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恵の物語  作者: リンダ


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飛ばないジャンプ台

第48話「着地の向こう側」


第7章「飛ばないジャンプ台」


 休養を終えた朝。


 恵は、久しぶりにジャンプ台へ向かっていた。


 雪が運転する車の助手席。


 膝の上には、小さなスポーツバッグが置かれている。


 だが。


 中に入っているのは、いつもの装備ではなかった。


 ジャンプスーツはない。


 ヘルメットもない。


 ゴーグルもない。


 スキー板は、家に置いてきた。


 入っているのは。


 動きやすいトレーニングウェア。


 薄いタオル。


 水筒。


 理学療法士から渡された動作確認の記録用紙。


 そして。


 ファイターズのベテラン投手・黒川修司から届いた一枚の音楽アルバムだった。


 車が山へ近づくにつれ。


 遠くにジャンプ台の輪郭が見えてくる。


 空へ向かって伸びる助走路。


 着地斜面。


 その下に広がる練習場。


 恵は窓の外を見たまま、言葉を発しなかった。


「見えてきたね」


 雪が静かに言った。


「うん」


「大丈夫?」


「分からない」


 恵は正直に答えた。


「来たかった」


「でも、見たら飛びたくなると思う」


「飛びたくなってもいいんじゃない?」


「いいの?」


「飛びたいと思うことと、飛ぶことは別でしょ」


 その言葉に。


 恵はゆっくり息を吐いた。


 層一の休養ノートにも書かれていた。


『考えてもいい。


 ただし、考えたからといって行動しない。


 頭の中の不安と、体を動かすことは別。』


 飛びたいと思う。


 悔しいと思う。


 早く戻りたいと思う。


 それらを消す必要はない。


 ただ。


 その気持ちに、今日の行動をすべて決めさせなければいい。


 車はジャンプ台の駐車場へ入った。


 エンジンが止まる。


 恵はしばらく動かなかった。


 フロントガラスの向こう。


 ジャンプ台が、静かに立っている。


 以前と同じ姿。


 何も変わっていない。


 変わったのは。


 そこを見る自分の方だった。


「行けそう?」


 雪が尋ねる。


「うん」


 恵はドアを開けた。


 冷たい空気が車内へ流れ込む。


 地面へ右足を下ろす。


 かかと。


 足の裏。


 つま先。


 ゆっくり体重を受け取る。


 以前なら。


 車を降りた瞬間から、練習場へ急いでいた。


 コーチへ挨拶をする。


 更衣室へ向かう。


 装備を整える。


 風向きを確認する。


 助走路の状態を見る。


 今日の一本目を考える。


 だが今日は。


 一歩。


 次の一歩。


 地面を感じながら歩いた。


 練習場には、すでに寄子コーチが来ていた。


 手にはクリップボード。


 その近くには、担当の理学療法士も立っている。


「おはよう」


「おはようございます」


 恵は頭を下げた。


 寄子は、恵の持っているバッグを見る。


「ちゃんと板は置いてきた?」


「置いてきました」


「車の後ろに隠してない?」


「そこまでしません」


「本当に?」


「お母さんが確認しました」


 雪が少し離れたところから答える。


「板もスーツも、家です」


「よし」


 寄子はうなずいた。


「今日は飛ばない」


「はい」


「助走路にも上がらない」


「はい」


「ジャンプ台の下で、動きだけを確認する」


「はい」


 恵は一つずつ答えた。


 口では。


 理解している。


 納得もしている。


 それでも。


 視線は、自然に助走路の上へ向かった。


 数人の選手が練習を始めている。


 遠くで、板が雪面を滑る音がした。


 助走。


 踏み切り。


 空中。


 着地。


 一本のジャンプが終わる。


 恵の胸の奥が、小さく痛んだ。


「飛べないのに、ジャンプ台へ来るのはつらい?」


 寄子が尋ねた。


 恵は、しばらく黙った。


 強がろうと思えば、できた。


 大丈夫です。


 平気です。


 今は焦っていません。


 そう答えることもできた。


 しかし。


「つらいです」


 恵は正直に言った。


「見ていると、飛びたくなります」


「ほかの選手が助走路に上がると、自分も行きたくなる」


「置いていかれてる気がします」


「うん」


「でも」


 恵はジャンプ台を見上げた。


「前より怖くありません」


「何が?」


「飛べない時間が」


 寄子は黙って続きを待った。


「前は」


「飛べない日があるだけで、全部終わるような気がしてました」


「一日休んだら、感覚がなくなる」


「二日休んだら、ほかの選手に追いつけなくなる」


「三日休んだら、もう戻れなくなる」


「そう思ってました」


「今は?」


「飛べない日にも、戻るためにできることがあると分かったから」


 寄子は小さくうなずいた。


「じゃあ、始めようか」


「はい」


 最初に行うのは。


 立つことだった。


 ジャンプ台の下。


 平らな地面。


 足元には、二本の線が引かれている。


 肩幅。


 つま先の向き。


 膝の位置。


 足を置く。


 恵は左右の足を線へ合わせた。


「まず、何もしない」


 寄子が言う。


「何もしない?」


「立つだけ」


「姿勢を作らない」


「胸を張らない」


