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恵の物語  作者: リンダ


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最初の1センチ

第48話「着地の向こう側」


第8章「最初の一センチ」


 それは。


 誰かが見れば、ほとんど動いていないように見えるかもしれなかった。


 記録にも残らない。


 歓声も起こらない。


 飛距離を測る必要もない。


 けれど。


 恵にとっては。


 長い時間をかけて、もう一度空へ向かうための。


 大切な一センチだった。


     *


 翌朝。


 恵は、目を覚ますとすぐに起き上がらなかった。


 布団の中で。


 ゆっくり呼吸する。


 右脚の状態を確認しようとする気持ちは、もちろんあった。


 昨日より動くか。


 痛みはないか。


 硬さは減ったか。


 しかし。


 何度も確かめても。


 回復が早くなるわけではない。


 恵は。


 右足を布団の中で一度だけ軽く動かした。


 それから。


「今日は、今日の脚で行く」


 小さくつぶやいた。


 昨日までの自分を再現するのではなく。


 最も調子がよかった時の感覚を、無理に呼び戻すのでもない。


 今日の体が持っているものを。


 そのまま受け取る。


 層一の休養ノート。


 黒川修司の言葉。


 寄子コーチ。


 理学療法士。


 遠く離れた合宿地にいる光希。


 みんなが。


 少しずつ、同じことを教えてくれていた。


 階下へ下りると。


 雪が台所で朝食を作っていた。


「おはよう」


「おはよう」


「眠れた?」


「うん」


「時間は確認した?」


「してない」


「すごい」


「もう、その反応やめて」


 恵は椅子へ座った。


 食卓には。


 ご飯。


 焼き魚。


 味噌汁。


 卵焼き。


 野菜の小鉢。


 以前なら。


 食事を見た瞬間に。


 たんぱく質。


 炭水化物。


 脂質。


 塩分。


 練習までの時間。


 そんなことを考えていた。


 今日は。


 まず味噌汁の湯気を見た。


「おいしそう」


「普通の朝ごはんだけどね」


「普通でいい」


 雪が微笑む。


「最近、普通って言うことが増えたね」


「光希と話してからかも」


「結婚した後の暮らし?」


「うん」


「試合でも、遠征でもない日」


「ただ一緒に朝ごはん食べる日」


「そういうのも、ちゃんと大事なんだなって」


「そうだね」


 恵は味噌汁を一口飲んだ。


 温かさが、体の中へ広がる。


 朝食を終えると。


 二人はジャンプ台の練習場へ向かった。


 車の後部座席には。


 今日もスキー板はない。


 ジャンプスーツもない。


 トレーニングウェア。


 室内用のシューズ。


 水筒。


 タオル。


 層一の休養ノート。


 黒川から送られた音楽アルバム。


 そして。


 昨夜、光子と優子から届いた新しいメッセージを保存したスマートフォン。


 光子。


『一センチでも床から離れたら、それはちゃんとジャンプたい』


 優子。


『ただし調子乗って二センチにせんこと。寄子コーチの言うこと聞くとよ』


 その下には。


 光子からの返信。


『二センチは明日の夢として取っとこう』


 優子。


『勝手に明日の予定決めん』


 それを読んだ時。


 恵は声を上げて笑った。


 だからこそ。


 今朝。


 少しだけ気持ちが軽かった。


     *


 練習場に到着すると。


 寄子コーチと理学療法士が。


 室内トレーニングスペースで待っていた。


「おはようございます」


「おはよう」


 寄子は恵の歩き方を見ながら言った。


「昨日の疲れは?」


「少しあります」


「どこに?」


「右脚というより、全身です」


「動きを細かく確認したから?」


「たぶん」


「痛みは?」


「ないです」


「張りは?」


「少し」


 理学療法士が右脚の状態を確かめる。


 足首の可動域。


 筋肉の反応。


 片脚で立った時の揺れ。


 軽い体重移動。


 膝の曲げ伸ばし。


 昨日と同じ動きを。


 一つずつ行う。


 恵は。


 前回より良いかどうかを。


 すぐには尋ねなかった。


 動かす。


 感じる。


 止まる。


 呼吸する。


 右脚が。


