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恵の物語  作者: リンダ


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2度目の初心者。

第48話「着地の向こう側」


第9章「二度目の初心者」


 翌朝、恵が目を覚ますと、右足首には前日とは違う、わずかな重さが残っていた。


 痛みではない。床から一センチだけ体を浮かせ、静かに着地する動作を繰り返したことで、普段は意識しない筋肉が働いたのだろう。足首の周囲だけでなく、ふくらはぎや太もも、体幹にも薄い疲労感があった。


 恵は布団の中で右足を一度だけ動かし、それ以上は確かめなかった。


 以前なら、何度も曲げ伸ばしをしていた。昨日より動くか、硬さはないか、痛みが出ないかを繰り返し確認し、そのたびに自分の状態へ点数をつけていただろう。


 だが今は、確認しすぎることもまた、体を休ませない行為だと分かっていた。


「今日の脚は、今日の脚」


 恵は小さくつぶやき、ゆっくり起き上がった。


 階下へ下りると、雪が朝食の準備をしていた。台所から味噌汁の香りが漂い、焼いた鮭の皮がぱちぱちと音を立てている。


「おはよう。足はどう?」


「少し疲れてる」


「痛みは?」


「ないよ。昨日使ったところが分かる感じ」


「それなら、無理はしないことだね」


「うん」


 恵は椅子に座り、湯気の立つ味噌汁を見つめた。


 今日も一センチ。


 高さは増やさない。回数も増やさない。前日より良い跳躍をしようともしない。


 その説明を受けた時、正直に言えば少し拍子抜けした。一センチ跳べたのだから、次は二センチでもよいのではないか。着地が安定しているなら、もう少し回数を増やしてもよいのではないか。


 競技者としての恵は、進歩を数字で確かめたがっていた。


 けれど、寄子コーチからははっきりと言われていた。


「一度できたことと、何度でも自然にできることは違うよ」


 今日確かめるのは、高さではない。


 同じ動作を無理なく繰り返せるか。右脚に頼りすぎず、左右の足へ自然に体重を分けられるか。着地の瞬間に呼吸を止めず、体全体で衝撃を受け止められるか。


 どれも、以前なら無意識にできていたことだった。


「考えすぎてる顔してるよ」


 雪の声で、恵は顔を上げた。


「今日も一センチだから」


「不満?」


「少しだけ」


「昨日は一センチでも嬉しかったのに」


「昨日は久しぶりに床から離れたからね」


「今日はもう慣れた?」


「そんなに早く慣れないけど、やっぱり次へ進みたい気持ちはある」


 雪は鮭を皿に載せながら、少し笑った。


「お父さんも同じだったよ」


「また?」


「怪我から戻る時、少し動けるようになると、すぐ次をやりたがった」


「止めるの大変だった?」


「大変だった。大丈夫だべ、大丈夫だべって言いながら、全然大丈夫じゃないことをしようとするから」


「お父さんらしい」


「だから、めぐが同じことを言い始めたら止めるよ」


「分かりました」


 恵は苦笑しながら箸を取った。


 朝食を食べ終え、支度を済ませる。今日も車にはスキー板を積まなかった。ジャンプスーツもヘルメットもない。持っていくのは室内用のシューズとタオル、水筒、層一の休養ノートだけだった。


 玄関で靴を履きながら、恵は立ち上がった。


「さて、今日も楽しむべ」


 雪が振り返る。


「あら? 言うこと変わったね」


「うん。同じやるなら、楽しまないともったいない」


 雪は一瞬目を丸くした後、声を上げて笑った。


「何?」


「お父さんそっくり」


「そうかな」


「そうちゃんもよく言ってたよ。きつい練習の日ほど、どうせやるなら楽しむべって」


「本当に?」


「本当。言った直後に一番つらそうな顔をしてたけどね」


「そこまで似なくていい」


 二人は笑いながら家を出た。


     *


 練習場へ到着すると、寄子コーチと理学療法士がすでに準備を始めていた。


 恵が室内へ入ると、寄子は挨拶より先に歩き方を観察した。


「昨日より少し重そうだね」


「分かりますか」


「分かるよ。右足をかばっているわけじゃないけど、着地を丁寧にしようとしすぎている」


「普通に歩いてるつもりでした」


「競技者の普通は、意外と力が入ってるからね」


 恵は一度立ち止まり、肩の力を抜いた。


 理学療法士が右足首を確認する。可動域、筋肉の反応、足裏の感覚、片脚で立った時の揺れ。前日の跳躍による大きな悪化はなかったが、軽い疲労が残っていることは数値にも表れていた。


