二センチへの挑戦
第12章 二センチへの挑戦
完全休養を挟んだ翌朝、恵は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝日が部屋を淡く照らしている。
布団の中で一度深呼吸をし、ゆっくりと右足を床へ下ろした。
昨日まで感じていた張りはない。
慎重に体重を乗せる。
立ち上がり、一歩、また一歩と歩いてみる。
違和感はまったくなかった。
「……軽いべ」
思わず笑みがこぼれる。
昨日は何もしなかった。
跳ばなかった。
走らなかった。
筋力トレーニングもしていない。
それなのに、体は昨日より確実に良くなっている。
「休んどる間も、体はちゃんと働いとったんだなぁ……」
そうつぶやくと、恵は着替えて階段を下りた。
台所では雪が朝食を用意していた。
「おはよう、めぐ」
「おはよう」
雪は振り返ると、恵の歩き方を見て安心したように笑う。
「歩き方、昨日よりずっとええね」
「うん。びっくりするくらい軽いわ」
「今日は二センチになるんでないかい?」
恵は首を横に振った。
「それは先生たちが決めることだべさ。今日の検査で駄目なら、また一センチだわ」
「前なら絶対『跳んでみる』って言っとったのにねぇ」
「休むって大事なんだって分かったからさ」
雪は味噌汁をよそいながら静かにうなずいた。
「お父さんも、よう言っとったべ」
『休む勇気も才能の一つだ』
その言葉が恵の胸に浮かぶ。
「うん……今なら分かる気がする」
二人はゆっくり朝食を食べ始めた。
急ぐ必要はない。
焦る必要もない。
世界一を目指していた頃より、今の方が一歩一歩を大切にできている気がした。
*
リハビリ施設へ着くと、寄子コーチと海斗コーチ、それに理学療法士が待っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「調子はどう?」
「張りも痛みもありません」
理学療法士は可動域を確認しながらうなずく。
「昨日の夜は?」
「変わりありませんでした」
「自主練習は?」
「してません」
寄子が腕を組む。
「本当に?」
恵は苦笑した。
「そんな信用ありませんか?」
「前科があるからね」
「昨日は光子さんたちの動画見て笑っとっただけです」
海斗が笑う。
「腹筋だけは鍛えられたか」
「そこだけは十分です」
四人が笑った。
検査は慎重に続けられた。
足首の可動域。
ふくらはぎの張り。
片脚立ちでの重心。
前日よりも数値は明らかによくなっていた。
「よし」
寄子が微笑む。
「今日は二センチを試してみよう」
恵は床の目印を見つめた。
「二センチ……」
「怖い?」
「ちょっとだけ」
寄子は優しく笑う。
「最初の一センチも怖かったでしょう?」
「はい」
「でも跳べた」
「はい」
「だから今日も大丈夫」
恵は深く息を吸った。
記録を伸ばそうとするジャンプではない。
体の反応を確かめるための二センチ。
そう自分へ言い聞かせる。
*
一方その頃。
光希も練習場でコスキネンコーチと向き合っていた。
右膝の状態は安定している。
助走確認も昨日まで問題なく終えていた。
予定していた本数を終えたところで、コスキネンコーチが笛を鳴らした。
「今日はここまでだべ」
光希は少し驚いた。
「まだ続けられます」
コスキネンは笑顔で首を横へ振る。
「だから終わるんだわ」
「え?」
「まだできるって思えるところで終わるのが一番ええんだべさ」
光希は苦笑した。
「先生も寄子コーチと同じこと言いますね」
「海斗も寄子も、その考え方で選手を育ててきたからね」
来日して二年。
最初は標準語しか話せなかったコスキネンも、今ではすっかり道北弁が板についていた。
もっとも、時々妙な方言も混じる。
「無理したらいかんばい」
光希が吹き出した。
「また博多弁出ましたよ」
「あら」
コスキネンは照れ笑いする。
「光子さんと優子さんの動画ばっかり見とるけん、たまに出るったい」
「今度は完全に博多弁ですね」
「道北弁と博多弁、どっちも好きなんだわ」
「フィンランドの人なのに」
「言葉は楽しんだもん勝ちだべ」
二人は笑った。
コスキネンは真剣な表情に戻る。
「明日は完全休養だべ」
「また休みですか」
「そうだべ。一日おきに休む」
「練習量、足りますか?」
コスキネンは静かに首を振った。
