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恵の物語  作者: リンダ


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着地の向こう側

第48話「着地の向こう側」


第1章 着地の違和感


 八月上旬。


 北海道の短い夏は、いよいよ盛りを迎えていた。


 朝から空は青く澄み渡り、山の斜面を覆う木々は、濃い緑の葉を夏の日差しに輝かせている。


 冬には雪に包まれるジャンプ台も、今は人工芝の鮮やかな緑に覆われていた。


 散水装置から放たれた水が細かな霧となって斜面へ降り注ぎ、助走路と着地斜面を濡らしていく。


 水を含んだ人工芝が日差しを反射し、遠くから見ると、斜面全体が薄いガラスを張ったように光っていた。


 サマージャンプ大会まで、あと二週間。


 恵にとっては、秋の結婚式を前に出場する、最後の大きな大会となる予定だった。


 結婚後も競技を続ける。


 光希とも、雪とも、何度も話し合って決めたことだ。


 それでも世間の目は、恵が思うほど単純ではない。


 結婚するから競技への集中力が落ちた。


 家庭を持つから成績が下がった。


 以前のような覚悟がなくなった。


 まだ何も起きていないうちから、そんな言葉を想像してしまう。


 だからこそ、恵はこの大会で結果を残したかった。


 競技者としての自分は、何も変わっていない。


 むしろ、光希と共に生きる未来を得たことで、以前よりも強くなった。


 それを記録で証明したかった。


「気温、二十六度。風はほぼ正面」


 コーチが風向計を確認しながら告げる。


「午後から横風が強くなる予報だ。条件が安定してる午前中に、着地までしっかり確認するぞ」


「はい」


 恵はヘルメットのあご紐を締め直した。


 隣ではトレーナーが、準備運動の様子を注意深く見ている。


「右脚、今朝はどう?」


「昨日より軽いです」


「痛みは?」


「痛いってほどではないです」


「違和感は残ってる?」


 恵は一瞬だけ答えに詰まった。


「……少しだけ」


「どの動きで出る?」


「普通に歩く時は、ほとんど感じません」


「階段は?」


「下りる時に、ちょっとだけ力が抜ける感じがあります」


 トレーナーの表情がわずかに変わった。


「力が抜ける?」


「本当に一瞬です。踏ん張れないっていうか」


「昨日と同じ場所?」


 恵は右膝の少し下から、すねの外側へかけて手を当てた。


「この辺りです」


 強い痛みはない。


 腫れも見当たらない。


 触れられても、飛び上がるような痛みはなかった。


 ただ、着地姿勢へ入った時だけ、右脚が自分の体から半歩遅れてついてくるような感覚が残っていた。


 頭では踏ん張ろうとしている。


 筋肉にも力を入れている。


 しかし、ほんの一瞬だけ。


 命令が足先まで届くのが遅れる。


 それが、恵の中に説明しづらい不安を生んでいた。


 トレーナーは恵の足首、膝、股関節を順番に動かした。


「これは?」


「大丈夫です」


「こっちは?」


「少し張る感じがあります」


「痛みじゃなくて?」


「張る感じです」


 片脚立ち。


 軽い屈伸。


 その場での小さなジャンプ。


 右脚だけでの着地。


 いくつかの動作を確認する。


 恵はすべてこなした。


 大きく姿勢を崩すこともない。


 見た目だけなら、問題があるようには見えなかった。


 だが、右脚だけで着地した時、恵の上半身がわずかに左へ流れた。


 ほんの数センチ。


 普通に見ていれば、気づかないほどの揺れだった。


 しかし、トレーナーは見逃さなかった。


「今、右をかばったね」


「かばってません」


「無意識に左へ逃げた」


「バランスを少し崩しただけです」


「それを、かばったって言うんだよ」


 恵は口を閉じた。


「今日は本数を減らす」


「でも、着地の感覚を確認したいです」


「だからこそ減らすんだ」


 トレーナーは強い口調ではなかった。


 だが、判断を変えるつもりがないことは伝わった。


「最初は二本。一本ごとに映像を確認する。少しでも悪化したら、その時点で終わり」


「……分かりました」


 恵は答えた。


 納得したわけではない。


 ただ、ここで言い争っても本数が増えないことは分かっていた。


 スタート地点へ向かうリフトに乗る。


 高度が上がるにつれ、ジャンプ台全体が見渡せるようになる。