「腰を落とさない」


「踏み切りの準備もしない」


「ただ立つ」


 恵は、両足で地面を踏んだ。


 無意識に背筋が伸びる。


「頑張りすぎ」


 寄子が言った。


「まだ何もしてません」


「何もしないことを頑張ってる」


「それも駄目ですか」


「今日の課題は、必要のない力を入れないこと」


 恵は肩を下ろした。


 顎の力を抜く。


 指先を緩める。


 呼吸を止めない。


 立っている。


 それだけなのに。


 右脚は、細かな調整を続けていた。


 足裏の内側。


 外側。


 かかと。


 つま先。


 体が少し前へ傾けば。


 足首が戻す。


 右へ揺れれば。


 膝と股関節が支える。


「右脚の感じは?」


 理学療法士が尋ねる。


「少し硬いです」


「どこが?」


「足首の前」


「痛みは?」


「ないです」


「なら、硬さをなくそうとしないでください」


「なくさない?」


「今、硬いと感じた」


「それで十分です」


「体が自然に調整するのを待ちましょう」


 恵はうなずいた。


 次は。


 ゆっくりと体重を右へ移す。


 右足へ。


 六割。


 七割。


 さらに少し。


「速い」


 寄子が言う。


「昨日よりゆっくりです」


「昨日よりではなく、今の右脚が受け取れる速さで」


 恵はやり直した。


 左足に残る体重を。


 少しずつ右へ移す。


 足裏が地面を感じる。


 右足首がわずかに沈む。


 膝が曲がる。


 骨盤が動く。


 体幹が、その上へついてくる。


 以前の恵は。


 体重を移す動作を、目的へ向かう途中の準備だと考えていた。


 助走姿勢。


 踏み切り。


 飛び出し。


 そこへ早くたどり着くための途中。


 しかし今日は。


 途中で止まる。


 体重を移したところで。


 何もせず。


 その位置を感じる。


「どう?」


「右足が、ちゃんと体を受け止めてます」


「ちゃんと、って?」


 寄子が聞き返す。


 恵は考えた。


「揺れてます」


「うん」


「でも、前みたいに力で止めなくても戻ってきます」


「それでいい」


 次は。


 膝を曲げる。


 ほんのわずか。


 助走姿勢へ入るほど深くはない。


 足首。


 膝。


 股関節。


 三つの関節が。


 順番ではなく。


 ほとんど同時に、小さく動く。


「膝だけで下がらない」


「はい」


「腰だけ後ろへ引かない」


「はい」


「床を踏みつけない」


「はい」


「降りるんじゃなくて、受け取る」


「何をですか」


「重力」


 恵は少し驚いた。


「重力を?」


「そう」


「自分で下がろうとしなくても、体には重さがある」


「その重さを、関節で受け取る」


 恵はもう一度動いた。


 膝を曲げる。


 下がるのではない。


 体の重さを。


 足首と膝と股関節へ預ける。


 ほんの数センチ。


 それでも。


 動きは前より滑らかだった。


「今の」


 恵が言った。


「少しだけ、助走姿勢に入る前みたいでした」


「似ているけど」


 寄子は答える。


「今日は助走姿勢を作らない」


「でも」


「感覚は覚えておいていい」


「はい」


 次は。


 踏み切り動作の分解。


 ただし。


 跳ばない。


 膝を曲げる。


 重心を前へ移す。


 足裏全体で地面を捉える。


 そこから。


 かかと。


 足の裏。


 つま先。


 体を伸ばしていく。


 しかし。


 床から足は離さない。


「止めないで」


 寄子が言う。


「でも、跳ばないように」


「跳ばないけど、動きは止めない」


「難しいです」


「だから分解する」


 恵は、ゆっくり立ち上がった。


 途中で力が入る。


 肩が上がる。


 腕が緊張する。


「今、飛ぼうとした」


「してません」


「体がしてた」


「分かりますか」


「何年見てると思ってるの」


 寄子は恵の肩へ軽く触れた。


「ここ」


「それから首」


「あと左手」


「跳ぶ前と同じ力が入ってる」


「癖ですね」


「癖は悪いものじゃない」


「競技には必要だった」


「でも今日は」


「その癖を一度ほどく」


 恵は腕を下ろした。


 再び。


 膝を曲げる。


 地面を感じる。


 体を伸ばす。


 跳ばない。


 急がない。


 高くなろうとしない。


 ただ。


 重心が下から上へ移るのを感じる。


「今の方がいい」


 理学療法士が言った。


「右脚の反応も遅れていません」


「本当ですか」


「今の動きでは」


 その一言が大切だった。


 今の動きでは。


 競技動作すべてが戻ったわけではない。


 全力でもない。


 高速度でもない。


 けれど。


 この小さな動きでは。


 右脚が。


 必要な瞬間に。


 必要な反応を返している。


 恵は、その事実を静かに受け取った。


 次は。


 着地姿勢へ入る前の重心移動。


 ジャンプ後。


 スキー板が雪面へ近づく。


 空中姿勢から着地姿勢へ。


 左右の脚を前後へ開く前。


 重心をどこへ置くか。


 その動作だけを。


 平らな地面で確認する。


「右脚を少し前へ」


「はい」


「まだ開かない」


「はい」


「まず、重心だけを移す」


 恵は右足を半歩前へ出した。


 体重を移す。


 右足首が受ける。


 膝が支える。


 左脚が遅れてついてくる。


「右へ行きすぎ」