 どの角度で支え。


 どの瞬間に反応し。


 どこで少し遅れるのか。


 ただ受け取る。


 検査を終えると。


 理学療法士は記録用紙へ数値を書き込んだ。


「前回より改善しています」


 恵の表情が少し明るくなる。


「どれくらいですか」


「数値で全部知りたいですか」


 その問いに。


 恵は一瞬迷った。


 少し前なら。


 左右差。


 角度。


 反応速度。


 何パーセント改善したか。


 すべて聞いていた。


 しかし。


「必要な範囲だけでいいです」


 そう答えた。


 寄子が眉を上げる。


「ずいぶん変わったね」


「休養三日間の成果です」


「成果って言った」


「あ」


「まだ完全には抜けないね」


「癖です」


 理学療法士が笑った。


「可動域は、競技復帰へ向けて十分な方向へ進んでいます」


「筋肉の反応も、前回より自然です」


「片脚立ちの安定性も上がっています」


「ただし」


 恵は、言葉の続きを待った。


「まだ全力動作へ戻す段階ではありません」


「はい」


「今日は」


 理学療法士は寄子を見る。


 寄子がうなずいた。


「ほんの少しだけ」


「床から離れてみよう」


 恵は目を瞬かせた。


「床から?」


「うん」


「跳んでいいんですか」


「跳ぶと言っても」


「一センチ」


 恵は、しばらく寄子の顔を見た。


「一センチ?」


「一センチ」


「それは、ジャンプですか」


「ジャンプだよ」


「かかとが浮くくらいじゃなくて?」


「つま先まで床から離れる」


「両足が?」


「両足が」


「これが、今日のジャンプですか」


「そう」


 恵は床を見る。


 平らなマット。


 助走路ではない。


 踏み切り台もない。


 風もない。


 雪面もない。


 観客もいない。


 わずか一センチ。


「一センチしか飛ばないんですね」


 寄子は。


 静かに言った。


「一センチも飛ぶんだよ」


 恵は顔を上げた。


「数日前まで」


「めぐは完全休養だった」


「昨日は、床から足を離さずに動作を確認した」


「今日は」


「両足が一センチ、床から離れる」


「それは」


「昨日にはなかった一センチ」


 恵はもう一度、床を見た。


 ほんの一センチ。


 それでも。


 地面から離れる。


 再び。


 空中へ出る。


 時間にすれば。


 一瞬にも満たない。


 だが。


 それは確かに。


 飛ぶという動きだった。


「やります」


 恵は答えた。


「その前に」


 寄子が言う。


「今日の目標を確認する」


「高く飛ばない」


「はい」


「遠くへ行かない」


「はい」


「着地の音を立てない」


「はい」


「何回できたかを競わない」


「はい」


「一回目より二回目を良くしようとしない」


 恵は少し困った顔をした。


「良くしようとしないんですか」


「今日は技術練習じゃない」


「体が、床から離れて戻ってくる感覚を確認する日」


「成功も失敗もない」


「でも」


「着地でぐらついたら」


「ぐらついたことを知る」


「直そうとしない?」


「次の動作で無理に直そうとしない」


「必要なら休む」


 恵は小さくうなずいた。


「分かりました」


「あと」


 寄子は念を押す。


「一センチを二センチにしない」


「光子さんと優子さんにも言われました」


「二人に?」


「光子さんは、二センチは明日の夢に取っておこうって」


「優子さんは、勝手に明日の予定を決めるなって」


 寄子は吹き出した。


「さすが双子」


「結論としては」


「今日は一センチ」


「はい」


     *


 マットの上。


 恵は両足を肩幅ほどに開いて立った。


 つま先。


 膝。


 股関節。


 体幹。


 頭。


 全身を。


 無理に整えようとしない。


 ただ立つ。


 息を吸う。


 吐く。


「最初は」


 理学療法士が言う。


「かかとを少し浮かせるだけです」


 恵は、かかとを上げた。


 つま先は床に残っている。


 ふくらはぎが反応する。


 右足首が。


 体重を支える。


「戻します」


 かかとを下ろす。


「もう一度」


 かかとを上げる。


 下ろす。


 速くしない。


 反動をつけない。


 右脚だけで押さない。


「左右の足で」


「同じように床を感じてください」


 恵は。


