父の声
画面に映し出されたのは、二〇二一年一月。
ノルウェー・リレハンメル。
白く雪化粧した山々の間に、巨大なジャンプ台がそびえている。
観客席には各国の旗が揺れ、スタート地点から着地斜面まで、冬の張りつめた空気に包まれていた。
実況の興奮した声が響く。
『層一、見事な飛躍です!』
『着地も決めた! この時点でトップに立ちました!』
画面の中で、若い層一がブレーキングトラックを滑っていく。
停止した瞬間、電光掲示板に順位が表示された。
一位。
層一は両手を強く握り、空へ突き上げた。
日本チームのスタッフや仲間が駆け寄り、その体を抱き締める。
何度も肩を叩かれながら、層一は白い息を弾ませて笑っていた。
恵は、テレビの前で息をすることさえ忘れていた。
写真では何度も見てきた。
競技の記事も読んだ。
表彰台に立つ姿も、静止画では知っていた。
けれど。
動いている父を見るのは、初めてだった。
板を外す仕草。
仲間の肩を抱く姿。
悔しさも喜びも隠さず、顔いっぱいに表す若い男性。
それが、自分の父だった。
「……お父さん」
恵の唇から、かすかな声が漏れた。
雪は隣に座り、膝の上で両手を重ねていた。
画面から目を離してはいなかった。
しかし、その横顔には、二十一年前の記憶へ引き戻されたような緊張が浮かんでいた。
表彰式が始まる。
層一は表彰台の中央へ上がり、金メダルを首にかけてもらう。
日本の国旗が掲げられる。
国歌が流れる中、層一は正面を見つめていた。
目元には、わずかに涙が光っていた。
やがて映像は、競技後のインタビューへ切り替わった。
防寒着姿の層一が、会場のミックスゾーンに立っている。
頬は寒さで赤くなり、髪には細かな雪がついていた。
記者がマイクを向ける。
『ワールドカップ優勝、おめでとうございます』
『ありがとうございます』
その声が流れた瞬間。
恵の肩が、小さく揺れた。
「これが……」
声が続かない。
雪が静かに恵を見る。
恵は画面を見つめたまま、震える息を吐いた。
「これが、お父さんの声なんだね」
層一の声は、恵が想像していたより低かった。
落ち着いていて、言葉を一つずつ丁寧に話す。
けれど、笑うと声の端が少し柔らかくなる。
恵がこれまで頭の中で作ってきた父の声とは違っていた。
想像ではない。
本当にこの世界に存在していた人間の声だった。
『今日のジャンプを振り返って、いかがでしたか』
『一本目から、自分の形で飛ぶことだけを考えていました。風の条件は簡単ではなかったですけど、スタッフが細かく情報を伝えてくれましたし、仲間もずっと声をかけてくれたので、最後まで落ち着いていられました』
『優勝が決まった瞬間は、どんなお気持ちでしたか』
層一は少し考えた後、照れくさそうに笑った。
『最初に浮かんだのは、日本で待ってくれている人の顔でした』
雪の指先が、わずかに動いた。
『ご家族ですか』
『家族にも伝えたいですけど、一番は婚約者ですね』
恵は、ゆっくり母の方を見た。
雪は画面を見つめたまま、小さく息をのんでいた。
記者が笑顔を見せる。
『ご婚約されているのですね』
『はい』
層一も、少し恥ずかしそうに笑う。
『遠征へ出る前に、婚約しました』
『彼女には、競技がうまくいかない時も、ずっと支えてもらっています』
『勝った時だけ一緒に喜ぶんじゃなくて、負けて帰った時も、何も変わらず迎えてくれる人です』
雪の目に、静かに涙がたまっていく。
恵は、母の横顔と画面の中の父を交互に見た。
この頃の二人は、まだ夫婦ではなかった。
同じ名字でもない。
結婚式も挙げていない。
恵が生まれることも、まだ知らない。
それでも層一は、雪をこれからの人生を共に歩く人として、はっきり語っていた。
『婚約者の方へ、何か伝えたいことはありますか』
層一は少し困ったように笑った。
『これ、本人も見るんですよね』
『おそらく』
『恥ずかしいですね』
周囲から小さな笑いが起きる。
層一は一度うつむき、それからカメラをまっすぐ見た。
『雪』
その名前を呼ぶ声に、雪の目から涙がこぼれた。
『いつもありがとう』
『遠くにいても、雪が応援してくれていると思うと、最後まで頑張れます』
『帰ったら、金メダルを一番に見せたいです』
層一は少し照れながらも、言葉を続けた。
『これからも、勝つ時だけじゃなく、負ける時もあると思います』
『競技がうまくいかなくて、余裕がなくなることもあるかもしれません』
『それでも、ちゃんと話しながら、一緒に歩いていきたいです』
『結婚してからも、よろしくお願いします』
雪は口元を手で覆った。
「そうちゃん……」
恵の胸にも、強いものが込み上げた。
自分が光希と話した言葉と、どこか似ていた。
勝っている時だけではない。
うまくいかない時も。
話すことをやめない。
一緒に歩いていく。
父と母もまた、同じように夫婦になろうとしていたのだ。
『今後の目標を教えてください』
記者の質問に、層一は競技者の顔へ戻った。
『今日優勝できたことは、本当にうれしいです』
