見えない疲労
第78話「着地の向こう側」
第2章「見えない疲労」
痛みがないことは、傷ついていないことではない。
止まる勇気もまた、飛び続けるための力になる。
その日の午後。
恵はコーチとトレーナーに付き添われ、旭川市内にあるスポーツクリニックを訪れた。
待合室の椅子へ腰を下ろしてからも、恵は右脚を何度も動かしていた。
足首を回す。
膝を曲げる。
つま先を床へ押しつける。
かかとを持ち上げる。
どの動きもできる。
強い痛みもない。
腫れもない。
普通に歩くこともできる。
それなのに、ジャンプ台では右脚が着地の衝撃に遅れた。
自分の脚でありながら、自分の意思からわずかに離れてしまったような感覚だった。
「動かしすぎない方がいいよ」
隣に座るトレーナーが声をかけた。
「確認したくなるんです」
「何を?」
「本当に動くのか」
恵は右膝へ手を置いた。
「今は普通に動いてます。だから、さっきの着地も、たまたまだったんじゃないかって」
「二日続けて同じ反応が出てる」
「でも――」
「原因が分からないから、検査を受けに来たんだよ」
恵は口を閉じた。
診察室へ呼ばれたのは、それから間もなくだった。
チームドクターの小田島は、恵の歩き方を注意深く観察してから、椅子を勧めた。
「まず、今日のことを最初から聞かせてください」
恵は着地練習で起きたことを説明した。
右脚が一瞬遅れたこと。
膝が内側へ入ったこと。
上半身が傾き、左脚で補ったこと。
日常生活では痛みがないこと。
階段を下りる時だけ、ごくまれに力が抜けるような感覚があること。
「いつ頃からですか」
「はっきり意識したのは、数日前です」
「その前に、何か変わったことは?」
「特にはありません」
「練習量は?」
「走り込みと体幹トレーニングを増やしました」
「どのくらい?」
恵は一週間の練習内容を答えた。
早朝の持久走。
坂道でのインターバルトレーニング。
ジャンプ練習。
着地姿勢を安定させるための片脚スクワット。
足首周辺の筋力強化。
体幹トレーニング。
そのほかにも、結婚式の打ち合わせや取材への対応が重なっていた。
小田島は、話を聞きながら記録を取っていた。
「完全休養日は?」
「一週間前です」
「その日は本当に何もしませんでしたか」
「軽く散歩しました」
「ほかには?」
「ストレッチと、少しだけ体幹を」
「それは完全休養とは言いません」
恵は黙った。
「散歩はどれくらい?」
「一時間くらいです」
「それも軽い散歩ではありませんね」
「でも、体をまったく動かさないと、翌日が重くなるので」
「それは分かります」
小田島は責めるのではなく、事実を確認するように話した。
「ただし、回復のための軽い運動と、休養への不安から体を動かし続けることは、似ているようで違います」
恵には、その違いがすぐには理解できなかった。
「運動した方が、血流もよくなるんですよね」
「適切な範囲なら、そうです」
「だったら――」
「問題は、その適切な範囲を越えていた可能性があることです」
診察が始まった。
まずは触診。
膝の周囲。
すね。
ふくらはぎ。
足首。
股関節。
筋肉や腱を押されても、強い痛みは出なかった。
続いて、関節の可動域を測る。
「力を抜いてください」
「はい」
小田島が右足首をゆっくり動かす。
左と比べた後、もう一度右を確認する。
「右の足首が、少し硬くなっていますね」
「怪我ですか?」
「この時点では、そうとは言えません」
次に、うつ伏せになり、股関節の動きと太ももの筋肉の張りを確認する。
「ここは?」
「少し張ってます」
「痛みは?」
「ないです」
「左より右の臀部と太ももの外側が、かなり硬くなっています」
恵は顔を上げた。
「でも、ストレッチは毎日しています」
「ストレッチをしていても、回復が追いつかなければ疲労は残ります」
筋力測定では、さらに細かな差が見つかった。
最大筋力そのものは、左右で大きく変わらない。
右脚は十分に強い。
むしろ、瞬間的な出力だけを見れば、左より高い項目さえあった。
しかし、何度か同じ動作を繰り返すと、右脚の数値だけが急激に落ちた。
「もう一度お願いします」
恵は測定器を強く押した。
「はい。力を抜いて」
数秒間休み、再び力を入れる。
最初は押せる。
だが回数を重ねると、右脚だけが出力を維持できない。
