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恵の物語  作者: リンダ


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秋まで飛び続ける

第77話「秋まで飛び続ける」


 二〇四二年六月。


 北海道にも、ようやく短い夏の気配が訪れていた。


 雪解けを終えた山々は深い緑に包まれ、上川の町を流れる川の水音も、春先より少し力強くなっている。


 朝五時。


 空はすでに明るかった。


 けれど、風はまだ冷たい。


 住宅の窓はほとんど閉じられたままで、町の中に人の姿はない。


 静かな道に、二人分の足音だけが響いていた。


 タッ、タッ、タッ、タッ――。


 一定のリズムを刻みながら先頭を走っているのは、恵だった。


 少し後ろを、光希が追う。


 二人とも薄手の長袖シャツにランニングタイツという格好で、腰には小さなボトルポーチを着けている。


 走り始めて、すでに三十分近くが経っていた。


 会話はほとんどない。


 朝のランニングは、互いの呼吸や足音を感じながら、それぞれが自分の体と向き合う時間だった。


 恵は腕を小さく振り、上半身をできるだけ揺らさずに走っている。


 肩の力を抜き、足を前へ投げ出さない。


 地面を強く蹴るのではなく、体の真下へ足を置き、重心を滑らかに前へ運ぶ。


 速さを競う走りではなかった。


 一定の心拍数を保ち、長く動き続けるための基礎持久力を作る走りだった。


 サマージャンプ大会まで、あと一か月余り。


 その先には、秋の結婚式が待っている。


 だが、恵にとって、結婚式が近いことは練習量を落とす理由にはならなかった。


 むしろ、競技と結婚準備を同時に進める今だからこそ、自分の体調をより細かく管理する必要があった。


 光希が後ろから声をかける。


「ペース、少し上がってるよ」


 恵は振り返らずに答えた。


「分かってる」


「心拍、いくつ?」


 恵は手首の計測器に一瞬だけ目を落とした。


「百四十七」


「今日は百四十前後でいい」


「でも、体は軽いよ」


「軽い日に上げすぎると、午後に残る」


 光希の口調は穏やかだったが、譲る気はない。


 恵は小さく息を吐いた。


「分かりました、コーチ」


「俺、今日は婚約者なんだけど」


「トレーニング中はコーチでしょ」


「便利に使い分けるね」


「光希もでしょ」


 短いやり取りのあと、恵は少しだけ速度を落とした。


 呼吸が再び整い、足音の間隔も一定になる。


 二人は川沿いの道へ入った。


 朝の水面には薄い霧が漂っている。


 遠くの山の稜線から日差しが差し込み、草の先についた露が光っていた。


 恵はその風景を横目で見ながら走った。


 幼い頃から、何度も見てきた景色だった。


 雪に覆われた冬。


 雪解けの春。


 短い夏。


 紅葉が一気に山を染める秋。


 季節が移るたびに、自分もまた走り、跳び、転び、立ち上がってきた。


 父の顔を覚えていない自分。


 母に育てられ、町の人々に支えられ、競技に出会った自分。


 世界大会へ出場し、金メダルを取り、今は結婚を控えている自分。


 すべては同じ一本の道の上にあるように思えた。


 やがて前方に、緩やかな上り坂が現れた。


 光希が時計を確認する。


「ここから三分。少しだけ上げる」


「了解」


 二人の足音が変わる。


 恵は腕の振りを少し大きくし、前傾を深めた。


 坂道では無理にストライドを伸ばさず、細かく足を運ぶ。


 太ももの前側だけでなく、臀部や背中まで使って体を押し上げていく。


 呼吸が次第に荒くなる。


 胸が熱くなり、脚には重さが出始める。


 それでも、フォームは崩さない。


 光希は恵の横へ並び、動きを確認していた。


「肩、上がってる」


 恵は一度息を吐き、肩を落とした。


「骨盤、少し後ろ」


 指摘を受け、腰の位置を修正する。