 寄子が言う。


「着地を意識しすぎた?」


「はい」


「着地しようとしない」


「でも着地の確認ですよね」


「今日は、着地へ入る前の確認」


「着地そのものじゃない」


 恵は一度姿勢を戻した。


「競技って」


「うん?」


「こんなに細かく分かれてるんですね」


「今さら?」


「今までは、全部一つの流れでした」


「流れでできるようになるのが、競技者だからね」


「でも、何かが崩れた時は」


「一度、細かく分けて見る必要がある」


「流れを失うのが怖かったです」


「今も?」


「少し」


 寄子は、ジャンプ台を見上げた。


「流れは、無理に作るものじゃないよ」


「一つずつ戻れば」


「そのうち、また自然につながる」


 恵も同じ方向を見る。


 助走路。


 踏み切り台。


 空。


 着地斜面。


 すべては。


 一つの大きな動作に見える。


 けれど。


 その中には。


 足を置く。


 重心を移す。


 膝を曲げる。


 地面を押す。


 体を伸ばす。


 空中で支える。


 重心を戻す。


 着地へ入る。


 無数の小さな動きがある。


 その一つ一つを。


 今。


 地面の上で取り戻している。


「もう一度やります」


 恵が言った。


「今度は、急がないで」


「はい」


「昨日の自分に戻ろうとしない」


「はい」


「今日、戻ってきた感覚だけを受け取る」


「はい」


 恵は足を置いた。


 体重を移した。


 膝を曲げた。


 地面を押した。


 静かに立ち上がった。


 跳ばない。


 それでも。


 体の中には。


 確かにジャンプの流れがあった。


     *


 同じ頃。


 合宿地では。


 光希が短い助走確認を再開していた。


 まだ本格的なジャンプではない。


 短く区切られた助走路。


 通常より低い速度。


 踏み切りも行わない。


 助走姿勢を作り。


 数十メートルを滑り。


 最後はそのまま減速して止まる。


 一本目。


 光希は助走姿勢へ入る。


 膝を曲げる。


 上半身を前へ傾ける。


 腕を体へ沿わせる。


 滑り出す。


 速度は遅い。


 それなのに。


 光希の体は。


 いつものタイミングで、次の動作へ行こうとしていた。


 踏み切り位置が近づく。


 無意識に足へ力が入る。


『跳ぶな』


 ラーシュの声が飛ぶ。


 光希は踏み切らず、そのまま通過した。


 減速。


 停止。


「体が勝手に動きました」


『それが競技者の体だ』


「悪いことですか」


『悪くない』


『だが、今日必要なことではない』


「止めるんですか」


『止めるのではない』


『聞くんだ』


「体に?」


『そうだ』


 ラーシュは光希の目を見る。


『うまく飛ぼうとするな』


『今日の体が、どこまで戻っているかを聞け』


「何を聞けばいいですか」


『助走姿勢に入った時』


『どこが楽か』


『どこが重いか』


『どこが遅れるか』


『どこが以前と違うか』


『正解を出す必要はない』


『感じたことを、そのまま受け取れ』


 光希は二本目へ向かった。


 助走姿勢。


 滑り出す。


 今度は。


 速さを求めない。


 重心を低くしようとしすぎない。


 空気抵抗を減らそうとしない。


 ただ。


 今の体が。


 どの位置を選ぶのか。


 聞く。


 右脚は。


 昨日より軽い。


 左の腰に。


 少し硬さがある。


 肩が。


 わずかに上がっている。


 踏み切り位置が近づく。


 跳びたい。


 体が前へ出ようとする。


 しかし。


 今日は通過する。


 そのまま。


 滑る。


 止まる。


『どうだった』


「左の腰が少し硬いです」


『直すな』


「今は?」


『知るだけでいい』


「でも」


『今日の目的は、修正ではない』


『確認だ』


 光希はうなずいた。


 恵も。


 今頃。


 同じように。


 小さな動きを確かめているかもしれない。


 飛ばずに。


 焦らず。


 一つずつ。


「もう一本、お願いします」


『いいだろう』


 光希は、再び助走路へ向かった。


     *


 午前の動作確認を終えた恵は。


 練習場のベンチへ座っていた。


 右脚には。


 痛みはない。


 疲労感も強くない。


 けれど。


 体の深いところを使ったような、不思議な感覚が残っていた。


「どうだった?」


 雪が水筒を手渡す。


「思ってたより疲れた」


「跳んでないのに?」


「跳んでないからかもしれない」


「どういうこと?」


「いつもは流れで動いてるから」


「今日は一つずつ考えた」


「足を置くとか」


「体重を移すとか」


「膝を曲げるとか」


「それだけで?」


「それだけに、全部集中した」


 雪はうなずいた。


「飛ぶより難しかった?」


「違う難しさ」


 恵は水を飲む。


 その時。


 練習場の受付スタッフが、こちらへ歩いてきた。


「恵さん」


「はい」


「荷物が届いています」


「私に?」


「黒川修司さんからです」


 恵は立ち上がりかけた。


 寄子がすぐに言う。


「ゆっくり」


「あ」


 恵は急がず、立ち上がった。


 受付で渡されたのは。


 薄い封筒と。


 一枚の音楽アルバムだった。


 透明なケース。


 中には、何枚かのディスク。


 表紙には。


 古いヨーロッパの街並みを描いた絵が使われている。