「弱いわけじゃないんですか」
「弱くはありません」
「では、どうして」
「強く使いすぎています」
恵は眉を寄せた。
「強く使いすぎてる?」
「右脚はもともと、恵さんが着地の衝撃を受け止める際に頼りやすい脚です」
小田島は、これまでの練習映像をタブレットへ表示した。
「ここを見てください」
数週間前のジャンプ。
テレマーク姿勢に入り、斜面へ着地する。
「左脚を前へ出していますが、衝撃を吸収する瞬間、右の股関節と足首を強く使っています」
「右脚が後ろなのに?」
「後ろにあるから使っていないわけではありません」
別の映像が流れる。
坂道の走り込み。
疲労が出てきた後半、恵は左脚で踏み出し、右脚で強く地面を蹴っていた。
「走る時も、疲れてくると右脚で前へ押し出す動きが増えています」
「自分では、左右均等に走っていたつもりでした」
「普段なら、その程度の差を体が調整できていたのでしょう」
「今はできなくなっている?」
「疲労が蓄積して、その調整能力が低下しています」
続いて行われたのは、片脚で台から下りる動作の解析だった。
腰。
膝。
足首。
それぞれに小さな計測機器を装着し、床に設置されたセンサーの上へ着地する。
一回目。
見た目には大きな問題はない。
二回目。
右膝がわずかに内側へ入る。
三回目。
着地から力を出すまでの反応時間に、左より遅れが生じた。
数値にすれば、ほんのわずかな差だった。
日常生活では気づかない。
普通の運動でも、問題にならないかもしれない。
しかし、高速で斜面へ着地し、体重の何倍もの衝撃を受け止めるジャンプ競技では、そのわずかな遅れが転倒につながる。
「骨や靱帯に、大きな損傷がある可能性は低いと思います」
小田島は検査結果を見ながら話した。
「ただし、念のため画像検査も行います」
「大きな怪我ではないんですね」
「現時点では、そう考えています」
その言葉を聞き、恵はようやく息を吐いた。
しかし、小田島の説明は続いた。
「大きな怪我がないことと、競技を続けていいことは別です」
恵の表情が再び硬くなる。
「右の足首の可動域が低下しています」
「さらに、臀部や太ももの筋肉にも強い疲労があります」
「その状態で着地すると、足首で吸収できなかった衝撃を膝と股関節で受け止めることになります」
「それが、膝が内側へ入る原因ですか」
「一つの原因です」
「一つ?」
「筋肉の疲労によって、着地の瞬間に神経から筋肉へ送られる指示への反応も遅れています」
痛みがあるわけではない。
筋肉が切れているわけでもない。
だが、体を守るための反応が遅くなっている。
恵が感じていた、右脚だけが半歩遅れてついてくる感覚。
それは気のせいではなかった。
「このまま飛んだら、どうなりますか」
「次も同じように左脚で補えるかもしれません」
小田島は淡々と答えた。
「しかし、補えなかった場合は転倒します」
「膝の靱帯や足首を損傷する可能性もあります」
「骨折につながる衝撃を受けることも考えられます」
恵は右脚を見下ろした。
今は大きく壊れていない。
だが、壊れる直前の状態に近づいている可能性がある。
「治療はできますか」
「できます」
「どれくらいかかりますか」
「まず、数日間はジャンプを中止します」
「走り込みも?」
「中止です」
「下半身の筋力トレーニングは」
「負荷を落とします。片脚での高負荷トレーニングは行いません」
「大会まで二週間しかありません」
「分かっています」
「数日止めたら、感覚が落ちます」
「今の状態で飛び続ければ、感覚どころか大会に出られなくなります」
恵は唇を結んだ。
「治療としては、筋肉の緊張を落とし、足首の可動域を戻します」
「低負荷の運動で、左右の動きを整える」
「睡眠と栄養も見直します」
「炎症が確認されれば、その治療も行います」
「完全に休むだけですか」
「休むことを、何もしないことだと思っていますか」
恵は答えられなかった。
小田島は椅子へ座り直した。
「競技者にとって、休養はトレーニングの外側にあるものではありません」
「練習で体へ刺激を与える」
「食事で材料を補う」
「睡眠と休養で修復する」
「この三つがそろって、初めて体は強くなります」
「練習だけを積み重ねても、回復する時間がなければ強くなりません」
「むしろ、少しずつ壊れていきます」
