休む勇気のテスト
第48話「着地の向こう側」
第10章「休む勇気のテスト」
翌朝、恵が目を覚ました時、右足首には前日までとは違う、はっきりとした張りが残っていた。
痛みではなかった。歩けないほどでもない。布団の中で足首をゆっくり動かしてみても、鋭い違和感はない。
それでも、昨日までより重い。
足首の周囲に、薄い膜が巻きついているような感覚があった。
恵はしばらく天井を見つめたまま、布団から起き上がらなかった。
昨日は一センチの跳躍を繰り返した。
高さは増やしていない。回数も、寄子コーチと理学療法士が決めた範囲に抑えた。着地も大きく崩れてはいなかった。
だからこそ、恵の中には小さな反発が生まれていた。
一センチしか跳んでいないのに。
これくらいの張りで休まなければならないのか。
「今日も一センチなら、大丈夫だよね」
誰に聞かせるでもなく、恵は小さくつぶやいた。
以前なら、そのまま何度も足首を動かし、動くことを確認して安心しようとしていただろう。
だが今は、確認しすぎないことも覚えていた。
恵は一度だけ足首を曲げ伸ばしし、それ以上は触らなかった。
階下へ下りると、雪はすでに朝食の準備を終えていた。
「おはよう。足はどう?」
雪は恵の顔を見るより先に、歩き方を見ていた。
「少し張ってる」
「昨日より?」
「うん。でも痛くはない」
「そう」
「歩けるし、一センチくらいならできると思う」
雪はすぐには答えなかった。
味噌汁を食卓へ置き、椅子に座った恵の右足へ視線を落とす。
「今日は先生たちに見てもらってからだね」
「でも、完全に休むほどじゃないと思う」
「めぐが決めることじゃないでしょう」
「分かってるけど」
恵は少し不満そうに箸を取った。
自分でも分かっていた。
この焦りは、足首の張りそのものより、昨日せっかく見つけた小さな前進を止めたくないという気持ちから来ている。
一センチ。
たったそれだけなのに。
今の恵にとっては、世界へ戻るための大切な一歩だった。
その一歩を、翌日すぐに止められるかもしれない。
それが怖かった。
「昨日、初心者も悪くないって言ってたのにね」
雪が焼き魚をほぐしながら言った。
「言ったよ」
「今日の初心者は、休む練習かも」
「またそれ?」
「またそれ」
「休む練習ばっかり増えてない?」
「それだけ、めぐが休むの苦手なんでしょ」
恵は言い返せず、味噌汁を飲んだ。
温かさが体へ広がっても、気持ちはなかなか緩まなかった。
*
練習場へ着くと、寄子コーチと理学療法士が待っていた。
恵は室内へ入った瞬間から、右脚へ余計な力が入らないように意識した。
普通に歩く。
かばわない。
重く見せない。
自分でも、何をしようとしているのか分かっていた。
状態を正確に見てもらうためではなく、少しでも軽く見せようとしていた。
寄子は、その歩き方を数秒見ただけで言った。
「無理に普通に歩かなくていいよ」
恵は足を止めた。
「普通に歩いてます」
「普通に見せようとしてる」
「そんなことないです」
「あるね」
理学療法士も苦笑した。
「右足を着く瞬間だけ、上半身が少し先に動いています。張りをかばっていますね」
恵は観念したように息を吐いた。
「少しだけ重いです」
「朝より強くなっていますか」
「変わらないです」
「痛みは」
「ないです」
「違和感は」
「張ってる感じだけ」
ベッドへ横になり、足首の状態を確認する。
ゆっくり曲げる。
伸ばす。
内側へ倒す。
外側へ動かす。
ふくらはぎの筋肉。
アキレス腱周囲。
足裏の反応。
前日より明らかに可動域が悪くなっているわけではない。
だが、筋肉の張りは強く、反応にもわずかな遅れがあった。
理学療法士は記録を確認した後、寄子と短く言葉を交わした。
その様子を見ながら、恵は先に言った。
「今日も一センチなら大丈夫です」
二人が恵を見る。
「高さも増やしません。回数も少なくていいです」
理学療法士は静かに首を横へ振った。
「今日は跳びません」
恵の表情が固まった。
「昨日より悪くなったんですか」
「悪化したわけではありません」
