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恵の物語  作者: リンダ


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二人で幸せになる

 第76話 二人で幸せになる


 父から届いた手紙を読んだ夜。


 カフェ雪の店内には、いつもより深い静けさが残っていた。


 閉店後の照明は半分だけ落とされ、カウンターの上には、洗い終えたカップが伏せて並べられている。


 窓の外には、上川の夜が広がっていた。


 春を迎えたとはいえ、夜の空気にはまだ冬の名残がある。


 道路脇には、日中に少しずつ小さくなった雪の塊が残り、街灯の光を受けて白く浮かんでいた。


 恵は、店の窓際の席に一人で座っていた。


 テーブルの上には、父・層一から届いた手紙がある。


 もう何度読んだか分からない。


 文字の一つひとつ。


 紙に残る筆圧。


 震えた線。


 ところどころ途切れそうになっている文字。


 そこには、死を前にした人の恐れよりも、これから生きていく娘への思いがあふれていた。


 恵は、便箋の一節に指先で触れた。


『何かができるから、大切なのではありません。


 勝ったから、愛されるのではありません。


 恵が恵であること。


 それだけで、お父さんとお母さんにとっては、何より大切です』


 オリンピックで金メダルを取った。


 二大会連続で三冠を達成した。


 世界中から称賛された。


 大きな大会へ出るたびに、期待されるようになった。


 勝つことを求められた。


 記録を伸ばすことを求められた。


 金メダリストとして恥ずかしくない言動を求められた。


 恵自身も、いつしか「勝たなければならない」と思うようになっていた。


 父のいない家庭で育ち、母に苦労をかけてきた。


 だからこそ、自分が結果を出さなければならない。


 母を喜ばせなければならない。


 支えてくれた人たちへ恩返しをしなければならない。


 そう思い続けてきた。


 だが、父の手紙には書かれていた。


 何もできなくてもよかったのだと。


 勝てなくても、世界一になれなくても。


 自分は、生まれたその瞬間から愛されていたのだと。


 恵は、手紙の上へ視線を落としたまま、静かにつぶやいた。


「私、お父さんに……こんなに愛されてたんだね」


 記憶はない。


 声も知らない。


 抱かれた温もりも覚えていない。


 けれど。


 手紙を通して、父の思いを肌で感じた。


 自分が歩く姿を見たかった。


 初めて笑う顔を見たかった。


 学校へ送り出したかった。


 転んだ時には、抱き起こしたかった。


 叱ることも、褒めることも、泣いた時にそばへ座ることも。


 父は、そのすべてを望んでいた。


 それができないことを、自分の命が短いこと以上に悔しがっていた。


「お父さん」


 恵は便箋を両手で持ち、胸元へ引き寄せた。


「会いたかったよ」


 声が震えた。


「一度でいいから、お父さんに抱っこしてもらったこと、覚えていたかった」


 涙が一滴、テーブルの上へ落ちた。


「ジャンプ台から飛んだ時、お父さんがどんな顔するか、見てみたかった」


 初めて飛んだ日。


 雪は、着地した恵へ駆け寄り、抱きしめてくれた。


 怖かった。


 足が震えた。


 けれど、空へ出た一瞬だけは、何もかもが静かになった。


 その瞬間を、父にも見てもらいたかった。


「金メダルも、見せたかった」


 恵は涙を拭った。


「光希のことも、紹介したかった」


 父は、光希に何を聞いただろう。


 どんな顔で向かい合っただろう。


 最初は少し厳しい顔をしたかもしれない。


 だが、きっとすぐに笑った。


 雪の話によれば、層一は優しく、少し照れ屋で、人の喜びを自分のことのように受け止める人だった。


 光希の真面目さも、少し不器用なところも、すぐに分かったはずだ。


 そして、恵がいないところで二人だけの話をしたかもしれない。


「めぐのこと、頼むな」


「はい」


 そんなやり取りを、恵は何度も想像した。


 しかし父は、手紙の中で「幸せにしてください」とは書かなかった。


 二人で幸せになってください。


 どちらか一人が支えるのではなく、支えたり支えられたりしながら歩いてください。


 それが、父の願いだった。


 恵は、便箋へ向かってゆっくりと息を吐いた。