 封筒を開く。


 黒川の手書きの手紙が入っていた。


『恵さんへ。


 先日は、お話を聞いてくださってありがとうございました。


 これは、私が怪我から復帰するまでの間に、何度も聴いた曲を集めたものです。


 すべて聴く必要はありません。


 曲名を覚える必要もありません。


 眠くなったら眠ってください。


 途中で止めても構いません。


 競技のことを忘れようとするのではなく。


 競技以外にも、長い時間と広い世界があることを感じてもらえたらと思います。


 戻るまでの時間も、あなたの競技です。


 黒川修司』


 恵は。


 最後の一文を、もう一度読んだ。


『戻るまでの時間も、あなたの競技です。』


 試合で飛ぶ時間。


 助走路に座る時間。


 空中にいる時間。


 着地する時間。


 それだけが競技ではない。


 休む時間。


 治療する時間。


 地面の上で、一つずつ感覚を取り戻す時間。


 飛べない自分と向き合う時間。


 それも。


 すべて。


 次の一本へ続いている。


「いい言葉だね」


 雪が横から手紙を見て言った。


「うん」


「今のめぐにぴったり」


「黒川さんも、同じ時間を通ったんだと思う」


「怪我から戻るまで?」


「うん」


「マウンドに立てないのに」


「野球場へ行った日もあったのかもしれない」


「投げられないのに」


「投げる動きだけ確認したのかもしれない」


 恵はアルバムを胸の前で持った。


「今日、帰ったら聴く」


「分析しないで?」


「しない」


「最後まで聴こうとしない?」


「しない」


「曲数を数えない?」


「たぶん」


「そこは自信ないんだ」


「気をつける」


 雪は笑った。


     *


 帰宅したのは。


 午後を少し過ぎた頃だった。


 恵は昼食を食べ。


 しばらくソファで体を休めた。


 右脚の状態を何度も確認しようとはしなかった。


 今日の動作を映像で見返そうともしなかった。


 寄子からも。


「今日は確認した感覚を、頭の中で何度も再生しないこと」


 そう言われていた。


 恵は。


 黒川から送られてきたアルバムをテーブルの上へ置いた。


 その横には。


 光子と優子から届いた、おすすめ曲の一覧がある。


 先日。


 二人がミライマート音大前店のアルバイトを終えた後。


 学生寮から送ってくれたものだった。


 光子から。


『音が重すぎず、景色が浮かびやすい曲』


 優子から。


『途中で眠っても罪悪感が少ない曲』


 その分類に。


 恵は思わず笑った。


 一覧には。


 バッハ。


 モーツァルト。


 ベートーヴェン。


 シューベルト。


 ドビュッシー。


 ラヴェル。


 スメタナ。


 グリーグ。


 それぞれの曲名の横に。


 二人の短いコメントが書かれていた。


『バッハ 無伴奏チェロ組曲第一番』


 光子。


『古い石造りの街を、一人でゆっくり歩く感じ』


 優子。


『考えごとが多い日は、音を追わんで低い響きだけ聴いてもよか』


『モーツァルト クラリネット協奏曲』


 光子。


『青空。風。遠くまで見える丘』


 優子。


『寂しさもあるけど、最後はちゃんと光が残る』


『ベートーヴェン 交響曲第六番「田園」』


 光子。


『都会を抜けて、森と川の近くへ行く感じ』


 優子。


『雷のところでびっくりしても、それも旅の途中』


『ドビュッシー 月の光』


 光子。


『夜。水面。静かな窓辺』


 優子。


『何も決めたくない夜におすすめ』


『グリーグ ペール・ギュントより「朝」』


 光子。


『山の向こうから朝日が出る』


 優子。


『練習再開の日に聴くんじゃなく、何もしない朝に聴いてもよか』


 恵は一覧を見ながら。


 二人らしいと思った。


 専門的な解説ではない。


 調性。


 形式。


 作曲技法。


 歴史的位置づけ。


 そうした説明は、ほとんど書かれていない。


 ただ。


 どんな風景が浮かぶか。


 どんな時に聴くとよいか。


 自分たちが、どんな気持ちになったか。


 それだけだった。


「正しく聴くためじゃない」


 恵は小さくつぶやいた。


 机の上へ、小型のプレーヤーを置く。


 部屋の照明を少し落とす。


 カーテンは閉めない。


 午後の柔らかな光が、床へ伸びている。


 最初に選んだのは。


 黒川のアルバムに入っていた。


 バッハの無伴奏チェロ組曲だった。


 低い音が流れ始める。


 一本のチェロ。


 歌詞はない。


 映像もない。


 説明もない。


 最初は。


 恵の頭が、音を整理しようとした。


 どこで同じ旋律が戻ってくるか。


 どこで強くなるか。


 どこで呼吸が入るか。


 運動選手として。


 リズムを動作へ置き換えようとする癖も出てくる。


 ここで助走。


 ここで踏み切り。


 ここで重心を。


「違う」


 恵は、自分に言った。


「今日は、ジャンプにしない」


 目を閉じる。


 低い音が。


 部屋の中へ広がる。


 やがて。


 頭の中に。


 見たことのない街が浮かび始めた。


 石畳の細い道。


 白い息。


 高い塔。


 窓の小さな家。


 馬車の車輪。


 朝早く。


 店を開ける人。


 大きな籠を抱えて歩く女性。


 教会へ向かう老人。


 路地で遊ぶ子ども。


 どこかの家の二階。


 一人の人が窓辺に座っている。


 手には。