「そう。そのまま」


 坂の頂上が近づく。


 恵は歯を食いしばらず、口を少し開いて呼吸を続けた。


 最後の二十秒。


 脚が重い。


 それでも止まらない。


「十秒!」


 光希の声が飛ぶ。


 恵は最後まで動きを乱さず、坂を上り切った。


「終了」


 その言葉と同時に、二人は速度を落とした。


 恵は腰へ手を当てず、ゆっくり歩きながら呼吸を整える。


 急に止まると、脚に疲労が残りやすい。


 息を吸う。


 吐く。


 もう一度吸う。


 冷たい朝の空気が、熱くなった肺へ入ってくる。


「今の、どうだった?」


「前半は良かった。後半、右肩が少し上がった」


「やっぱり?」


「疲れてくると、右腕を強く振る癖が出る」


 恵は自分の肩を回した。


「ジャンプの助走でも、右に力が入りやすいんだよね」


「だから走りでも直す。動作は全部つながってるから」


 光希はそう言って、恵の背中を軽く叩いた。


「でも、去年より安定してる」


「本当?」


「本当。褒めたんだから、少しは素直に受け取って」


「光希が珍しく褒めるから、何か裏があるのかと思って」


「今ので取り消そうかな」


「それは困る」


 二人は顔を見合わせ、少し笑った。


 朝のランニングは、そこからさらに四十分続いた。


 平坦な道では心拍を落ち着かせ、短い坂ではフォームを崩さない範囲で負荷をかける。


 最後の二キロはペースを落とし、疲労を残さないように走った。


 出発地点へ戻った時、時計は午前六時を少し過ぎていた。


 恵はその場で止まらず、芝生の上をゆっくり歩く。


 光希も隣で呼吸を整えながら、時計の記録を確認していた。


「十一・八キロ」


「予定より少し多くない?」


「最後、遠回りしたから」


「誰が?」


「めぐが」


「光希もついてきたでしょ」


「一人で行かせるわけにいかないからね」


「じゃあ共犯だね」


「違います。監視役です」


 恵は額の汗を手の甲で拭い、空を見上げた。


 朝日が完全に山の上へ出ている。


 雲は少ない。


 今日も暑くなりそうだった。


 だが、一日のトレーニングは、まだ始まったばかりだった。


体幹を作る朝


 二人は一度カフェ雪へ戻り、軽い朝食を取った。


 雪が用意したのは、焼いたパン、卵、野菜のスープ、ヨーグルト、果物。


 恵は席へ着くなり、グラスの水を一気に飲んだ。


「そんな勢いで飲んだら、お腹びっくりするよ」


 台所から雪の声が飛ぶ。


「喉乾いたんだもの」


「少しずつ飲みなさいって、子どもの頃から言ってるしょ」


「もう子どもじゃないよ」


「結婚しても娘は娘だべさ」


 光希が笑いをこらえながら、スープの皿を受け取る。


「お母さんの方が正しいね」


「光希までそっちにつくの?」


「脱水は危ないから」


「はいはい。二人とも正しいです」


 恵は少し不満そうに言いながらも、今度はゆっくり水を飲んだ。


 朝食を終えると、一時間ほど休憩を取る。


 その間に体重、睡眠時間、安静時心拍、筋肉の張り、疲労感を記録する。


 恵はノートへ数字を書き込んだ。


 睡眠は七時間二十分。


 疲労感は十段階で四。


 右のふくらはぎに少し張り。


 腰に違和感なし。


 食欲あり。


 光希が隣からのぞき込む。


「ふくらはぎ、昨日より張ってる?」


「少しだけ」


「午後のジャンプ前にもう一回確認しよう」


「大会前だから走り込みを増やしたいんだけど」


「増やすのはいい。でも、状態を無視して増やすのは違う」


 恵は返事をせず、ノートへ視線を落とした。


 光希はそれ以上言わなかった。


 選手として、恵が焦り始めていることには気づいていた。


 結婚式の準備。


 新居の打ち合わせ。


 取材やスポンサー関係の予定。


 そして大会へ向けた練習。


 どれも手を抜くことができない。


 だからこそ恵は、空いた時間をすべて練習へ変えようとしていた。