「お父さん」


「私、幸せになるから」


 誰かに幸せにしてもらうのではない。


 光希だけに責任を負わせるのでもない。


 二人で悩み。


 二人で笑い。


 二人で支え合う。


 そのために、自分も歩く。


「私、ちゃんと幸せになるよ」


 恵は、今度ははっきりと口にした。


「だから、見ててね」


 その時。


 カウンターの奥から、食器の触れ合う小さな音がした。


 恵が振り返る。


 雪が、洗い終えた布巾を畳みながら立っていた。


「まだ起きてたのかい」


 恵が聞く。


 雪は少し笑った。


「それ、こっちのせりふだわ」


「眠れなくて」


「手紙、また読んでたんだね」


「うん」


 雪は、恵の向かい側へ腰を下ろした。


 テーブルの上に置かれた便箋を見る。


「お父さん、ずいぶん先のことまで考えてたんだねぇ」


「うん」


「自分がどうなるか分かってたからこそ、書いておきたかったんだべね」


 恵はうつむいた。


「私さ」


「うん」


「お父さんに愛されてたんだって、初めてちゃんと分かった気がする」


 雪は目を細めた。


「今まで分からなかったのかい」


「愛されてたってことは、分かってたよ」


「お母さんから何度も聞いてたし」


「写真も見てたし」


「でもね」


 恵は手紙を見た。


「何ていうか……知ってるのと、感じるのって違うんだわ」


 雪は静かにうなずいた。


「そうだね」


「お父さんが私のこと、どんなふうに考えてたのか」


「何を見たかったのか」


「何ができなくて悔しかったのか」


「手紙読んで、初めて肌で分かった気がする」


 雪の目に、少し涙が浮かんだ。


「お父さん、あんたを抱いた時ね」


「うん」


「ほんとに、ずっと見てたんだわ」


「赤ん坊なんて、寝てるか泣いてるかくらいしかないのにさ」


 恵は少し笑った。


「それでも?」


「それでも」


 雪も笑った。


「指動かしたとか、目開けたとか、口もぐもぐしたとか、そのたびに呼ぶんだよ」


『雪、見て。今、指動かした』


『赤ん坊だもの、指くらい動かすべさ』


『いや、今のは俺に合図したんだ』


『何の合図さ』


『お父さん、よろしくって』


 層一は、そんなふうに言っていたという。


 雪は当時のことを思い出したのか、涙の中で笑った。


「お父さん、相当親ばかだったんだね」


「一週間であれだもの。長く生きてたら大変だったよ」


「私、甘やかされてたかな」


「どうだべねぇ」


 雪は少し考える。


「お母さんが叱って、お父さんが後ろでこっそりお菓子渡してたかもしれんね」


「それ、絶対やりそう」


「したら、お母さんとお父さんで喧嘩だわ」


 二人の間に、穏やかな笑いが生まれた。


 失った人の話をしながら笑えるようになるまで、雪には長い年月が必要だった。


 恵もまた、その笑顔の奥にあるものを、今は分かるようになっていた。


「お母さん」


「何さ」


「私、幸せになるよ」


 雪は、驚いたように恵を見た。


「うん」


「お父さんが願ってくれた分まで、っていう言い方はしたくないんだ」


「どうして?」


「それだと、また自分に責任背負わせるみたいだから」


 雪は黙って聞いた。


「お父さんは、私に頑張れって言ってるんじゃない」


「ただ、笑って暮らしてくれって言ってるんだと思う」


「だから、私も無理して立派な妻になろうとか、全部完璧にしようとか、そういうことじゃなくて」


 恵は少し考え、言葉を続けた。


「光希と、ちゃんと二人で幸せになる」


「そう決めたんだわ」


 雪は、ゆっくりとうなずいた。


「それでいいんでないかい」


「うん」


「お父さんも、それが一番うれしいと思うよ」


 恵は手紙を丁寧に畳み、封筒へ戻した。


「結婚式の日、読んでほしい」


「お母さんが?」


「うん」


「私が読むと、たぶん最初の三行で泣いて読めなくなる」


「お母さんも似たようなもんだと思うけどね」


「でも、お父さんの声を一番知ってるのは、お母さんだから」


 雪は封筒を見つめた。


「みんなの前で読んでいいのかい」


「うん」


「お父さんが私に残してくれた手紙だけど、家族にも聞いてほしい」


「光希の家族にも」


「お世話になった人たちにも」


「お父さんが、どんな思いで私を見てたか知ってほしい」


 雪はしばらく考えた。


 やがて、静かに答えた。


