少しずつ、夫婦になっていく
第78話 少しずつ、夫婦になっていく
その夜。
恵は自分の部屋のベッドへ入ってからも、なかなか眠れなかった。
体は疲れている。
朝から走り込みをして、体幹を鍛え、午後には坂道を何度も駆け上がり、最後はジャンプ台へ立った。
本来なら、布団へ入った途端に眠っていてもおかしくない。
けれど、目を閉じると、昼間の光希の言葉が何度も胸の中へ戻ってきた。
『できるかどうかじゃない。正しい形でできるかどうか』
『強い選手は、無理する選手じゃない』
『秋まで飛び続けたいなら、明日一日を飛びすぎない』
練習中は、少し腹が立った。
自分ではまだできると思っていた。
右脚に多少の違和感があっても、回数を重ねれば感覚を戻せる。
そう思っていた。
だから止められた時、光希に自分の気持ちを分かってもらえていないような気がした。
だが、冷静になってみれば違う。
光希は、分かっていなかったのではない。
分かっていたからこそ、止めたのだ。
恵が焦っていること。
結婚を控えたことで、周囲から競技への姿勢を疑われるのではないかと恐れていること。
練習時間が減ったわけでもないのに、足りないと感じていること。
言葉にしていなかった部分まで、光希は見ていた。
恵は仰向けになり、天井を見つめた。
「……ほんと、よく見てるんだね」
小さくつぶやく。
競技者としての姿勢。
呼吸の乱れ。
走る時に上がる右肩。
着地で内側へ入る膝。
けれど、光希が見ているのは、そういう技術的な部分だけではない。
恵が無理をした時の顔。
平気なふりをする時の声。
不安を隠すために、いつもより強気になる癖。
疲れているのに「大丈夫」と言う時の間。
自分でも気づいていないほど小さな変化を、光希は見逃さない。
それは、少し怖くもあった。
自分の弱い部分まで知られてしまうような気がする。
でも同時に。
こんなにも安心できることなのだと、初めて気づいた。
誰かに分かってもらえること。
頑張っている姿だけでなく、頑張れなくなりそうな時まで見てもらえること。
無理をしている時に、黙って見過ごされないこと。
恵は布団の中で、そっと手を胸へ当てた。
光希と出会ってから、自分は少しずつ変わっている。
以前の恵なら、弱音を見せることを避けていた。
疲れていても、痛みがあっても、周囲へ心配をかけないことが強さだと思っていた。
自分のことは自分で何とかする。
競技者としても、一人の大人としても、それが当然だと思っていた。
けれど、光希は違った。
一人で抱え込むことを、強さとは呼ばなかった。
支え合うことを、甘えとは言わなかった。
むしろ、相手を信じて頼ることも、共に生きるために必要なのだと教えてくれた。
「こうやって、夫婦になっていくのかな」
恵は静かにつぶやいた。
結婚式を挙げれば、その瞬間から突然、完璧な夫婦になるわけではない。
指輪を交わしたから。
名字が変わったから。
同じ家に住み始めたから。
それだけで、深い信頼が完成するわけではない。
言わなくても分かってほしいと思うのではなく、言葉にする。
間違った時は、謝る。
相手の言葉が耳に痛くても、なぜそう言われたのかを考える。
腹を立てる。
すれ違う。
それでも話をやめない。
そういう小さな積み重ねの中で、少しずつ相手を知っていく。
少しずつ、自分を預けられるようになる。
少しずつ、二人の間に信頼が生まれる。
結婚式の誓いの言葉を書いた時。
二人は、
『どちらかがどちらかを幸せにするのではなく、二人で幸せになる』
と決めた。
その言葉の意味を、恵はようやく実感し始めていた。
幸せは、相手から与えてもらうものではない。
かといって、自分一人で作るものでもない。
相手の気持ちを知ろうとし、自分の気持ちも伝え、一緒に考える。
その繰り返しの中に、二人の幸せが生まれていく。
「光希が相手で、よかった」
声にすると、胸の奥が少し熱くなった。
そのまま眠ろうとした。
けれど、ふともう一つの不安が浮かぶ。
自分は本当に、妻になれるのだろうか。
選手としては、長い間、結果を求め続けてきた。
努力の仕方も、失敗した後の立て直し方も、ある程度は知っている。
だが、妻として何をすればいいのかは、誰も教えてくれない。
料理が上手ならいいのか。
夫を支えられればいいのか。
家庭を明るくできればいいのか。
それとも、常に優しくいなければならないのか。
考え始めると、分からないことばかりだった。
恵はしばらく迷った後、布団から起き上がった。
時計は午後十時を少し回っている。
廊下へ出ると、階下から小さな物音が聞こえた。