「今日は予定どおり、一センチの跳躍を行います。ただし、状態を見ながら途中で終えることもあります」


「昨日より回数は増えないんですよね」


「増やしません」


「高さも?」


「一センチです」


 恵は小さく息を吐いた。


 寄子がその表情を見逃さなかった。


「物足りない?」


「少し」


「世界で勝ったことがあるのに、一センチのジャンプからやり直すのが?」


「はい」


 恵は正直に答えた。


「世界で勝ったことがあるのに、また初心者みたいだなって思います」


 寄子は腕を組み、少し考えてから言った。


「世界で勝った恵だからこそ、初心者に戻るのが難しいんだよ」


「どういう意味ですか」


「初心者は、できないことを恥ずかしいと思わない。最初からできないのが当たり前だからね。でも一度できるようになった人は、できない自分を受け入れるのが難しい」


「前はできたのに、って思うから?」


「そう。世界で勝った経験があるほど、過去の自分が大きく見える。今の自分は、その過去と比べられ続ける」


 恵は黙って床を見た。


 世界で勝った自分。


 ワールドカップの表彰台に立った自分。


 オリンピックで大勢の観客の前を飛んだ自分。


 大きなジャンプ台から遠くへ飛び出し、着地を決めた自分。


 その記憶があるからこそ、床から一センチしか離れない今の自分が、小さく見えることがある。


「でもね」


 寄子は続けた。


「できなかった頃へ戻るんじゃない。学び直すために、初心者の場所へ立つんだよ」


「同じですか?」


「違う。初めて学ぶ人には経験がない。でも今のめぐには、飛ぶことを知っている体と、競技を知っている心がある」


「じゃあ、初心者じゃない?」


「二度目の初心者かな」


「二度目の初心者」


「一度目より知っている。でも、知っているからこそ、分かったつもりにならないことが大事になる」


 恵はその言葉をゆっくり受け止めた。


 寄子が床の中央を指す。


「今日は、一センチを上手に跳ぶことが目的じゃないよ」


「何が目的ですか」


「一センチを楽しめるかどうか」


 恵は少し驚いた。


「楽しむんですか」


「玄関で言ったんでしょう。今日も楽しむべって」


 恵が雪を見る。


「お母さん、もう話したの?」


「さっき寄子さんに」


「早いよ」


「いい言葉だったから」


 寄子は笑いながら、床に引かれた線を確認した。


「楽しいというのは、ふざけることじゃない。できた回数を競うことでもない。体が床から離れ、また戻ってくる感覚を、そのまま味わうことだよ」


「昨日みたいに?」


「昨日以上を求めないでね」


「分かってます」


「本当に?」


「努力します」


「努力しすぎないように」


「難しいなあ」


 恵は笑った。


 以前なら、この段階で笑う余裕はなかったかもしれない。早く次へ進まなければという思いばかりが先に立ち、一センチの跳躍を意味のないものと考えていただろう。


 だが今は違う。


 小さなジャンプにも、確かに飛ぶ感覚がある。


 幼い頃、初めて小さなジャンプ台へ立った時と同じように。


     *


 恵はマットの上へ立った。


 両足を肩幅に開く。つま先と膝の向きをそろえ、肩の力を抜く。


 最初は跳ばない。


 両足で立ち、左右へゆっくりと体重を移す。


 右。


 中央。


 左。


 中央。


 右脚だけで体を支えようとせず、両足へ自然に重さを分ける。


「右へ移った時、肩も右へ傾いてる」


 寄子に言われ、恵は姿勢を戻した。


「足首が少し不安だから、上半身で助けようとしてるのかな」


 理学療法士が説明する。


「悪いことですか」


「今の段階では自然な反応です。ただ、無意識のまま続けると、右脚へ体重を乗せることを避ける動きになる可能性があります」


「どうしたらいいですか」


「直そうとする前に、まず気づくことです」


 また同じ言葉だった。


 気づく。


 知る。


 すぐに直さない。


 恵は右へ体重を移し、肩の位置を感じた。確かに、右脚が重さを受け止める直前に、上半身が先に動こうとしている。


「右足を信じきれてないんですね」


「まだ完全に信じられなくて当然です」


「競技では信じないと飛べないけど」


「だからこそ、今は一センチなんです。小さな動きの中で、少しずつ信頼を戻していきます」


 恵はうなずいた。


 足を置く。