 紙。


 ペン。


 その人が。


 何を考えているのか。


 恵には分からない。


 誰かを失ったのかもしれない。


 遠い場所にいる人を思っているのかもしれない。


 生活の苦しさに悩んでいるのかもしれない。


 ただ。


 音には。


 悲しさだけではなく。


 今日を生きていく強さもあった。


 三百年ほど前。


 自分が生まれるずっと前。


 層一が生まれるよりも。


 雪が生まれるよりも。


 日本にプロ野球が生まれるよりも。


 スキージャンプが今の競技になるよりも前。


 その時代にも。


 人は。


 立ち止まり。


 迷い。


 誰かを想い。


 未来を願った。


「音って」


 恵は目を閉じたまま、つぶやいた。


「残るんだ」


 人の声は消えない。


 誰かが残した声は、時を越えて届く。


 前日に聞いた。


 層一の映像。


 優勝インタビュー。


 初めて聞いた父の本当の声。


 そして今。


 言葉を持たない音楽の中にも。


 生きた人の声が残っている。


 曲が終わった。


 恵は。


 すぐに次の曲を再生しなかった。


 余韻。


 静かな部屋。


 窓の外で風が吹く。


 その時間も。


 音楽の続きのように感じられた。


 次に選んだのは。


 光子と優子が勧めたモーツァルトのクラリネット協奏曲。


 最初の音が流れた瞬間。


 先ほどとは違う空気が広がる。


 明るい。


 柔らかい。


 遠くまで見える風景。


 恵の頭に浮かんだのは。


 緑の丘。


 広い空。


 風に揺れる草。


 小さな村。


 道を行き交う人々。


 けれど。


 音の奥には。


 どこか寂しさもある。


 明るい景色の中に。


 言葉にできない思いが隠れている。


「光子さんの青空と」


「優子さんの寂しさ」


 二人のコメント。


 どちらも。


 間違っていない。


 同じ曲でも。


 聴く人によって。


 見える景色は違う。


 作曲家が何を思ったか。


 完全には分からない。


 分からないからこそ。


 自分の心の中に。


 景色が生まれる。


 恵は。


 ジャンプ台を思い浮かべなかった。


 競技会場も。


 助走路も。


 右脚も。


 考えていなかった。


 ただ。


 知らない時代の丘を。


 ゆっくり歩いていた。


 次は。


 ベートーヴェンの「田園」。


 鳥の声。


 川の流れ。


 人々の集まり。


 やがて。


 空が暗くなる。


 風。


 雷。


 激しい雨。


 音楽の中で。


 自然が変わっていく。


 恵は。


 山の天候を思い出した。


 ただし。


 ジャンプ競技の風ではない。


 数値としての風速でもない。


 飛べるかどうかを決める風でもない。


 人が逆らえない。


 大きな自然そのもの。


 晴れの日。


 雨の日。


 嵐の日。


 すべてを越え。


 また光が戻る。


 曲が終わる頃。


 恵の胸に浮かんだのは。


 一つの言葉だった。


「戻るんだ」


 嵐の後に。


 空が戻る。


 苦しい時間の後に。


 呼吸が戻る。


 休養の後に。


 感覚が戻る。


 ただし。


 前と同じ形ではない。


 嵐を通った後の空。


 休養を知った後の自分。


 少し違う。


 けれど。


 確かに戻ってくる。


 最後に。


 ドビュッシーの「月の光」を流した。


 部屋は。


 いつの間にか夕方へ近づいていた。


 窓の外の光が薄くなる。


 曲の静かな響き。


 水面。


 夜。


 月。


 光子の書いた言葉が浮かぶ。


『夜。水面。静かな窓辺』


 優子の言葉。


『何も決めたくない夜におすすめ』


 恵は。


 何も決めなかった。


 明日。


 何ができるか。


 いつジャンプ台へ上がれるか。


 次の大会に間に合うか。


 考えなかった。


 ただ。


 今。


 音が流れている。


 それで十分だった。


     *


 曲を聴き終えた後。


 恵は、すぐに立ち上がらなかった。


 床へ座ったまま。


 アルバムのケースを見つめる。


 クラシック音楽。


 ヨーロッパで生まれ。


 何百年もの間。


 演奏され続けてきた曲。


 そこには。


 作曲された時代の風景。


 暮らし。


 人々の祈り。


 言葉にならない感情。


 それらが残っている。


 恵は、ふと思った。


「日本にもある」


 立ち上がり。


 棚へ向かう。


 雪が大切にしまっている音楽アルバム。


 昔から家にあったもの。


 童謡。


 唱歌。


 民謡。


 恵は何枚か取り出した。


 表紙には。


 日本の山。


 田畑。


 海。


 古い町並み。


 祭り。


 そこに暮らす人々の姿が描かれていた。


「お母さん」


 台所にいた雪を呼ぶ。


「何?」


「これ、聴いてもいい?」


 恵が持っているアルバムを見て。


 雪は微笑んだ。


「懐かしい」


「昔、聴いてた?」


「めぐが小さい頃にも流してたよ」


「覚えてない」


「小さかったからね」


「お父さんも?」


「うん」


「童謡や唱歌、好きだったよ」


「ジャンプの前にも?」


「試合前というより」


「遠征から帰ってきた時に聴いてた」


「どうして?」


「日本へ帰ってきた感じがするって」


 恵は。


 アルバムを見つめた。


「聴いてみる」


「一緒に?」