「一回だけ世界へ戻るなら、もっと詰め込める」
少し間を置いて続ける。
「でも、私たちは十年飛ぶ選手を育てたいんだべ」
光希はその言葉を静かに受け止めた。
「休む日も練習のうち」
「そういうことだべさ」
「明日は何して過ごせばいいですか」
コスキネンは少し笑った。
「雪さんも来るし、買い物でも行くべ」
「買い物ですか」
「それからトランプでもやるかい」
「コーチ、強いんですか?」
「……それは秘密だべ」
光希は、その微妙な間を見逃さなかった。
「もしかして弱いんですか」
「秘密だって言っとるべ」
その答えに、練習場には笑い声が響いた。
翌日は、恵と光希の完全休養日となった。
朝の体調確認だけを済ませると、二人は練習着ではなく普段着に着替えた。雪も動きやすい服装を選び、ホテルのロビーで待っていたコスキネンコーチと合流した。
コスキネンコーチは淡い青色のシャツに細身のパンツを合わせ、いつもの練習場で見る姿とは少し雰囲気が違っていた。
恵は思わず、頭の先から足元までを見た。
「コーチも普通の服着るんだね」
「何さ、それ」
「いや、いつもトレーニングウエアだからさ」
「私だって買い物くらいするし、おしゃれもするべさ」
コスキネンコーチは少し胸を張った。
「練習場に住んどると思っとったかい」
「ちょっとだけ」
「失礼だねぇ」
雪が笑いながら二人の間に入る。
「でも、めぐの気持ちも分かるわ。コスキネンコーチ、いつ見てもジャンプ台かトレーニング室にいるもね」
「仕事熱心なんだわ」
「それ、自分で言うんですか」
光希が尋ねると、コスキネンコーチは平然と答えた。
「誰も言ってくれんかったら、自分で言うしかなかろうもん」
突然博多弁になったため、恵と光希が同時に振り返った。
「また出た」
「何がさ」
「博多弁」
「今のは自然に出ただけたい」
「もう完全に混ざっとるよ」
「伝わればよかと」
雪が吹き出すと、コスキネンコーチもつられて笑った。
来日して二年ほどしかたっていないとは思えないほど、コスキネンコーチの日本語は自然だった。
海斗コーチと寄子コーチに招かれて日本へ来た当初は、会話のほとんどを標準語で話していた。しかし、恵や雪、光希たちと過ごすうちに、道北の言葉が少しずつ移っていった。
今では「だべさ」「したっけ」「なまら」といった言葉を、恵たちより自然に使うことさえある。
博多弁は、光子や優子たちと交流する中で覚えたものだった。特に強くツッコむ時や、冗談を言う時には、意識せず博多弁が飛び出す。
本人はきちんと使い分けているつもりらしいが、聞いている側には混ざっているようにしか思えないことも多かった。
*
四人は町の中心部へ向かった。
夏の空は明るく、遠くの山並みまでくっきり見えていた。風は少し冷たく、日差しの強さを和らげている。
通りには小さな商店や食料品店、雑貨屋が並び、観光客だけでなく地元の人たちも行き交っていた。
恵は練習や試合以外で、ゆっくり町を歩くことが久しぶりだった。
遠征先へ来ても、ホテルと競技場を往復するだけで一日が終わることが多かった。買い物へ出ても、食事管理に必要な物を短時間で選び、すぐ宿泊先へ戻っていた。
今日は急ぐ必要がない。
歩く速さも、入る店も、自分たちで決められる。
「こういうの、久しぶりだわ」
恵が店先に並んだ雑貨を眺めながら言った。
「何がさ」
雪が尋ねる。
「何も決めないで歩くこと。いつも何時までに戻るとか、何を買うとか決まっとったから」
「今日は練習もないし、好きなだけ見ればいいべさ」
コスキネンコーチがそう言いながら、木彫りの動物が並ぶ店の前で足を止めた。
恵も横へ並び、棚をのぞき込む。
細長い顔をした鳥の置物が目に入った。
「これ、光希に似とる」
「どこがですか」
光希はすぐに反論した。
「真面目そうに前だけ見とるところ」
「鳥はだいたい前を見ます」
「口元も似とる」
「くちばしです」
雪も木彫りの鳥と光希を見比べた。
「うん。ちょっと似とるかも」
「雪さんまで何言っとるんですか」
光希が不満そうに言うと、コスキネンコーチが別の棚から丸々とした鳥の置物を手に取った。
「こっちは恵だべ」
「何でさ」
「休む前に練習詰め込みすぎて、体も心も重くなっとった時の恵たい」
「それ、鳥の体型の話でないしょ」
「今は少し軽くなったべさ」
