表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
恵の物語  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
83/109

同じ日に止まる人

第48話「着地の向こう側」


第5章「同じ日に止まる二人」


 休養二日目。


 恵は、昨日より少しだけ遅い朝を迎えた。


 目覚ましはかけていない。


 それでも、昨日ほど強く焦ることはなかった。


 カーテンの隙間から差し込む光を眺めながら、しばらく布団の中で呼吸を整える。


 右脚を動かしてみる。


 大きな痛みはない。


 違和感も、昨日より少ないような気がする。


 しかし。


 そこで細かく確認し始めれば、また休養が評価の時間になってしまう。


 層一の休養ノート。


 光子と優子の言葉。


 その両方を思い出し、恵は右脚から意識を離した。


「今日は、採点しない」


 小さくつぶやく。


 ベッドを出て、ゆっくり階下へ向かった。


 リビングへ入ると、雪が朝食を並べていた。


「おはよう」


「おはよう」


「今日は昨日より顔が楽そう」


「そう見える?」


「うん」


 雪は恵の表情を確かめるように見つめた。


「ちゃんと眠れた?」


「たぶん」


「睡眠時間は?」


 恵は一瞬、答えかけた。


 けれど。


 すぐに首を振る。


「今日は数えない」


 雪の目が少し丸くなる。


「光子ちゃんと優子ちゃんの極意?」


「うん」


「休養日まで点数をつけない」


「いいね」


「でも、昨日より長く寝た気はする」


「それは感想だからいいんじゃない?」


「厳密には何時間だったか見てない」


「かなり進歩したね」


「お母さん、そこまで驚かなくてもいいでしょ」


「だって、めぐが睡眠記録を確認せずに朝食を食べてるんだよ」


「重大事件みたいに言わないで」


 二人は笑った。


 朝食は、焼いたパンと目玉焼き。


 野菜のスープ。


 果物。


 ヨーグルト。


 恵は、栄養素の計算をせず、普通に味わって食べた。


 食事を終える。


 時計を見る。


 まだ午前九時を少し過ぎたところだった。


 昨日なら、そこから何をするべきか分からず、落ち着かなくなっていた。


 だが今日は。


 昨日の夜、ノートに書いた言葉がある。


『やらないこと』


 ジャンプの映像を見ない。


 大会やライバルの情報を調べない。


 休めたかどうか、自分を採点しない。


 それ以外は、空白のまま。


 恵は食器を運びながら、雪に尋ねた。


「今日は何作る?」


「料理のこと?」


「うん」


「冷蔵庫を見て決めるって言ってたでしょ」


「そうだった」


 二人で冷蔵庫を開く。


 中には、卵。


 玉ねぎ。


 にんじん。


 じゃがいも。


 鶏肉。


 牛乳。


 チーズ。


 いくつかの野菜。


 雪が中をのぞき込む。


「グラタンにする?」


「いいかも」


「それとも、シチュー?」


「どっちでもいい」


 雪は恵を見た。


「めぐが、どっちでもいいって言った」


「今日二回目」


「珍しいから」


「じゃあ、グラタン」


「決めるんだ」


「どっちでもいいけど、作るならグラタン」


「分かった」


 材料を取り出し始めた、その時だった。


 テーブルに置かれていた恵のスマートフォンが鳴った。


 画面に表示された名前。


 光希。


 恵はすぐに通話へ出た。


「もしもし」


『おはよう、めぐ』


「おはよう」


 電話の向こうから聞こえる光希の声は、いつもより少し落ち着いていた。


 合宿所の外だろうか。


 風の音がわずかに混じっている。


『今日は何してる?』


 恵は冷蔵庫の前に立ったまま答えた。


「まだ決めてない」


 数秒。


 電話の向こうが静かになった。


『めぐが、予定を決めてない?』


「そんなに驚かなくてもいいでしょ」


『いや、だって』


「何?」


『一日の予定を、前日の夜には全部決めるめぐが』


「今日は休養日だから」


『本当に?』


「何、その疑い方」


『誰かに言わされてるんじゃなくて?』


「お母さんと、光子さんと優子さんと、お父さんの休養ノートに教えられた」


『四方向から止められたんだね』


「そういうこと」


 恵は少し笑う。


「今からお母さんとグラタン作る」