 体重を移す。


 右足首が沈む。


 膝がわずかに曲がる。


 体幹が、その上に静かに乗る。


 右肩は傾かない。


「今の方が自然です」


 理学療法士が言った。


 次に、膝を浅く曲げる。


 地面へ沈み込むのではなく、体の重さを足首と膝と股関節で受け止める。


 息を吸う。


 膝を曲げながら、吐く。


「着地の時も、呼吸を止めないでね」


 寄子が言う。


「昨日、止まってました?」


「最初の数回は」


「分かりませんでした」


「着地を成功させようとした瞬間に止めてた」


「息を止めると、何が悪いんですか」


「全身が固くなる。衝撃を筋肉で受け止めすぎるから、関節へ負担が集まりやすい」


「着地の瞬間って、息を吐くんですか」


「吐こうとしすぎなくていい。止めないことが大事」


 恵は呼吸を繰り返した。


 吸う。


 吐く。


 膝を曲げる。


 立ち上がる。


 まだ跳ばない。


 右脚へ体重を乗せても、呼吸は続いている。


「では、一回目」


 寄子の声に、恵は正面を見た。


 昨日の最初の一センチが頭に浮かぶ。


 怖さ。


 床から離れた瞬間の懐かしさ。


 空中だった、と感じた驚き。


 同じようにやりたい。


 同じ感覚を再現したい。


 そう思った瞬間、寄子が言った。


「昨日の跳躍を探さないで」


 恵は苦笑した。


「顔に出てました?」


「出てた」


「昨日と同じようにやろうとしてました」


「今日は今日の一センチだよ」


 恵は一度力を抜いた。


 両足で立つ。


 足裏へ体重を預ける。


 膝を曲げる。


 息を止めない。


 地面を押す。


 かかとが浮き、つま先が床から離れる。


 ほんの一瞬、両足が空中へ出た。


 次の瞬間、足裏がマットへ戻る。


 右足と左足。


 ほぼ同時。


 膝が衝撃を受け止める。


 呼吸は止まっていない。


 恵は、そのまま静かに立った。


「どうだった?」


「昨日より低かった気がします」


「高さを比べない」


「あ」


「ほかには?」


 恵は足裏の感覚を確かめた。


「右脚だけで受け止めようとしなかった」


「うん」


「左右に分かれた感じがした」


「呼吸は?」


「止まらなかったと思います」


「思います、で十分」


 寄子は次を急がなかった。


 恵も、自分からもう一度とは言わなかった。


 着地した後の体の反応を待つ。


 右足首。


 膝。


 ふくらはぎ。


 体幹。


 大きな痛みはない。


 わずかな緊張が残るが、呼吸とともに少しずつ抜けていく。


「もう一回、行けそうです」


「その前に」


 寄子が尋ねる。


「楽しかった?」


 恵は少し考えた。


「昨日みたいな感動はなかったです」


「正直でよろしい」


「でも、左右の足が一緒に支えてくれた感じは面白かった」


「それも楽しさだよ」


「飛ぶことだけじゃなくて?」


「自分の体がどう動くかを知ることも、競技の面白さだからね」


 恵はもう一度構えた。


 二回目。


 膝を曲げる。


 地面を押す。


 足が離れる。


 戻る。


 今度は着地の瞬間に、左足へ少し多く重さが乗った。


 恵は反射的に右へ戻そうとしたが、途中で止めた。


 体は小さく揺れ、そのまま中央へ戻ってくる。


「今、直さなかったね」


「はい」


「どうして?」


「体が戻るのを待ってみました」


「怖くなかった?」


「少し。でも、戻ってきた」


 寄子はうなずいた。


「初心者の頃は、揺れることも転ぶことも当たり前だったでしょう」


「はい」


「世界で勝つようになると、揺れる前に修正するようになる。失敗を見せない体になる。でも今は、揺れても戻れる体を作り直す時期だよ」


「失敗しない体じゃなくて?」


「失敗しても戻れる体」


 その言葉は、競技だけの話ではないように思えた。


 怪我をしない体。


 調子を崩さない心。


 負けない選手。


 それを目指すことは大切だ。


 だが、人は必ず揺れる。


 疲れる。


 痛める。


 迷う。


 時には休まなければならない。


 大切なのは、一度も崩れないことではなく、崩れた後に戻ってこられることなのかもしれない。


「もう一回お願いします」


「少し休んでから」


「はい」


 恵は素直にベンチへ座った。