「うん」


 雪もリビングへ来た。


 二人でソファへ座る。


 最初に流したのは。


『ふるさと』


 兎追いしかの山。


 小鮒釣りしかの川。


 歌が始まる。


 恵の頭に。


 山あいの村が浮かぶ。


 広い空。


 緩やかな山。


 小さな川。


 子どもたち。


 田畑。


 煙の上がる家。


 けれど。


 この歌は。


 ただ故郷の美しさを歌っているだけではない。


 故郷を離れた人が。


 遠くから。


 帰りたい場所を思っている。


 いつか戻る。


 志を果たして。


 誰かへ会いに行く。


「戻る歌なんだね」


 恵が言った。


「そうかもしれないね」


 雪が答える。


「ただ懐かしいだけじゃない」


「今は離れていても」


「心の中にはずっとある」


 恵は。


 ジャンプ台のことを思った。


 だが。


 今度は。


 焦りではなかった。


 離れていても。


 戻れなくなったわけではない。


 自分の中には。


 ジャンプの感覚が残っている。


 今は。


 帰る途中。


 次は。


『朧月夜』


 菜の花畠に。


 入日薄れ。


 見渡す山の端。


 霞深し。


 柔らかな春の景色。


 夕暮れ。


 黄色い菜の花。


 遠くの山。


 煙る空。


 派手ではない。


 大きな出来事もない。


 けれど。


 その景色を。


 誰かが心に残した。


 恵は目を閉じた。


「昔の日本にも」


「今と同じような夕方があったんだね」


「そうだね」


「人が仕事を終えて」


「家に帰って」


「遠くの山を見て」


「一日が終わる」


「競技も」


「記録も」


「順位もない時間」


 雪が静かに笑った。


「暮らしの時間だね」


 続いて。


『浜辺の歌』


 朝の海。


 夕暮れの浜。


 波。


 風。


 砂。


 遠くの記憶。


 歌を聴きながら。


 恵は。


 層一と雪が。


 海辺を歩いたことがあったのだろうかと考えた。


 競技を離れて。


 ただ。


 二人で。


 波の音を聞いた日。


 きっと。


 自分の知らない。


 父と母の時間がある。


「お父さんと海、行った?」


「何度か」


「どこ?」


「小樽」


「それから、遠征先でも」


「海を見たら何て言ってた?」


「広いなって」


「普通」


「そうちゃん、景色を見て格好いいことを言う人じゃなかったから」


「何か食べたいって言ってた」


「そっち?」


「海鮮丼」


「お父さんらしい」


 二人は笑った。


 歌の中にある海。


 自分たちの記憶にある海。


 違う時代。


 違う場所。


 それでも。


 音が。


 記憶をつないでいく。


 次は。


『赤とんぼ』


 夕焼け。


 赤とんぼ。


 遠い幼い日。


 背負われて見た景色。


 誰かのぬくもり。


 恵は。


 自分が幼い頃。


 雪に背負われた記憶を探した。


 はっきりとは覚えていない。


 けれど。


 写真はある。


 層一が抱いている写真。


 雪が背中へおぶっている写真。


 自分が忘れていても。


 その時間は。


 確かにあった。


「人は」


 恵が言う。


「覚えてないことも、歌を聴くと思い出すんだね」


「思い出すというより」


 雪は考えながら答える。


「心の中にあったものに、形がつくのかもしれないね」


「形?」


「懐かしい」


「寂しい」


「会いたい」


「安心する」


「でも言葉にできない」


「歌を聴くと」


「それが、こういう気持ちだったんだって分かる」


 恵はうなずいた。


 クラシック音楽には。


 歌詞がない曲も多い。


 それでも。


 人の心が伝わってくる。


 童謡や唱歌には。


 短い言葉と。


 身近な景色がある。


 その中に。


 人の一生。


 別れ。


 希望。


 帰る場所。


 そうしたものが。


 静かに残っている。


 次に恵が選んだのは。


 民謡だった。


 最初は。


『ソーラン節』


 重い海。


 荒れる波。


 漁へ出る人々。


 網。


 船。


 汗。


 掛け声。


 童謡や唱歌とは。


 まったく違う力強さ。


 生きるために。


 体を動かす。


 声を合わせる。


 一人ではできない仕事。


 誰かと呼吸を合わせる。


 誰かと力を合わせる。


 恵は。


 練習場の仲間を思った。


 コーチ。


 理学療法士。


 医師。


 雪。


 光希。


 光子と優子。


 黒川。


 自分一人で戻っているのではない。


 多くの人の声に支えられ。


 一歩ずつ戻っている。


「民謡って」


「働く歌でもあるんだね」


「そうだね」


 雪が答える。


「生活の中から生まれた歌が多いから」


「仕事」


「祭り」


「祈り」


「悲しみ」


「全部入ってる」


 次は。


『南部牛追唄』


 ゆったりとした声。


 広い山。


 遠い道。


 牛を連れて歩く人。


 一歩。


 また一歩。


 急がない。


 同じ景色が続く。


 すぐには目的地へ着かない。


 それでも。


 歩き続ける。


 恵の心に。


 今日の動作確認が重なった。


 足を置く。


 体重を移す。


 膝を曲げる。


 静かに立つ。


 一歩ずつ。


 すぐに飛ばなくていい。


 目的地が見えなくても。


 歩いている。