「じゃあ、どうしてですか」
「悪くなる前に休むんです」
「でも、痛みはありません」
「痛みが出てから休むのでは遅い場合があります」
「一センチですよ」
「一センチでも、跳躍と着地の反応はあります」
「昨日はできました」
「昨日できたから、今日もやるとは限りません」
恵は言葉を失った。
目の前にはマットがある。
昨日、何度も一センチだけ床から離れた場所。
その先には窓があり、外にはジャンプ台が見えていた。
助走路へ上がるわけではない。
大きなジャンプをするわけでもない。
ただ、一センチ。
それさえ許されない。
「動作確認もなしですか」
「今日は完全休養です」
「立つ練習も?」
「必要最低限の歩行だけです」
「ストレッチは」
「自分ではやりません」
「音楽を聴きながらなら」
「それはどうぞ」
恵は思わず寄子を見た。
「本当に何もしないんですか」
「今日は、何もしないことをする日」
「それ、言葉としておかしくないですか」
「めぐには、そのくらい言わないと伝わらないからね」
恵は視線を落とした。
昨日までなら、休養も競技の一部だと理解したつもりでいた。
休む時は思いきり休む。
焦らない。
今やるべきことを一つずつ。
そう言った。
光希にも同じことを話した。
けれど、実際に目の前で練習を止められると、言葉は急に遠くなった。
「今日はできると思います」
恵はもう一度言った。
「できるかもしれない」
寄子は否定しなかった。
「じゃあ」
「でも、できるからやるわけじゃない」
「どういうことですか」
「今やれば、今日の一センチはできるかもしれない。でもそのせいで、明日や明後日に影響が出るかもしれない」
「出ないかもしれない」
「そうだね」
「なら」
「でも、今は賭ける時期じゃない」
寄子の声は穏やかだった。
「復帰の最初は、できることを証明する時期じゃない。できることを明日へつなげる時期なんだよ」
恵は何も答えなかった。
「今日一センチ跳べることより、来週も跳べることの方が大切でしょう」
「はい」
「来週跳べることより、その先で板を履けることの方が大切」
「はい」
「その先で助走路へ戻ること。その先で大きな台へ戻ること。その先で世界と戦うこと」
寄子は恵の目を見た。
「今日の一センチだけ見ていたら、その先を失うかもしれない」
恵は唇を結んだ。
分かっている。
正しい。
何も間違っていない。
それでも、悔しかった。
「休むのが、そんなに怖い?」
寄子に聞かれ、恵は少し考えた。
「怖いです」
「何が?」
「昨日できたことが、なくなる気がします」
「一日休んだら?」
「また最初からになる気がする」
「本当に?」
「頭では違うって分かってます」
「でも心は?」
「止まったら、置いていかれるって思ってます」
寄子は静かにうなずいた。
「それが今日の課題だね」
「一センチより難しいです」
「だから、休む勇気のテスト」
「合格できる気がしません」
「合格しようとしなくていい」
「またそれですか」
「休むことまで採点し始めたら、休めないでしょう」
恵は思わず苦笑した。
理学療法士が記録用紙を閉じる。
「今日は帰宅して、右足を必要以上に触らないこと。自主的な筋力トレーニングも禁止です」
「掃除は?」
雪がすぐに聞いた。
「重い物を持たないなら」
「母まで確認しなくていいから」
「確認しておかないと、めぐは何か始めるでしょう」
「始めないよ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんは禁止です」
寄子が即座に言い、雪が笑った。
恵だけが、まだ素直には笑えなかった。
*
練習場を出る時、恵は一度だけジャンプ台を振り返った。
朝の光を受け、助走路は静かに空へ伸びている。
飛んでいる選手の姿は見えなかった。
それでも、そこにジャンプ台があるだけで胸が痛んだ。
「寄っていく?」
雪が尋ねる。
「どこに?」
「少しだけ下から見る?」
「見たら余計に飛びたくなる」
「じゃあ帰ろうか」
「うん」
車へ乗り込んでも、恵はしばらくシートベルトを締めなかった。