 雪が水筒を渡す。


「今日はちゃんと待てるんだね」


「初心者だから」


「世界で勝った初心者?」


「二度目の初心者」


 雪は笑った。


「楽しそうだね」


「うん」


 恵は水を飲みながら、マットを見た。


「前は、こういう地道な練習って、早く終わってほしいと思ってた」


「今は?」


「一センチの中にも、知らなかったことがあるんだなって思う」


「足の裏とか?」


「呼吸とか。左右に体重が分かれる感覚とか。揺れた後に戻る感じとか」


「飛距離とは関係なさそうだけど」


「たぶん全部、飛距離につながってたんだと思う」


 大きなジャンプの中では、あまりにも速く通り過ぎてしまう感覚。


 今はそれを、一つずつ手に取るように確かめている。


 世界で戦うための練習ではなく、飛ぶことをもう一度知るための練習。


 それが恵には、少しずつ楽しくなっていた。


     *


 休憩を終えた後も、恵は同じ一センチの跳躍を繰り返した。


 回数は知らされない。


 高さも測らない。


 着地の音が少し大きかった時も、やり直しとは考えない。


 右脚へ重さが集まった時は、その事実を受け取る。息を止めた時は、次に無理やり吐こうとせず、まず呼吸が止まったことに気づく。


 同じ動作なのに、一回ごとに違っていた。


 足裏の感覚。


 膝の曲がり方。


 体幹の揺れ。


 床を押す力。


 空中に出る時間。


 着地した時の重さ。


 昨日の一センチとも違う。


 数分前の一センチとも違う。


 やがて、恵はそれを正そうとするのではなく、違いそのものを面白いと思うようになっていた。


「同じ一センチなのに、全部違いますね」


「人間の体は機械じゃないからね」


 寄子が答える。


「いつも同じ動きをする方が正しいと思ってました」


「競技では再現性が必要。でも、同じ形を無理に作るのとは違う」


「その日の体に合わせて、同じ目的へ向かう?」


「そう。風も雪も体調も毎回違う。だから本当の再現性は、形を固定することじゃなく、変化の中で自分を調整できることなんだよ」


「揺れても戻れる体」


「それも一つ」


 恵はもう一度、床へ立った。


 呼吸する。


 膝を曲げる。


 地面を押す。


 空中へ出る。


 足裏が戻る。


 今度は、ごく自然に笑みがこぼれた。


「何かあった?」


 寄子が尋ねる。


「浮いた瞬間、昔のジャンプ台を思い出しました」


「鳥になった時?」


「はい」


     *


 幼い頃の恵にとって、ジャンプ台へ向かう朝は特別だった。


 小さなスキー板。


 大きめのヘルメット。


 厚い手袋。


 雪が荷物を持ち、層一が恵の手を引いて歩いていた。


 当時使っていた幼児向けのジャンプ台は、大人の選手が使うものとは比べものにならないほど小さかった。


 それでも、幼い恵には空へ続く坂道に見えた。


「きょうも、とぶ?」


 恵は何度も層一へ尋ねた。


「飛ぶべ」


「とりになる?」


「なるべ」


「おおきいとり?」


「まずは小さい鳥だな」


「やだ。おおきいとりがいい」


「大きい鳥は、ちゃんと小さい鳥から始めるんだぞ」


 層一は笑いながら、恵のヘルメットを直した。


 あの頃の恵には、飛距離の意味が分からなかった。


 助走速度も、踏み切り角度も、空中姿勢も知らない。


 ただ、ジャンプ台の上に立つことが嬉しかった。


 自分の順番が来るまで、落ち着かずに何度も前をのぞいた。


 ほかの子が飛ぶたびに手を叩き、自分の番が近づくと、早く行きたいと層一の袖を引いた。


「まだ?」


「もう少し待つべ」


「はやく、とびたい」


「待つのもジャンプだぞ」


「まつの、ジャンプじゃないもん」


「そうか?」


「ちがうもん」


「じゃあ、待つのは飛ぶ前の大事な仕事だ」


 幼い恵は納得しない顔をしながらも、自分の順番を待った。


 そして名前を呼ばれると、小さなジャンプ台の上へ駆けていった。


 板を履き、前を見る。


 層一が下から手を振っている。


 雪も笑っている。


 怖さはあった。


 それでも、飛びたい気持ちの方が大きかった。


 滑り出す。


 風が頬へ当たる。


 踏み切り台の先で、一瞬だけ足元から雪が消える。


 空中へ飛び出す。


 鳥になったような気分。


 あの瞬間が、恵は大好きだった。