「今の私みたい」


 恵がつぶやく。


「どこが?」


「遠い道を」


「ゆっくり進んでる」


「いつ着くか分からない」


「でも」


「立ち止まったままじゃない」


 雪は何も言わず。


 恵の横顔を見ていた。


 次は。


『八木節』


 軽快なリズム。


 人の集まり。


 祭り。


 笑い声。


 手拍子。


 語り。


 生活の中にある楽しさ。


 恵の足が。


 小さくリズムを刻みそうになった。


 すぐに止める。


「動かしたら駄目?」


「強くやらなければ大丈夫じゃない?」


「少しだけ」


 恵は右足のつま先で。


 軽く。


 床を叩いた。


 痛みはない。


 無理もしない。


 ただ。


 音楽に合わせて。


 小さく動く。


 それは。


 リハビリでも。


 動作確認でも。


 トレーニングでもなかった。


 楽しいから動いた。


 それだけだった。


「こういう動かし方もあるんだ」


「どういう?」


「体を戻すためじゃなくて」


「音楽が楽しいから動く」


「それも体が喜ぶんじゃない?」


「うん」


 恵は。


 少しだけ笑った。


 最後に。


『阿波踊り』の音源を選んだ。


 笛。


 鉦。


 太鼓。


 掛け声。


 祭りの熱気。


 道を踊る人々。


 見る人。


 参加する人。


 町全体が。


 音に包まれている。


 恵は。


 競技会場の観客を思い出した。


 ただし。


 勝敗を見る人ではなく。


 一緒に時間を作る人々。


 拍手。


 声援。


 歓声。


 競技者一人では。


 大会は成立しない。


 音楽も。


 歌う人。


 演奏する人。


 聴く人。


 踊る人。


 みんながいて。


 一つの時間が生まれる。


「ジャンプも」


「一人で飛ぶけど」


「一人じゃないんだね」


「今さら?」


 雪が笑う。


「分かってたけど」


「前より分かる」


 曲が終わる。


 部屋へ静けさが戻る。


 恵は。


 その静けさを。


 すぐに埋めようとはしなかった。


 次の曲を探さない。


 感想を書かない。


 何曲聴いたか数えない。


 ただ。


 残った景色を。


 心の中で眺めた。


 石畳の街。


 緑の丘。


 雷の後の空。


 月の光。


 日本の山里。


 菜の花畑。


 海辺。


 夕焼け。


 漁港。


 山道。


 祭り。


 たくさんの時代。


 たくさんの人。


 たくさんの暮らし。


 人は。


 競技がなくても生きてきた。


 記録がなくても。


 順位がなくても。


 音を残した。


 歌を残した。


 景色を残した。


 誰かを想う心を残した。


「ジャンプだけが、私の世界じゃない」


 恵は静かに言った。


 雪は隣でうなずく。


「うん」


「でも」


「ジャンプを捨てるってことじゃない」


「もちろん」


「世界が広くなったら」


「ジャンプが小さくなるんじゃなくて」


「戻れる場所が増えるんだと思う」


「いい言葉だね」


「お父さんも、そうだったのかな」


「そうちゃんも」


「ジャンプ以外の世界を少しずつ見つけたんだと思う」


「お母さんと?」


「私と」


「めぐと」


「音楽と」


「料理と」


「海と」


「いろんなものと」


 恵は。


 層一の休養ノートを開いた。


 新しいページ。


『飛ばないジャンプ台』


 そう書く。


 続けて。


『今日、久しぶりにジャンプ台へ行った。


 板は持たなかった。


 ジャンプスーツも着なかった。


 足を置いた。


 体重を移した。


 膝を曲げた。


 地面を押した。


 静かに立った。


 飛ばなかった。


 でも、ジャンプの感覚は少し戻ってきた。』


 さらに書く。


『寄子コーチに、飛べないのにつらくないかと聞かれた。


 つらいと答えた。


 前より怖くないとも答えた。


 飛べない時間にも、戻るためにできることがあると分かったから。』


 黒川の手紙を横へ置く。


『戻るまでの時間も、あなたの競技です。』


 その言葉を。


 ノートにも書き写した。


 続けて。


『黒川投手から届いたクラシック音楽を聴いた。


 光子さんと優子さんのおすすめも聴いた。


 何百年も前の街。


 人の暮らし。


 悲しみ。


 喜び。


 祈り。


 音の中に、昔の人の心が残っていた。


 日本の童謡唱歌と民謡も聴いた。


 山。


 川。


 海。


 夕焼け。


 働く人。


 祭り。


 故郷。


 戻りたい場所。


 音楽の中には、人が生きてきた時間が残っている。』


 恵はペンを止めた。


 そして。


 最後の一行を書く。


『空へ向かう前に。


 もう一度、地面と仲直りする。


 そして、競技以外の世界とも仲直りする。』


     *


 その夜。


 光希から電話が入った。


「もしもし」


『今日、ジャンプ台へ行った?』


「行った」


『飛んだ?』


「飛んでない」


『つらかった?』


「つらかった」


『そっか』


「でも」


『うん』


「行ってよかった」


『何したの?』


「立った」


『立った?』


「足を置いて」


「体重移して」


「膝曲げて」


「静かに立った」


『それだけ?』


「それだけ」


『疲れた?』


「すごく」


 光希が笑った。


『俺も今日は、短い助走だけだった』


「飛んだ?」