「分かった」


「読むよ」


「ありがとう」


 恵は、母の手を握った。


「お母さん」


「何?」


「式の日、泣きすぎないでね」


「それ、あんたに言われたくないわ」


「私は泣くよ」


「今から宣言するんでない」


 カフェ雪に、二人の笑い声が広がった。


 壁の写真の中で、層一も少し笑っているように見えた。



 招待客の名簿


 数日後。


 カフェ雪の店内には、大きな紙が広げられていた。


 結婚式の招待客を決めるための一覧表だった。


 恵。


 光希。


 雪。


 光希の両親。


 そして、結婚式のアドバイザーとして紹介された三浦美里が、窓際のテーブルを囲んでいた。


 三浦美里は旭川市内の結婚式場で長く働き、現在は小規模な結婚式や家族婚の相談を専門にしている女性だった。


 年齢は四十代半ば。


 派手さはないが、相手の話を急かさずに聞き、一つひとつ整理してくれる人物だった。


「最初に確認したいんですけれど」


 美里は手帳を開いた。


「今回の式は、カフェ雪の店内で行う家族中心の挙式、ということで間違いないですか」


 恵がうなずく。


「はい」


「人数は、どのくらいを考えていますか」


 恵と光希は顔を見合わせた。


「最初は二十人くらいと思ってたんですけど」


「数え始めたら、増えてきたんだわ」


 美里が少し笑う。


「よくあります」


「呼びたい人を考えると、増えますよね」


 雪が紙を指さした。


「親戚だけでも、それなりになるんだよ」


「恵の祖父母」


「層一の家族」


「私の実家の方」


「光希くんのご家族もいるし」


 光希の母が、手元のメモを見る。


「うちも、親戚全部呼ぶとなると、かなり増えるね」


 光希の父も腕を組んだ。


「でも、店の広さ考えると、全員は難しいべ」


 カフェ雪は、普段であれば二十数人が座れる。


 テーブルを動かし、通路と祭壇の場所を確保すれば、着席できる人数はさらに少なくなる。


 美里が店内を見回した。


「挙式は店内で行って、そのあと食事会を二部制にする方法もあります」


「二部制?」


 恵が聞き返す。


「はい。挙式には親族と特に近い方だけ参加していただく」


「その後、昼の食事会は親族中心」


「夕方からは、恩師や競技関係者、友人を招いた会にする方法です」


 光希がうなずく。


「それなら、一度に集まりすぎないですね」


「店の負担も減ります」


 雪は少し考えた。


「でも、みんな一緒に祝ってほしい気持ちもあるんだわ」


 美里は否定せずに答えた。


「そうですよね」


「では、挙式の時だけ、店の外にも椅子を並べる方法はどうでしょう」


「天候が良ければ、窓を開けて、店内とテラス側を一つの空間として使えます」


「雨や寒さに備えて、近くの集会所も控室として借りる」


 恵が目を輝かせた。


「それ、いいかも」


「九月十五日なら、日中はまだ大丈夫だべか」


 雪が言うと、美里は慎重に答えた。


「道北ですから、天候は最後まで分かりません」


「晴れた場合と雨の場合、両方の案を作っておきましょう」


「外でできれば、カフェ雪と外の景色も含めて式場になります」


 光希が、窓の外を見る。


 店の向こうには、上川らしい山並みが見える。


 遠くには、駅へ向かう列車の音がかすかに聞こえた。


「いいな」


「うん」


 恵も同じ景色を見た。


「私、ここで育ったんだって、みんなに見てもらえるもんね」


 美里は、招待客の分類を書き始めた。


 親族。


 恩師。


 競技関係者。


 友人。


 地域の人。


「まず、絶対に来てほしい方から決めていきましょう」


「順番をつけるってことですか」


「優先順位というより、式の中でどの方にどんな役割をお願いしたいかを考えるんです」


 恵は少し戸惑った。


「役割?」


「例えば、恩師の方に立会人をお願いする」


「幼い頃から知る方に、思い出を話してもらう」


「競技仲間には、映像やメッセージをお願いする」


「招待するだけではなく、その人との関係を式の中へ入れると、お二人らしい式になります」


 恵と光希は、名簿を見つめた。


 まず、ジュニア時代から恵を指導してくれた恩師。


 初めての優勝を支えたコーチ。


 世界大会へ送り出してくれた学校の先生。


 光希をノルディック複合へ導いた指導者。


 怪我をした時に支えてくれたトレーナー。


