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恵の物語  作者: リンダ


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戻るための一歩

第48話「着地の向こう側」


第6章「戻るための一歩」


 休養三日目の朝。


 恵は、目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。


 枕元の時計へ手を伸ばしかけて。


 途中で止める。


 何時間眠ったか。


 夜中に何度目を覚ましたか。


 深い睡眠がどのくらい続いたか。


 それらを確認しようとする癖は、まだ残っていた。


 けれど。


 今日も、自分を採点しない。


 恵は時計を伏せたまま、ゆっくり上半身を起こした。


 右脚を床へ下ろす。


 かかと。


 足の裏。


 つま先。


 順番に床へ触れていく。


 昨日までなら、その瞬間に違和感を探していた。


 今日は違う。


 何か悪いところはないかと探すのではなく。


 今、体がどのように床を感じているのか。


 その感覚を、静かに受け取る。


「……悪くない」


 つぶやいた直後。


 恵は自分で苦笑した。


「また採点しそうになった」


 立ち上がる。


 大きな痛みはない。


 足首の動きも、初日より滑らかだった。


 しかし。


 それが、すぐに競技へ戻れるという意味ではない。


 層一の休養ノートに書かれていた言葉がよみがえる。


『体が軽くなったと感じた日は、回復した日ではない。


 回復が始まった日。』


 恵はその言葉を胸の中で繰り返し、階下へ向かった。


 朝食を終えると。


 雪の運転する車で、スポーツクリニックへ向かった。


 空は薄く曇っていた。


 道路沿いの木々は、風に揺れている。


 恵は窓の外を眺めながら、右脚へ手を置いていた。


「緊張してる?」


 雪が尋ねる。


「少し」


「検査が?」


「検査も」


「ほかには?」


「もし、あまり改善してなかったらって思ってる」


「うん」


「逆に、よくなってたら、すぐ飛びたくなると思う」


「それも怖い?」


「少し」


 雪は前を見たまま、穏やかに答えた。


「良くなっていたら、良くなった分だけ進めばいいよ」


「全部戻ろうとしなくていい」


「分かってる」


「頭では?」


「頭では」


「体と心が追いつくまで、待てばいい」


 恵は小さくうなずいた。


 クリニックへ到着すると。


 担当の医師と理学療法士が、前回の検査結果を確認していた。


「おはようございます」


「おはようございます」


 理学療法士は、恵の歩き方を観察する。


 靴を脱ぐ。


 診察台へ座る。


 まずは、右足首の可動域。


 つま先を上げる。


 下げる。


 内側へ動かす。


 外側へ動かす。


 前回は、ある角度で動きがわずかに止まっていた。


 今日は。


「少し広がっていますね」


 理学療法士が言った。


「本当ですか」


「はい。ただし、まだ左右差はあります」


 次は筋肉の反応。


 手で軽く抵抗を加え、それに対して恵が力を返す。


 強く押し返すのではない。


 反応の速さ。


 動き出すまでの時間。


 力の方向。


 それらを細かく確認する。


「前回より、反応は早くなっています」


「でも、完全ではない?」


「まだ少し遅れがあります」


 恵は右脚を見つめる。


 痛みのない遅れ。


 自分では分からないほど小さな遅れ。


 けれど、助走路を高速で下り。


 一瞬で踏み切り。


 空中へ飛び出す競技では。


 そのわずかな差が、大きな違いになる。


 次に。


 片脚で立つ。


 まずは目を開けたまま。


 十秒。


 二十秒。


 三十秒。


 右脚にはわずかな揺れが出た。


「力で止めようとしなくていいですよ」


 理学療法士が声をかける。


「揺れてもいいので、体が自然に戻すのを待ってください」


「自然に?」


「はい。今の恵さんは、揺れた瞬間に強く固めようとしています」


 恵は息を吐いた。


 肩の力を抜く。


 足の裏。


 膝。


 股関節。


 上半身。


 一か所だけで支えるのではなく。


 全身で小さな揺れを受け止める。


 右へ。


 左へ。


 前へ。


 後ろへ。


 揺れは消えない。


 けれど。


 少しずつ小さくなる。


「そうです」


「止めるのではなく、戻ってくるのを待つ」


 その言葉に。


 恵は、何か競技以外のことまで言われているような気がした。


 焦り。


 不安。


 怖さ。