『いいね』


「光希は?」


 何気なく尋ねたつもりだった。


 けれど。


 光希は、すぐに答えなかった。


「何?」


『いや』


「何かあった?」


『俺も今日は、休養』


「え?」


 恵は冷蔵庫の扉を閉じた。


「光希も休みなの?」


『うん』


「合宿中なのに?」


『合宿中だからこそ、止められた』


 声は笑っていた。


 だが、その奥に少し悔しさが混じっている。


「どういうこと?」


『昨日のローラースキー、タイムが上がらなかった』


「疲労?」


『たぶん』


「たぶんって」


『分かってる』


 光希は少し息を吐いた。


『ジャンプも、踏み切りがわずかに遅れてたらしい』


「らしい?」


『自分では、そこまで悪くないと思ってた』


「それが一番危ないんじゃない?」


『めぐに言われたくないな』


「私はちゃんと休んでる」


『二日目から急に先輩ぶるね』


「事実でしょ」


 通話の向こうで、光希が小さく笑った。


『ラーシュコーチにも、同じようなこと言われたよ』


「何て?」


 光希は、少しだけ声色を変えた。


『君も、人のことばかり言えないぞ』


 恵は吹き出した。


「本当に?」


『本当』


「そのまま?」


『そのまま』


「それで?」


『昨日、めぐに休めって言ってただろうって』


「うん」


『君も同じだって』


「正論だね」


『海斗コーチも寄子コーチも、向こうで笑ってた』


「想像できる」


 光希は少し間を置いた。


『めぐのこと、心配しすぎたのかもしれない』


「私?」


『うん』


「何で?」


『右脚のこと』


「でも、診察の結果は伝えたよ」


『頭では分かっててもね』


 風の音が少し強くなる。


 光希はゆっくり続けた。


『大会に間に合わなかったらどうしようとか』


『結婚式の前に、また無理しようとするんじゃないかとか』


『めぐが一人で抱え込むんじゃないかとか』


「そんなに考えてたの?」


『考えてた』


「だから眠れてなかった?」


『少し』


「少しじゃないでしょ」


『夜中に何回か起きただけ』


「それを少しって言わない」


『分かってる』


「私よりひどいかもしれない」


『それはないと思う』


「ある」


『ない』


「ある」


 二人の声が、少しだけ重なった。


 やがて。


 恵が先に笑う。


「似た者同士だね」


『夫婦になる前から、そこまで似なくてもいいのにね』


「本当に」


 恵は、少しだけ頬を緩めた。


 あと二週間で結婚式。


 夫婦になる。


 けれど今はまだ。


 離れた場所で、それぞれ競技に向き合っている。


 恵は自宅。


 光希は合宿地。


 同じ場所にはいない。


 それでも。


 同じ日に休むよう命じられた。


「半日だけ?」


『うん。午後は軽いミーティングだけ』


「完全休養ではないんだ」


『午前中は完全休養』


「何してるの?」


『今、合宿所の近くを歩いてる』


「散歩?」


『ゆっくりね』


「九十分にならないように」


『層一さんのノート?』


「そう」


『気をつける』


「本当に?」


『三十分で戻る』


「測るんだ」


『あ』


「休養日に成果を数えたら駄目」


『俺、まだ初日だから』


「初心者だね」


『めぐは二日目の先輩』


「教えてあげようか」


『お願いします』


 恵は得意げに言った。


「まず、休みの日は成果を数えない」


『はい』


「競技と関係ないことをする」


『はい』


「一人で休めない時は、誰かと休む」


『はい』


「以上」


『それ、光子さんと優子さんに教わったでしょ』


「分かった?」


『言い方がそれっぽかった』


「ちゃんと役に立つよ」


『じゃあ、一人で休めない時は、今こうしてめぐと電話してるから合格?』


「合格」


『採点してる』


「あ」


『休養日に採点しないんじゃなかった?』


「それは自分のこと」


『都合がいいな』


「いいの」


 雪は、電話をしている恵を見ながら、静かに材料を台所へ運んでいた。


 恵はそれに気づき、光希へ言う。


「じゃあ、私、今から料理する」


『何作るの?』


「グラタン」


『いいな』


「光希は?」


『朝食食べたばっかり』


「何だった?」


『パンと卵とスープ』


「私と同じような感じ」


『夫婦になる前から、朝食まで似てる』