 けれど、練習量が多ければ必ず強くなるわけではない。


 疲労した体で跳べば、わずかな姿勢の乱れが事故につながる。


 光希自身も現役選手であり、その危うさをよく知っていた。


 午前八時。


 二人は地元のトレーニング施設へ移動した。


 床にはマット、バランスボール、チューブ、メディシンボール、バランスディスクが並べられている。


 今日の午前中は、体幹と着地動作を中心にしたトレーニングだった。


 まずは股関節と肩甲骨周辺の可動域を広げる。


 足首を回し、ふくらはぎを伸ばす。


 四つ這いになり、背中を丸め、反らせる。


 胸郭を回し、呼吸と動きを合わせていく。


 光希は一つひとつの動作を急がせなかった。


「準備運動で疲れるくらい、丁寧にやるよ」


「それ、準備運動の意味ある?」


「怪我するよりある」


 恵は苦笑しながら、股関節を大きく回した。


 次はプランク。


 肘を床につき、頭から踵までを一直線に保つ。


 腹筋だけで耐えるのではなく、肩、背中、臀部、太ももまで同時に使う。


 光希がタイマーを押した。


「一分半」


「昨日より長い」


「昨日は走り込みが長かったから一分」


「今日は朝から十二キロ近く走ったよ」


「十一・八」


「細かい」


 恵は文句を言いながら姿勢を取った。


 最初の三十秒は余裕がある。


 だが、一分を過ぎる頃には腕が細かく震え始めた。


 光希は横から姿勢を確認する。


「腰、落ちてる」


 恵は腹部へ力を入れ直す。


「顎、上げない」


「分かってる」


「分かってる人は上げない」


「しゃべると余計きつい」


「じゃあ黙って耐えて」


 残り二十秒。


 恵の額から汗が落ち、マットへ小さな染みを作る。


 肩が熱い。


 腹部が焼けるように苦しい。


 それでも、姿勢は崩さない。


「あと十秒」


 光希の声が遠く感じる。


 恵は奥歯を噛まず、細く息を吐いた。


「三、二、一。終了」


 力を抜いた瞬間、恵はマットへ倒れ込んだ。


「きつい……」


「休憩三十秒」


「短い」


「次、サイドプランク」


「鬼」


「選手ですから」


「婚約者に対する優しさは?」


「結婚式で怪我なく歩けるように鍛えてます」


「それ言われたら反論できない」


 三十秒後。


 今度は横向きになり、片肘と足の側面で体を支える。


 腰が下がらないように保ち、上側の脚をゆっくり上げる。


 この動作は、空中姿勢の左右差を整え、着地時に骨盤が流れるのを防ぐために重要だった。


 右。


 左。


 恵は呼吸を止めずに動作を続ける。


 続いてバランスボール。


 両肘をボールへ乗せ、体を一直線に保ちながら小さく円を描く。


 不安定な球体が動くたび、腹部だけでなく背中の深い筋肉まで刺激される。


 さらに、片脚を浮かせた状態で姿勢を維持する。


 恵の体がわずかに右へ傾いた。


「右へ逃げてる」


 光希がすぐ指摘する。


「分かる?」


「かなり」


「自分では真っすぐなんだけど」


「だから映像で確認する」


 スマートフォンで撮影した動画を見せられ、恵は眉を寄せた。


 確かに、右側の骨盤がわずかに上がっている。


「これくらいでも影響する?」


「空中ではする。助走で右肩が上がって、踏み切りで右に力が入り、空中で修正しようとして左脚が開く」


「全部つながるね」


「さっき俺が言った」


「言われると悔しい」


「事実だから仕方ない」


 次は片脚スクワット。


 恵は片脚で立ち、もう片方の脚を前へ伸ばす。


 膝が内側へ入らないよう注意しながら、ゆっくり腰を落とす。


 ジャンプの着地では、両脚が同時に接地するとは限らない。


 わずかなタイミングのずれを、片脚でも受け止められる筋力が必要になる。


 一回。


 二回。


 三回。


 恵は左脚では安定していたが、右脚では途中で膝が内側へ入りそうになった。


「止めよう」


 光希が声をかける。