恵は、自分の一週間を思い返した。
練習を休んだ日はあった。
だが、休むことへの罪悪感があった。
何もしないと、周囲に置いていかれる気がした。
体が重くなるのが怖くて、散歩へ出た。
ストレッチを増やした。
体幹トレーニングもした。
結局、体を休ませる日は一日もなかった。
「私は、休んでるつもりでした」
「休養日に一時間歩き、体幹トレーニングをしていたんですよね」
「はい」
「それは練習の強度を下げただけです」
「休養ではありません」
厳しい言葉だった。
しかし、否定することはできなかった。
恵は強くなるために練習してきた。
だが、休むことを恐れた結果、体が練習の成果を受け取れなくなっていた。
「大会に出られますか」
恵が尋ねた。
小田島は、すぐには答えなかった。
「今、出場を約束することはできません」
「……そうですか」
「ただし、今すぐ欠場を決める段階でもありません」
恵は顔を上げた。
「三日間、ジャンプと走り込みを中止します」
「治療と回復を優先し、四日目に再評価します」
「足首の可動域、筋肉の疲労、神経反応の遅れが改善していれば、低い台から段階的に戻します」
「改善していなければ?」
「欠場も含めて考えます」
恵の拳が膝の上で固く握られる。
「出ないという選択も、逃げではありません」
「分かってます」
そう答えながらも、心では受け入れられていなかった。
診察を終えると、恵はクリニック内の治療室へ移った。
筋肉の緊張を和らげる処置。
足首の可動域を戻すための徒手療法。
呼吸を整えながら、力を抜く練習。
力を出すことなら、恵は得意だった。
だが、力を抜くことは想像以上に難しかった。
「右脚の力を抜いてください」
理学療法士に言われても、無意識に筋肉が緊張する。
「まだ力が入っています」
「抜いてるつもりなんですけど」
「頑張って抜こうとしなくて大丈夫です」
「頑張らないと、できません」
「それが今の問題かもしれませんね」
恵は天井を見つめた。
頑張らないと、何も得られない。
ずっと、そう信じてきた。
飛距離が伸びなければ、練習を増やした。
着地が乱れれば、何度も反復した。
負ければ、翌日から走った。
疲れている時こそ、周囲との差を詰める機会だと思っていた。
けれど今は。
頑張って力を入れることが、回復を妨げている。
治療を終えた後。
恵はクリニックの小さな会議室へ呼ばれた。
そこでは、海斗コーチ、寄子コーチ、コスキネンコーチがオンラインで待っていた。
さらに、ヨーロッパにいるラーシュコーチも画面越しに参加している。
診断と治療方針は、すでに共有されていた。
「検査、お疲れさん」
海斗コーチが最初に声をかけた。
「大きな損傷がなかったのは、まずよかった」
「はい」
「でも、めぐの顔は全然よかったって顔じゃないな」
「大会に出られるか分からないので」
「そりゃ悔しいよな」
海斗コーチは、すぐに励まそうとはしなかった。
悔しさそのものを否定せず、まず受け止める。
「これまで準備してきたもんな」
「はい」
「結婚式の準備もある中で、練習を止めないように頑張ってた」
「はい」
「ただな」
海斗コーチの声が少し強くなった。
「頑張った量と、体が受け取れた量は同じじゃない」
恵は黙って聞く。
「どれだけ練習しても、体が回復できなかったら、その練習は強さにならない」
「疲労の上に疲労を積んだだけになる」
「でも、休んだら他の選手は練習します」
「するだろうな」
海斗コーチはあっさり認めた。
「ただ、他の選手が今日何本飛んだかと、めぐが秋や冬まで飛び続けられるかは別の話だ」
「今日の数本を取りにいって、冬の何十本を失う方が怖い」
次に寄子コーチが口を開いた。
「めぐは、休むことを競技から離れることだと思っていない?」
恵は少し考えた。
「完全に離れるとは思ってません」
「でも、遅れるとは思ってる?」
「はい」
「だったら、少し考え方を変えた方がいいわ」
寄子コーチは穏やかに続ける。
「休養日は、競技をしていない日じゃない」
「練習で受けた刺激を、体が自分の力へ変えている日なの」
「筋肉も、腱も、神経も、練習している最中に強くなるわけじゃない」
「休んでいる間に修復されて、次の動きへ対応できるようになる」
「だから休養も、練習計画の中に最初から入っていなければならないの」
「余った時間に休むんじゃない」