 着地した後は、うまく止まれなくても笑っていた。


 転んでも、雪まみれの顔で立ち上がった。


「もういっかい!」


 それが幼い恵の口癖だった。


 勝ちたいからではない。


 上手になりたいからでもない。


 楽しかったから。


 もう一度、あの一瞬を味わいたかったから。


     *


「小さい頃のめぐは、ジャンプ台へ行くだけで嬉しそうだったよ」


 雪が言った。


「覚えてる。朝、すごく早く起きてた」


「今より早かったかもね」


「そんなに?」


「前の日からヘルメットを枕元に置いてた」


「うそ」


「本当。朝起きたらすぐかぶれるようにって」


「寝る時には邪魔でしょ」


「一度、かぶったまま寝ようとしたこともある」


「それは覚えてない」


「そうちゃんが、首痛くするべって外してた」


 恵は声を上げて笑った。


「そこまで好きだったんだ」


「大好きだったね」


「今も好きだけど」


「今はいろんなものが増えたから」


「勝つこととか?」


「結果も、責任も、応援してくれる人の期待も」


 雪の言葉に、恵はゆっくりうなずいた。


 日本代表として飛ぶこと。


 世界大会で結果を出すこと。


 父のような選手になること。


 光希と一緒にオリンピックへ出ること。


 夢が増えるたび、背負うものも増えた。


 飛ぶことは、幼い頃のように単純な喜びだけではなくなった。


 恐怖もある。


 焦りもある。


 勝敗もある。


 怪我への不安もある。


 それでも、飛ぶことが好きだった気持ちは消えていない。


 今日の一センチは、その一番古い気持ちを思い出させてくれた。


「今は、この練習も楽しいよ」


 恵は言った。


「本当に?」


「うん。前なら、一センチなんて早く卒業したいと思ってた。でも今は、ちゃんと分かるまでやってみたい」


「何が分かるまで?」


「自分の体が、どうやって飛んで、どうやって戻ってくるのか」


「世界で勝ったのに?」


「世界で勝ったから、分かったつもりになってたのかも」


 寄子が、少し離れた場所から口を挟む。


「それが二度目の初心者だよ」


 恵は笑った。


「初心者も悪くないですね」


「初心者には、できるようになる楽しみがあるからね」


「できないことばかりですけど」


「できないことを見つけるのは、伸びる場所を見つけることでもある」


「前は、できないところを見つけるのが怖かった」


「今は?」


「少し面白いです」


 寄子は満足そうにうなずいた。


     *


 同じ頃、合宿地では光希も、ごく小さな踏み切り動作を繰り返していた。


 助走距離は短い。


 速度も低い。


 踏み切りで前へ出ない。


 飛距離は求めない。


 雪面から板がわずかに離れ、すぐに戻る。その小さな動きの中で、足裏から受け取った力を体へ通し、再び地面へ返す。


 一本目。


 光希は滑り出し、低い姿勢を保った。


 踏み切り位置が近づく。


 足裏で雪面を押す。


 板が少し浮く。


 すぐに着地する。


 大きな乱れはなかった。


 だが、光希は停止した直後、納得できない表情を浮かべた。


「昨日より前へ出ていません」


 ラーシュは記録用の端末を見ながら答えた。


『そうだな』


「でも、踏み切りが弱いです」


『弱くしている』


「昨日より反応が遅い気がします」


『今日の体は昨日の体ではない』


「もう一度やれば、合わせられます」


 光希が助走位置へ戻ろうとした瞬間、ラーシュの笛が鋭く鳴った。


 光希は足を止めた。


「何ですか」


『今のお前は、誰と競っている』


「誰とも競っていません」


『嘘だ』


 ラーシュは光希の前へ歩いてきた。


『昨日のお前と競っている』


 光希は黙った。


『昨日より良くしたい。昨日より速く反応したい。昨日より正確に踏み切りたい。そう思っている』


「競技者なら普通では?」


『大会ならな。今日は回復確認だ』


「でも、前へ進まなければ」


『前へ進むことと、昨日を超えることは同じではない』


 ラーシュは雪面を指した。


『今日の体と話せ』


「話す?」


『右脚はどうだ』


「少し重いです」


『腰は』


「昨日より動きます」


『肩は』


「力が入っています」


『それが今日のお前だ』


「直すべきでは?」


『まず認めろ。今日の体を認めずに修正すると、過去の自分の形へ押し込むことになる』