「食堂のメニューでしょ」


『そうだけど』


「散歩はどこ歩いてるの?」


『林の近く』


「景色は?」


『きれいだよ』


「写真送って」


『競技と関係ない写真ならいい?』


「いいんじゃない?」


『じゃあ、あとで送る』


 そこで一度、通話を切った。


 恵は台所へ戻る。


「光希くんも休養?」


 雪が尋ねた。


「うん」


「やっぱり?」


「やっぱりって何?」


「めぐのこと心配してたから」


「分かってたの?」


「声で少し」


「お母さん、そういうところ鋭いね」


「長く人を見てきたからね」


 二人は料理を始めた。


 玉ねぎを切る。


 じゃがいもを薄く切る。


 にんじんを小さくする。


 鶏肉を一口大に切る。


 恵は包丁を持ちながら、無意識に一定のリズムで動かしていた。


「めぐ」


「何?」


「速い」


「え?」


「競技じゃないんだから、そんなに急がなくていいよ」


「普通に切ってるだけ」


「じゃがいもの厚さ、全部そろってる」


「その方が火の通りが」


「正しいけど」


「何?」


「ちょっとくらい不ぞろいでもいい」


「でも」


「今日は家庭料理」


 恵は切りかけのじゃがいもを見る。


 確かに。


 ほとんど同じ厚さだった。


「癖って怖いね」


「何でも揃えたくなる?」


「うん」


「助走も」


「踏み切りも」


「着地も」


 恵はそこまで言って、口を閉じた。


「今、競技の話しそうになった」


 雪が笑う。


「危なかった」


「別に話してもいいんだよ」


「考えちゃいけないわけじゃない」


「でも、今日は料理のこと考える」


 フライパンで鶏肉と玉ねぎを炒める。


 香ばしい匂いが広がる。


 小麦粉を入れ、牛乳を少しずつ加える。


 恵が勢いよく混ぜようとすると、雪が言った。


「もっとゆっくり」


「だまになったら嫌だから」


「力入りすぎ」


「料理って難しい」


「競技じゃない方が、力抜けないね」


「本当に」


 ホワイトソースは、少しだけ濃くなりすぎた。


 雪が牛乳を足す。


「失敗?」


「調整できるから大丈夫」


「光子さんなら、食べられれば成功って言う」


「その基準よりは、もう少し上を目指そう」


 二人は笑う。


 耐熱皿へ具材を入れる。


 ソースをかける。


 チーズをのせる。


 オーブンへ入れる。


 焼き上がるまでの時間。


 恵は椅子へ座った。


 待つ。


 何もしない。


 けれど。


 昨日ほど、その時間が苦しくなかった。


 オーブンの中でチーズが溶けていく。


 表面が少しずつ色づく。


 その変化を見ているだけでよかった。


 スマートフォンが震えた。


 光希から写真が届く。


 木々の間を通る小道。


 朝の光。


 遠くに見える山。


 そして。


 道端に咲く、小さな白い花。


 メッセージ。


『競技と関係ない写真』


 恵は笑い、返信する。


『合格』


 すぐに返事が来る。


『また採点してる』


『取り消します』


『遅い』


 しばらくして、グラタンが焼き上がった。


 表面には、きれいな焼き色。


 チーズの香り。


 雪が取り出し、食卓へ運ぶ。


「おいしそう」


「思ったよりちゃんとできた」


「失敗してもいい料理だったのにね」


「結果的に成功」


「また結果をつけてる」


「あ」


 二人で食べる。


 熱い。


 少しだけホワイトソースが重い。


 じゃがいもは柔らかい。


 鶏肉にも味が染みている。


「おいしい」


「うん」


「お父さんの辛いスープよりは成功だね」


「比べる相手が低すぎるよ」


 食後。


 恵はソファへ座り、層一の休養ノートを開いた。


 今日のページ。


 まだ何も書いていない。


 けれど、今は書かなくてもいいと思えた。


 夜に書けばいい。


 今は。


 ただ、午後を過ごす。


 光希から再び電話が来たのは、午後一時を過ぎた頃だった。


『散歩終わった』


「何分?」


『聞く?』


「聞かない」


『二十八分』


「言ってる」


『俺が言いたかった』


「じゃあ、それ以上は数えない」


『はい』


「今は何してるの?」


『部屋で横になってる』


「本当に?」


『本当』


「ストレッチしてない?」


『してない』


「映像見てない?」