「本当に何もしないで帰るんだね」
「そうだね」
「練習場まで来たのに」
「来たから休むって決められたんじゃない?」
「家にいたら、自分で一センチ跳んでたかも」
「絶対やってたね」
「そこは否定してよ」
「事実でしょう」
雪はエンジンをかけた。
車が動き始める。
ジャンプ台が少しずつ遠ざかっていく。
恵は窓の外を見ながら、右手を握ったり開いたりした。
何もしない。
それだけなのに、体の中には行き場のない力がたまっていた。
「お父さんも、休むの嫌いだった?」
「大嫌いだったよ」
「やっぱり」
「でも、病気になる前から、少しずつ覚えようとはしてた」
「できてた?」
「できてない日も多かった」
「じゃあ、私と同じだ」
「でも、できないって分かってたから、ノートを残したんじゃないかな」
恵は助手席に置いた層一の休養ノートへ目を向けた。
完璧にできた人が残した言葉ではない。
できなかった。
失敗した。
焦った。
無理をした。
それでも、少しずつ学んだ。
だからこそ残せた言葉。
「帰ったら読む」
「今日は読んでもいいと思うよ」
「読んだら競技のこと考えるけど」
「今日は、考えないために休むんじゃなく、無理に動かないために休む日だから」
恵は少し驚いた。
「休み方にも違いがあるんだね」
「そうだと思う」
*
一方、合宿地にいる光希も、その朝から右膝に軽い重さを感じていた。
痛みはない。
普通に歩ける。
階段も上れる。
それでも、屈伸した時の反応がいつもより遅かった。
光希は練習前の検査で、できるだけ自然に動こうとしていた。
しかし、ラーシュコーチは最初の数分で異変に気づいた。
『右膝が重いな』
「少しだけです」
『いつからだ』
「今朝です」
『昨日の夜は』
「問題ありませんでした」
『隠していたわけではないな』
「隠していません」
『ならいい』
スタッフが膝の状態を確認した。
腫れはない。
熱もない。
大きな炎症反応も見られない。
だが、疲労の蓄積を示すわずかな反応があった。
ラーシュは短く言った。
『今日は休め』
光希はすぐに顔を上げた。
「まだ動けます」
『知っている』
「助走確認だけなら」
『しない』
「飛距離ゼロです」
『ゼロでも踏み切る』
「動作を確認するだけです」
『今日は確認もしない』
光希は納得できない様子で、助走路の方を見た。
「悪化しているわけではありません」
『悪化する前に止める』
「恵も同じことを言われていそうですね」
『なら、お前たちは本当によく似ている』
ラーシュは光希の前へ立った。
『動けなくなってから休むのは、誰にでもできる』
「はい」
『痛くて動けないなら、選択肢はない』
「そうですね」
『だが、動ける時に休むには判断が必要だ』
光希は黙って聞いた。
『動ける時に休める者だけが、長く飛べる』
「でも、一日休めば感覚が」
『消えるか』
「少しは」
『なら、その感覚は一日で消える程度のものだったということだ』
光希は眉を寄せた。
『本当に身についたものは、一日ではなくならない』
「それでも不安です」
『不安のまま休め』
「不安をなくしてからでは駄目ですか」
『不安がなくなるのを待っていたら、休む日は来ない』
ラーシュの言葉に、光希は返す言葉を失った。
『今日は競技場へ来る必要もない』
「見学は」
『禁止だ』
「どうしてですか」
『見学しながら頭の中で飛ぶからだ』
「それくらいは」
『膝は休んでも、頭は休まない』
光希は苦笑した。
「全部見抜かれますね」
『コーチだからな』
光希は助走路をもう一度見た。
昨日まで、ほんのわずかな踏み切り動作を繰り返していた場所。
まだ完全なジャンプではない。
それでも、体が少しずつ戻ってくる感覚があった。
だからこそ止まりたくなかった。
「分かりました」
しばらくして、光希は静かに答えた。
『不満そうだな』
「不満です」
『それでいい』
「いいんですか」
『納得していなくても、正しい判断を選べることが大事だ』
光希は小さくうなずいた。
*
帰宅した恵は、まずソファへ座った。
いつもなら着替えを済ませると、すぐにノートを開くか、体の状態を確かめていた。