 それらも。


 無理に消そうとすると、かえって大きくなる。


 揺れてもいい。


 自然に戻ってくるのを待つ。


 次は、目を閉じる。


 視覚の助けをなくし。


 足の裏と体の内側の感覚だけで立つ。


 右脚が、わずかに震えた。


 恵は呼吸を止めそうになる。


「息をしてください」


「はい」


「完璧に止まらなくて大丈夫です」


 恵はゆっくり息を吸う。


 そして吐く。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 足の裏が、床の傾きを探している。


 ふくらはぎ。


 足首。


 膝の周り。


 小さな筋肉が、何度も細かく反応する。


 前回は。


 その反応が遅れていた。


 今日は。


 まだ完全ではない。


 それでも。


 少しずつ、体が自分で姿勢を戻していた。


 検査を終えると。


 医師は前回と今日の数値を並べた。


「改善しています」


 恵の表情が明るくなる。


「では、ジャンプ台へ戻れますか」


 聞く前から、答えは何となく分かっていた。


 医師は静かに首を振った。


「まだです」


 胸の奥に、少しだけ落胆が広がる。


「まだ、ですか」


「はい」


「状態は良くなっています」


「ただし、休養によって痛みや疲労感が軽くなった段階です」


「競技動作へ戻るには、神経と筋肉が正しい順番で反応できるかを、もう少し確認する必要があります」


「今日から軽い動作確認を始めましょう」


 理学療法士が立ち上がった。


 恵も立つ。


「飛ばない確認って、何をするんですか」


「まず、地面の上で行う動きを確認します」


「地面の上?」


「はい」


 案内されたのは、広いリハビリスペースだった。


 鏡。


 マット。


 低い台。


 手すり。


 床には何本もの線が引かれている。


 理学療法士は、床の中央に立った。


「まず、右足をここへ置いてください」


 恵は指定された場所へ足を置く。


「次に、ゆっくり体重を移します」


 恵は体重を右へ移す。


「速いです」


「これでも?」


「はい」


「もっとゆっくり」


 恵はやり直す。


 かかとから。


 足の外側。


 足の裏全体。


 つま先。


 足裏のどこへ、どの順番で体重が乗っていくかを感じる。


「体重を乗せることを急がない」


「受け止められるところまで待ちます」


 恵は、動きを止める。


 右脚が体重を受け取る。


 足首が角度を調整する。


 膝がわずかに曲がる。


 骨盤が位置を変える。


「次に、膝を少し曲げます」


 恵は曲げる。


「深すぎます」


「これくらい?」


「もっと浅く」


 ほんの数センチ。


 競技者にとっては。


 あまりにも小さな動きだった。


 普段なら。


 助走姿勢から大きな力を生み出し。


 一瞬で全身を伸ばす。


 それに比べれば。


 今行っているのは、練習とも呼べないほど静かな動きに思えた。


 けれど。


 右脚は、その小さな動きの中でも。


 何度も調整し。


 何度も体を支えていた。


「そして、静かに立ち上がります」


 恵は膝を伸ばす。


「力を入れすぎています」


「立つのに?」


「立とうとしすぎています」


「立とうとしすぎる?」


「はい」


「床を強く押して、急いで元の姿勢へ戻ろうとしています」


「戻ろうとしないでください」


「でも、立ち上がる動作ですよね」


「立ち上がります」


「ただし、急いで取り戻そうとしない」


「必要な分だけ床を押せば、体は自然に上がります」


 恵は、もう一度行う。


 足を置く。


 体重を移す。


 膝を曲げる。


 静かに立つ。


 わずか数秒。


 それだけの動きに。


 恵はこれまで意識していなかったほど多くの感覚が含まれていた。


 足裏の圧。


 足首の角度。


 膝の向き。


 股関節の位置。


 体幹の揺れ。


 呼吸。


 視線。


 どれか一つを強く制御しようとすると。


 ほかの部分が固くなる。


 力を抜きすぎると。


 支えられない。


 必要なところへ。


 必要な分だけ力を入れる。


「もう一度」


 恵は繰り返す。


「もう一度」


 再び行う。


「もう一度」


 同じ動作。


 同じ距離。


 同じ高さ。


 しかし。


 一回ごとに感覚が違う。


 右脚の反応が、少し早くなる。


 揺れが小さくなる。


 肩の力が抜ける。


 呼吸が止まらなくなる。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 体が、自分の動きを思い出していく。