 共にオリンピックを戦った仲間。


 スポンサー関係者。


 地元の人たち。


 一人ひとりの顔が浮かぶ。


「この人も呼びたい」


「したら、この先生もだべ」


「待って、増えすぎてない?」


「恵が言ったんだぞ」


「光希も追加してるしょ」


「このコーチは絶対だべ」


「私の方も絶対の人いるんだって」


 美里が笑いながら言う。


「一度、全部書いてしまいましょう」


「減らすのはそのあとです」


 大きな紙は、次第に名前で埋まっていった。


 雪は、その様子を眺めていた。


 幼い頃。


 恵を育てることだけで精いっぱいだった。


 この子が将来、どんな人と出会うのか。


 誰に支えてもらうのか。


 考える余裕などなかった。


 しかし今。


 一枚の紙を埋め尽くすほど、恵には大切な人がいた。


 雪は胸の中でつぶやいた。


「そうちゃん」


「めぐ、一人で大きくなったんでないよ」


「こんなにたくさんの人に支えてもらったんだよ」


 両親への手紙


 招待客の検討と並行して、披露の場で読む手紙についても話し合いが始まった。


 カフェ雪の奥にある小さな事務室。


 恵と光希は、美里から渡された便箋を前にして座っていた。


「両親への手紙って、何を書けばいいんでしょう」


 恵が尋ねる。


 美里は少し考えた。


「上手に書こうとしないことです」


「感動させようとしなくていい」


「今まで言えなかったこと、今だから言えることを書いてください」


 光希が便箋を見ながら言う。


「俺、父さんと母さんに改まって手紙なんて書いたことないです」


「多くの方がそうですよ」


「だからこそ、式の日に伝える意味があります」


 恵はペンを持ったまま、考え込んだ。


 両親への手紙。


 恵の場合、父はもういない。


 だが、父から自分へ届いた手紙がある。


 そして、自分を一人で育ててくれた母がいる。


「私、お父さんにも書きたいです」


 美里がうなずいた。


「もちろんです」


「お母さんへの手紙と、お父さんへの手紙を分けてもいいですし、一つの手紙の中で二人へ語りかけてもいい」


 恵は少し迷った。


「分けたいです」


「どうして?」


「お母さんに伝えたいことと、お父さんに伝えたいことは、違うから」


「でも、最後は二人に向けて書きたい」


「私を生んでくれて、育ててくれてありがとうって」


 美里は穏やかに笑った。


「それが一番自然ですね」


 恵は便箋へ向かい、最初の一行を書いた。


『お母さんへ』


 そこから先が、なかなか続かなかった。


 伝えたいことは多い。


 多すぎる。


 朝早く起きて作ってくれた弁当。


 遠征の日、まだ暗い上川駅まで送ってくれたこと。


 初めてジャンプ台へ立った時、誰より心配しながら笑ってくれたこと。


 負けた日のスープ。


 怪我をした夜。


 海外遠征へ行く前の握手。


 オリンピックの表彰台で見た、泣き笑いの顔。


 どれから書けばいいのか分からなかった。


「書けない」


 恵が小さく言った。


 光希が隣を見る。


「何も出てこないのかい」


「逆」


「ありすぎて書けないんだわ」


 美里は急かさなかった。


「では、最初に一番古い記憶を書いてみてください」


「お母さまとのことで、最初に覚えている場面は何ですか」


 恵は目を閉じた。


 幼い頃。


 冬の朝。


 窓に霜がついていた。


 雪がストーブの前で、自分の靴下を温めていた。


『冷たいまま履いたら、足かじかむべさ』


 そう言いながら、両手で靴下を包んでいた。


「靴下」


「靴下?」


 光希が聞く。


「うん」


 恵は笑った。


「お母さん、冬の朝にストーブの前で靴下温めてくれてた」


「そんなこと?」


 雪の声が事務室の入口から聞こえた。


 恵が振り返る。


「聞いてたの?」


「コーヒー持ってきたら聞こえたんだわ」


 雪は二人の前にカップを置いた。


「そんな小さいこと、覚えてたのかい」


「覚えてるよ」


「足冷たいって泣いたら、お母さんが温めてくれた」


「したって、あんた朝から大騒ぎするんだもの」


「冷たい、冷たいって」


「子どもだったからね」


「今も似たようなもんでないの」


「どこがさ」


 光希が小さく笑う。


「遠征先でも、靴下冷たいって言ってるぞ」


「言わなくていいしょ」


 雪も笑った。