 足裏へ意識を向ける。


 左足。


 右足。


 ほんの少し。


 右の方が。


 力を入れるまでに間がある。


 だが。


 以前ほどではない。


「次は」


「かかとを上げたところから」


「つま先をほんの一瞬、離します」


 恵の喉が。


 わずかに動いた。


「怖い?」


 寄子が尋ねる。


「少し」


「痛みが?」


「違います」


「空中に出ることが」


 ほんの一センチ。


 それなのに。


 恵の中では。


 高いジャンプ台から飛び出す前のような緊張があった。


 地面を離れる。


 足元の支えがなくなる。


 そして。


 もう一度。


 右脚で着地を受け止める。


「怖くていい」


 寄子が言った。


「怖いまま、一センチだけ行こう」


 恵はうなずいた。


 両足で立つ。


 膝を少し曲げる。


 足首。


 膝。


 股関節。


 重力を受け取る。


 床を押す。


 かかとが浮く。


 つま先が離れる。


 ほんの一瞬。


 恵の両足は。


 床から離れた。


 そして。


 静かに戻る。


 右足。


 左足。


 ほとんど同時。


 着地の音は。


 ごく小さかった。


 恵は。


 その場で動かなかった。


「どう?」


 寄子が尋ねる。


 恵は。


 すぐに答えなかった。


 床から離れた。


 わずか一センチ。


 ほんの一瞬。


 それでも。


 確かに。


 空中にいた。


「……浮きました」


「うん」


「本当に少しだけ」


「うん」


「でも」


 恵の目が。


 わずかに潤んだ。


「空中でした」


 寄子は静かにうなずいた。


「今日の最初の一本」


「一本って呼んでいいんですか」


「いいよ」


「飛距離、一センチ」


「距離はゼロに近いけどね」


「高さ、一センチ」


「十分」


 恵は。


 ゆっくり右足へ体重を移した。


 痛みはない。


 強い違和感もない。


 右脚は。


 自分の体を支えている。


「もう一回やりたいです」


「少し待つ」


「大丈夫です」


「大丈夫かどうかを確認する時間も練習」


 寄子の言葉に。


 恵はうなずいた。


 十秒。


 二十秒。


 呼吸。


 足裏。


 足首。


 膝。


 体幹。


 体の反応を待つ。


 右足首に。


 わずかな緊張が残っている。


 だが。


 少しずつ抜けていく。


「次、行けそう?」


「はい」


「高くしない」


「はい」


「前へ行かない」


「はい」


「一回目を再現しない」


 恵は少し驚く。


「再現しなくていい?」


「一回目は一回目」


「二回目は、今の体でやる」


 恵は。


 再び膝を曲げた。


 床を押す。


 離れる。


 戻る。


 二回目。


 少しだけ。


 着地で上半身が前へ揺れた。


「あ」


 恵は反射的に修正しようとした。


「そのまま」


 寄子が止める。


「揺れた」


「はい」


「でも戻った」


「はい」


「それで終わり」


「やり直さないんですか」


「やり直しじゃなく」


「必要なら次をやる」


「でも」


「今のを失敗にしない」


 恵は。


 前へ揺れた自分の体を思い返す。


 揺れた。


 それだけ。


 失敗ではない。


 崩れたわけでもない。


 体は。


 自分で戻ってきた。


「分かりました」


 その後。


 恵は数回。


 一センチの跳躍を行った。


 高くならないように。


 遠くへ行かないように。


 回数を数えないように。


 けれど。


 競技者としての癖は。


 簡単には消えなかった。


「今、何回目でした?」


 思わず尋ねる。


 寄子が答える。


「知らない」


「記録してないんですか」


「してるけど言わない」


「なぜ?」


「回数で今日を評価するから」


「十回できたとか」


「五回しかできなかったとか」


「言いそう?」


「絶対言う」


 雪が少し離れた場所から答えた。


「お母さんまで」


「事実だから」


「じゃあ、聞きません」


「それでいい」


 最後の一回。


 恵は。


 床へ立った。


 目の前には鏡。


 しかし。


 鏡の中の姿を。


 完璧に整えようとはしなかった。


 足裏。


 膝。


 骨盤。


 呼吸。


 地面。


 それだけを感じる。


 膝を曲げる。