今日は、何をしてよいのか分からなかった。
雪が温かい飲み物を持ってくる。
「今日は何をする?」
「何もしない」
「言い方が投げやりだね」
「だって、本当に何もしない日でしょう」
「音楽を聴くとか、本を読むとか」
「それはしていいんだ」
「足を使わないからね」
「競技の本は?」
「今日はやめた方がいいかも」
「じゃあ、何を読めばいいの」
「小説とか」
「家にあったかな」
「めぐ、競技関係の本ばっかりだもんね」
恵はため息をついた。
その時、リビングの隅に立てかけてある小さなスキー板が目に入った。
幼い頃に使っていた板。
内側には、層一の言葉が残っている。
「板、磨こうかな」
「いいんじゃない?」
「足は使わないよ」
「座ってやるならね」
「それも練習扱いにならない?」
「それはさすがに大丈夫でしょ」
雪は古い布と、手入れ用の道具を持ってきた。
恵は床へ直接座らず、椅子に腰かけ、小さな板を膝の上へ載せた。
今使っている競技用のスキー板と比べると、信じられないほど短い。
傷も多い。
表面には、子どもの頃に貼った鳥のシールが残っている。
「この鳥、まだいたんだ」
「はがれなかったね」
「何の鳥だったんだろう」
「めぐはワシだって言ってた」
「これ、どう見てもヒヨコじゃない?」
「大きい鳥になりたかったんでしょう」
恵は小さく笑った。
布で表面を拭く。
傷の間に入り込んだ古い汚れを、少しずつ落としていく。
層一が補修した跡。
エッジの近くについた傷。
何度も転んだ痕跡。
幼い頃の自分が、ここに残っている。
板を裏返すと、層一の文字が見えた。
『遠くへ飛ぶ前に。
飛ぶことを好きになってくれたら、それでいい。』
恵は手を止めた。
「飛ぶことが好きだから、今日は飛ばない」
口に出してみる。
矛盾しているようで、今は少し分かる。
飛ぶことが好きだからこそ、無理をして壊したくない。
明日も、来週も、その先も飛びたい。
光希と一緒にオリンピックへ出たい。
そのために、今日の一センチを諦める。
「お父さんなら、何て言うかな」
恵が尋ねる。
雪はしばらく考えた。
「最初は、これくらいなら大丈夫だべって言うかも」
「やっぱり」
「でも、あとで反省して、やっぱり今日は休むべって言い直す」
「格好よくないね」
「そうちゃんは、格好つけても最後にぼろが出る人だったから」
「でも、そこがよかったんでしょ」
「まあね」
雪は穏やかに笑った。
「完璧じゃなかったから、めぐに残せる言葉があったんだと思うよ」
恵はもう一度、層一の文字を見た。
遠くへ飛ぶことより、飛ぶことを好きになること。
好きでいるためには、無理をしないこと。
昔の層一も、きっと何度も失敗しながら覚えたのだろう。
*
板を磨き終えると、恵は黒川修司から贈られたクラシック音楽のアルバムを取り出した。
今日は、穏やかな弦楽曲を選んだ。
部屋の照明を少し落とし、カーテンは開けたままにする。
午後の光が床へ伸びていた。
音楽が流れ始める。
最初の数分、恵の頭の中には練習場があった。
一センチ。
今日もできたはず。
右足首の張り。
明日は跳べるだろうか。
休んだ分、戻るのが遅くならないか。
次々と考えが浮かぶ。
恵はそれを無理に追い払おうとしなかった。
黒川に言われたことを思い出す。
正しく聴こうとしない。
答えを探さない。
考えが浮かんでも、それを消そうとしない。
音に戻れる時に戻ればいい。
弦の柔らかな響きが部屋へ広がる。
やがて、恵の呼吸は少しずつ深くなった。
肩の力が抜ける。
足首の張りを確認したくなる気持ちも、少しだけ遠ざかった。
音楽の中に、遠いヨーロッパの風景が浮かぶ。
石造りの家。
窓辺に置かれた花。
ゆっくりと歩く人々。
小さな教会。
夕方の街。
その時代にも、誰かは焦っていたのだろう。
誰かは大切な人を待ち、誰かは病からの回復を願い、誰かは自分の思うようにならない日々を生きていた。
それでも、一日は流れていく。
夕方になり。
夜が来る。
そして、また朝が来る。
自分が今日一センチ跳ばなくても、世界は止まらない。