雪はまだ起きているらしい。
恵は階段を下りた。
カフェの照明は落とされ、台所の明かりだけがついていた。
雪は翌朝の仕込みを終え、カウンターで伝票を整理していた。
恵の足音に気づき、顔を上げる。
「どうしたの。眠れないのかい」
「うん。ちょっとだけ」
「体、痛む?」
「そうじゃないよ」
雪は恵の顔を見た。
何か話したいことがあるのだと察したのだろう。
手元の伝票をそろえ、カウンターの端へ置いた。
「温かいもの飲むかい」
「少しだけ」
雪は牛乳を鍋へ入れ、弱火にかけた。
恵はカウンター席へ座り、母の背中を見つめた。
何度も見てきた背中だった。
幼い頃。
学校から帰った時。
大会で負けた日。
遠征から帰った夜。
いつも雪は、こうして台所に立っていた。
やがて、温めた牛乳がカップへ注がれる。
雪は恵の前へ置き、自分も向かいへ座った。
「それで?」
「何が?」
「話があるんでしょ」
恵はカップを両手で包んだ。
温かさが指先から伝わる。
「お母さんさ」
「うん」
「妻になるって、どういうことだと思う?」
雪は少し目を見開いた。
そして、すぐには答えなかった。
「ずいぶん急に難しいこと聞くね」
「だって、もうすぐ結婚するから」
「今さら心配になったのかい」
「今さらって言わないでよ」
恵は少しむくれた。
雪は笑う。
「ごめんごめん」
「私、ちゃんと妻になれるのかなって」
雪の表情が少し真剣になった。
「ちゃんとって、何をもってちゃんとなの」
「分からないから聞いてるの」
「料理ができるとか?」
「それもあるかもしれないけど」
「掃除をするとか?」
「そういうことだけでもないと思う」
「光希くんを毎朝笑顔で送り出すとか?」
「毎朝は無理かもしれない」
「もう諦めたの」
「だって、私も遠征あるし」
「そうだね」
雪は小さくうなずいた。
恵はカップの中へ視線を落とした。
「光希は、すごく私のこと見てくれてるんだわ」
「うん」
「今日も、私が焦ってることに気づいてた」
「うん」
「私は、あんなふうに光希のこと見られてるのかなって」
雪は何も言わず、続きを待った。
「光希が無理してても、気づけるかな」
「苦しい時に、ちゃんと支えられるかな」
「競技でも、生活でも」
「私、自分のことで精いっぱいになって、光希のこと置いていかないかな」
言葉にしてみると、不安が次々と出てくる。
「妻になるって、相手を支えることでしょ」
雪はゆっくり首を横へ振った。
「それだけじゃないよ」
「じゃあ何?」
「支えてもらうことも、妻になることだよ」
恵は顔を上げた。
「でも、それじゃ光希ばっかり大変になる」
「ならんように話すんだべさ」
「話す?」
「今日みたいに」
雪は穏やかに続けた。
「めぐが無理してたら、光希くんが止める」
「光希くんが無理してたら、今度はめぐが止める」
「二人とも余裕がなかったら、周りに助けてもらう」
「夫婦って、どちらか一人がいつも強くいることじゃないんだよ」
恵は黙って聞いていた。
「お母さんは、お父さんと短い間しか夫婦でいられなかったけど」
雪の目が少し遠くを見る。
「それでも、全部お母さんが支えてたわけじゃない」
「お父さんが病気だったのに?」
「病気だったからって、支えられるだけの人だったわけじゃないよ」
雪は少し笑った。
「お母さんが不安で泣いた時、そうちゃんは何度も話を聞いてくれた」
「体がつらいはずなのに、くだらない冗談も言ってくれた」
「恵がお腹にいた時も、名前を一緒に考えてくれた」
「先のことを考えるのが怖くなった時は、一日ずつでいいって言ってくれた」
雪はカウンターの上へ手を置いた。
「そうちゃんは、体ではできないことが増えていった」
「でも、お母さんの心を支えてくれてた」
恵は、父の写真を思い浮かべた。
痩せた体。
病院の車椅子。
それでも、雪にとっては支えられるだけの存在ではなかった。
「だからね」
雪は恵の顔をまっすぐ見た。
「夫婦になる心得なんて、本当はそんなに難しいものじゃないと思うよ」
「そうなの?」
「うん」
「あなたが一番信頼できる人は誰?」
恵は、迷わなかった。
「光希」
「心から愛した人は誰?」
「光希」
雪は微笑んだ。
「その気持ちがあるなら、大丈夫」
あまりにも簡単な答えだった。
恵は少し拍子抜けしたように瞬きをする。
「それだけ?」
「それだけって、簡単に言うけどね」
雪は少し身を乗り出した。
「信頼するって、何でも相手の言うとおりにすることじゃない」
「違うと思ったら違うって言う」
「分からなかったら聞く」
「傷つけたら謝る」