 床を押す。


 かかとが浮く。


 つま先が離れる。


 一センチ。


 空中。


 戻る。


 足裏が床に触れる。


 右脚が。


 重さを受け止める。


 膝が。


 衝撃を吸収する。


 体幹が。


 小さな揺れを戻す。


 静かだった。


 恵は。


 ゆっくり息を吐いた。


「今のは」


 寄子が言う。


「どうだった?」


 恵は答えた。


「楽しかったです」


 寄子は。


 少しだけ驚いた顔をした。


「楽しかった?」


「はい」


「高くもないし」


「遠くもないし」


「競技としては何にもならないけど」


 恵は。


 小さく笑った。


「床から離れる感じが」


「すごく懐かしかった」


     *


 その言葉を口にした瞬間。


 恵の中に。


 遠い記憶がよみがえった。


 まだ。


 ジャンプ選手でもなかった頃。


 大会も。


 記録も。


 順位も。


 知らなかった頃。


 幼い恵は。


 小さな体で。


 幼児向けのジャンプ台の上に立っていた。


 大人が見れば。


 ほとんど坂にしか見えない。


 高さも低い。


 助走路も短い。


 着地斜面は。


 なだらかだった。


 けれど。


 幼い恵にとっては。


 そこから見える景色は。


 とても高かった。


「怖くない?」


 雪が。


 台の下から声をかけていた。


 幼い恵は。


 大きなヘルメットの中で。


 何度も首を振った。


「こわくない」


 本当は。


 少し怖かった。


 足元の板。


 前に伸びる短い助走路。


 その先で。


 地面が一瞬なくなる。


 当時の指導員が。


 恵の背中を支えていた。


「ゆっくり行こうね」


「うん」


「まっすぐ前を見る」


「うん」


「飛ぼうとしなくていいよ」


「すべるだけ?」


「そう」


 幼い恵は。


 助走を始めた。


 小さなスキー板が。


 雪の上を滑る。


 風が。


 頬へ当たる。


 踏み切り台の先。


 ほんの一瞬。


 板が雪面から離れた。


「わあっ」


 体が浮いた。


 空中に出た。


 時間にすれば。


 ほんの一瞬。


 距離も。


 わずかだった。


 それでも。


 幼い恵には。


 自分が鳥になったように感じられた。


 足元に。


 地面がない。


 風が。


 体の周りを通り抜ける。


 空へ。


 体が持ち上がる。


 その感覚が。


 たまらなく楽しかった。


 着地した瞬間。


 少しバランスを崩した。


 尻もちをついた。


 けれど。


 すぐに立ち上がった。


「もういっかい!」


 雪が笑った。


「転んだのに?」


「もういっかい!」


「怖くなかった?」


「とりになった!」


 幼い恵は。


 両手を広げて。


 何度も羽ばたくまねをした。


「めぐ、とりになった!」


 その時は。


 勝ちたいなどと思っていなかった。


 誰かより遠くへ飛びたいとも。


 日本代表になりたいとも。


 オリンピックへ行きたいとも。


 考えていなかった。


 ただ。


 地面から離れることが。


 楽しかった。


 空中へ飛び出す感覚が。


 嬉しかった。


 鳥になったような気分が。


 最高だった。


     *


「めぐ?」


 雪の声で。


 恵は現在へ戻った。


「どうしたの?」


「昔のこと思い出した」


「昔?」


「初めて小さいジャンプ台から飛んだ時」


 雪は。


 懐かしそうに笑った。


「覚えてるの?」


「全部じゃないけど」


「鳥になったって言った」


「何回も言ってた」


「転んだのに」


「泣かなかったね」


「もう一回って」


「ずっと言ってた」


 恵は。


 床を見つめる。


「楽しかったんだ」


「うん」


「ただ、飛ぶことが」


「そうだね」


「今日」


 恵は言った。


「一センチしか浮いてないのに」


「少し同じ感じがした」


「空中に出た?」


「うん」


「ほんの一瞬」


「でも」


「体が、あの頃のことを覚えてた」


 寄子は。


 少し離れた場所で。


 二人の会話を聞いていた。


「めぐ」


「はい」


「初めてジャンプを始めた頃」


「何になりたかった?」


 恵は考えた。


「最初は」


「何にも」


「ただ楽しかった」


「その次は?」