「どうですか」


 理学療法士に尋ねられる。


 恵は、すぐに答えなかった。


 良い。


 悪い。


 できた。


 できない。


 そう評価するのではなく。


 今、何を感じているのか。


 言葉を探す。


「右脚が」


「はい」


「自分で考えて動いてる感じがします」


「自分で考えて?」


「今までは、私が動かそうとしてた」


「でも今は、足が勝手に調整してくれてる感じです」


 理学療法士がうなずいた。


「それが大切です」


「競技者は、意識で体を制御する能力が高いです」


「でも、すべてを意識で動かすことはできません」


「自動的に反応する力を取り戻す必要があります」


「取り戻す……」


「はい」


「ただし」


 理学療法士は、穏やかに続ける。


「今日、失ったものを全部取り戻そうとしないでください」


「戻ってきた感覚を、一つずつ受け取るだけでいいです」


 その言葉に。


 恵は、光希のコーチであるラーシュが言っていた言葉を思い出した。


『今日は、取り戻そうとするな』


『戻ってきたものを、受け取るだけでいい』


 遠く離れた合宿地。


 光希もまた。


 同じような時間を過ごしていた。


     *


 光希は、ジャンプ台の下に広がる練習場へ立っていた。


 競技用の装備ではない。


 軽いトレーニングウェア。


 足元にはローラースキーもない。


 ラーシュコーチは、床に一本の線を引いた。


『この線の上を歩け』


「歩くだけですか」


『歩くだけだ』


「もっと何か」


『何も足すな』


 光希は線の上へ足を置く。


 ゆっくり歩く。


 右。


 左。


 右。


 左。


 速さを求めない。


 歩幅を広げない。


 姿勢を整えようとしすぎない。


 ただ。


 足が地面を捉える感覚。


 重心が移る感覚。


 体が次の一歩を選ぶ感覚。


 それを確かめる。


『昨日のお前は』


 ラーシュが言った。


『戻ろうとしすぎていた』


「焦っていたということですか」


『それもある』


『だが、それ以上に』


『疲れる前の自分を再現しようとしていた』


 光希は足を止める。


『止まるな』


「はい」


 再び歩く。


『以前の感覚を取り戻そうとするな』


『今の体が持っている感覚を見ろ』


「今の体」


『昨日の体でもない』


『大会で勝った時の体でもない』


『今日、この瞬間の体だ』


 光希は歩きながら、自分の足裏へ意識を向ける。


 昨日まで感じていた重さは、少し減っている。


 けれど。


 完全ではない。


 踏み込む時の反応。


 骨盤の位置。


 腕の振り。


 わずかなずれが残っている。


「少し遅いです」


『何が』


「右脚へ体重が移るまで」


『なら、その遅さを直そうとするな』


「でも」


『まず知れ』


『今、遅いということを』


『体が教えている』


『無視するな』


 光希は、ゆっくり歩く。


 速く進もうとすれば。


 遅れは隠せる。


 力で押せば。


 体は前へ進む。


 だが。


 それでは、体の本当の状態を知ることはできない。


 焦らず。


 急がず。


 一歩ずつ。


 今ある感覚を受け取る。


 光希の呼吸が、少しずつ整っていく。


『今日は距離を求めるな』


『速さもいらない』


『感覚だけを確かめろ』


 ラーシュの声が、静かに響く。


『今日は、取り戻そうとするな』


『戻ってきたものを、受け取るだけでいい』


 光希はうなずいた。


「はい」


     *


 午前中の動作確認を終えた恵は。


 医師から、翌日も同じ程度の軽い確認を続けるよう指示を受けた。


「ジャンプ台へは、いつ戻れますか」


「最短でも、もう一度動作反応を確認してからです」


「明日?」


「明日の状態次第です」


「飛べますか」


「それも、明日の状態次第です」


 恵は、少しだけ唇を結んだ。


 医師はその表情を見て、続けた。


「焦る気持ちは分かります」


「ですが」


「今、一歩ずつ戻っているからこそ」


「一歩ずつ進んでください」


「飛べるかどうかだけで、今日を評価しないことです」


 恵は小さく息を吐いた。


「はい」


 診察室を出ると。


 雪が待合室で待っていた。


「どうだった?」


「少し改善してた」


「よかった」


「でも、まだ飛べない」


「うん」


「明日も確認」


「うん」