コスキネンコーチは置物を棚へ戻すと、店の奥を眺めた。
「買わなくてもいいんだわ。こういう所を歩いたり、くだらん物見つけて笑ったりすることが大事なんだべ」
「競技と関係ない記憶を作るってことですか」
光希が尋ねる。
「そういうこと。遠征先の記憶が、ジャンプ台とホテルだけじゃ寂しいっしょ」
恵は店内を見回した。
色鮮やかな食器や布製品、山や森の風景を描いた絵はがきが並んでいる。
どれも競技とは関係がない。
それでも眺めているうちに、頭の中を占めていたジャンプの映像が少しずつ薄れていった。
*
昼食は、市場の近くにある小さな食堂で取ることになった。
木製のテーブルを囲んで座り、料理を待っていると、光希が無意識にスマートフォンへ手を伸ばした。
その動きを、コスキネンコーチは見逃さなかった。
「何見ようとしたんだい」
「大会の結果です」
「今日は見なくていいべ」
「ライバルの状態が気になります」
「ライバルがお前の代わりに昼飯食べてくれるんかい」
「食べません」
「したっけ、今は自分の飯に集中しなさい」
光希はスマートフォンをテーブルの端へ置いた。
「分かりました」
「偉いね」
「子ども扱いしないでください」
「スマホ取り上げられた子どもみたいな顔しとるけん、仕方なかろうもん」
恵が声を上げて笑った。
「光希、完全に怒られとる」
「恵もさっき店の外で通知を見ようとしていましたよね」
「あれは時間を見ただけだわ」
「目の前に時計がありました」
「細かいねぇ」
「二人とも同じだべさ」
雪がそう言うと、コスキネンコーチもうなずいた。
「ジャンプのことになったら止まらんもね。今日は休みなんだから、結果も映像も後でいいっしょ」
そこへ料理が運ばれてきた。
恵は湯気の立つ皿を見て、思わず笑顔になった。
「おいしそう」
「その顔でいいんだわ」
コスキネンコーチが言った。
「選手の顔じゃなくて、普通に腹すかせた人の顔しとる」
「私だって普通にお腹すくよ」
「知っとるよ。けど、食べながら栄養素の計算ばっかりしとったら、飯がかわいそうたい」
「食事がかわいそうって初めて聞いた」
「せっかく作ってもらったんだから、味わわんともったいないべさ」
四人は会話を楽しみながら、ゆっくり昼食を食べた。
恵も光希も、途中からスマートフォンの存在を忘れていた。
*
午後、宿泊先へ戻ると、雪が買い物袋の中から一組のトランプを取り出した。
「これ、さっき見つけたから買ってきた」
「トランプ?」
恵が箱を受け取る。
「スマホもパソコンも使わない遊び。今日にはちょうどいいしょ」
「何やるんですか」
光希が尋ねる。
「四人だから、まずはババ抜きでないかい」
雪がカードを配り始めた。
コスキネンコーチは手元のカードを扇状に広げたが、絵札がすべて上下逆になっていた。
「コーチ、カード逆だよ」
恵に指摘されると、コスキネンコーチは何事もなかったように持ち直した。
「フィンランドでは、こっちが正しいんだわ」
「絶対うそでしょ」
「ばれたかい」
「もしかして、トランプ苦手なんでないの」
「競技と関係ないからね」
「その言い方、苦手な人の言い訳だわ」
「ルールは知っとるけん、問題なか」
「博多弁で押し切ろうとしとる」
最初に同じ数字のカードを捨てていく。
光希はカードをきれいに並べ、真剣な表情で手札を見つめていた。
「光希、ただのババ抜きだよ」
「勝負ですから」
「休養日なのに、競技の時と同じ顔しとる」
「恵も俺のカードを見ようとしていますよね」
「見てないって」
「今、首伸びました」
「鳥みたいに言わんで」
雪が光希の手札から一枚引いた。
カードを確認した瞬間、雪の眉がわずかに動く。
「お母さん、今のジョーカーでしょ」
「何でそう思うの」
「顔に出とる」
「出てないよ」
「口元、ちょっと笑っとるも」
「めぐの方が分かりやすいしょ」
恵は自分の手札を胸元へ引き寄せた。
「私は世界で戦ってきた選手だから、心理戦には強いんだわ」
その直後、コスキネンコーチが恵の手札から一枚引いた。
恵の笑顔が消える。
「取られたくないカードだったんでないかい」
「何も言っとらんよ」
「顔に書いとるたい」
「コーチまで何さ」
「世界で戦っとっても、ババ抜きは別競技だべ」
ゲームが進むにつれ、誰がジョーカーを持っているのか分からなくなっていった。