「お父さんみたいになりたいって思った」


 層一。


 世界のジャンプ台を飛んだ父。


 二〇二一年。


 リレハンメルのワールドカップで優勝した。


 映像の中で。


 大きく笑っていた。


 優勝インタビューで。


 雪への感謝を語った。


 まだ生まれていなかった自分へ。


 未来の言葉を残していた。


「日本を代表するジャンパーになりたかった」


 恵は続ける。


「ワールドカップに出たかった」


「オリンピックにも出たかった」


「世界で優勝したかった」


「叶ったね」


「はい」


 簡単ではなかった。


 何度も負けた。


 怪我もした。


 調子を崩した。


 父の名前と比べられた。


 期待に押しつぶされそうになった。


 それでも。


 夢を。


 一つずつ叶えてきた。


 日本代表。


 ワールドカップ。


 オリンピック。


 優勝。


 幼い頃。


 小さなジャンプ台から始まった夢は。


 少しずつ大きくなった。


 だが。


 大きな夢を叶えるうちに。


 いつの間にか。


 飛ぶことの楽しさより。


 勝つこと。


 結果を残すこと。


 期待に応えること。


 休まないこと。


 自分を追い込むこと。


 そちらの方が。


 強くなっていたのかもしれない。


「今は?」


 寄子が尋ねる。


「今の夢は?」


 恵は。


 すぐには答えなかった。


 自分は。


 すでに多くの夢を叶えた。


 代表になった。


 世界と戦った。


 オリンピックへ出た。


 表彰台にも立った。


 優勝も経験した。


 なら。


 この先。


 何を目指すのか。


 以前なら。


 もっと勝ちたい。


 もっと遠くへ飛びたい。


 連覇したい。


 記録を更新したい。


 そう答えていたかもしれない。


 今も。


 その思いがなくなったわけではない。


 けれど。


 恵の中に。


 別の景色が浮かんでいた。


 光希。


 遠く離れた合宿地で。


 自分と同じように。


 飛ばない練習から戻っている。


 結婚を控えた二人。


 競技者として。


 夫婦として。


 これから長い時間を歩いていく。


「もう一度」


 恵は。


 ゆっくり言った。


「世界と戦いたいです」


 寄子は黙って聞く。


「またワールドカップへ出たい」


「日本代表として」


「海外のジャンプ台を飛びたい」


「強い選手と」


「もう一度、本気で戦いたい」


「うん」


「それから」


 恵の表情が。


 少しだけ柔らかくなった。


「光希と一緒に」


「オリンピックへ出たいです」


 雪が。


 静かに恵を見る。


「同じ大会に?」


「うん」


「男子と女子で競技は別だけど」


「同じ日本代表として」


「同じ選手村にいて」


「同じ国のユニフォームを着て」


「お互いの試合を応援して」


「最後まで一緒に戦いたい」


 それは。


 ただの競技目標ではなかった。


 夫婦になる二人が。


 それぞれの競技人生を歩きながら。


 同じ舞台へ立つ夢。


 支え合うだけではなく。


 互いに一人の選手として。


 世界と戦う姿を見届ける夢。


「光希には話した?」


「まだ」


「どうして?」


「今、言ったら」


「無理して戻ろうとするかもしれない」


「光希も?」


「私も」


 寄子は苦笑する。


「よく分かってきたね」


「似た者同士だから」


「じゃあ」


「どうする?」


 恵は。


 右脚を見た。


 今日。


 一センチだけ。


 床から離れた。


 それだけ。


 世界と戦うには。


 あまりにも小さな一歩。


 オリンピックまで。


 あまりにも遠い。


 けれど。


「今やらなければならないことを」


「一つずつやります」


 恵は答えた。


「今日は一センチ」


「明日が二センチかどうかは」


「明日の体が決める」


「うん」


「ジャンプ台へ戻れる時まで」


「地面の上でやることをやる」


「飛べるようになっても」


「すぐに距離を求めない」


「大会へ戻っても」


「すぐに結果を求めすぎない」


 寄子がうなずく。


「それから?」


「焦らない」


「うん」


「休む時は」


 恵は。


 少し笑った。


「思いっきり休む」


「思いっきり?」


「中途半端に休まない」


「休養日に映像を見たり」


「結果を調べたり」