 雪は、恵の顔をのぞき込む。


「悔しい?」


「少し」


「でも」


 恵は自分の右脚を見る。


「前より、ちゃんと足の感覚が分かった」


「それは大きいね」


「立つだけでも、こんなにたくさんの動きがあるんだって」


「今までは意識しなかった?」


「全然」


「飛ぶことばっかり考えてた」


 雪は微笑んだ。


「地面に立つことも、ジャンプの一部なんだね」


「うん」


「着地だけじゃなくて」


「助走へ向かう前も」


「踏み切る前も」


「全部、地面の上から始まる」


 クリニックを出た後。


 二人はそのまま、自宅へ戻る予定だった。


 しかし。


 駐車場へ向かう途中。


 クリニックのスタッフから声をかけられた。


「恵さん」


「はい」


「今日、このあと少し時間がありますか」


「何か?」


「同じ施設で、プロ野球選手のコンディショニング講習がありまして」


 雪と恵は顔を見合わせた。


「プロ野球選手?」


「はい」


「ファイターズのベテラン投手です」


「休養とコンディショニングについて、若い選手向けに話していただく予定です」


「競技は違いますが」


「恵さんにも参考になるかもしれません」


 恵は少し迷った。


 野球。


 ジャンプとはまったく違う競技。


 投手。


 腕を使う選手。


 自分の休養に役立つのだろうか。


 けれど。


 層一のノート。


 光子と優子。


 そして、光希。


 異なる世界で頑張る人たちから、休むことについて教えられてきた。


「聞いてみたいです」


 恵は答えた。


 講習会が行われる小さなホールへ入ると。


 十数人の若い選手とトレーナーが集まっていた。


 前方に座っていたのは。


 ファイターズで長年先発投手として活躍してきた、ベテラン右腕。


 黒川修司。


 三十八歳。


 速球だけに頼らず。


 打者との駆け引きと精密な制球で勝負する投手だった。


 若い頃は、連投も多かった。


 先発ローテーションを守り続け。


 怪我から何度も復帰し。


 現在は若手投手の相談役としても知られている。


 黒川は、集まった選手たちを見渡してから話し始めた。


「休養日って言われると」


「皆さん、何を思いますか」


 一人の若い選手が答える。


「何もしない日です」


 黒川は笑った。


「昔の私も、そう思っていました」


「何もしない」


「練習しない」


「体を動かさない」


「でも、それだけだと」


「頭の中ではずっと競技をしているんです」


 恵は、思わず顔を上げた。


「私は若い頃」


「休養日でも、投球映像を見ていました」


「打者のデータを調べていました」


「フォームを確認していました」


「肩を休めているつもりで」


「頭は一球も休んでいなかった」


 その言葉は。


 数日前までの恵そのものだった。


「それで、どうなったんですか」


 若い投手が尋ねた。


「体は休んでいるはずなのに」


「次の登板で、なぜか力が抜けない」


「投げる前から疲れている」


「一球失敗すると、そのことばかり気になる」


「休養したはずなのに、回復していない」


 黒川は、自分の右肩へ手を置いた。


「ある時、トレーナーに言われました」


『肩だけじゃなくて、投手を休ませろ』


「肩を休ませるだけでは足りない」


「投手として考える自分」


「勝つことを考える自分」


「打者を抑えることばかり考える自分」


「それごと、休ませる必要があると」


 恵は静かに聞いていた。


「それで、何をするようになったんですか」


 今度は恵が尋ねた。


 黒川は、声のした方を見る。


「競技は?」


「スキージャンプです」


「なるほど」


「飛ぶ人ですね」


「はい」


「なら、投げる人と似ているかもしれません」


「似ていますか?」


「一瞬の動作へ、たくさんの準備を詰め込むところが」


 黒川は少し笑った。


「それで」


「休養日に何をしているんですか」


 恵が改めて尋ねる。


 黒川は、少し間を置いて答えた。


「クラシック音楽を聴いています」


 会場に、小さなどよめきが起こった。


 恵も目を瞬かせた。


「クラシックですか?」


「意外ですか」


「少し」


「野球選手なので、もっと」


「体を動かさない趣味なら、釣りとか?」


「よく言われます」


 黒川は笑った。


「釣りもします」


「でも、一番長く続いているのはクラシックです」