 恵は便箋へ向き直った。


『私が一番最初に覚えているお母さんは、冬の朝、ストーブの前で私の靴下を温めてくれている姿です』


 書き始めると、少しずつ言葉が続いた。


『お母さんは、いつも私が寒くないようにしてくれました。


 足が冷たくないように。


 お腹が空かないように。


 寂しくないように。


 怖くないように。


 私は大きくなって、ジャンプ台から空へ飛ぶようになりました。


 でも、その前に、お母さんがずっと私の足元を温めてくれていたんだと思います』


 書きながら、恵の目に涙が浮かんだ。


 雪は何も言わず、そっと事務室を出ていった。


 その背中も、少し震えていた。


 次に、父への手紙を書く。


『お父さんへ』


 その一行だけで、恵の手が止まった。


 何を書けばいいのか。


 会った記憶がない。


 一緒に過ごした場面もない。


 だが、今は伝えたいことがある。


『お父さん。


 手紙を読みました。


 私が歩く姿を見たかったと書いてありました。


 学校へ行く朝に、行ってらっしゃいと言いたかったと書いてありました。


 悲しい時には、隣に座ってやりたかったと書いてありました。


 私は、その全部を読んで、初めてお父さんに抱きしめてもらったような気がしました』


 ペン先が止まった。


 涙が便箋へ落ちそうになり、恵は慌てて顔を上げた。


「大丈夫かい」


 光希が聞く。


「うん」


「無理して書かなくてもいいぞ」


「無理じゃない」


 恵は涙を拭った。


「書きたいんだわ」


 そして続けた。


『私は、お父さんに会うことができませんでした。


 お父さんの声も覚えていません。


 でも、私はお父さんに愛されていたと、今ははっきり分かります。


 だから私は、幸せになります。


 お父さんが安心できるようにではなく。


 お父さんが願ってくれた通り、私自身が笑って生きるために。


 光希と二人で、幸せになります』


 最後に。


『お父さん、お母さん。


 私をこの世に生んでくれて、ありがとう。


 私を愛してくれて、ありがとう。


 私は、二人の娘に生まれて幸せです』


 恵はペンを置いた。


 光希は隣で、何も言わずに便箋を見ていた。


「どう?」


 恵が聞く。


「いい手紙だと思う」


「ほんと?」


「ああ」


「お義父さんにも、お母さんにも、ちゃんと届くべ」


 恵は便箋を胸の前で抱いた。


「式の日、最後まで読めるかな」


「途中で泣いたら、待てばいい」


「光希も泣くしょ」


「俺は泣かん」


「プロポーズであれだけ緊張してた人が?」


「あれとこれは別だべ」


「絶対泣くね」


「泣かんって」


 事務室の外で、雪が小さく笑っていた。



 恩師への手紙


 両親への手紙とは別に、恵は恩師にも手紙を書くことにした。


 ジュニア時代から指導してくれた北見コーチ。


 恵が初めてジャンプ台へ立った時、恐怖で動けなくなった自分を、無理に飛ばせなかった人。


『今日は飛ばなくていい』


『ジャンプ台に立てたことが、今日の一本だ』


 そう言ってくれた。


 勝つことよりも、続けること。


 恐怖を否定するのではなく、その中で一歩進むこと。


 その姿勢は、恵の競技人生の土台になった。


 中学校時代の担任。


 遠征で授業を休むことが増えた恵のため、課題をまとめ、放課後に時間を作ってくれた。


 高校時代の監督。


 成績が落ちた時、結果だけで判断せず、身体と心の疲労を見抜いて休ませてくれた。


 医療スタッフ。


 怪我で飛べなくなった時、復帰を急ぐ恵へ、焦らなくていいと繰り返し伝えてくれた。


 手紙を書き始めると、恵の中に、競技人生の様々な場面がよみがえった。


『北見先生へ。


 初めてジャンプ台に立った日、私は怖くて一歩も動けませんでした。


 先生は、飛びなさいとは言いませんでした。


 今日は立てただけで十分だと言ってくれました。


 あの日、無理に飛ばされていたら、私はスキージャンプを続けていなかったかもしれません』


 恵は、言葉を選びながら書いた。


『先生は、私に空の飛び方だけでなく、怖い時にどう立つかを教えてくれました』


 書き終えると、胸の中に温かなものが広がった。


 結婚式は、二人の門出を祝うだけの日ではない。


 ここまで歩いてこられたことを、支えてくれた人へ返す日でもある。


「感謝ってさ」


 恵が光希へ言った。