だからといって、自分の努力が無意味になるわけでもない。
世界が動き続けているからこそ、自分もその流れの中で休んでよいのかもしれない。
曲が終わった後、恵はしばらく目を閉じたままにしていた。
「少し落ち着いた?」
雪が台所から尋ねる。
「うん」
「足のこと考えてた?」
「最初は」
「今は?」
「昔の街を歩いてた」
「どこ?」
「分からない。たぶんヨーロッパ」
「便利だね、音楽は」
「行ったことない場所にも行けるから」
恵は小さく笑った。
*
続いて、恵は童謡と唱歌のアルバムを手に取った。
最初に流れたのは『ふるさと』だった。
静かな歌声が流れると、恵の中に、幼い頃の故郷の景色が浮かんだ。
夕焼けに染まる山並み。
低い雲。
少し冷たい風。
雪と手をつないで歩いた帰り道。
遠くの家から夕食の匂いが漂い、どこかで犬が鳴いていた。
層一が遠征から戻った日は、駅まで迎えに行った。
大きな荷物を持った父の姿を見つけると、恵は雪の手を離し、全力で走った。
「おとうさん!」
層一は荷物を置き、両手を広げた。
「おお、めぐ!」
抱き上げられた時の高さ。
頬に当たる防寒着の冷たさ。
それでも、層一の腕の中は温かかった。
そんな記憶が、歌とともによみがえる。
次に『朧月夜』が流れる。
菜の花畑。
春の夕暮れ。
ぼんやりと霞む山。
恵が実際に見た風景と、歌の中の風景が重なっていく。
春先、雪が解け始めた頃。
道の端に残る白い雪。
その向こうに見える土。
長い冬を越えた後の匂い。
層一が「春だな」と言いながら空を見上げた。
恵は幼く、春よりも、雪がなくなってジャンプ台がどうなるかを心配していた。
「雪なくなったら、とべない?」
「冬じゃなくても飛べる台はあるべ」
「ほんと?」
「ほんとだ」
「じゃあ、ずっととべる?」
「ずっとは休まないと駄目だな」
当時の恵は、休むという言葉を嫌がった。
「やだ。ずっととぶ」
「それじゃ鳥も疲れるべ」
「とり、つかれないもん」
「鳥も寝るぞ」
今なら、その会話の意味がよく分かる。
鳥だって、飛び続けているわけではない。
枝に止まり、羽を休め、夜になれば眠る。
休むから、また空へ戻れる。
曲は『赤とんぼ』へ変わった。
夕焼け。
田んぼ。
遠くを飛ぶ赤とんぼ。
幼い頃、恵は虫を追いかけるのが好きだった。
夏の終わり、層一と一緒に外を歩き、赤とんぼを追った。
「おとうさん、つかまえて!」
「無理だべ。速いぞ」
「ジャンプのせんしゅなのに?」
「ジャンプの選手は、トンボを捕まえる仕事じゃないからな」
「おそい」
「ひどいな」
二人で笑いながら走った。
層一の方が先に疲れ、恵に「休憩だ」と言った。
恵は不満そうにしながらも、隣へ座った。
夕焼けの空を、赤とんぼが何匹も横切っていった。
その景色は、当時は当たり前だった。
けれど今は、もう二度と戻らない時間だった。
恵の胸に、少しだけ寂しさが広がる。
それでも、音楽がその記憶を悲しみだけにはしなかった。
層一がいない。
あの日へ戻ることはできない。
けれど、あの日が消えたわけではない。
歌を聴けば、夕焼けの色も、父の声も、並んで座った草の感触も、心の中によみがえる。
次に『浜辺の歌』が流れた。
海。
波。
風。
朝の浜辺。
夕暮れ。
恵は家族で海へ行った時のことを思い出した。
砂浜を走り、波から逃げた。
層一は靴を濡らし、雪に笑われた。
「そこまで来ないと思ったんだべ」
「海を甘く見たね」
「ジャンプの風なら読めるんだけどな」
「波は読めないんだ」
「専門外だ」
層一は濡れた靴を脱ぎ、砂浜へ座った。
恵はその隣で、波打ち際を見つめていた。
どこまでも続く海。
どこから来て、どこへ戻るのか分からない波。
寄せては返す。
前へ進むだけではない。
戻る動きもある。
それでも海は、そこにあり続ける。
「人も同じかもしれない」
恵はつぶやいた。
「何が?」
雪が尋ねる。
「前に進むだけじゃなくて、戻る時もある」
「うん」
「でも、戻ったからって終わりじゃない」
「そうだね」
波は、引いた後にまた寄せる。