「休む時間まで含めて、トレーニングなのよ」
恵は、膝の上に置いた手を見つめた。
「何もしないのが怖いんです」
「分かるわ」
寄子コーチはすぐに答えた。
「私も現役の頃、そうだった」
「一日休むと、筋力が落ちるような気がした」
「感覚を忘れる気がした」
「ライバルが先へ進む気がした」
「実際は?」
「休まなかったことで、体を壊した」
寄子コーチの表情に、わずかな苦さが浮かんだ。
「無理して出た試合で、着地に失敗したこともある」
「今振り返れば、あの日の一本を飛ばなければ、その後のシーズンはもっと長く戦えたと思う」
「止まらなかったことを、根性だと思っていた」
「でも、本当は怖くて止まれなかっただけだった」
その言葉は、恵の胸へ深く刺さった。
休むことが怖い。
遅れることが怖い。
批判されることが怖い。
だから、飛び続けようとしていた。
それを覚悟や根性と言い換えていただけなのかもしれない。
コスキネンコーチが、画面の向こうで腕を組んだ。
「ジャンプ選手は、練習の量だけで評価されない」
ゆっくりとした日本語だった。
「一本の質」
「体の反応」
「風を読む力」
「そして、自分の状態を正しく判断する力」
「全部、競技能力です」
恵はコスキネンコーチを見る。
「自分の体が危険だと伝えている時、その声を聞けない選手は強い選手ではありません」
「でも、大会に間に合わなくなるかもしれません」
「一つの大会を失うことと、競技人生を失うこと。どちらが大きいですか」
答えは分かっていた。
けれど、簡単には口にできなかった。
「めぐ」
コスキネンコーチが続ける。
「あなたは今、何もできないのではありません」
「回復するというトレーニングを始めています」
「正しく眠る」
「正しく食べる」
「筋肉を緩める」
「足首の動きを取り戻す」
「不安を言葉にする」
「これらもすべて、次のジャンプの準備です」
そして最後に、ラーシュコーチが話し始めた。
「医師とスタッフの判断は、非常に賢明です」
落ち着いた声だった。
「今日の練習を中止したことも、三日間ジャンプを止めることも、正しい判断だと思います」
「でも、三日で間に合うかどうか」
「三日休むことが問題なのではありません」
「休むべき三日間に飛ぶことが問題なのです」
恵は顔を上げた。
「競技者には、二つの勇気が必要です」
「スタート台から飛び出す勇気」
「そして、飛ぶべきではない時にスタート台から下りる勇気です」
その言葉に、会議室が静かになった。
「後者の方が難しいこともあります」
ラーシュコーチは続ける。
「飛べば、周囲から勇敢に見える」
「止まれば、弱く見られるかもしれない」
「しかし、本当に優れた選手は、周囲の印象ではなく、自分の競技人生に責任を持ちます」
「今日止まったことは、敗北ではありません」
「将来のジャンプを守るための判断です」
恵の目に、少しずつ涙がたまっていく。
「大会に出られなかったら?」
「残念です」
ラーシュコーチは、安易に大丈夫とは言わなかった。
「悔しいでしょう」
「泣くかもしれません」
「しかし、それでもあなたは選手です」
「一つの大会に出場したかどうかだけで、選手としての価値は決まりません」
「次の冬に戻り、再び空を飛べるなら、その判断には大きな意味があります」
海斗コーチが画面の横から言葉を重ねた。
「まだ欠場と決まったわけじゃない」
「出るためにできることは全部やる」
「ただし、飛ぶ練習だけが、出るためにできることじゃない」
「今は、休むことが一番大事な練習だ」
寄子コーチもうなずく。
「体を休ませるだけじゃないよ」
「頭も休ませること」
「大会のことを一日中考えない」
「動画を何度も見返さない」
「寝る直前まで着地を頭の中で繰り返さない」
恵は思わず視線をそらした。
「やってたのね」
「少しだけです」
「何回?」
「二十回くらい」
「それは少しじゃないわ」
海斗コーチが苦笑する。
「めぐらしいっちゃ、めぐらしいけどな」
「今日から禁止ですか」
「完全に禁止すると、余計に考えるでしょうね」
寄子コーチは少し考えた。
「映像を見るのは、決めた時間に一回だけ」
「それ以外で不安になったら、ノートに書いて閉じる」
「頭の中から無理に追い出そうとしない」
「今は考えない時間だと、自分で区切るの」
コスキネンコーチが付け加える。