「いつからですか」


「三十歳を過ぎた頃からです」


「怪我で一か月ほど投げられない時期がありまして」


「家にいても、野球の映像ばかり見てしまう」


「テレビをつければ、ほかの投手が投げている」


「球場の歓声を聞くと、焦る」


「そこで、当時のトレーナーに」


『野球とまったく関係のない音を聴いてみたらどうだ』


「そう勧められました」


「最初に聴いたのが、バッハでした」


「バッハ?」


「はい」


「何の曲ですか」


「無伴奏チェロ組曲です」


 恵はその曲名を聞いたことがあった。


 光子と優子が大学で学んでいる曲の一つだった。


「最初は」


「何がいいのか、よく分かりませんでした」


 黒川は正直に話す。


「歌詞もない」


「野球の応援歌みたいな分かりやすい盛り上がりもない」


「でも」


「何度か聴いているうちに」


「不思議な感覚が生まれました」


「どんな感覚ですか」


「この曲が作られた時代は」


「今から三百年ほど前です」


「当時は、今のような球場も」


「電車も」


「スマートフォンもありません」


「街の明かりも、今とは違う」


「人が歩く道も」


「着ている服も」


「夜の静けさも」


「全部違う」


 黒川は、ゆっくり言葉を選んだ。


「それでも」


「その時代の人も」


「悲しいことがあった」


「誰かを好きになった」


「大切な人を失った」


「嬉しいことがあった」


「明日を不安に思った」


「そういう人の心の奥にあるものが」


「音の中に残っているように感じたんです」


 会場が静かになる。


「クラシックを聴いていると」


「曲が作られた当時の街の風景を想像します」


「石畳の道」


「馬車の音」


「窓から漏れる小さな灯り」


「寒い夜の教会」


「広場を行き交う人たち」


「その中で」


「作曲家が何を見て」


「何を感じて」


「どんな思いで音を書いたのか」


「そう考えているうちに」


「まるで、その時代を旅しているような気持ちになるんです」


 恵は、黒川の話に引き込まれていた。


「野球のことを、忘れられるんですか」


「完全には忘れません」


 黒川は首を振った。


「でも」


「野球以外にも、世界には長い時間が流れていると気づけます」


「自分が次の登板で勝つか負けるか」


「今日、球速が何キロ出たか」


「一軍に残れるか」


「そういうことが」


「もちろん大切ではあります」


「でも」


「三百年前の音楽を聴いていると」


「自分の悩みだけが、世界のすべてではないと思える」


 恵は、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。


「投手としての自分を休ませるって」


「そういうことなんですね」


「私は、そう考えています」


「競技のことを忘れようとするより」


「競技以外の大きな世界へ、自分を連れていく」


「その方が、自然に休める」


 黒川は続けた。


「クラシック音楽は、急いで答えを出しません」


「一曲が長いこともある」


「すぐに盛り上がらないこともある」


「同じ旋律が、少し形を変えながら戻ってくる」


「聴く側も」


「待たなければならない」


「投手は」


「すぐに結果を求めます」


「一球で打者を抑えたい」


「一試合で答えを出したい」


「怪我をしたら、すぐ戻りたい」


「でも音楽は」


「戻ってくるまでの時間も、曲の一部なんです」


 恵は息をのんだ。


 戻ってくるまでの時間も。


 曲の一部。


 それは。


 今の自分の休養期間にも当てはまる。


 ジャンプ台へ立っている時だけが競技ではない。


 飛んでいない時間。


 地面の上で感覚を取り戻す時間。


 休む時間。


 焦りと向き合う時間。


 それもすべて。


 次の一本へ続く、自分の競技の一部なのだ。


「黒川さん」


「はい」


「クラシックを聴く時、何か決めて聴くんですか」


「決めません」


「曲を選ばないこともあります」


「再生機器に任せる」


「途中で眠くなったら、眠る」


「最後まで聴けなくてもいい」


「曲の意味が分からなくてもいい」


「聴き方に正解を作らない」


 恵は思わず笑った。


「休養と同じですね」


「そうです」


「休養日まで、正しく休もうとすると疲れます」


「聴き終えた曲数を記録したら」


「それはもう、音楽のトレーニングになってしまう」