「うん」


「頭ではずっと分かってたんだけど、手紙にすると、改めて分かるんだね」


「何が?」


「私、自分一人でここまで来たんでないってこと」


 光希はうなずいた。


「俺もそうだ」


「競技って、個人種目に見えるけど」


「実際は、誰かが板を整えて、誰かが身体を見て、誰かが送り出してくれる」


「家族も、先生も、仲間も」


「一人で立ってるように見えて、全然一人でないんだわ」


 恵は笑った。


「結婚も同じかもしれんね」


「二人だけで生きていくように見えて、周りに支えてもらう」


「だからこそ、二人で支え合わないとな」


「うん」


 自分たちだけの誓い


 結婚式のアドバイザー・美里との三度目の打ち合わせ。


 テーマは、誓いの言葉だった。


「一般的な形を使うこともできます」


 美里は、いくつかの例文をテーブルへ並べた。


『健やかなる時も、病める時も』


『富める時も、貧しい時も』


『生涯愛し、支えることを誓います』


 恵は文章を読みながら、少し考え込んだ。


「悪くはないんです」


「でも、何か違う?」


「はい」


 光希も例文を見つめた。


「支えるって言葉が、片方から片方に向いてる感じがするんです」


「なるほど」


「俺が恵を守りますとか、恵を幸せにしますとか」


 光希は一度言葉を止めた。


「もちろん、守りたいと思ってます」


「でも、それだけじゃない」


「俺も恵に助けられてるし、支えてもらってる」


 恵が続けた。


「お父さんの手紙に書いてあったんです」


「幸せにしてください、とは言いませんって」


「二人で幸せになってくださいって」


 美里は静かにうなずいた。


「それが、お二人の誓いの中心なんですね」


「はい」


「したら、自分たちで書きましょう」


 雪が横から言った。


「型どおりでなくていいんでしょ」


 美里が笑う。


「もちろんです」


「むしろ、その方がお二人らしいと思います」


 恵と光希は、一枚の紙を前にした。


「最初、どうする?」


「私たちは、からでいいんでない?」


「何を誓う?」


「ずっと仲良く、とか?」


「小学生みたいだべ」


「したって、大事でしょ」


「もっと具体的にしよう」


 二人は何度も書いては消した。


『私たちは、互いを大切にすることを誓います』


「普通だね」


「普通だな」


『どんな時も、二人で支え合うことを誓います』


「悪くない」


「でも、もう一つ欲しい」


『勝った時も、負けた時も』


 恵が書いた。


「それ、いいな」


「私たちらしいしょ」


 光希が続きを書く。


『飛べる時も、飛べない時も』


 恵が笑う。


「それ、私寄りすぎでない?」


「したら、走れる時も、走れない時も」


「競技種目の説明みたいになってる」


「難しいな」


 美里と雪が、少し離れたところで笑いをこらえていた。


 二人はさらに考えた。


 競技生活では、勝つ日も負ける日もある。


 健康な時も、怪我をする時もある。


 遠征が続き、すれ違うこともある。


 引退後、どんな生活になるかも分からない。


 子どもを授かるかもしれない。


 授からないかもしれない。


 新しい夢を見つけるかもしれない。


 迷うこともある。


 そのすべてを含めて、二人で歩く。


 やがて、恵がゆっくりと書いた。


『私たちは、互いを一方的に守るのではなく、支えたり、支えられたりしながら歩いていくことを誓います』


 光希が、その下へ続ける。


『勝った時も、負けた時も。


 飛べる時も、立ち止まる時も。


 うれしい時も、苦しい時も。


 互いの言葉を聞き、黙ったまま離れず、何度でも話し合うことを誓います』


 恵は、父の手紙を思い出した。


「ありがとうも入れたい」


「うん」


『謝ることを忘れず。


 ありがとうを言葉にすることを忘れず』


 そして最後に。


 二人は同時に、その言葉へ行き着いた。


『どちらかがどちらかを幸せにするのではなく。


 二人で幸せになることを誓います』


 書き終えたあと。


 しばらく誰も声を出さなかった。


 雪は紙を見つめ、目を潤ませていた。


「いい言葉だね」


 美里も静かに言った。


「お二人にしかできない誓いです」


 恵は光希を見た。


「これでいい?」


「ああ」


「本当に守れる?」


「恵こそ」


「私は守るよ」