『飛んでない』


「同じだね」


『同じ日に、二人とも飛ばないジャンプ台』


「光希は何を感じた?」


『左の腰が少し硬かった』


「直した?」


『直すなって言われた』


「私と同じ」


『今日は知るだけでいいって』


「私も」


 二人は少し黙った。


「ねえ」


『何?』


「今日、音楽も聴いた」


『黒川投手の?』


「うん」


「光子さんと優子さんのおすすめも」


『何を聴いた?』


「バッハ」


「モーツァルト」


「ベートーヴェン」


「ドビュッシー」


『いっぱい聴いたね』


「数えないで」


『今、めぐが自分で言った』


「あ」


『休養の極意、忘れてる』


「曲数じゃなくて、名前を言っただけ」


『都合がいい』


「光希は何か聴いた?」


『俺も一曲だけ』


「何?」


『光子さんが送ってくれた、グリーグの朝』


「どうだった?」


『山の朝みたいだった』


「そのままじゃない?」


『でも』


「うん」


『競技場の山じゃなかった』


「分かる」


『タイムも』


『風速も』


『助走路もない』


『ただ、朝が来る感じ』


「うん」


『めぐは?』


「日本の歌も聴いた」


『どんな?』


「ふるさと」


「朧月夜」


「浜辺の歌」


「赤とんぼ」


「民謡も」


『どうだった?』


「帰る場所が増えた感じ」


『帰る場所?』


「ジャンプができなくなった時に」


「自分には何もないって思ってた」


「でも」


「音楽を聴いたら」


「世界には、ほかにもたくさんの時間があるって分かった」


『うん』


「山も」


「川も」


「海も」


「昔の街も」


「祭りも」


「人の暮らしも」


「私が飛べるかどうかとは関係なく」


「ずっと続いてる」


 光希は。


 静かに聞いていた。


『めぐ』


「何?」


『それ、すごく大事なことかもしれない』


「うん」


『競技から離れるんじゃなくて』


『競技以外の世界を知る』


「そう」


『そうしたら』


『また競技へ戻る時も』


『前より少し違う自分で戻れる』


「私もそう思う」


『明日は?』


「また地面の上」


『俺も短い助走』


「飛ばない?」


『まだ飛ばない』


「じゃあ、また一緒だね」


『離れてるけどね』


「でも、同じ方向に進んでる」


『うん』


 通話を終えた後。


 恵は窓を開けた。


 夜の空気。


 遠くの山。


 見えない場所にあるジャンプ台。


 飛びたい。


 その気持ちは。


 今も強い。


 けれど。


 今日は。


 それだけではなかった。


 音楽がある。


 昔の人が残した声がある。


 日本の山や川を歌った歌がある。


 誰かが働きながら歌った民謡がある。


 母との時間がある。


 光希との未来がある。


 父が残したノートがある。


 飛べない日にも。


 自分の世界は。


 消えない。


 恵は。


 静かに右足を床へ置いた。


 体重を移す。


 膝を曲げる。


 地面を押す。


 ゆっくり立ち上がる。


 跳ばない。


 足は床から離れない。


 それでも。


 その動きの中には。


 確かに。


 次の飛翔があった。


 空へ向かう前に。


 もう一度。


 地面と仲直りする。


 飛ぶことだけに狭くなっていた世界を。


 音楽と。


 風景と。


 人の暮らしへ。


 もう一度開いていく。


 飛べない日にも。


 人は、飛ぶ準備をしている。


 そして。


 自分が競技者である前に。


 一人の人間であることを思い出した時。


 その一歩は。


 以前よりも深く。


 以前よりも確かに。


 地面を捉えるのだった。


第7章 終


次章予告


第8章「最初の一センチ」


 地面の上で。


 少しずつ動作を取り戻した恵。


 右足首の反応。


 膝の安定。


 重心移動。


 数値は。


 復帰へ向けて、着実に改善していた。


 そして。


 寄子コーチから告げられる。


「今日は、ほんの少しだけ床から離れてみよう」


 それは。


 ジャンプとは呼べないほど小さな動きだった。


 両足で立つ。


 膝を曲げる。


 地面を押す。


 かかとが浮く。


 つま先が離れる。


 床から離れる高さは。


 わずか一センチ。


「これが、今日のジャンプですか」


「そう」


「一センチしか飛ばないんですね」


「一センチも飛ぶんだよ」


 恵は。


 小さな跳躍へ向き合う。


 高く飛ばない。


 遠くへ行かない。


 着地の音を立てない。


 地面を押した力が。


 体を持ち上げ。


 再び足裏へ戻ってくるまでを感じる。


 一方。


 光希も合宿で。


 ごく短い踏み切り動作を再開する。


 ラーシュコーチは告げる。


『今日の目標は、飛距離ゼロだ』


『上へ逃げるな』


『地面から受け取った力を、地面へ返せ』


 そして。


 恵の最初の一センチを。


 雪が静かに見守る。


 層一の休養ノート。


 黒川修司からの音楽アルバム。


 光子と優子の言葉。


 多くの声に支えられ。


 恵は。


 もう一度。


 床から離れる。


 次章、


第8章「最初の一センチ」


 大きな飛翔は。


 最初から大きいわけではない。


 人は。


 ほんの一センチから。


 もう一度、空を思い出していく。

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