『ただ、今日勝ったから、次も勝てるわけではありません』
『次の大会では、また最初から積み上げ直さないといけないと思っています』
『助走も、踏み切りも、空中姿勢も、まだ改善できるところがあります』
恵は画面へ身を乗り出した。
層一は、少しだけ表情を引き締める。
『それと』
『ジャンプは、遠くへ飛べば終わりではありません』
『どれだけいい踏み切りができても、着地できなければ一本のジャンプにはならない』
『飛び出す勇気だけじゃなくて、最後まで無事に帰ってくることも大事です』
『着地まで含めて、自分のジャンプだと思っています』
恵の呼吸が止まった。
光希から何度も言われていた言葉。
飛ぶことだけではない。
無事に帰ってくるところまでが競技だ。
画面の中の父も、同じことを話していた。
「お父さんも……」
恵の目から涙があふれた。
「光希と同じこと言ってる」
雪は、恵の手をそっと握った。
「そうちゃんはね、飛距離だけを追いかける人じゃなかったんだよ」
「着地して、ちゃんと戻ってきて、それで初めて一本だって、いつも言ってた」
恵は何度もうなずいた。
「私、飛ぶことばかり考えてた」
「うん」
「結果を出さなきゃって」
「結婚するから甘くなったって、誰にも思われたくなくて」
「うん」
「右脚がおかしいって分かってたのに、もう一本飛べば戻ると思ってた」
雪は恵の手を強く握り直した。
「焦る気持ちは悪いことじゃないよ」
「勝ちたい気持ちも、競技を大切にしたい気持ちも、めぐの大事な一部だから」
「でもね」
「競技を大事にすることと、自分の体を壊すことは違うんだよ」
映像の中では、インタビューを終えた層一が記者へ頭を下げていた。
スタッフから声をかけられ、笑いながら振り返る。
画面の中の父は健康だった。
白血病を発病する前。
病院のベッドも、抗がん剤も、車椅子も知らない。
未来が当たり前に続くと信じていた。
雪と結婚し、家庭を築き、競技を続ける。
そんな未来を疑っていなかった。
恵は、その姿を見つめながら静かに泣いた。
「お母さん」
「うん?」
「この時のお父さん、幸せだった?」
雪は、涙を拭わずに答えた。
「幸せだったよ」
「競技で優勝したから?」
「それもあるけど」
雪は画面に映る層一を見つめた。
「これからお母さんと結婚するんだって、すごくうれしそうだった」
「遠征へ出る前もね、帰ってきたら式のことをもっと話そうって言ってた」
「どんな家に住むかとか」
「子どもは何人ほしいかとか」
「まだ何も決まっていないのに、ずっと先の話ばかりしてた」
「子どもの話も?」
「したよ」
恵は涙をぬぐいながら母を見る。
「お父さん、子どもがほしいって言ってた?」
「うん」
雪は優しく笑った。
「男の子でも女の子でもいいから、一緒に雪遊びしたいって」
「スキーも教えたいって」
「でも、お母さんが危ないからジャンプだけはさせないって言ったら」
雪は少し笑う。
「そうちゃん、本人がやりたいって言ったら止められないべって言ったの」
恵も、涙の中で笑った。
「結局、私、ジャンプしてるね」
「そうだね」
「お父さんの言ったとおりになった」
「頑固なところまで似てね」
「それはお母さんも言いすぎ」
二人は泣きながら、少しだけ笑った。
映像は表彰式の後の様子へ移っていた。
層一が金メダルを手に取り、カメラへ向けて見せている。
その口元が動く。
音声は周囲の歓声にかき消されていたが、雪には何を言ったのか分かっていた。
「今、何て言ったの?」
恵が尋ねる。
雪は画面を見つめたまま答えた。
「雪、取ったぞって」
「分かるの?」
「当時、何回も見たから」
雪は懐かしそうに笑う。
「帰ってきた時、本当に一番にメダルを見せに来たんだよ」
「首にかけてくれた?」
「うん」
「重かった?」
「重かったよ」
雪は胸元へ手を置いた。
「でも、メダルより、そうちゃんが無事に帰ってきてくれたことの方がうれしかった」
恵は、その言葉を静かに受け止めた。
優勝よりも。
記録よりも。
無事に帰ってくること。
今の光希が、自分に求めていることと同じだった。
恵は再び画面へ向き直る。
「お父さん」
初めて聞いた父の声へ向かって、ゆっくりと語りかける。
「私、ちゃんと休むよ」
「焦って飛ぶの、やめる」
「怖がって飛ばないって意味じゃないよ」
「また飛ぶために、今は止まる」
雪は、恵の肩をそっと抱いた。
「それでいいんだよ」
恵は画面の中の層一を見つめた。
「私も、光希と一緒に歩いていく」
「勝った時だけじゃなくて」
「うまくいかない時も、ちゃんと話す」
「お父さんとお母さんが、そうしようとしてたみたいに」
テレビの中で、若い層一が笑っている。
その隣には、まだ雪はいない。
けれど、その視線の先には確かに雪がいた。
そして、その時にはまだ存在していなかった娘へも。
二十一年後。
層一の声は届いた。
父の肉声を知らずに育った娘が。
最も苦しみ、迷っていた日に。
競技者としての言葉と。
婚約者を愛する一人の男性としての言葉が。
時を越えて、恵の心を支えていた。