休むことも、後退ではないのかもしれない。
次の波が来るための時間。
*
『雪』が流れると、恵の中に冬の景色が広がった。
朝日に照らされた真っ白な雪原。
屋根に積もった雪。
吐く息の白さ。
雪かきをする大人たち。
新雪へ飛び込み、全身を雪まみれにした幼い自分。
「めぐ、顔まで埋まってるぞ」
層一が笑っていた。
「たすけて!」
「今行くべ」
「はやく!」
「自分から飛び込んだんだろ」
「とりみたいに、とべるとおもった」
「雪の中じゃ飛べないべ」
「おとうさん、とべる?」
「俺も無理だな」
「ジャンプのせんしゅなのに?」
「何でも飛べると思うな」
層一は笑いながら恵を雪の中から引き上げた。
家へ戻ると、雪が二人分の濡れた服を見て呆れた。
「どっちが子どもなの」
「めぐだべ」
「お父さんも同じくらい雪まみれでしょう」
「救助したから」
「一緒に飛び込んだんじゃないの?」
「少しだけ」
温かい部屋。
濡れた手袋。
ストーブの前。
家族三人で飲んだココア。
窓の外では、まだ雪が降り続いていた。
冬は寒い。
雪は厳しい。
けれど、その中には温かい記憶もあった。
競技としての雪。
生活の中の雪。
遊びの中の雪。
恵の人生には、たくさんの雪があった。
どれも同じではない。
今、自分の右足首を休ませているこの日も、いつか記憶の一部になる。
何もできなかった日ではない。
飛び続けるために、自分を守った日。
*
夕方、窓の外がゆっくりと赤く染まり始めた。
恵は音楽を止めず、ソファへ座ったまま夕焼けを見ていた。
山の輪郭が黒くなり、その上に橙色の空が広がる。
童謡や唱歌で思い出した景色と、今目の前にある風景が重なっていく。
夏の夜空。
星。
虫の声。
冬の雪。
春の霞。
秋の夕焼け。
自分は競技だけを生きてきたわけではない。
家族と笑った。
転んだ。
泣いた。
遠征から帰る父を迎えた。
海へ行った。
雪だるまを作った。
夏祭りの帰り道に星を見た。
そうした時間の上に、今の自分がいる。
ジャンプは大切だ。
世界と戦いたい。
光希と一緒にオリンピックへ出たい。
その夢は変わらない。
けれど、その夢だけが自分のすべてではない。
だから、一日休んでも自分は消えない。
競技者としての価値も、失われない。
恵は層一の休養ノートを開いた。
今日のページへ、ゆっくりと書き始める。
『今日は、一センチも跳ばなかった。
右足首に張りがあり、理学療法士から完全休養を言い渡された。
痛みはなかった。
歩けた。
跳ぼうと思えば、跳べたかもしれない。
だからこそ、休むのが難しかった。』
少し考え、続きを書く。
『できないから休むのではない。
できる時に休む。
それは、できない時に止まるより難しい。
今日一センチ跳ぶことより、来週も跳べることの方が大切。
来週より、その先で板を履くこと。
助走路へ戻ること。
世界と戦うこと。
今は、その未来を守るために休む。』
恵はペンを置き、幼い頃のスキー板を見た。
層一の文字。
『遠くへ飛ぶ前に。
飛ぶことを好きになってくれたら、それでいい。』
その下へ、恵は自分の言葉を書いた。
『飛ぶことが好きだから、今日は飛ばない。』
さらに、今日聴いた歌と、よみがえった風景を書き残す。
『クラシックを聴くと、遠い国の古い街が浮かんだ。
唱歌を聴くと、故郷の夕焼けを思い出した。
夏の夜空。
虫の声。
冬の雪。
海辺。
父と母と歩いた道。
競技者になる前の私。
飛ぶこと以外にも、私の中にはたくさんの時間が残っている。』
最後に、もう一行。
『休む日は、自分が歩いてきた道を思い出す日なのかもしれない。』
*
夜になると、光希から電話が入った。
「もしもし」
『今日は休みだった』
「私も」
『右足首?』
「張りが出た」
『俺は右膝』
「やっぱり似てるね」
『笑えないけどね』
「完全休養?」
『完全休養。競技場を見るのも禁止された』
「私も何もしないで帰った」
『納得した?』
「してない」
『俺も』
「でも休んだ」
『俺も』
二人は少し黙った。
「光希」
『何?』
「動ける時に休める人だけが、長く飛べるって言われた?」