「助けてほしい時は助けてって言う」
「それでも、この人なら一緒に考えてくれるって思えること」
恵は、昼間の光希とのやり取りを思い出した。
右脚の負荷を巡って言い合ったこと。
焦っていると言われ、反発したこと。
それでも光希は、その場から離れなかった。
恵の言葉を聞き、五分休もうと言った。
怒鳴り返さず、無理に慰めもせず、ただ話を続けてくれた。
「愛するっていうのもね」
雪は続けた。
「毎日ずっと優しい気持ちでいられるってことじゃないよ」
「腹立つ日もある」
「顔も見たくない日も、もしかしたらある」
「でも、その人が苦しんでたら放っておけない」
「一緒に笑えたらうれしい」
「明日も隣にいてほしい」
「そう思える相手なら、大丈夫」
恵は、母の言葉を一つずつ胸へ落としていった。
「お母さんも、お父さんに腹立ったことあったの?」
雪は一瞬だけ黙った。
「そりゃあったよ」
「意外」
「何が意外なの」
「ずっと仲良かったのかと思ってた」
「仲良かったよ。でも、腹立つことと仲が悪いことは別だべさ」
「どんなことで?」
雪は少し考え、苦笑した。
「病院で無理して平気なふりした時」
「お母さんには大丈夫って言うくせに、看護師さんには痛いって言ってたこともあった」
「なんで?」
「心配かけたくなかったんでしょ」
「それで怒ったの?」
「怒ったよ」
雪は当時を思い出したように眉を寄せる。
「心配かけたくないって言うなら、隠して倒れる方がよっぽど心配するって」
「今日の私と同じだね」
「そうかもしれないね」
二人は顔を見合わせた。
雪が少し笑った。
「そうちゃんも、めぐも、大丈夫って言う時ほど信用ならんのさ」
「親子だね」
「変なところばっかり似るんだから」
恵も笑った。
だが、その笑いの中には、少しだけ涙が混じっていた。
「お母さん」
「うん?」
「お父さんと結婚したこと、後悔したことある?」
雪は、すぐには答えなかった。
台所の時計が、静かに時を刻んでいる。
冷蔵庫の低い音が聞こえる。
雪はゆっくり息を吸った。
「ないよ」
答えは、迷いのないものだった。
「つらかったよ」
「一緒にいられた時間は短かった」
「もっと生きてほしかった」
「恵を一緒に育てたかった」
「何度も、どうしてって思った」
雪の声が少し震える。
「でも、そうちゃんを好きになったことも、結婚したことも、恵を授かったことも」
「一つも後悔してない」
恵は目を伏せた。
「短かったから、間違いだったわけじゃないんだよ」
雪は静かに言った。
「長く続いたから正しいとも限らない」
「その人といた時間に、ちゃんと愛せたか」
「信じられたか」
「一緒に生きたいと思えたか」
「お母さんにとっては、それが答えだった」
恵の目から、一粒の涙が落ちた。
雪はティッシュを差し出した。
「何で泣くの」
「分からない」
「結婚前は、情緒が忙しいね」
「お母さんの話がずるいんだよ」
「聞いたの、めぐでしょ」
「そうだけど」
恵は涙を拭いた。
「私も、光希と一緒に生きたい」
「うん」
「競技がうまくいく時だけじゃなくて」
「負けた時も」
「怪我した時も」
「うまく話せない時も」
「それでも、隣にいてほしい」
雪は何度もうなずいた。
「だったら大丈夫」
「でも私、きっとまた意地張るよ」
「張ればいいしょ」
「怒るかもしれない」
「怒ればいい」
「喧嘩するかも」
「したら、仲直りすればいい」
「簡単に言うね」
「簡単じゃないよ」
雪は少し真剣な顔になった。
「でも、喧嘩しない夫婦になるより、喧嘩しても話をやめない夫婦になりなさい」
その言葉に、恵は息を止めた。
「話をやめない夫婦」
「そう」
「黙って相手を諦めるのが、一番怖いから」
「腹が立っても、分かってもらえなくても、今どう思ってるか伝える」
「相手の話も聞く」
「それを続けられたら、少しずつ夫婦になっていけるよ」
少しずつ。
その言葉は、今夜の恵の気持ちと同じだった。
結婚式の日に、夫婦になる。
けれど、本当の意味で夫婦になっていくのは、その後もずっと続く。
一日一日。
一つの会話。
一度の喧嘩。
一度の仲直り。
一度の「ありがとう」。
一度の「ごめん」。
そういう小さなものを積み重ねていく。
競技の練習と似ているのかもしれない。
一度の成功で完成することはない。
うまくいかない日があっても、そこで終わりではない。
何度も確かめ、修正し、また向き合う。
恵はカップの中に残っていた牛乳を飲み干した。
「お母さん」
「うん?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「少し安心した」