最も表情を変えない光希が有利に見えたが、恵は光希がカードを引かれる直前に、わずかに呼吸を止めることに気づいた。
「光希が持っとる」
「何をですか」
「ジョーカー」
「根拠は?」
「私がカード選ぶたび、息止めとるも」
「止めてません」
「ジャンプでも呼吸止めない練習しとるのに、ババ抜きで止めてどうするのさ」
雪が吹き出し、コスキネンコーチも声を上げて笑った。
「光希、助走より緊張しとるべさ」
「競技の癖を見るのは禁止です」
「ルールに書いとらんもん」
光希は観念したように肩を落とした。
最後まで残ったのは、予想に反してコスキネンコーチだった。
恵が最後の一枚を捨てると、コスキネンコーチの手元にはジョーカーだけが残った。
「コーチの負けだわ」
「もう一回やるべ」
「ずいぶん本気になったね」
「次は絶対勝つ」
「休養日に熱くなりすぎでないかい」
恵が寄子コーチの口調をまねると、雪と光希が笑った。
「私はコーチだからね。負けた原因を分析せんといかん」
「ババ抜きにも分析が必要なんですか」
「勝負は勝負たい」
光希に尋ねられ、コスキネンコーチは真顔で答えた。
「それ、休むの下手な人の考え方だわ」
恵が言うと、コスキネンコーチはしばらく黙った。
「したっけ、あと二回までにする」
「自分で回数制限した」
「できるうちに終える。それが今日のテーマだべさ」
結局、四人は夕食の時間までトランプを続けた。
ババ抜きの次は七並べ、そのあとには神経衰弱にも挑戦した。
記憶力には自信があると言っていた光希は、恵が動かしたコップに気を取られ、カードの位置を何度も間違えた。
コスキネンコーチは数字の位置を正確に覚えていたものの、絵札の違いを混同し、雪に負けた。
「また負けたね」
雪が笑う。
「カードの絵が分かりにくいんだわ」
「どこがさ」
「フィンランドの王様は、もう少し寒そうな顔しとる」
「適当なこと言っとるしょ」
「ばれたかい」
何度もカードを配り直し、そのたびに勝ったり負けたりした。
間違えるたびに笑い声が上がり、誰が一番強いかなど、途中から誰も気にしなくなっていた。
そこには飛距離も得点も順位もない。
競技者として評価されることもなく、誰かに結果を報告する必要もなかった。
ただ四人でテーブルを囲み、その時間を楽しんでいた。
*
ゲームを終えた頃には、窓の外が夕暮れの色に染まっていた。
恵はカードを箱へ戻しながら、窓の外を見た。
「スマホ見なくても、あっという間だったね」
「頭の中でジャンプのこと考えたかい」
コスキネンコーチに尋ねられ、恵は少し考えた。
「買い物の最初の方は、ちょっと考えとった。でも、トランプ始めてから忘れとったわ」
「俺もです」
光希が答えた。
「それでいいんだべさ」
コスキネンコーチは箱に収められたトランプを見つめた。
「休養っていうのは、体を動かさんことだけでないんだわ。競技から意識を離す時間を作れば、頭の疲れも抜けていく」
「強い選手は、ずっと競技のことを考えとると思ってた」
恵が言う。
「ずっと考えることで強くなれる時期もあるよ。けど、それを何年も続けたら、心の方が先に疲れてしまうべさ」
コスキネンコーチの声は穏やかだった。
普段は道北弁で冗談を言い、時々博多弁を混ぜて周囲を笑わせる。しかし、選手の未来について話す時、その青い目には厳しさと優しさが同時に宿る。
「競技を忘れられる時間があるから、戻った時にもう一度集中できるんだわ。お前たちが目指しとるのは、一回だけ大会に戻ることでないしょ」
恵と光希は顔を見合わせた。
二人で世界の舞台へ戻る。
しかし、それを一度限りの復帰にはしたくない。
戻ったあとも、できるだけ長く飛び続けたい。体の状態と向き合いながら、自分たちの競技人生を歩いていきたい。
「これからも、一日おきに休むんですか」
光希が尋ねた。
「当面はそうするべさ。回復が進めば練習日を増やすこともあるけど、完全休養日は必ず残す」
「休養日には、また買い物行ってもいい?」
恵が聞くと、雪が笑った。
「今度は、めぐが夕食の材料選んでね」
「トランプもやる?」
「コスキネンコーチが勝つまで続くんでないかい」
「次は負けんばい」
コスキネンコーチが力強く言った。
「今、完全に博多弁だったよ」
「勝負の時は博多弁の方が勢い出るんだわ」