「呼吸トレーニングも続けてください」
「ただし、記録を競わない」
「うまくできたか採点しない」
「呼吸していることを感じるだけです」
「何でも練習にしすぎないことも必要です」
その言葉に、恵は少しだけ笑った。
「私、全部を練習にしてたかもしれません」
「散歩も?」
「はい」
「食事も?」
「体重と栄養を考えてました」
「睡眠も?」
「何時間眠れば回復できるか計算してました」
「結婚式の打ち合わせまで、効率を考えてた?」
「……はい」
画面の向こうで、海斗コーチが額へ手を当てた。
「そりゃ、頭も休まらんわ」
「でも、時間が足りなかったので」
「時間が足りないから、全部を詰め込んだ」
「はい」
「その結果、回復する時間がなくなった」
恵は小さくうなずいた。
「これからの三日間は、何をすればいいですか」
「まず、医師と理学療法士の指示に従う」
海斗コーチが答える。
「それ以外は?」
「食べる」
「はい」
「寝る」
「はい」
「お母さんと話す」
「それもトレーニングですか」
「競技のことばっかり考えないための大事な時間だ」
寄子コーチが笑った。
「光希くんとも話したら?」
「心配をかけたくないです」
「黙っている方が心配するでしょう」
昨日、雪から聞いた言葉がよみがえる。
喧嘩をしない夫婦ではなく、喧嘩をしても話をやめない夫婦になる。
そして光希とも約束した。
無理そうな時は言う。
一人で抱え込まない。
「今日、電話します」
「うん」
「ちゃんと、怖いって言います」
海斗コーチが静かにうなずいた。
「それも、今のめぐに必要なトレーニングかもしれんな」
話し合いを終えた後。
恵はクリニックを出た。
夏の夕方だった。
日はまだ高く、駐車場には強い光が残っている。
それでも朝より風が涼しくなり、木々の葉が静かに揺れていた。
恵は車へ向かいながら、右脚を意識した。
歩ける。
痛みはない。
だが、だからこそ休まなければならない。
壊れてから止まるのでは遅い。
壊れないために止まる。
今までの恵にはなかった考え方だった。
「休むことも、トレーニング……」
口にしてみても、まだ少し違和感があった。
練習着を着ない時間。
汗をかかない時間。
記録を測らない時間。
体を追い込まない時間。
それらが、自分を強くする。
すぐに納得できるほど、簡単なことではない。
それでも。
海斗コーチ。
寄子コーチ。
コスキネンコーチ。
ラーシュコーチ。
誰も、恵に競技を諦めろとは言わなかった。
飛び続けるために休めと言った。
今の三日間ではなく、その先にある何年もの競技人生を見てくれていた。
車に乗り込む前。
恵はスマートフォンを取り出した。
光希の名前を表示する。
合宿中だから、すぐには出られないかもしれない。
それでも、連絡を先延ばしにはしなかった。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
『もしもし、めぐ?』
光希の声が聞こえた瞬間。
恵の胸の中で張りつめていたものが、少しだけ緩んだ。
「光希」
『病院、どうだった?』
「大きな怪我じゃなかった」
『よかった……』
電話の向こうで、光希が深く息を吐いた。
「でも、疲労がかなりたまってるって」
『うん』
「三日間、ジャンプも走り込みも中止になった」
『うん』
「四日目の検査で、これからのことを決めるって」
『大会は?』
「まだ分からない」
声にした瞬間、涙がこぼれた。
「出られないかもしれない」
『めぐ』
「痛くないのに」
「歩けるのに」
「普通に動けるのに」
「それでも、飛んじゃ駄目なんだって」
光希は、すぐに言葉を挟まなかった。
「怖い」
恵は、ようやく本当の気持ちを口にした。
「大会に出られないのも怖い」
「右脚が元に戻らないのも怖い」
「休んでる間に、みんなが先へ行くのも怖い」
「うん」
「でも、休まなきゃいけない」
「うん」
「光希」
『うん』
「私、ちゃんと休めるかな」
電話の向こうで、光希が少し笑った。
『一人で休もうとしなくていいよ』
「どういうこと?」
『俺も毎日連絡する』
『雪さんにも頼る』
『コーチたちにも、ちゃんと見てもらう』
『めぐが勝手に走りに行かないように、みんなで止める』
「信用ないね」
『昨日までの行動を考えたらね』
「否定できない」