 助走路。


 カンテ。


 着地斜面。


 ブレーキングトラック。


 何度も飛んできた場所。


 冬も。


 夏も。


 歓声に包まれた日も。


 一人きりで飛んだ日も。


 恵は、この景色を見ると心が静かになる。


 飛ぶ前は、余計なことを考えない。


 風。


 助走姿勢。


 踏み切る位置。


 体の角度。


 板にかかる圧力。


 空中での重心。


 そして着地。


 一つ一つを確かめるだけだ。


 しかし今日は、右脚の感覚が頭から離れなかった。


 右で踏ん張れるのか。


 着地の衝撃を受け止められるのか。


 また力が抜けたら。


 その不安を消そうとすればするほど、意識が右脚へ集まる。


「考えすぎるな」


 無線からコーチの声が聞こえた。


「はい」


「一本目は距離を追わなくていい。助走から着地まで、流れを確認するだけだ」


「分かりました」


 恵は深く息を吐いた。


 スタート位置へ座る。


 板を平行にそろえる。


 両手を軽く動かし、肩の力を抜く。


 視線を助走路の先へ向ける。


 スタートの合図。


 恵は体を前へ運んだ。


 助走路を滑り始める。


 速度が上がる。


 風がヘルメットの周囲で唸る。


 膝を曲げ、上半身を低く保つ。


 左右の板へ均等に圧をかける。


 ここまでは悪くない。


 カンテが近づく。


 踏み切り。


 恵の体が空中へ放たれた。


 板が風を受ける。


 上半身を前へ。


 腰を高く保つ。


 飛距離を追わないつもりだった。


 しかし、体が空中へ出た瞬間、競技者としての本能が勝った。


 もう少し。


 あと少し前へ。


 板の角度を保ち、空気をつかむ。


 飛行そのものは安定していた。


 右へ流れることもない。


 体の軸も大きく崩れていない。


 着地斜面が近づく。


 恵は足を前後へ開いた。


 テレマーク姿勢。


 左脚が前。


 右脚が後ろ。


 着地の瞬間。


 人工芝から突き上げる衝撃が、両脚へ走った。


 その時だった。


 右脚が、一瞬だけ沈んだ。


「っ……!」


 恵の上半身が右へ傾く。


 とっさに左脚へ体重を移す。


 両腕を広げ、バランスを保つ。


 右の板がわずかに外へ開いた。


 転倒は免れた。


 だが、美しいテレマーク着地には程遠い。


 恵は腰を落としたまま斜面を滑り、ブレーキングトラックへ入った。


 速度を落とし、停止する。


 すぐに右脚へ力を入れてみる。


 立てる。


 痛みもない。


 しかし、着地した瞬間の感覚は明らかだった。


 また遅れた。


 右脚だけが、衝撃を受け止める準備に間に合わなかった。


 コーチとトレーナーが駆け寄ってくる。


「どうだ」


「大丈夫です」


「着地で右が沈んだ」


「少しタイミングがずれただけです」


「力が抜けたんじゃないのか」


 恵は返事をしなかった。


 コーチはタブレットに映し出された映像を再生した。


 踏み切り。


 空中姿勢。


 着地。


 スロー再生にすると、変化ははっきり見えた。


 両脚が人工芝へ触れた直後、右膝が内側へ入り、右の腰が少し落ちている。


 その分を左脚と上半身で補っていた。


「ここ」


 トレーナーが画面を止める。


「右の膝が入ってる」


「でも、この程度なら修正できます」


「意識で修正できるなら、最初からやってる」


「もう一本飛べば、合わせられます」


「めぐ」


「次は右脚を意識して――」


「今日は終わりだ」


 その言葉が、乾いた音のように恵の胸へ落ちた。


「まだ一本しか飛んでません」


「一本で十分だ」


「最初は二本って言ったじゃないですか」


「悪化したらその時点で終わりとも言った」


「悪化してません」


「着地で明らかに右が遅れた」


「転んでないです」


「転ばなかったから問題ないわけじゃない」


 恵の声が強くなる。


「もう一本、飛ばせてください」


「駄目だ」


「まだ感覚をつかみ切れてないんです」


「感覚をつかむために、壊れるまで飛ぶつもりか」


「壊れてません!」


 ジャンプ台の下に、恵の声が響いた。


 周囲にいたスタッフが、一瞬動きを止める。


 恵自身も、自分の声の大きさに驚いた。


 だが、一度外へ出た感情は簡単には戻らなかった。


「痛みもない」


「腫れてもない」


「歩けるし、走れる」


「飛ぶことだってできる」


「着地が少しずれただけです」