「トレーニングの代わりに掃除を始めたりしない」


 雪が笑う。


「掃除は本当にやりそうだったからね」


「もうしない」


「本当に?」


「たぶん」


「まだ怪しい」


「でも」


 恵は続けた。


「休むことも」


「オリンピックへ行くために必要なんだと思う」


「休むことは遠回りじゃない」


「戻るための道の一部」


「そう思えるようになった?」


「少しずつ」


 寄子は。


 記録用紙を閉じた。


「今日はここまで」


「もう終わりですか」


「終わり」


「もう一センチくらい」


「一センチは高さ」


「もう一回くらい、でしょう」


「そうです」


「駄目」


「調子いいです」


「だから終わり」


「痛みもないです」


「それでも終わり」


 恵は。


 少しだけ不満そうな顔をした。


 だが。


 以前のように。


 無理に続けようとはしなかった。


「分かりました」


「素直」


「今は」


「今は?」


「また飛びたいから」


「今日の一センチで終わります」


 寄子は。


 穏やかに笑った。


「それでいい」


     *


 同じ頃。


 光希は。


 合宿地の短い助走路へ立っていた。


 昨日まで。


 踏み切り位置を通過するだけだった。


 今日は。


 ごく小さな踏み切り動作を加える。


 ただし。


 飛距離は求めない。


 高さも求めない。


 スキー板を雪面から大きく離さない。


 助走。


 重心。


 足裏。


 踏み切り。


 着地。


 それらを。


 ごく小さな流れで確認する。


 ラーシュコーチが。


 助走路の下から声をかける。


『今日の目標は、飛距離ゼロだ』


 光希は。


 思わず笑った。


「飛距離ゼロなら、飛ばないのと同じでは?」


『違う』


『飛ぶ動作はする』


『だが前へ行こうとするな』


「上へ?」


『上へも逃げるな』


「では、どこへ?」


『地面から受け取った力を』


『地面へ返せ』


 光希は。


 言葉の意味を考える。


 踏み切りで。


 大きな力を生み出さない。


 助走速度を。


 飛距離へ変えようとしない。


 ただ。


 地面を押した力が。


 体を通り。


 再び雪面へ戻るまでを確認する。


「恵も」


 光希は小さくつぶやいた。


『何だ』


「今日、少し跳ぶかもしれません」


『連絡が来たのか』


「昨日」


「一センチだけ床から離れるかもしれないって」


 ラーシュは。


 少し口元を緩めた。


『なら』


『お前も一センチの気持ちで行け』


「スキー板で一センチ?」


『高さを測るな』


『欲を一センチにしろ』


「難しいですね」


『競技者にとってはな』


 光希は。


 助走位置へ入った。


 滑り出す。


 速度は低い。


 姿勢を作る。


 踏み切り位置が近づく。


 飛びたい。


 前へ出たい。


 体が。


 いつもの動作を始めようとする。


 しかし。


 今日は。


 大きく押さない。


 上へ逃げない。


 前へ行かない。


 足裏で。


 雪面を感じる。


 膝を伸ばす。


 スキー板が。


 ほんの少し雪面から離れる。


 すぐに戻る。


 飛距離は。


 ほとんどない。


 だが。


 踏み切りから着地まで。


 一つの流れがあった。


 光希は。


 ゆっくり減速して止まった。


『どうだった』


「小さいです」


『何が』


「全部」


『それでいい』


「でも」


 光希は。


 雪面を見る。


「飛んだ感じがしました」


『なら、今日の一本だ』


 光希は。


 少し笑った。


「恵も今頃」


『一センチか』


「はい」


『夫婦になる前から』


『復帰の歩幅まで同じだな』


「本当に」


     *


 午前の練習を終えた恵は。


 ベンチへ座っていた。


 雪が水筒を渡す。


「どうだった?」


「まだ一センチ」


「うん」


「本当に少し」


「うん」


「でも」


 恵は水筒を握ったまま。


 ジャンプ台を見上げた。


「前に進んだ」


「そうだね」


「幼い頃のことを思い出した」


「鳥になった日?」


「うん」


「最初は」


「ただ楽しかった」


「今も?」


 恵は考えた。


「怖さもある」


「焦りもある」


「夢も大きくなった」


「でも」


「楽しいって気持ちは」


「まだ残ってる」