『休むことも、一緒にやろう』
恵は目を閉じた。
「うん」
『めぐ』
「何?」
『止まったからって、俺はめぐが弱くなったなんて思わないよ』
「うん」
『むしろ、今日止まれたことは強さだと思う』
「私は止められただけだよ」
『最終的に病院へ行くって決めたのは、めぐでしょ』
恵は右脚へ視線を落とした。
「また飛べるかな」
『飛べるように、今休むんだよ』
光希の声は静かだった。
海斗コーチたちと同じことを言っている。
父・層一が、かつて競技の中で大切にしていたこととも、どこかでつながっていた。
飛び出すことだけではない。
着地し、無事に帰ってくること。
そして、次の一本へ向かえる体を残すこと。
それもまた、一つのジャンプだった。
「分かった」
『本当に?』
「今度は、たぶん」
『たぶんなんだ』
「三日間で覚える」
『休み方を?』
「うん」
『じゃあ、それが今回の練習課題だね』
恵は涙を拭い、少しだけ笑った。
「難易度、高すぎる」
『ジャンプより難しいかもね』
「でも、やってみる」
『うん』
「また飛ぶために」
『うん』
通話を終えた後。
恵はしばらくスマートフォンを握ったまま、夕方の空を見上げていた。
飛びたい。
その気持ちは消えていない。
むしろ、止められたことで、以前より強くなっている。
けれど今は。
その思いを無理に体へぶつけない。
休む。
治す。
整える。
そして、もう一度安全に着地できる体を取り戻す。
それが今の恵に与えられた、新しいトレーニングだった。
同じ頃。
上川町の自宅では。
雪が、結婚を前に少しずつ家の中を整理していた。
恵が光希との新しい生活を始めれば、この家の荷物も少し変わる。
残しておくもの。
恵へ渡すもの。
処分するもの。
雪は一つずつ確かめるため、長い間手をつけていなかった倉庫の扉を開けた。
古いスキー用品。
幼い頃の恵が使っていたそり。
競技会のパンフレット。
新聞記事を入れたファイル。
棚の奥には、ほこりをかぶった段ボール箱がいくつも並んでいた。
その中の一つ。
側面に、層一の字で書かれた文字が残っていた。
『二〇二一年一月
ワールドカップ・リレハンメル大会』
雪の手が止まった。
「……そうちゃん?」
箱のふたを開ける。
中には、優勝を報じた新聞。
表彰台で金メダルを掲げる写真。
当時のゼッケン。
そして。
一枚の映像ディスクが、大切そうにケースへ収められていた。
ケースに書かれていたのは。
『リレハンメル大会
優勝インタビュー・層一』
雪は、その文字を指先でなぞった。
まだ夫婦になる前。
婚約を済ませたばかりだった二人。
白血病を発病する前。
恵が生まれるより、一年半以上前。
層一が未来を信じ、競技者として空を飛んでいた時代の映像。
その中には。
父の肉声を一度も聞いたことのない恵が、まだ知らない層一の声と表情が残されていた。
第2章 終
次章予告
第3章「箱の中の二〇二一年」
倉庫の奥から見つかった、一枚の映像ディスク。
二〇二一年一月。
ワールドカップ・リレハンメル大会。
白血病を発病する前の層一が、世界の舞台で優勝を果たした日の記録だった。
若い層一が、仲間と抱き合う。
表彰台で金メダルを掲げる。
そして、競技後のインタビューで一人の女性の名前を呼ぶ。
『雪、いつもありがとう』
まだ夫婦ではなかった二人。
婚約を済ませ、これから始まる暮らしを夢見ていた頃。
層一は、婚約者である雪への感謝と、二人で歩いていく未来を語っていた。
一方。
休養を命じられた恵は、何もできない自分に焦りを募らせる。
「休むって、こんなに苦しいんだね」
「それだけ、ずっと走り続けてきたってことだよ」
雪は、映像ディスクを手に恵の隣へ座る。
「めぐ。見せたいものがあるの」
「何?」
「お父さんが、元気だった頃の映像」
画面の中で、若い層一が動き始める。
笑う。
仲間へ声をかける。
そしてマイクへ向かって話す。
その瞬間。
恵は生まれて初めて、父の肉声を聞く。
「……これが、お父さんの声?」
手紙の文字としてしか知らなかった父。
写真の中でしか見たことのなかった父。
その声と表情が、二十一年の時間を越えて娘のもとへ届く。
次章、
第3章「箱の中の二〇二一年」
人の声は、消えない。
誰かが大切に残し続けた限り。
その声は時を越え、最も必要としている人の心へ届く。