 会場から笑いが起きる。


 恵も笑った。


 光子と優子が言っていた。


『成果を数えない』


 層一のノートにもあった。


『休養に失敗という言葉はいらない』


 そして黒川は。


『聴き方に正解を作らない』


 それぞれ違う言葉。


 けれど。


 伝えているものは同じだった。


 休む時まで。


 自分を評価しない。


 黒川は最後に、若い選手たちへ言った。


「長く競技を続けるためには」


「頑張れることだけでは足りません」


「自分を競技者ではない場所へ連れていけること」


「結果の出ない時間を怖がらないこと」


「何も積み上げていないように見える日を」


「無駄だと思わないこと」


「それが」


「選手として長く生きるためには必要だと思います」


 講習を終えると。


 恵は黒川へお礼を伝えた。


「今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ」


「スキージャンプは、いつ復帰ですか」


「まだ分かりません」


「今は、地面の上で動作確認をしています」


「そうですか」


 黒川は少し考えてから言った。


「投手も」


「マウンドへ戻る前に」


「平らな地面で、一歩ずつ動きを確認します」


「最初から全力で投げる人はいません」


「飛ぶ人も、同じかもしれませんね」


「はい」


「焦りますか」


「焦ります」


「それでいいと思います」


「いいんですか」


「焦らない選手なんて、ほとんどいません」


「ただ」


「焦っている自分に、すべてを決めさせないことです」


 恵は静かにうなずいた。


「今夜」


「クラシックを聴いてみようと思います」


「ぜひ」


「何から聴けばいいですか」


「好きなものから」


「まだ好きなものが分からないなら」


「一曲目は、バッハでも」


「モーツァルトでも」


「ベートーヴェンでも」


「誰でも構いません」


「でも」


 黒川は少し笑った。


「音大生の知り合いがいるなら、その人に選んでもらうのが一番かもしれません」


 恵の頭に。


 すぐに二人の顔が浮かんだ。


 青柳光子。


 柳川優子。


「います」


「それなら、いいですね」


     *


 帰宅後。


 恵は光希へ連絡した。


 動作確認のこと。


 右脚の反応が少しずつ戻っていたこと。


 まだジャンプ台へは戻れないこと。


 そして。


 ファイターズのベテラン投手、黒川修司から聞いた話。


『クラシック?』


 光希も驚いた。


「意外でしょ」


『野球選手が休養日にクラシック音楽か』


「三百年前の曲を聴きながら」


「その時代の街とか、人の気持ちを想像するんだって」


『面白いね』


「自分の悩みだけが、世界のすべてじゃないって思えるって」


『それ、分かる気がする』


「光希も聴く?」


『めぐが選んで』


「私も詳しくない」


『じゃあ、光子さんと優子さんに聞こう』


「私もそう思ってた」


 その日の夕方。


 光子と優子が大学の講義を終え。


 ミライマート音大前店でのアルバイトへ向かう前。


 恵は二人へメッセージを送った。


『休養日に聴くクラシック音楽を選んでください』


 数分後。


 光子から返信。


『休養日に課題曲みたいに聴いたらいかんよ』


 続いて優子。


『最後まで聴かなくてもよくて、眠くなったら寝てよか曲にしよう』


 恵は笑った。


 その夜。


 アルバイトを終えた二人から、いくつかの曲が送られてきた。


 バッハ。


 無伴奏チェロ組曲第一番。


 モーツァルト。


 クラリネット協奏曲。


 ドビュッシー。


 月の光。


 光子のメッセージ。


『一曲全部聴こうとせんでよかよ』


 優子のメッセージ。


『昔の街を旅するつもりで、ぼんやり聴いてみて』


 恵は部屋の明かりを少し落とした。


 ベッドへ横になる。


 スマートフォンから、静かなチェロの音が流れ始める。


 最初は。


 音を分析しようとしてしまった。


 テンポ。


 呼吸。


 強弱。


 繰り返される旋律。


 しかし。


 すぐに、自分がまた何かを理解しようとしていることへ気づく。


「分からなくてもいい」


 黒川の言葉。


『聴き方に正解を作らない』


 恵は目を閉じた。


 低く。


 深い音。


 一本の楽器から生まれているとは思えないほど。


 幾つもの声が重なって聞こえる。