 光希は助走路を見上げた。


 世界で勝った時の感覚。


 助走速度が高まり、踏み切りがぴたりと合った時の体。


 風を捉え、遠くへ伸びていった自分。


 光希もまた、その過去と競っていた。


「恵も、同じことをしているかもしれません」


『一センチの跳躍か』


「はい」


『なら、連絡した時に聞いてみろ。今日の一センチを、昨日の一センチと比べたかと』


「きっと比べています」


『お前もな』


 ラーシュは短く笑った。


『もう一本行くぞ』


「次は、何を意識すればいいですか」


『今日の右脚。今日の腰。今日の肩』


「過去の自分ではなく?」


『今日のお前で踏み切れ』


 光希は再び助走位置へ入った。


 滑り出す。


 右脚の重さを消そうとしない。


 肩の力を感じる。


 腰の動きは昨日より滑らかだ。


 すべてを一つの正解へ揃えようとせず、今ある体で雪面を捉える。


 踏み切り。


 板が少し離れる。


 すぐに戻る。


 今度も飛距離はほとんどない。


 だが、光希の表情には、先ほどまでの苛立ちはなかった。


『どうだった』


「今日の体で飛びました」


『それでいい』


     *


 恵の練習は、予定より早く終了した。


 右足首に痛みが出たわけではない。動作の安定も悪くなかった。


 しかし、最後の数回で着地時の呼吸が浅くなり、右脚へ重さが集まり始めたため、寄子が終了を判断した。


「まだできます」


 恵は反射的に言った。


「できると思う」


「なら、もう少し」


「でも終わる」


「どうしてですか」


「今終われば、体は今日の練習を気持ちよく終えられるから」


「疲れる前に?」


「崩れる前に」


 恵は少し不満だった。


 だが、床へ立った時の右脚には、朝よりはっきりとした疲労がある。


 痛みではない。


 それでも、体は十分だと伝えている。


「分かりました」


「今日は素直だね」


「また飛びたいから」


「明日も一センチかもしれないよ」


「それでも」


「物足りなくない?」


 恵はマットを見つめ、少し笑った。


「今日も楽しかったから」


 寄子も笑った。


「それなら十分」


 着替えを済ませた後、恵と雪は車へ戻った。


 すぐに出発せず、雪は後部座席に積んであった小さな段ボール箱を取り出した。


「何、それ?」


「昨日、物置を整理してたら見つけたの」


「また掃除したの?」


「休養してるのはめぐでしょ。私は掃除していいの」


 雪は箱を恵へ渡した。


 側面には、少し色あせた文字で名前が書かれている。


『恵 ジャンプ道具』


 恵は息を止めた。


「これ」


「小さい頃のもの」


 箱を開ける。


 中には、幼い頃に使っていた小さなヘルメットが入っていた。


 白い表面には細かな傷が残り、側面には子ども向けの鳥のシールが貼られている。


「懐かしい」


「覚えてる?」


「この鳥、私が貼った」


「全部貼るって言って、同じシールを何枚も重ねようとしてた」


 ヘルメットの下には、小さなゴーグルと手袋があった。


 さらに箱の底には、短いスキー板が二本重ねられている。


 今の恵が使う競技用の板と比べると、玩具のように見えるほど小さい。


 恵は慎重に板を持ち上げた。


「こんなに小さかったんだ」


「めぐも小さかったからね」


 表面には擦り傷があり、端には層一が補修した跡も残っていた。


 恵は板を裏返した。


 その時、片方のスキー板の内側に、黒い油性ペンで書かれた文字を見つけた。


「お母さん」


「何?」


「これ、お父さんの字だよね」


 雪が板をのぞき込む。


 少し癖のある文字。


 層一の休養ノートに残されているものと、同じ筆跡だった。


 そこには、こう書かれていた。


『遠くへ飛ぶ前に。


 飛ぶことを好きになってくれたら、それでいい。』


 恵は何も言えなくなった。


 層一は、幼い娘が日本代表になることを願っていたわけではない。


 世界で勝つことを求めていたのでもない。


 自分と同じ道を歩ませようとしていたわけでもない。


 ただ、飛ぶことを好きになってほしかった。


 ジャンプ台へ立つことを嬉しいと思い、空中へ出る感覚を楽しんでほしかった。


 遠くへ飛ぶことは、その後でよかった。


「お父さん、いつ書いたの?」


「たぶん、初めて自分の板を買った時だと思う」