『見てない』


「ジャンプのノートは?」


『閉じた』


「えらい」


『また採点』


「今のは感想」


『都合いいな』


 恵は笑いながらソファへ深く座った。


「私も今、何もしてない」


『グラタンは?』


「食べた」


『おいしかった?』


「少しソースが濃かったけど、おいしかった」


『食べたいな』


「結婚したら作る」


『本当に?』


「作る」


『大会前じゃなくても?』


「大会前じゃなくても」


『栄養計算しなくても?』


「たまには」


『すごい進歩だね』


「お母さんと同じ反応しないで」


 しばらく。


 二人とも黙った。


 通話はつながっている。


 離れた場所。


 別々の部屋。


 けれど。


 同じようにソファやベッドへ体を預け、何もしない時間を共有している。


 光希が先に口を開いた。


『競技の話、しない?』


「しない」


『何話す?』


「何でもいい」


『何でもいいが一番難しい』


「じゃあ、結婚した後の話」


『いいね』


「朝ごはん、どっちが作る?」


『早く起きた方』


「たぶん私」


『俺も早いよ』


「でも遠征の次の日は寝てていいよ」


『めぐも』


「二人とも寝てたら?」


『外で食べる』


「それでいいか」


『パン買ってくるとか』


「ミライマート音大前店みたいな店が近くにあれば便利だね」


『光子さんと優子さんに聞いた?』


「昨日話した」


『二人とも元気だった?』


「バイト終わりなのに、ずっとしゃべってた」


『想像できる』


「光子さん、コンビニの棚を芸術作品みたいに並べて怒られたって」


『それも想像できる』


「優子さんが止めてた」


『やっぱり』


 話題は結婚後の暮らしへ戻る。


「休みの日、どうする?」


『二人とも休み?』


「うん」


『何もしない』


「今日みたいに?」


『今日みたいに』


「でも、ご飯は必要」


『一緒に作る』


「どっちが?」


『二人で』


「光希、料理できる?」


『簡単なのなら』


「何作れる?」


『卵焼き』


「甘い?」


『しょっぱい』


「私は甘い方が好き」


『じゃあ二種類作る』


「朝から?」


『休みの日なら』


「何もしない日なのに、卵焼き二種類作るの?」


『それくらいはいいでしょ』


「光子さんに聞いたら、食べられれば成功って言いそう」


『じゃあ成功』


 二人で笑った。


「買い物は?」


『一緒に行く』


「何を買うか決めずに?」


『めぐにできる?』


「練習中」


『じゃあ、冷蔵庫見てから行く』


「現実的」


『でも、お菓子一つくらいは予定外で買う』


「何がいい?」


『その時決める』


「光希まで予定を決めない人になってる」


『今日は休養日だから』


「影響されてる」


『めぐにね』


「悪い影響じゃなければいいけど」


『今のところ、いい影響』


 会話は、さらに小さな未来へ向かっていった。


 朝食。


 洗濯。


 買い物。


 近所の散歩。


 映画。


 何も予定のない午後。


 大会も遠征もない日。


 ジャンプ台へ行かない休日。


 競技者ではなく。


 夫婦として過ごす時間。


「こういう話、あまりしたことなかったね」


 恵が言う。


『結婚式とか、競技の予定ばっかりだったから』


「普通の生活の話」


『大事だね』


「光希は、どんな家にしたい?」


『帰ってきて、安心できる家』


「普通だね」


『普通でいい』


「うん」


『成績が悪かった日も』


『怪我した日も』


『負けた日も』


『帰れば、もう頑張らなくていい場所』


 恵は黙った。


 その言葉が、深く心へ入ってきた。


「私も」


『うん?』


「そんな家がいい」


『じゃあ、そうしよう』


「どっちかが無理してたら、止める」


『うん』


「休めないって言ったら、一緒に休む」


『うん』


「今日みたいに」


『今日みたいに』


 通話の向こうで、光希の呼吸が少しゆっくりになった。


 恵も、肩の力が抜けていくのを感じる。


 支え合う。


 これまで、それは前へ進ませることだと思っていた。


 励ます。


 背中を押す。


 練習へ送り出す。


 負けた時に立たせる。


 だが。


 時には。


「今日は止まろう」と伝えること。


 何もしない時間へ、一緒に座ること。