「俺も守る」


「黙って離れない?」


「離れない」


「喧嘩しても?」


「ちゃんと話す」


「ありがとうも言う?」


「毎日言う」


「毎日は、ちょっと嘘っぽい」


「そこは信じろよ」


 雪が笑った。


「式の前から喧嘩してどうすんのさ」


 二人も笑った。


 誓いの言葉が完成した。


 新居の場所


 結婚式の準備と並行して、新居の計画も進んでいた。


 当初、旭川市内の大きな一軒家が候補に挙がっていた。


 空港への移動。


 トレーニング施設への距離。


 医療機関。


 スポンサー対応。


 競技生活を考えるなら、旭川市内は便利だった。


 だが、二人は話し合いを重ねた。


 恵の実家。


 光希の実家。


 カフェ雪。


 将来、家族が増えた時。


 競技を引退した後。


 どこで暮らしたいのか。


 ある日の午後。


 二人は上川駅近くの土地を見に来ていた。


 まだ雪解けの水分を含んだ地面。


 少し離れたところには住宅が並び、その向こうに山が見える。


 駅からも近い。


 カフェ雪まで歩いて行ける。


 双方の実家にも車ですぐだった。


 不動産担当者が資料を広げる。


「こちらですと、敷地に少し余裕があります」


「車二台分のスペースと、用具置き場」


「一階にトレーニングとリハビリ用の部屋を作ることもできます」


 光希が土地の奥行きを確認する。


「ローラースキーとか、バランストレーニングの器具も置けますか」


「設計次第ですが、十分可能です」


 恵は、駅の方向を見た。


 列車が到着したのか、遠くからブレーキ音が聞こえる。


「ここ、いいね」


 光希が隣へ並ぶ。


「旭川より不便になるぞ」


「うん」


「空港まで時間もかかる」


「分かってる」


「それでも?」


 恵はカフェ雪のある方向を見た。


「お母さんの近くにいたい」


「これまでずっと支えてもらったからってだけじゃないよ」


「これからも、普通に会いたいんだわ」


「何かあった時だけじゃなくて」


「コーヒー飲みに行ったり」


「晩ごはん持ってきてもらったり」


「こっちから持ってったり」


 光希は少し笑った。


「晩ごはん、最初から頼る気かい」


「お母さんの煮物、食べたいしょ」


「それは食べたい」


「ほら」


 恵は笑ったあと、少し真面目な表情になった。


「光希の家にも近いし」


「どっちかの家だけ近いのは嫌なんだ」


「双方の家族と、無理なく行き来できるところがいい」


 光希は土地を見回した。


「俺も、ここがいいと思う」


「本当?」


「ああ」


「競技のためだけに家を決めたら、引退した後に何も残らん気がする」


「でもここなら、競技が終わっても暮らしていける」


「家族が増えても」


「年を取っても」


 恵は小さくうなずいた。


「ここにしようか」


「うん」


 二人は、新居を上川駅近くに建てることを決めた。


 家の図面


 数週間後。


 カフェ雪のテーブルには、新居の最初の図面が広げられていた。


 恵。


 光希。


 雪。


 双方の両親。


 設計士。


 全員が、図面を囲んでいる。


「玄関、広いね」


 雪が言う。


 設計士が説明する。


「スキー板や競技用具を持ったまま入れるように、土間を広くしています」


「こちらに用具専用の収納」


「乾燥設備も入れる予定です」


 光希がうなずく。


「これなら、板もウェアも置けるな」


 恵が別の場所を指さす。


「この部屋がトレーニング室?」


「はい」


「一階なので、将来的には別の用途にも変更できます」


「子どもができたら、遊び部屋にもできるってことですか」


「そうですね」


 その言葉に、双方の母親が一瞬だけ顔を見合わせた。


 恵が気づく。


「何、その顔」


 雪がすぐに目をそらす。


「何でもないよ」


「絶対何か考えたしょ」


「別に」


「孫のこと考えたべ」


 光希の母が笑ってしまった。


「したって、ちょっとくらい考えるべさ」


「まだ結婚式も終わってないんだよ」


 雪が言う。


「急かしてないって」


「元気ならそれでいいんだわ」


「でも、できれば……」


「お母さん」


「はいはい。言わん、言わん」


 設計士が笑いをこらえながら、次の説明へ移った。


「リビングは広めです」


「親族が集まれるように、ダイニングとつなげています」