「それ、休養日なのに勝負モードになっとるしょ」
三人の笑い声が部屋に重なった。
*
その後、恵と光希の練習には、一日おきに休養日が組み込まれた。
練習日には短い時間の中で集中して体を動かし、跳躍の高さや助走距離を無理に増やさない。動作の質が落ちる前に、その日の練習を終えた。
光希がまだ続けられると訴えるたび、コスキネンコーチは道北弁で止めた。
「今日は終わりだべさ。余力は次に取っときなさい」
それでも光希が食い下がると、今度は博多弁が飛び出した。
「しつこかよ。終わりって言うたら終わりたい」
「また博多弁になっとりますよ」
「言うこと聞かん時は博多弁の方が効くけんね」
「どういう理屈ですか」
そんなやり取りをしながらも、光希は少しずつ、自分から練習を終える判断ができるようになっていった。
休養日には、体調に合わせて散歩へ出たり、雪やコスキネンコーチと買い物へ行ったりした。雨の日には室内でトランプを広げ、誰が一番表情に出やすいかを笑い合った。
スマートフォンやパソコンを完全に禁止したわけではない。必要な連絡には使ったが、一日中大会の映像を見たり、他の選手の結果を追い続けたりすることはやめた。
競技から少し離れ、家族や仲間と話し、町を歩き、食事を味わう。
何の記録にも残らない遊びに夢中になる。
その時間が、次の練習への集中力を生み出していった。
恵は以前より少ない本数でも、一回ごとの動きを細かく感じ取れるようになった。
光希も疲労を隠して本数を重ねることをやめ、自分の状態を正直に伝えられるようになった。
それは派手な成長ではなかった。
大会の記録には残らず、新聞の記事になることもない。
けれど、二人がその後も長く現役を続けていくうえで、この時期に覚えた休み方は、技術や筋力と同じくらい大切な財産となった。
練習する日を大切にするために、休む日を大切にする。
競技を愛し続けるために、競技から離れる時間を持つ。
その新しい習慣は、二センチの跳躍と、一組のトランプから始まった。
恵は練習記録の最後に、その日の気持ちを書き残した。
『今日は二センチ跳べた。
でも、本当に覚えたことは、高さではない。
できるところで終わること。
次の日は休むこと。
笑って、遊んで、競技を忘れること。
それが次に飛ぶ力になる。
昔の私は、休んだら弱くなると思っていた。
今は、休める選手の方が、長く強くいられると思う。』
恵はノートを閉じると、テーブルの上に置かれたトランプへ目を向けた。
隣では光希が、次の神経衰弱では絶対に負けないと言いながら、カードを丁寧に切っている。
「さて、今日も楽しむべ」
「今日は休養日ですよ」
「休養日を楽しむんだわ」
恵が光希の向かい側に座ると、雪も椅子を引いた。
最後にコスキネンコーチが、気合の入った表情で席につく。
「今日は負けんばい。なまら本気でいくべさ」
「また道北弁と博多弁混ざっとるよ」
「これが私の日本語たい」
窓の外では、夏の夕日がゆっくりと山の向こうへ沈もうとしていた。
空へ戻る道は、ジャンプ台の上だけにあるのではない。
買い物へ出かけた町の通りも、トランプを囲んで笑ったこの部屋も、二人が長く飛び続けるための大切な練習場になっていた。
第12章 終
次回予告
第13章「練習しない日の成績表」
一日おきの休養が始まり、恵と光希の体には少しずつ変化が現れる。
疲労が翌日まで残らなくなり、短い練習でも集中力を保てるようになっていく。
しかし、休養日の翌朝、恵はいつもの癖で練習記録へ成果を書こうとする。
「昨日は何もしてないから、書くことないべさ」
その言葉を聞いたコスキネンコーチは、白紙の記録用紙を恵の前へ置く。
「休養日にも成績はあるんだわ」
よく眠れたか。
食事を楽しめたか。
競技を忘れる時間を持てたか。
心から笑えたか。
光希は、トランプで負け続けたことまで記録へ書くべきか悩み始める。
そんな二人を見ていたコスキネンコーチは、あることに気づく。
恵も光希も、休むことまで完璧にしようとしていたのだ。
「休みの日まで満点取ろうとせんでよか。そげん力んどったら、休養にならんばい」
次回、第13章「練習しない日の成績表」。
何もしなかった一日にも、意味はある。
数字では測れない回復が、二人の体と心を静かに強くしていく。




