたんだべさ」
「めぐ」
「お父さんがいなくて寂しい時もあった。でも、お母さんが一人で全部抱えて、私に寂しい思いさせないようにしてくれた。ジャンプも応援してくれた。負けた日も、怪我した日も、ずっと帰る場所でいてくれた」
雪の目から涙がこぼれた。
「明日は、お父さんにもお母さんにもありがとうって伝える」
「うん」
「それから光希と、二人で幸せになるって誓う」
雪は恵の手を握り返した。
「幸せにしてもらうんでなくて?」
「二人で幸せになるんだわ」
「いいね」
「お母さんが教えてくれたしょ。一番信頼できる人と、心から愛した人なら大丈夫だって」
「光希くんなんだね」
「うん。光希だよ」
店の外には静かな夜が広がっていた。
遠くから列車の走る音が聞こえる。
上川駅近くでは、二人の新居建設へ向けた準備も進んでいる。やがて、恵と光希はそこから練習へ向かい、遠征へ出発し、競技を終えれば同じ家へ帰ってくる。
世界一を目指す日々も続く。
休む日もある。
負ける日もある。
怪我をすることもあるかもしれない。
それでも二人は、前へ進む日も立ち止まる日も、ともに歩いていく。
恵は式で読む手紙を胸へ抱えた。
「さて、明日も楽しむべ」
雪が涙を拭きながら笑う。
「あら、結婚式まで楽しむんだね」
「同じやるなら、楽しまないともったいないしょ」
「やっぱり、お父さんそっくりだわ」
二人の笑い声が、静かなカフェ雪に広がった。
層一の遺影も、どこかうれしそうに微笑んでいるように見えた。
第49話 終
次回予告
第50話「二人で幸せになる日」
二〇四二年九月十五日。
カフェ雪で迎える結婚式の朝。
白いウエディングドレスに身を包む恵。
タキシード姿で、競技よりも緊張した顔を見せる光希。
店内には家族、恩師、仲間、地元の人々が集まる。
雪は、二十年以上前に層一が残した手紙を手にする。
『いつか、恵が結婚する日が来たら渡してほしい』
父から娘へ届く言葉。
母から娘へ受け継がれる思い。
そして二人は、自分たちで考えた誓いを交わす。
「幸せにするとは言いません」
「二人で幸せになることを誓います」
次回、第50話「二人で幸せになる日」。
一センチから戻った空の先で、二人は人生という新しい助走路へ立つ。