「まだできる」


「今のはフォームが崩れた」


「もう一回」


「休んでから」


「一回だけ」


 光希は恵の前へ立った。


「めぐ」


 声の調子が変わる。


 恵は動きを止めた。


「できるかどうかじゃない。正しい形でできるかどうか」


「分かってる」


「分かってるなら、焦らない」


 恵は視線をそらした。


「焦ってないよ」


「焦ってる」


「光希に何が分かるの」


 思ったより強い声が出た。


 施設の中が、一瞬だけ静かになった。


 恵自身も驚いたように口を閉じた。


 光希はすぐには返さなかった。


 怒ることも、なだめることもしない。


 ただ少し距離を取り、水のボトルを恵へ差し出した。


「五分休もう」


「……ごめん」


「謝るのはあとでいい」


「今言いたい」


「じゃあ聞く」


 恵はボトルを受け取り、小さく息を吐いた。


「ごめん」


「うん」


「結婚式の準備もあるし、取材も増えたし、練習時間が減ってる気がして」


「実際は減ってない」


「でも、集中できてない」


「それはあるかもしれない」


「夏の大会で結果が出なかったら、結婚するから競技が甘くなったって言われる」


 光希は少し黙った。


 その言葉が、恵の焦りの中心だった。


 誰かに直接言われたわけではない。


 だが、トップ選手である以上、結果が落ちれば必ず理由を探される。


 結婚。


 年齢。


 生活の変化。


 競技以外の仕事。


 本人の努力とは関係のない言葉が、簡単に並べられる。


 恵は、それが怖かった。


「言わせておけばいい」


 光希が言った。


「簡単に言わないで」


「簡単じゃない。でも、全部の声を消すことはできない」


「だから結果で黙らせたい」


「そのために怪我したら、もっと言われる」


 恵は口をつぐんだ。


「結婚するから弱くなるんじゃない。結婚しても強くいられるところを見せたい。その気持ちは分かる」


「だったら」


「でも、強い選手は無理する選手じゃない」


 光希は、床に置かれたバランスディスクを足で軽く動かした。


「今日、右脚が不安定なのは事実だよ。そこで回数を増やしても、崩れた動きを覚えるだけ」


「……うん」


「競技を続けたいなら、休む判断も競技の一部」


 恵はボトルを両手で握った。


 頭では分かっている。


 何度も言われてきたことだった。


 それでも、時間が足りないと感じる時ほど、止まることが怖くなる。


「五分休んだら、右脚は負荷を落とす」


 光希が言う。


「左は?」


「予定どおり」


「分かった」


「その代わり、午後のジャンプ映像は細かく見る」


「うん」


 恵はようやく、光希の顔を見た。


「ありがとう」


「どういたしまして」


「さっき怒鳴ってごめん」


「怒鳴られたってほどではないよ」


「でも、嫌だったでしょ」


「少し」


「正直だね」


「誓いの言葉に、ちゃんと話すって入れたから」


 恵は少し笑った。


「まだ式の前だけど」


「練習は今から」


 五分後。


 トレーニングは再開された。


 右脚への負荷は軽くし、フォームを崩さないことを最優先する。


 回数は減った。


 だが、一回ごとの精度は高かった。


 恵は鏡で膝と足首の向きを確認しながら、丁寧に腰を落とした。


 力任せにこなすのではなく、正しい動きを体へ覚え込ませていく。


 最後は、着地動作を想定したジャンプ。


 低い台から前方へ跳び、両脚で静かに着地する。


 音を立てない。


 膝を柔らかく使い、股関節で衝撃を吸収する。


 上半身を倒しすぎず、視線は前へ。


 一回目。


 少し右へ流れる。


 二回目。


 修正。


 三回目。


 着地音がほとんど消えた。


「今の」


 光希が言った。


「良かった?」


「映像で残そう」


「褒めてくれないの?」


「良かったよ」


「最初から言って」