 それもまた、支えるということなのだ。


『めぐ』


「何?」


『今、競技の話しそうになった』


「何を?」


『この感覚、踏み切りにも必要かもって』


「光希」


『分かってる』


「今は休養中」


『はい』


「私もさっき、グラタンのチーズ見て、着地の姿勢みたいって思った」


『何それ』


「表面が均等に広がってたから」


『めぐも競技の話しようとしてる』


「聞かなかったことにして」


『お互い様だね』


 二人はまた笑った。


 午後三時。


 光希は合宿所のミーティングへ向かう時間になった。


『そろそろ行く』


「無理しないでね」


『ミーティングだけ』


「でも、頭使いすぎないで」


『めぐも』


「私は料理しただけ」


『それが今日の仕事だったんでしょ』


「仕事じゃない」


『じゃあ、今日の楽しいこと』


「それなら合ってる」


『夜、また電話する?』


「うん」


『脚のことは?』


「聞く?」


『聞かない方がいい?』


「夜に少しだけ」


『分かった』


「光希も、体調のこと話して」


『うん』


「隠さないでね」


『めぐも』


「分かった」


 通話を終える。


 恵はスマートフォンを置いた。


 午後の光が、床へ長く伸びている。


 雪は向かい側で本を読んでいた。


「ずいぶん長く話してたね」


「うん」


「競技の話は?」


「何度かしそうになった」


「した?」


「少しだけ」


「それくらいならいいんじゃない?」


「結婚した後の話をした」


「どんな?」


「普通の暮らし」


「普通の朝食とか、買い物とか」


「いいね」


「負けた日も、帰ったら頑張らなくていい家にしたいって」


 雪は本を閉じた。


「光希くんらしいね」


「お母さんとお父さんの家も、そうだった?」


 雪は少し考える。


「そうちゃんにとっては、そうだったと思う」


「私にとっても」


「試合で負けて帰ってきた時、お父さんはどうしてた?」


「最初は、ずっと反省してた」


「やっぱり」


「でも、玄関を入ったら一回ノートを閉じるって決めた」


「家では?」


「普通にご飯食べて」


「テレビ見て」


「私と話して」


「それから次の日、また競技へ戻る」


「切り替えてたんだ」


「うん」


「すぐにはできなかったけどね」


 恵は層一の休養ノートを手に取った。


「お父さんも、休む練習をしてたんだね」


「そうだね」


「私も今、その途中」


「光希くんも」


「二人で初心者」


「一緒に覚えていけばいいよ」


 夕方。


 恵は軽く体を動かした。


 医師と理学療法士から許可された範囲。


 足首をゆっくり動かす。


 強く伸ばさない。


 痛みを確認しすぎない。


 ただ。


 昨日と同じように、自然な範囲で動かす。


 右足首を回した時。


 恵は、少し違う感覚に気づいた。


「……あれ?」


 雪が顔を上げる。


「どうしたの?」


「昨日より、動きやすいかもしれない」


「本当?」


「うん」


 恵は、もう一度ゆっくり動かす。


 昨日は、ある角度で少し引っかかるような感覚があった。


 今日は。


 その引っかかりが、わずかに小さい。


 もちろん。


 一日で完全に回復するわけではない。


 思い込みかもしれない。


 けれど。


 体が休養へ反応し始めていることだけは、何となく分かった。


「よかった」


 雪が微笑む。


 恵は反射的に立ち上がろうとした。


「じゃあ、少し走って」


「めぐ」


「あ」


「今、何しようとした?」


「確認」


「駄目」


「少しだけ」


「駄目」


「動きやすくなったから」


「だからこそ、今日は終わり」


 恵はしぶしぶ足を下ろした。


「お父さんなら、ここで何て言うかな」


「たぶん」


 雪は休養ノートを開く。


 何ページかめくり、ある記録を見つけた。


『体が軽くなったと感じた時が、一番危ない。


 回復したと思って動きたくなる。


 しかし、その日は回復した日ではない。


 回復が始まった日。


 そこで無理をすれば、最初に戻る。』


 恵は黙った。


「お父さん、先回りしすぎ」


「同じことをやったんだと思う」


「動いたんだ」


「たぶんね」


「それで悪化した?」


「少し」


「じゃあ、やめる」


「素直でよろしい」


「採点してる」