「私に見せた?」


「見せてないと思う」


「どうして」


「めぐが大きくなって、いつか見つけたらいいと思ったのかもしれないね」


 恵は指先で、文字の上をなぞらないように見つめた。


 油性ペンの文字は少し薄れている。


 それでも、層一の思いははっきりと残っていた。


「私、好きになったよ」


 恵は小さくつぶやいた。


「何を?」


「飛ぶこと」


 雪は静かにうなずいた。


「うん」


「世界で勝ちたいって思うくらい」


「うん」


「オリンピックへ行きたいって思うくらい」


「うん」


「一センチでも楽しいって思えるくらい」


 恵の目に涙が浮かんだ。


「ちゃんと好きになったよ、お父さん」


 雪は何も言わず、恵の背中へそっと手を置いた。


     *


 帰宅後、恵は小さなスキー板とヘルメットをリビングへ運んだ。


 すぐに片づける気にはなれなかった。


 ヘルメットをテーブルの上へ置き、その横へ今使っている競技用のヘルメットを並べる。


 大きさがまるで違う。


 幼い自分。


 世界で戦ってきた自分。


 そして今、一センチの跳躍から学び直している自分。


 どれも同じ恵だった。


 夕方になると、光希から電話がかかってきた。


『今日も一センチ?』


「うん」


『昨日と比べた?』


 恵は思わず笑った。


「いきなり?」


『ラーシュコーチに聞けって言われた』


「比べたよ」


『やっぱり』


「最初の一回で、昨日より低かった気がするって言った」


『俺も昨日より踏み切りが弱いって言った』


「似た者同士だね」


『コーチに、過去の自分と競うなって言われた』


「私は、世界で勝った自分ほど初心者に戻るのが難しいって言われた」


『分かる気がする』


「光希は初心者に戻れる?」


『戻りたくないと思ってた』


「今は?」


『少し面白い』


「私も」


 恵はカメラを切り替え、小さなヘルメットを映した。


『何、それ』


「私が幼い頃に使ってたヘルメット」


『小さいな』


「スキー板もある」


 次に板を映す。


 層一の書いた言葉が画面へ映るよう、ゆっくり角度を変えた。


 光希はしばらく黙っていた。


『遠くへ飛ぶ前に、飛ぶことを好きになってくれたら、それでいい』


「お父さんが書いたみたい」


『いい言葉だね』


「私、ちゃんと飛ぶことを好きになれたと思う」


『うん』


「でも、勝つこととか、代表でいることとか、いろんなものが増えて、最初の気持ちを少し忘れてた」


『今日、思い出した?』


「うん。一センチでも、床から離れると楽しい」


『俺も小さい頃、初めて飛んだ時は笑ってたらしい』


「覚えてない?」


『少しだけ。着地で転んだのに、すぐもう一回って言った』


「同じだね」


『本当に似てる』


 恵は笑った。


「今日、家を出る時に言ったの」


『何を?』


「さて、今日も楽しむべって」


『めぐが?』


「うん」


『言うこと変わったね』


「お母さんにも同じこと言われた」


『でも、いいと思う』


「同じやるなら、楽しまないともったいないから」


『層一さんみたいだ』


「お母さんにも言われた」


『それで、今日は楽しめた?』


「楽しめたよ」


『一センチを?』


「一センチの中に、いろいろあった」


『何が?』


「右と左へ重さが分かれる感じ。息を止めないこと。揺れても自分で戻ること。毎回同じ一センチじゃないこと」


『昨日より遠くへ行かなくても?』


「うん」


『それなら』


 光希は少し間を置いた。


『俺も明日は、飛距離ゼロを楽しんでみる』


「無理に楽しもうとしなくていいよ」


『先に言われた』


「楽しむことまで課題にしたら、休養と同じで疲れるから」


『分かりました、先輩』


「私も初心者だけどね」


『二度目の初心者』


「光希もね」


 二人は笑った。


 大きな夢は変わらない。


 再び世界と戦う。


 同じ日本代表としてオリンピックへ出る。


 そのために、今日できることを一つずつ積み重ねる。


 焦らない。


 休む時は思いきり休む。


 小さな動きの中にも、楽しさを見つける。


 夢へ向かう道は、苦しいだけでなくてもよい。


     *


 その夜、恵は層一の休養ノートを開いた。


 今日のページに、題名を書く。