「調子に乗るから」


「扱いが雑」


 それでも恵の表情は、少し明るくなっていた。


持久力を落とさないために


 昼食と休憩を挟み、午後は持久力と下半身の連動を意識したトレーニングが組まれていた。


 ノルディック複合に取り組む光希にとって、持久力は競技の中心にある。


 一方、ジャンプを主戦場とする恵にとっても、長いシーズンを戦い抜くための基礎体力は欠かせない。


 特にサマージャンプでは、冬とは異なる条件の中で何本も試技を重ねる。


 暑さ。


 湿度。


 人工芝の感触。


 助走路の変化。


 集中力を保つには、心肺機能だけでなく、疲労した状態でも動作を乱さない体力が必要だった。


 二人は山道へ向かった。


 午後のメニューは、起伏のあるコースを使ったインターバル走。


 長い距離を一定ペースで走るのではない。


 上り坂を高い強度で走り、下りと平坦区間で呼吸を整える。


 それを何本も繰り返す。


 一本目は三分。


 二本目は四分。


 三本目は二分。


 距離ではなく時間で区切り、地形に応じて負荷を変える。


 光希が先頭に立ち、恵は数メートル後ろを追った。


「一本目、七割」


「了解」


「最初から飛ばさない」


「分かってる」


「さっきも聞いた」


「今度は本当に分かってる」


 光希が時計を押す。


「スタート」


 二人は坂道へ入った。


 傾斜は緩いが、長い。


 恵は呼吸のリズムを保ち、腕を後ろへ引く。


 脚だけで進もうとすると、すぐに疲れる。


 背中と腕の動きを使い、全身で前へ進む。


 一分。


 まだ余裕がある。


 二分。


 太ももが熱くなる。


 三分。


 終了の合図。


 二人は歩きながら呼吸を整えた。


「どう?」


 光希が聞く。


「まだ大丈夫」


「心拍百五十八」


「想定内」


「二本目は少し抑える」


「四分なのに?」


「四分だから」


 二本目。


 傾斜は一本目よりきつい。


 恵は最初の一分を抑え、後半に余力を残した。


 だが、三分を過ぎた頃から脚が重くなる。


 視線が落ちそうになる。


「前見て」


 光希の声。


 恵は顔を上げた。


 坂の先に空が見える。


「あと四十秒」


 腕を振る。


 足を運ぶ。


 苦しくなった時ほど、動作を小さくまとめる。


「二十秒」


 呼吸が乱れる。


 胸が痛い。


 それでも止まらない。


「終了」


 恵は速度を落とし、大きく息を吐いた。


 額から汗が流れる。


 北海道とはいえ、午後の日差しは強かった。


「水分」


 光希からボトルを受け取り、少しずつ飲む。


「暑いね」


「気温二十七度」


「上川でこれなら、会場もっと暑いかも」


「大会は風もあると思うけど、暑熱対策は必要だね」


「氷のベスト、使う?」


「試技の間は使った方がいい」


 競技は技術だけで決まらない。


 体温。


 水分。


 食事。


 睡眠。


 会場までの移動。


 試技の間隔。


 あらゆる要素が、一回のジャンプへ影響する。


 三本目を終える頃には、恵のシャツは汗で体へ張りついていた。


 脚も重い。


 それでも、まだメニューは残っている。


 最後は短い坂を使った二十秒の全力走を六本。


 瞬発力を落とさず、疲れた状態でも姿勢を保つための練習だった。


「一本目」


 光希が合図を出す。


 恵は一気に坂を駆け上がった。


 最初の十秒は鋭く動ける。


 だが、後半に脚が鈍る。


「腕止めない!」


 光希の声に反応し、最後まで腕を振る。


 二十秒。


 終了。


 歩いて下り、二分休憩。


 二本目。


 三本目。


 四本目。


 回数を重ねるごとに、脚は重くなる。


 五本目を終えた時、恵は膝へ手をつきたくなった。


 だが、腰を曲げず、ゆっくり歩く。


 呼吸を整える。


「最後一本」


 光希が言う。


「いける?」