「その少しを放置するのが一番危ないんだ」


 トレーナーは恵の目をまっすぐ見た。


「痛みがないから大丈夫」


「歩けるから大丈夫」


「一本飛べたから大丈夫」


「そうやって続けた先で、ある日突然、踏ん張れなくなることがある」


 恵は唇をかんだ。


「大会まで二週間しかないんです」


「だから止めるんだ」


「今休んだら、調整が遅れます」


「今日飛び続けて悪くしたら、大会そのものに出られなくなる」


「でも――」


「出場しない選択も考えないといけない」


 恵の顔から表情が消えた。


 風の音だけが聞こえる。


 大会に出ない。


 その言葉を、恵はまだ現実のものとして考えたことがなかった。


 右脚に少し違和感がある。


 着地で一瞬遅れる。


 それだけだ。


 数日休めば戻る。


 調整すれば間に合う。


 そう信じていた。


 だが、トレーナーは「欠場」という言葉を口にした。


「そこまでじゃないでしょう」


 恵の声が震えた。


「今の段階では分からない」


「なら、飛んで確認しないと」


「飛んで確認する段階じゃない」


「じゃあ、どうするんですか」


「医師に診てもらう」


「検査をして、原因を探す」


「筋肉なのか、腱なのか、関節なのか。それとも神経の反応なのか」


「原因が分からないまま飛ばせるわけがない」


 恵は視線を落とした。


 自分の右脚を見る。


 見た目は、左脚と何も変わらない。


 腫れていない。


 赤くもない。


 傷もない。


 それなのに、着地の瞬間だけ、自分の脚ではないように感じる。


「病院は、今日の午後に予約を取る」


 コーチが言った。


「チームドクターにも映像を送る」


「今日と明日のジャンプ練習は中止」


「走り込みも、下半身の筋力トレーニングも止める」


「上半身と呼吸系のトレーニングだけにする」


「そんなに止めたら――」


「今は結果より原因を知ることが先だ」


 恵の拳が震えた。


「結果よりって……」


 低い声が漏れる。


「大会に出るために、ずっと準備してきたんです」


「知ってる」


「結婚式の準備だって、光希とお母さんに助けてもらって」


「練習時間を減らさないようにして」


「食事も、体重も、睡眠も、全部気をつけてきた」


「それなのに」


 恵の目に涙が浮かぶ。


「こんな、痛くもない違和感だけで」


「出られないかもしれないなんて」


 悔しかった。


 明確な怪我なら、まだ受け入れられたのかもしれない。


 骨折。


 靱帯損傷。


 肉離れ。


 診断名がつき、治療期間が示されれば、そこへ向かって努力できる。


 だが、今の恵には何も分からない。


 痛みはない。


 普通に動ける。


 それなのに飛べない。


 原因が見えないまま止められる。


 競技者にとって、これほど苦しい時間はなかった。


「私、結婚するから気が緩んだわけじゃない」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


「そんなこと誰も言ってない」


「でも、結果が出なかったら言われる」


「大会に出なかったら、もっと言われる」


「結婚の準備で調整が遅れたんだって」


「家庭を選んだから競技を諦めたんだって」


「誰かに言われたのか」


「まだ言われてません」


「なら、存在しない言葉で自分を追い込むな」


「でも、絶対に言う人はいます」


「いるかもしれない」


 コーチは否定しなかった。


「何をしても、勝手なことを言う人間はいる」


「出場して負けたら、結婚が原因だと言う」


「欠場したら、覚悟がないと言う」


「無理して怪我をしたら、自己管理ができていないと言う」


「全部、後からなら好きに言える」


 恵は顔を上げた。


「でも、その人たちは、めぐの脚に責任を取らない」


「この先、飛べなくなっても責任を取らない」


「結婚生活にも、競技人生にも責任を取らない」


「責任を取るのは、めぐ自身だ」


 恵の目から、涙が一粒こぼれた。


「だから、今は止まれ」


 厳しい言葉だった。


 しかし、冷たい言葉ではなかった。


 コーチも。


 トレーナーも。


 恵を大会から遠ざけたいわけではない。


 むしろ、もう一度安全に飛ばせる状態へ戻したいから止めている。


 頭では分かる。


 それでも、心は追いつかない。


「光希には……」


 恵が小さく尋ねた。


「連絡する」


「私から話します」


「そうしてくれ」