『二度目の初心者』


 その下へ、ゆっくりと今日の出来事を書き始めた。


『今日も一センチ跳んだ。


 高さは増えなかった。


 回数も増えなかった。


 昨日と同じことをしたつもりだったけれど、同じ一センチは一つもなかった。


 右脚へ重さが集まる時もあった。


 左脚へ逃げる時もあった。


 着地で息を止めた時もあった。


 小さく揺れた時もあった。


 でも、体は自分で戻ってきた。』


 ペンを止め、幼い頃のスキー板を見る。


 層一の文字。


『遠くへ飛ぶ前に。


 飛ぶことを好きになってくれたら、それでいい。』


 恵は、その言葉もノートへ書き写した。


『幼い頃。


 ジャンプ台へ行くだけで嬉しかった。


 小さな台から飛び出すと、鳥になったような気がした。


 転んでも、すぐにもう一回と言った。


 勝ちたいからではなく、飛ぶことが楽しかったから。』


 さらに続ける。


『世界で勝ったことがあるのに、一センチからやり直すのは小さすぎると思った。


 寄子コーチは、世界で勝った私だからこそ初心者へ戻るのが難しいと言った。


 一度できるようになった人は、できない自分を受け入れるのが難しい。


 でも今は、できなかった頃へ戻るのではない。


 学び直すために、初心者の場所へ立っている。』


 最後に、恵は朝の自分の言葉を書いた。


『さて、今日も楽しむべ。


 同じやるなら、楽しまないともったいない。


 お母さんは、お父さんそっくりだと笑った。』


 その下へ、もう一行付け加える。


『地道な練習も、今は少し楽しい。


 飛ぶことが好きだった自分が、まだちゃんと残っているから。』


 ノートを閉じると、恵はクラシック音楽を流した。


 今日は黒川修司から届いたアルバムの中から、穏やかなピアノ曲を選んだ。


 何曲聴くかは決めない。


 最後まで聴くとも決めない。


 窓の外には、静かな夜が広がっている。


 恵はソファへ深く座り、目を閉じた。


 明日も一センチかもしれない。


 もしかすると、疲労のために跳ばない日になるかもしれない。


 それでもよい。


 飛ぶ日は、飛ぶ。


 休む日は、休む。


 学ぶ日は、学ぶ。


 楽しめる日は、その小さな進歩を楽しむ。


 大きなジャンプ台へ戻る道は、まだ遠い。


 しかし今の恵は、その遠さを怖がってはいなかった。


 一歩ずつ進む時間も、自分の競技なのだと分かったから。


 強くなるとは、できることを増やし続けるだけではない。


 一度できるようになったことを、もう一度丁寧に学び直す。


 できなかった頃の自分を恥じず、初心者の場所へ立つ。


 そして、最初に抱いた喜びを思い出す。


 それもまた、強くなるための勇気だった。


第9章 終


次章予告


第10章「休む勇気のテスト」


 一センチの跳躍を繰り返した翌朝、恵の右足首に強い張りが出る。


 痛みではない。


 だが、前日までより明らかに動きが重い。


 予定されていた動作確認を行えば、できないことはない。


 恵はそう考える。


「今日も一センチなら大丈夫です」


 しかし、理学療法士の判断は完全休養だった。


「今日は跳びません」


「昨日より悪くなったんですか」


「悪くなる前に休むんです」


 目の前に練習場がある。


 ジャンプ台も見えている。


 それでも、何もしないで帰らなければならない。


 恵にとって、それは一センチを跳ぶことより難しい課題だった。


 一方、合宿中の光希も、右膝に軽い疲労反応が見つかる。


 ラーシュコーチは、助走確認を中止する。


『今日は休め』


「まだ動けます」


『動ける時に休める者だけが、長く飛べる』


 飛べないから休むのではない。


 飛び続けるために休む。


 頭では理解したはずの言葉が、実際の選択として二人へ突きつけられる。


 その日、恵は幼い頃のスキー板を磨き、層一が残した文字を静かに見つめる。


『遠くへ飛ぶ前に。


 飛ぶことを好きになってくれたら、それでいい。』


 飛ぶことが好きだからこそ、今日は飛ばない。


 次章、


第10章「休む勇気のテスト」


 進む勇気だけが、強さではない。


 止まるべき日に止まり、自分の未来を守る。


 その判断もまた、世界へ戻るための大切な一歩になる。

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