「いける」


「フォーム崩れたら止める」


「分かった」


 スタート地点へ立つ。


 恵は一度目を閉じた。


 ジャンプ台に立つ前と同じように、呼吸を整える。


 吸う。


 吐く。


 足の裏で地面を感じる。


「スタート」


 恵は走り出した。


 脚は重い。


 体は疲れている。


 だが、前半から無理に速度を上げず、リズムを優先する。


 十秒。


 光希が横から声をかける。


「姿勢いい。そのまま」


 十五秒。


 最後の力を使い、腕を振る。


 二十秒。


「終了!」


 恵は坂を上り切り、そのまま数歩歩いた。


 息が苦しい。


 視界が少し揺れる。


 光希がすぐ横へ来た。


「大丈夫?」


 恵は返事の代わりに手を上げた。


 数十秒後。


 呼吸が少し落ち着く。


「最後、良かった」


 光希が言った。


「本当?」


「疲れてるのに、右肩上がらなかった」


 恵は苦しそうなまま笑った。


「朝から直したかいあったね」


「そういう一本を積み重ねるんだよ」


 二人はゆっくり坂を下った。


 太陽はまだ高い。


 だが、山の影は少しずつ長くなっていた。


ジャンプ台へ


 夕方。


 二人はサマージャンプ用の練習台へ移動した。


 冬の雪に覆われたジャンプ台とは、景色がまるで違う。


 助走路には冷却設備が使われ、着地斜面には緑色の人工芝が敷かれている。


 散水された芝は光を反射し、遠くから見ると濡れた草原のようだった。


 だが、実際の感触は雪とは異なる。


 板の滑り。


 着地時の抵抗。


 風の受け方。


 同じジャンプでも、夏と冬では微妙に違う感覚が求められる。


 恵はウェアへ着替え、ブーツを締めた。


 ビンディングを確認する。


 ヘルメット。


 ゴーグル。


 手袋。


 一本ごとに、同じ順番で装備を確認する。


 小さな確認の積み重ねが、事故を防ぐ。


 光希は下から風向きを見ていた。


 風は弱い。


 時折、横から小さく吹く程度。


 最初の二本は、飛距離を求めず、助走姿勢と踏み切りの確認に使う予定だった。


 恵はリフトでスタート地点へ上がる。


 高い位置から、町と山が見えた。


 夏の北海道の空は広い。


 青い空の下に、人工芝の着地斜面がまっすぐ伸びている。


 恵はスタートゲートへ腰を下ろした。


 板をレールへ合わせる。


 指先へ力を入れすぎない。


 肩を落とす。


 重心を前へ。


 無線から光希の声が聞こえた。


『一本目。助走姿勢だけ意識。踏み切りは七割』


「了解」


『右肩、上げない』


「分かってる」


『返事に少し怒りがある』


「集中してるの」


『では、どうぞ』


 合図を受け、恵はゲートから滑り出した。


 助走路を一気に加速する。


 風がヘルメットの横を切る。


 姿勢を低く保つ。


 膝の角度。


 腰の位置。


 胸の向き。


 視線は前。


 踏み切り地点が近づく。


 早く立たない。


 最後まで待つ。


 そして――。


 板へ力を伝える。


 体が空へ放たれた。


 大きく飛距離を伸ばすジャンプではない。


 それでも、空中では板を左右へ開き、体を前へ運ぶ。


 右へ流れない。


 肩を水平に。


 風を受け止める。


 着地斜面が近づく。


 脚を出す。


 膝を柔らかく使い、静かに着地する。


 テレマークは浅い。


 だが、安定していた。


 恵はブレーキングゾーンまで滑り、停止した。


 無線から光希の声。


『助走は良かった。踏み切り、少し遅れた』


「七割って言われたから」


『力じゃなくてタイミング』


「分かってる」


『右肩は上がってなかった』


「そこは褒めて」


『褒めてるよ』


 恵はゴーグルを上げ、ジャンプ台を振り返った。


 一本目としては悪くない。


 だが、踏み切りの瞬間にほんのわずかな迷いがあった。