「今のは感想」


「お母さんまで」


 二人は笑った。


 夜。


 恵は層一の休養ノートの空白ページを開いた。


 日付を書く。


『休養二日目』


 その下へ、今日あったことを記した。


『朝、予定を決めずに起きた。


 光希から電話が来た。


 光希もラーシュコーチから休養を命じられた。


 二人とも、休むのが苦手だった。


 お母さんとグラタンを作った。


 ソースが少し濃かった。


 でも、おいしかった。


 光希と、結婚後の普通の暮らしについて話した。


 競技の話をしないつもりだったが、何度か話しそうになった。


 二人で笑った。


 夕方、右足首が昨日より少し動かしやすく感じた。


 走りたくなった。


 お母さんに止められた。


 お父さんのノートにも、同じことが書いてあった。』


 最後に。


 少し考えて、一行を加える。


『同じ場所にいなくても、一緒に休むことはできる。』


 書き終えた時。


 スマートフォンが鳴った。


 光希からの夜の電話だった。


「もしもし」


『今日、どうだった?』


「楽しかった」


『休養日が?』


「うん」


『すごいね』


「光希は?」


『最初は落ち着かなかった』


「今は?」


『少し楽』


「体は?」


『朝より軽い』


「私も」


『脚、どう?』


「昨日より少し動きやすいかもしれない」


『本当?』


 光希の声が明るくなる。


「でも、確認しすぎない」


『うん』


「今日は回復した日じゃなくて、回復が始まった日だから」


『層一さんのノート?』


「そう」


『いい言葉だね』


「光希も無理しないで」


『めぐも』


「明日は?」


『めぐは再確認の日?』


「午前中に軽いチェック」


『緊張してる?』


「少し」


『大丈夫』


「簡単に言わないで」


『じゃあ』


 光希は少し考えてから言った。


『結果がどうでも、一緒に考えよう』


 恵は静かに微笑んだ。


「うん」


『前へ進む時も』


「うん」


『止まる時も』


「うん」


『一緒に』


「一緒に」


 二人の通話は、その後もしばらく続いた。


 大会の話ではなく。


 グラタンの話。


 散歩道の花。


 結婚後の朝食。


 買いたい家具。


 休日に見たい映画。


 どれも競技記録には残らない。


 けれど。


 二人が夫婦になっていくためには、きっと必要な話だった。


 休養二日目。


 恵と光希は、離れた場所で立ち止まった。


 立ち止まったからこそ。


 これまで見えなかった未来が、少しだけ見えた。


 支え合うとは。


 前へ押すことだけではない。


 時には。


 隣で静かに座り。


 焦りを分け合い。


 何もしない時間を、一緒に過ごすことでもある。


 同じ場所にいなくても。


 二人は、確かに同じ日に止まっていた。


第5章 終


次章予告


第6章「戻るための一歩」


 休養三日目。


 恵はスポーツクリニックで、右足首の状態を再確認する。


 可動域。


 筋肉の反応。


 片脚で立った時の安定性。


 神経と動作のつながり。


 数値は、少しずつ改善していた。


「今日から軽い動作確認を始めましょう」


 だが。


 ジャンプ台へ戻る許可は、まだ出ない。


「飛ばない確認って、何をするんですか」


 理学療法士から示されたのは、地面の上で行う小さな動きだった。


 足を置く。


 体重を移す。


 膝を曲げる。


 静かに立ち上がる。


 これまで当たり前にできていた動作を、一つずつ確かめていく。


 一方。


 合宿中の光希も、ラーシュコーチのもとで軽いトレーニングへ戻る。


 速さを求めない。


 距離を求めない。


 感覚だけを確かめる。


『今日は、取り戻そうとするな』


『戻ってきたものを、受け取るだけでいい』


 そして。


 恵は久しぶりにジャンプ台を見上げる。


 飛びたい。


 その気持ちは消えていない。


 だが以前とは違う。


「今日は、飛ばないために来た」


 焦らず。


 急がず。


 戻るための、最初の一歩。


 次章、


第6章「戻るための一歩」


 大きく跳ぶ前に。


 人は、地面の上で自分を取り戻す。


 その小さな一歩が。


 次の飛翔を支えていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