 雪は。


 静かに微笑んだ。


「それなら大丈夫」


「何が?」


「戻れるよ」


「本当に?」


「前と同じ場所じゃないかもしれない」


「でも」


「飛ぶことが好きなめぐは」


「ちゃんと残ってる」


 恵は。


 ジャンプ台を見上げた。


 遠い。


 まだ。


 助走路へ上がる許可はない。


 スキー板も履いていない。


 世界と戦う自分は。


 今はまだ。


 ずっと先にいるように見える。


 けれど。


 その先へ続く道は。


 今日。


 確かに始まっていた。


 一センチ。


 それだけ。


 だが。


 大きな飛翔は。


 最初から大きいわけではない。


 人は。


 ほんの一センチから。


 もう一度。


 空を思い出していく。


     *


 帰宅後。


 恵は。


 層一の休養ノートを開いた。


 今日のページ。


『最初の一センチ』


 そう書く。


『今日。


 休養後、初めて両足が床から離れた。


 高さは一センチ。


 前へは進まない。


 着地の音を立てない。


 高く飛ばない。


 一回目より二回目を良くしようとしない。


 最初の一回は怖かった。


 でも。


 床から離れた瞬間。


 幼い頃、初めて小さなジャンプ台から飛んだ日のことを思い出した。』


 恵は。


 しばらくペンを止めた。


 記憶の中の。


 幼い自分。


 大きすぎるヘルメット。


 短いスキー板。


 小さなジャンプ台。


 鳥になったと笑う声。


 続けて書く。


『あの頃は。


 飛ぶだけで楽しかった。


 空中に出ると。


 鳥になったような気がした。


 何メートル飛んだか。


 誰に勝ったか。


 何位だったか。


 何も考えていなかった。


 ただ。


 もう一回飛びたかった。』


 さらに。


『やがて。


 お父さんのような、日本を代表するジャンパーになりたいと思った。


 ワールドカップへ出たいと思った。


 オリンピックへ出たいと思った。


 世界で優勝したいと思った。


 少しずつ。


 夢を叶えてきた。』


 恵は。


 右手で。


 ペンを強く握りすぎていることに気づく。


 一度力を抜く。


 そして。


 今の夢を書く。


『今。


 もう一度、世界と戦いたいと思う。


 光希と一緒に。


 同じ日本代表として。


 オリンピックへ出たい。


 お互いの競技を見届けながら。


 最後まで一緒に戦いたい。』


 そこまで書き。


 恵は。


 深く息を吸った。


 大きな夢。


 それを考えれば。


 今の一センチは。


 あまりにも小さい。


 焦れば。


 今日の小ささが。


 不安になる。


 しかし。


 夢が大きいからこそ。


 今の一センチを。


 雑に扱ってはいけない。


『そのために。


 今やらなければならないことを。


 一つずつやる。


 焦らない。


 戻ってきた感覚を、一つずつ受け取る。


 休む時は。


 思いっきり休む。


 休養日まで競技者でいようとしない。


 何もしない時間を。


 無駄だと思わない。』


 最後に。


 恵は一行を加えた。


『オリンピックへの道は。


 今日の一センチから始まる。』


     *


 夕方。


 光希から電話が入った。


「もしもし」


『今日、跳んだ?』


「一センチ」


『俺も』


「光希も一センチ?」


『高さは分からないけど』


「飛距離は?」


『ゼロ』


「本当に?」


『ラーシュコーチが、今日の目標は飛距離ゼロだって』


「寄子コーチと話し合ったのかな」


『似たこと考える人たちだから』


「どうだった?」


『小さかった』


「うん」


『でも』


「うん」


『飛んだ感じがした』


 恵は笑った。


「私も」


『怖かった?』


「少し」


『俺も』


「でも」


『楽しかった?』


 恵は。


 少し驚いた。


「どうして分かったの?」


『俺が楽しかったから』


 二人は。


 同時に笑った。


「光希」


『何?』


「私」


『うん』


「もう一度、世界と戦いたい」


『うん』


「ワールドカップへ戻りたい」


『うん』


「それから」


 恵は。


 少しだけ言葉をためらった。


 光希を焦らせたくない。


 けれど。


 この夢は。


 一人で抱えるものではないと思った。


「光希と一緒に」