『どうして知ってる』
「ラーシュコーチ、言いそうだから」
『言われた』
「私は、今日一センチ跳ぶより、来週も跳べる方が大事って」
『同じだね』
「うん」
『何してた?』
「小さい頃のスキー板を磨いてた」
『層一さんの言葉が書いてある板?』
「うん。それから音楽聴いてた」
『クラシック?』
「クラシックと唱歌」
『何を思い出した?』
「夕焼けとか、夏の夜空とか、冬の雪とか」
『昔のこと?』
「お父さんとお母さんと歩いた道。海へ行ったこと。雪遊びしたこと」
『休みなのに、いろいろあったね』
「うん」
『俺は、本当に何もしてない』
「それでいいんじゃない?」
『少し昼寝した』
「それ、ちゃんと休んでる」
『起きた時、罪悪感があった』
「私も前ならあった」
『今は?』
「少しだけある。でも、今日は前よりまし」
『どうして?』
「一日休んでも、私が今まで積み重ねてきたものはなくならないって思えたから」
電話の向こうで、光希が静かに息を吐いた。
『俺も、そう思えるようになりたい』
「たぶん、すぐには無理だよ」
『めぐも?』
「うん。今日だって、先生に何回も言い返した」
『安心した』
「何で?」
『めぐだけ立派に休めるようになったら、置いていかれた気がする』
「そこ競わなくていいから」
二人は笑った。
『明日はどうなるかな』
「明日の体が決める」
『一センチ跳べるかもしれない』
「跳べないかもしれない」
『その時は?』
「また休む」
『言えるようになったね』
「言うだけならね」
『実際にできるかは別?』
「今日少しできたから、次も少しはできると思う」
『俺も』
「光希」
『うん』
「飛ぶことが好きだから、今日は飛ばなかった」
光希はしばらく黙った後、穏やかに答えた。
『俺もだよ』
*
通話を終えた後、恵はもう一度窓の外を見た。
夕焼けは消え、夜空が広がっていた。
夏の星。
静かな山。
遠くで鳴く虫の声。
今日、自分は一センチも跳ばなかった。
競技の記録として残るものは何もない。
トレーニングの成果もない。
けれど、何もなかった一日ではなかった。
休むことを選んだ。
未来を守ることを選んだ。
層一の言葉を読み返した。
音楽の中で、故郷の景色と再会した。
競技者になる前の自分を思い出した。
そして、飛ばなくても自分は自分でいられると、少しだけ理解した。
進む勇気だけが、強さではない。
止まるべき日に止まる。
できる時に、あえてやらない。
その選択は、目に見える成長よりも難しい。
けれど、長く飛び続けるためには必要だった。
恵は右足をソファの上へゆっくり伸ばした。
張りはまだ残っている。
それでも、朝より少し軽くなったように感じた。
恵は足首へ触れず、静かに毛布をかけた。
「今日は、これでいい」
そうつぶやき、クラシック音楽の続きを流した。
窓の外には、夏の夜空が広がっている。
飛ばない一日は、空から遠ざかる日ではない。
もう一度空へ戻るために、自分を守る日だった。
第10章 終
次章予告
第11章「戻った軽さ」
完全休養の翌朝、恵の右足首から強い張りが消えていた。
痛みはない。
動きも、前日より軽い。
それでも恵は、すぐに跳べるとは決めつけない。
「今日は今日の脚で判断します」
その言葉に、寄子コーチは静かにうなずく。
検査の結果、許可されたのは一センチの跳躍を数回だけ。
高さは増えない。
回数も少ない。
だが、床から離れた瞬間、恵は前日までとは違う軽さを感じる。
「休んだのに、戻ってる」
「休んだから、戻ったんだよ」
一方、光希の右膝も改善し、短い助走確認が再開される。
ラーシュコーチは告げる。
『休養は、失った時間ではない』
『体が、お前の知らないところで仕事をしていた時間だ』
動かない間にも、体は回復している。
見えない場所で、次の一歩を準備している。
恵は初めて、休養の後に訪れる軽さを、はっきりと体で知る。
次章、
第11章「戻った軽さ」
止まったからこそ、戻ってくるものがある。
休むことを選んだ一日が、次の一センチを静かに支えていた。