 光希は今、ノルディック複合の強化合宿へ参加している。


 今日も早朝からローラースキーと持久力トレーニングに取り組んでいるはずだった。


 自分の選考だけでも大変な時に、心配をかけたくない。


 だが、黙っているわけにもいかない。


 昨日、二人で決めたばかりだった。


 無理そうな時は言う。


 一人で抱え込まない。


 話をやめない。


 恵は深く息を吸った。


「病院、行きます」


「うん」


「検査も受けます」


「うん」


「でも」


 恵は涙を拭い、コーチとトレーナーを見た。


「まだ、欠場すると決めたわけじゃないです」


「もちろんだ」


 コーチはすぐに答えた。


「出場するために、今できることを探す」


「ただし、出ない方がいいと医師が判断したら、その選択から逃げない」


 恵はしばらく黙っていた。


 そして、小さくうなずいた。


「……分かりました」


 スタッフが板を運んでいく。


 恵はジャンプ台を振り返った。


 人工芝の斜面では、別の選手が助走を始めている。


 風を切り。


 空へ飛び出し。


 きれいなテレマークを決める。


 いつもなら、他の選手の飛躍を見れば、自分も早く飛びたいと思う。


 だが今は、その着地が怖かった。


 右脚が、次も自分を支えてくれるのか。


 もし、次は踏ん張れなかったら。


 もし、今度こそ転倒したら。


 その恐怖を認めることも、恵には悔しかった。


 控室へ戻る。


 ヘルメットを外し、ベンチへ置く。


 ジャンプスーツのファスナーを下ろしたところで、恵の手が止まった。


 誰もいなくなった控室。


 外からは、人工芝を滑る板の音が聞こえている。


 恵はベンチへ座った。


 うつむいたまま、両手で右膝を包む。


「どうして……」


 声が震えた。


「どうして今なの」


 結婚式まで、あと二か月。


 大会まで、あと二週間。


 光希と本音を言い合い、ようやく心が軽くなったばかりだった。


 競技も。


 結婚も。


 どちらかを諦めるのではなく、両方を大切にすると決めた。


 その直後に、体が言うことを聞かなくなった。


「まだ飛べるのに」


 涙が膝へ落ちる。


「私、まだ飛びたいのに」


 強くなろうとするほど、涙は止まらなかった。


 しばらくして、控室の扉が静かに開いた。


 トレーナーが入ってくる。


 泣いている恵を見ても、驚いた顔はしなかった。


 何も言わず、少し離れた場所へ座る。


 恵は慌てて涙を拭いた。


「すみません」


「謝る必要ないよ」


「悔しいです」


「うん」


「大した怪我でもないのに」


「大したことがないかどうかは、まだ分からない」


「でも、骨が折れたわけでもない」


「痛くもない」


「なのに、飛ばせてもらえない」


「それが一番つらいんだろうね」


 恵はうなずいた。


「原因が分かれば、何をすればいいか決められる」


「治療も、休養も、トレーニングの変更も」


「でも今は、何も分からない」


「だから怖い」


 トレーナーの言葉に、恵はまた涙をこぼした。


 怖い。


 自分では、その言葉を口にできなかった。


 悔しい。


 腹が立つ。


 焦っている。


 そう言い換えてきた。


 だが本当は怖かった。


 大会に出られないことが。


 競技から離れることが。


 右脚が元に戻らないことが。


 そして、いつか飛べなくなる日が、自分の想像より早く来てしまうことが。


「原因を探そう」


 トレーナーは静かに言った。


「焦らず、一つずつ」


「今日、止めたことが正しかったと思えるように」


「また安心して飛べるように」


 恵は右膝に手を置いたまま、ゆっくりとうなずいた。


「はい」


 その日の午後。


 恵はチームドクターの待つスポーツクリニックへ向かうことになった。


 診察。


 動作確認。


 筋力測定。


 画像検査。


 神経反応の確認。


 右脚に起きている小さな異変の原因を探すため、いくつもの検査が予定された。


 そして、その結果は。


 恵がこれまで続けてきた練習方法そのものを、見直さなければならない可能性を示すことになる。


 飛ぶために鍛えてきた体。


 飛び続けるために重ねてきた努力。


 だが、その努力の積み重ねの中にこそ。


 着地を狂わせる原因が、静かに隠れていた。

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