「オリンピックへ出たい」


 電話の向こうが。


 静かになった。


「無理して戻ろうって意味じゃないよ」


「今すぐじゃなくて」


「焦らないで」


「一歩ずつ」


「お互いの体を大事にして」


「それでも」


「いつか」


 光希が。


 静かに答えた。


『俺もだよ』


 恵は。


 言葉を失った。


『俺も』


『めぐと一緒に』


『日本代表として』


『オリンピックへ行きたい』


「本当に?」


『うん』


『でも』


「うん」


『そのために』


『今日は一センチで終わる』


 恵は。


 胸の奥が。


 少し温かくなるのを感じた。


「私も」


『明日、二センチにする?』


「駄目」


『即答』


「明日の体が決める」


『休養で学んだね』


「光希も」


『うん』


「焦らない」


『うん』


「休む時は」


 光希が続ける。


『思いっきり休む』


 二人は。


 しばらく黙った。


 同じ場所にはいない。


 同じジャンプ台でもない。


 けれど。


 同じ夢を。


 同じ歩幅で。


 一センチずつ。


 追い始めていた。


『めぐ』


「何?」


『今日の一センチ』


『忘れないようにしよう』


「どうして?」


『また大きな台を飛べるようになった時』


『この一センチがあったことを』


『忘れたくない』


 恵は。


 静かにうなずいた。


「うん」


「忘れない」


     *


 その夜。


 恵は。


 黒川から送られたアルバムを再生した。


 曲は。


 グリーグの「朝」。


 山の向こうから。


 少しずつ光が差し込む。


 空が。


 暗闇から青へ変わる。


 鳥が鳴く。


 風が草を揺らす。


 一日が。


 大きな音ではなく。


 静かな光から始まる。


 恵は。


 目を閉じた。


 オリンピック。


 世界。


 ワールドカップ。


 大きな夢。


 それらも。


 最初から輝いているわけではない。


 朝の光のように。


 少しずつ。


 山の向こうから現れる。


 そして。


 最初の光は。


 今日の。


 ほんの一センチだった。


 焦らない。


 急がない。


 今やらなければならないことを。


 一つずつ。


 飛ぶ時は。


 全力で飛ぶ。


 休む時は。


 思いっきり休む。


 その両方を覚えた時。


 恵は。


 以前よりも強く。


 そして以前よりも長く。


 空と向き合える気がしていた。


 大きな飛翔は。


 最初から大きいわけではない。


 幼い頃。


 小さなジャンプ台から始まった夢も。


 今日。


 もう一度。


 一センチから始まった。


 人は。


 ほんの一センチから。


 何度でも。


 空を思い出すことができる。


第8章 終


次章予告


第9章「二度目の初心者」


 床から一センチ離れた恵。


 だが。


 翌日。


 高さは増えない。


 回数も増やさない。


 行うのは。


 一センチの跳躍を。


 同じ感覚で繰り返せるかどうか。


 右脚だけで着地を支えようとしない。


 左右の足へ。


 自然に重さを分ける。


 着地の瞬間に。


 息を止めない。


 小さな動きの中で。


 恵は。


 自分が再び初心者になったような感覚を覚える。


「世界で勝ったことがあるのに」


「一センチのジャンプからやり直すんですね」


 寄子コーチは答える。


「世界で勝った恵だからこそ」


「初心者に戻るのが難しいんだよ」


 一方。


 光希も。


 飛距離ゼロの踏み切りを繰り返す。


 焦りが生まれ。


 無意識に前へ出ようとした瞬間。


 ラーシュコーチの笛が鳴る。


『今のお前は』


『過去の自分と競っている』


『今日の体と話せ』


 そして。


 恵は。


 幼い頃に使っていた。


 小さなヘルメットと。


 最初のスキー板を見つける。


 そこには。


 層一が書いた言葉が残されていた。


『遠くへ飛ぶ前に。


 飛ぶことを好きになってくれたら、それでいい。』


 次章、


第9章「二度目の初心者」


 強くなるとは。


 できることを増やすだけではない。


 もう一度。


 できなかった頃の自分へ戻り。


 一つずつ学び直す勇気を持つことでもある。

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