 やがて。


 頭の中に。


 知らない街が浮かんだ。


 石畳。


 古い建物。


 木の窓。


 馬車の車輪。


 遠くから聞こえる鐘。


 寒い朝。


 まだ電気のない時代。


 人々が、厚い服を着て歩いている。


 誰かが誰かを待っている。


 誰かが手紙を書いている。


 誰かが大切な人を思っている。


 三百年前にも。


 今と同じように。


 人は笑い。


 迷い。


 傷つき。


 希望を持っていた。


 恵は。


 いつの間にか、ジャンプ台のことを考えていなかった。


 大会も。


 右脚も。


 ライバルも。


 結婚式までの日数も。


 何も数えていなかった。


 曲がどこまで進んだのかも分からない。


 途中で。


 恵の呼吸は深くなった。


 体の力が抜けていく。


 曲を最後まで聴いたのか。


 途中で眠ったのか。


 自分でも分からなかった。


     *


 翌朝。


 恵は目を覚ますと。


 層一の休養ノートを開いた。


『休養三日目』


 その下へ書く。


『スポーツクリニックで、右脚の動作確認をした。


 足を置く。


 体重を移す。


 膝を曲げる。


 静かに立つ。


 それだけの動きにも、たくさんの感覚があった。


 全部取り戻そうとしない。


 戻ってきた感覚を、一つずつ受け取る。』


 さらに続ける。


『ファイターズの黒川修司投手から、休養日の過ごし方を聞いた。


 クラシック音楽を聴いているという。


 三百年前の曲を聴きながら、その時代の街や人の心を想像する。


 競技以外の世界へ、自分を連れていく。


 夜、バッハを聴いた。


 いつの間にか、知らない時代の街を歩いていた。


 右脚のことを、少しの間忘れていた。』


 最後に。


 恵は一行を加えた。


『休むことは、何もしないことではない。


 自分の世界を、競技より少し広くすることなのかもしれない。』


 ノートを閉じる。


 窓の外。


 遠くにジャンプ台が見えた。


 数日前までなら。


 その姿を見るだけで、胸が締めつけられていた。


 飛びたい。


 今すぐ戻りたい。


 置いていかれたくない。


 その気持ちは、今も消えていない。


 けれど。


 今日は少し違った。


 恵は、ジャンプ台を見上げながら言った。


「今日は、飛ばないために来た」


 地面の上で。


 自分の感覚を取り戻す。


 一歩。


 また一歩。


 急がない。


 焦らない。


 戻ってきたものを。


 静かに受け取る。


 大きく跳ぶ前に。


 人は、地面の上で自分を取り戻す。


 そして。


 休むことの大切さを知った者だけが。


 次の一歩を。


 以前より深く、確かに踏み出すことができる。


第6章 終


次章予告


第7章「飛ばないジャンプ台」


 休養を終えた恵は。


 久しぶりにジャンプ台の練習場へ戻る。


 しかし。


 スキー板は持たない。


 ジャンプスーツも着ない。


 行うのは。


 助走路の下での姿勢確認。


 踏み切り動作の分解。


 着地姿勢へ入る前の重心移動。


 飛ばないまま。


 ジャンプの一つ一つを、地面の上で確かめていく。


「飛べないのに、ジャンプ台へ来るのはつらい?」


 寄子コーチの問いに。


 恵は、正直に答える。


「つらいです」


「でも、前より怖くありません」


 一方。


 光希も合宿で、短い助走確認を再開する。


 ラーシュコーチは言う。


『うまく飛ぼうとするな』


『今日の体が、どこまで戻っているかを聞け』


 そして。


 恵のもとへ。


 黒川修司投手から、一枚の音楽アルバムが届く。


 収録されているのは。


 彼が怪我から復帰するまでの間、何度も聴いたクラシック曲。


 ケースには、手書きの言葉が添えられていた。


『戻るまでの時間も、あなたの競技です』


 恵はその言葉を胸に。


 ジャンプ台の下で。


 ゆっくり膝を曲げる。


 地面を押す。


 立ち上がる。


 まだ飛ばない。


 それでも。


 その動きは確かに。


 次の飛翔へつながっていた。


 次章、


第7章「飛ばないジャンプ台」


 飛べない日にも。


 人は、飛ぶ準備をしている。


 空へ向かう前に。


 もう一度、地面と仲直りする。

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