「少しなの?」
「全部大丈夫って思うのは、まだ怖いから」
「それでいいよ」
雪は立ち上がり、空になったカップを手に取った。
「怖いって思えるのは、ちゃんと大事にしたいってことだから」
「大事じゃなかったら、失敗しても怖くないべさ」
恵は、なるほどと思った。
妻になれるか不安なのは、光希との生活を大切にしたいからだ。
失敗したくないのは、この関係を失いたくないからだ。
それなら、不安があること自体を恥ずかしがる必要はない。
「明日、光希に話してみる」
「何を?」
「今日、ありがたかったって」
「それは言った方がいいね」
「それと、私もちゃんと光希を見るって」
「重たくならない程度にね」
「どういう意味?」
「ずっと観察されてたら、光希くんも落ち着かんしょ」
「お母さん、いい話の最後にそういうこと言うよね」
「重くなりすぎると眠れなくなるから」
雪は笑いながら、カップを洗い始めた。
恵も席を立つ。
「おやすみ」
「おやすみ。明日は休むんだよ」
「午前は練習」
「午後は休む」
「打ち合わせある」
「終わったら休む」
「分かったよ」
「本当に?」
恵は階段へ向かいながら振り返った。
「大丈夫」
雪の眉が上がる。
恵はすぐに言い直した。
「じゃなくて、無理そうだったら言う」
雪は満足そうにうなずいた。
「それでよろしい」
翌朝。
光希がカフェ雪へ来ると、恵はいつもより少し早く外へ出てきた。
昨日の疲労を考え、午前中は軽めの調整だけにする予定だった。
光希は恵の歩き方を見て、すぐに右脚へ視線を落とした。
「ふくらはぎ、どう?」
「昨日より軽い」
「本当?」
「本当。触って確認してもいいよ」
「あとで施設で見る」
恵は光希の隣へ並んだ。
少し歩いたところで、口を開く。
「昨日さ」
「うん」
「私、光希に止められた時、腹立った」
「知ってる」
「分かってもらえてないって思った」
「うん」
「でも、逆だった」
光希が恵を見る。
「光希は、私が焦ってることも、無理しようとしてることも、ちゃんと分かってた」
「たぶんね」
「たぶん?」
「本人じゃないから、全部分かるとは言えない」
その答えが、光希らしかった。
分かったつもりにならず、決めつけない。
それでも、見ようとしてくれる。
「ありがとう」
恵はまっすぐ言った。
「昨日も言ってたよ」
「昨日のは、止めてくれてありがとう」
「今日は?」
「私のこと、ちゃんと見てくれてありがとう」
光希は少し驚いたように黙った。
そして、照れたように視線を前へ戻した。
「どういたしまして」
「私も、光希のことちゃんと見るから」
「見すぎなくていいよ」
「お母さんと同じこと言う」
「雪さんにも相談したの?」
「妻になる心得を聞いた」
「何て?」
恵は少し笑った。
「一番信頼できる人は誰って」
「何て答えたの?」
「秘密」
「そこは言ってよ」
「心から愛した人は誰って」
「それも秘密?」
「どうしようかな」
光希は足を止めた。
「めぐ」
恵も立ち止まる。
朝の道には、まだ人が少ない。
山から下りてきた風が、二人の間を通り過ぎる。
恵は光希を見た。
「どっちも光希って答えたよ」
光希は何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細めた。
「何か言ってよ」
「うれしくて、何を言えばいいか分からない」
「そういう時は、ありがとうでいいんだよ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
二人はまた歩き始めた。
しばらくして、光希が言う。
「俺も同じだよ」
「何が?」
「一番信頼してるのも、心から愛してるのも」
今度は恵が黙る番だった。
光希が少し笑う。
「そういう時は、ありがとうでいいんでしょ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
二人の足音が、朝の道へ重なる。
夫婦になる日まで、まだ少し時間がある。
けれど、二人はもう、その入り口へ立っていた。
相手のすべてを理解しているわけではない。
これからも、きっとすれ違う。
分かってもらえないと感じる日もある。
言葉を間違える日もある。
それでも、話をやめない。
相手を見ようとすることをやめない。
信じることを諦めない。
そうやって二人は、少しずつ夫婦になっていく。
結婚式で誓うよりも前から。
すでに始まっていた二人の暮らしの中で。
信頼は、静かに育ち始めていた。