 体幹トレーニングと走り込みで疲労がある分、普段より反応が遅れている。


 二本目。


 今度は助走から踏み切りまでを一つの流れとして意識する。


 考えすぎない。


 動作を細かく区切らず、体が覚えているリズムを信じる。


 スタート。


 加速。


 踏み切り。


 空中。


 一本目より高く、遠くへ出た。


 空中姿勢も安定している。


 しかし、着地へ入る直前、左から小さな風を受けた。


 板がわずかに揺れる。


 恵は上半身で修正しようとせず、脚の開きを保った。


 着地。


 少し右脚が先に接地した。


 それでも大きく崩れず、滑り切る。


『今の着地、右が先』


「分かった」


『風だけじゃない。空中で左脚が少し遅れた』


「映像見る」


 恵は下りてきた映像を確認した。


 光希の指摘どおりだった。


 風を受けた瞬間、左脚が少し内側へ入っている。


「午前の右脚の不安定さと関係ある?」


「可能性はある。でも、疲労もある」


「もう一本いける」


「今日はあと二本の予定」


「三本にしたい」


「予定どおり二本」


「感覚つかめそうなのに」


「だから二本でつかむ」


 恵は不満そうに唇を結んだ。


 だが、今度は反論しなかった。


 三本目。


 恵は踏み切りを少しだけ早め、空中で両脚の圧をそろえることを意識した。


 飛距離は伸びた。


 着地も安定した。


 光希からすぐに声が入る。


『今のいい』


「やっと素直に褒めた」


『でも、踏み切りで上体が少し起きた』


「やっぱり続きあるんだ」


『映像で確認』


 四本目。


 この日の最後。


 恵はスタート地点で深く息を吸った。


 体は疲れている。


 脚には朝からの負荷が残っている。


 それでも、集中力は落とさない。


 空を見上げる。


 雲が少し増えていた。


 夕方の風が、山からゆっくり下りてくる。


 無線から光希の声。


『最後。飛距離はいらない。着地まで丁寧に』


「了解」


『終わったら、今日は終了』


「分かってる」


『本当に?』


「本当に」


 恵は笑い、ゴーグルを下ろした。


 スタート。


 助走姿勢は安定していた。


 踏み切りも合った。


 空中へ出た瞬間、板がきれいに風を受ける。


 体が前へ運ばれる。


 距離が伸びる。


 恵は余計な修正をせず、そのまま着地へ入った。


 両脚を前後にずらす。


 膝を柔らかく。


 体幹を締める。


 着地。


 板が人工芝を捉えた。


 少し衝撃はあったが、軸はぶれない。


 そのまま安定して滑り切った。


 恵は停止すると、両手を腰へ当てた。


 最後の一本は、手応えがあった。


 無線が入る。


『今日一番』


「よし」


『踏み切りも、空中も、着地もまとまってた』


「光希に三つも褒められた」


『今日はもう終わりだから』


「どういう意味?」


『機嫌よく帰ってもらうため』


「やっぱり裏がある」


 二人の笑い声が、夕方のジャンプ台へ小さく響いた。


競技と結婚の間で


 練習を終え、カフェ雪へ戻ったのは午後七時近くだった。


 雪は夕食の準備をしながら、二人の顔を見るなり言った。


「二人とも、ずいぶん疲れた顔してるね」


「今日は朝から走って、体幹やって、坂走って、最後ジャンプ」


 恵が椅子へ座りながら答える。


「結婚式の前に倒れないでよ」


「倒れないよ」


「めぐは昔から、倒れる直前まで大丈夫って言うから信用ならんのさ」


 雪はそう言いながら、温かいスープを二人の前へ置いた。


「今日は打ち合わせ、入ってなかったよね?」


 光希が確認する。


「衣装の最終確認が電話で少しだけ」


「少しだけって、どれくらい?」


「三十分くらい」


「今日はやめた方がいい」


「でも、日程が」


「明日にできるか聞こう」


 恵は少し迷った。


 競技の練習は削りたくない。


 だが、結婚式の準備も先延ばしにはできない。


 その両方を完璧にこなそうとして、少しずつ余裕が失われている。


 雪が向かいへ座った。


「めぐ」


「何?」


「全部、自分でやらんでいいんだよ」


「でも、私たちの結婚式だよ」


「だからって、二人だけで準備するもんでもないべさ」


「お母さんにも手伝ってもらってる」


「もっと使いなさい」


 雪は腕を組んだ。


「招待客への連絡は、お母さんができる。料理のことも、店の飾りも、町の人たちが手伝うって言ってる」


「でも迷惑かけるし」


「迷惑かどうかは、頼まれた方が決めるの」


 恵は黙った。


 雪の言葉は、父の手紙と似ていた。


 一人で全部背負わなくていい。


 誰かに頼ることは、弱さではない。


 光希がスープを飲みながら言った。


「衣装の電話、俺が日程変更できるか聞くよ」


「でも光希も疲れてるでしょ」


「電話くらいできる」


「私も話した方が」


「明日、一緒に話せばいい」


 雪がすぐに続ける。


「今日は食べて、風呂入って、寝なさい」


「子どもみたい」


「疲れてる時は、みんな子どもになるの」


「お母さんの理論?」


「人生経験です」


 恵は思わず笑った。


 張りつめていたものが、少しだけ緩む。


「分かった。今日はもうやめる」


「よろしい」


 雪は満足そうにうなずいた。


 夕食後。


 光希は衣装担当へ連絡し、翌日の午後へ打ち合わせを変更してもらった。


 恵はその間、ストレッチをしていた。


 右のふくらはぎをゆっくり伸ばす。


 午前中より張りは強くない。


 だが、完全に軽くなったわけでもない。


 光希が電話を終え、恵の隣へ座った。


「変更できたよ」


「ありがとう」


「明日は午前だけ練習。午後は打ち合わせ」


「走り込みは?」


「なし」


「軽くなら」


「なし」


「十分だけ」


「散歩なら」


「それ練習じゃない」


「休養日だから」


 恵は少し不満そうな顔をした。


 光希はその表情を見て笑う。


「めぐ」


「何?」


「秋まで飛び続けたいんでしょ」


「うん」


「だったら、明日一日を飛びすぎない」


 恵はしばらく黙った。


 そして、小さくうなずいた。


「分かった」


 窓の外は、まだ完全には暗くなっていなかった。


 北海道の夏の夜は短い。


 山の向こうに残った光が、空を薄い紫色に染めている。


 恵はその空を見つめた。


 結婚する自分。


 選手として飛び続ける自分。


 母の娘である自分。


 層一の娘である自分。


 どれか一つだけが本当の自分なのではない。


 すべてが、自分だった。


「光希」


「うん?」


「夏の大会、勝ちたい」


「うん」


「結婚式も、ちゃんと笑って迎えたい」


「うん」


「どっちも諦めたくない」


 光希は少し考えてから答えた。


「じゃあ、どっちも一人で抱えないこと」


「それ、今日何回目?」


「何回でも言う」


「しつこい」


「大事だから」


 恵は隣に座る光希の肩へ、そっと頭を預けた。


「じゃあ、支えてね」


「支える」


「光希が大変な時は、私も支える」


「頼みます」


「二人で幸せになるんだもんね」


「そういうこと」


 窓の外で、風が木々を揺らした。


 遠くの山には、夏の夕暮れが静かに下りていく。


 秋の結婚式まで、あと数か月。


 その前に、二人には越えなければならない夏がある。


 競技者として。


 夫婦になる二人として。


 立ち止まることも、休むことも、助けを求めることも覚えながら。


 恵は、秋まで飛び続ける。


 空を飛ぶ自分を、決して置き去りにしないために。


 そして――。


 この日の右脚のわずかな不安定さが、数週間後、思いもよらない形で現れることを。


 この時の二人は、まだ知らなかった。

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