 恵が目を輝かせる。


「ここ、いい」


「みんなでごはん食べられる」


 光希が図面を見る。


「大きいテーブル置けるな」


「お母さんたち来ても大丈夫だね」


 雪が笑う。


「毎週呼ばれたら困るよ」


「来る気満々でないの」


「近いんだから、たまには行くべさ」


「鍵勝手に開けないでね」


「そんなことするわけないしょ」


「合鍵渡したら危ないね」


「渡さん気かい」


 早くも親子の攻防が始まり、周囲に笑いが起きた。


 二階には、二人の寝室。


 それぞれの個室。


 遠征用荷物を置く部屋。


 将来の子ども部屋として使える空間。


 そして、小さなバルコニー。


「ここから山、見えるかな」


 恵が尋ねる。


「方角的には、見えると思います」


「ジャンプ台も?」


「直接は難しいかもしれませんが、山並みは見えます」


 光希が言う。


「朝起きて山見えるの、いいな」


「うん」


「雪の状態も分かる」


「結局、競技のこと考えてるしょ」


「恵もだべ」


 二人は笑った。


 家は、まだ紙の上にしかない。


 だが、そこにはすでに未来の生活が見えていた。


 遠征から帰ってきた夜。


 荷物を玄関に置く。


 トレーニング室で身体を整える。


 リビングで食事をする。


 雪が煮物を持ってくる。


 光希の両親も立ち寄る。


 誰かの誕生日。


 正月。


 クリスマス。


 競技を引退した後。


 もしかしたら、子どもの声が響く日も来るかもしれない。


 恵は図面の上へ手を置いた。


「ここが、私たちの家になるんだね」


 光希も隣に手を置く。


「ああ」


「ちゃんと帰ってくる場所にしよう」


「うん」


「どっちかが遠征でいなくても」


「帰ってきた時に、ほっとできる家」


「それがいい」


 雪は、その二人を静かに見つめていた。


 恵が生まれたあと。


 雪は、層一の実家の離れで暮らした。


 小さく、冬は寒く、風の音が壁を揺らした。


 それでも、そこが恵を育てた最初の家だった。


 今。


 その恵が、自分の家を建てようとしている。


 愛する人と。


 雪は胸の中で、層一へ語りかけた。


「そうちゃん」


「めぐ、家建てるんだって」


「上川駅の近くだよ」


「お互いの家族に近いところ選んだんだわ」


「やっぱり、あんたに似て優しい子だね」


 式の形


 準備は少しずつ、しかし確実に進んでいった。


 招待状のデザイン。


 席の配置。


 料理。


 花。


 音楽。


 写真。


 挙式当日の流れ。


 カフェ雪の店内は小さい。


 だからこそ、すべてを工夫する必要があった。


 料理は、豪華なコース料理ではなく、地元の食材を使った温かな家庭料理にすることになった。


 上川産の野菜。


 北海道産の魚。


 地元の肉料理。


 雪が長年カフェで出してきたスープ。


 恵が幼い頃から好きだった煮込み料理。


 デザートには、小さなウエディングケーキと、カフェ雪の定番焼き菓子。


「これ、結婚式っていうより、でっかい家族の食事会でない?」


 恵が言う。


 美里は笑った。


「それが、お二人の希望だったと思います」


「立派に見せるより、集まった人がゆっくり話せる式」


「はい」


 花は、白を中心にした。


 雪解けの季節を思わせる白。


 上川の春を思わせる淡い緑。


 そして、層一が好きだった小さな青い花も加える。


 雪が花の見本を見ながら言った。


「お父さん、青い花好きだったんだわ」


 恵が尋ねる。


「どうして?」


「病室の窓から見えた空に似てるって」


「そう言ってた」


 恵は、その青い花を指さした。


「絶対入れよう」


「うん」


 音楽は、二人の競技人生に関わる曲。


 恵が初優勝した時に会場で流れていた曲。


 光希が初めて国際大会で表彰台に上がった時の曲。


 そして、雪と層一の病院内の結婚式で流された、小さなオルゴールの曲。


「これも使うの?」


 雪が驚いた。


 恵はうなずいた。


「お母さんとお父さんの結婚式から、私たちの結婚式につなげたい」


「でも、悲しくならないかい」


「悲しいだけじゃないよ」


「お母さんとお父さんが結婚してくれたから、私が生まれたんだもの」


「始まりの曲だよ」


 雪は、しばらく何も言えなかった。


 やがて、目元を押さえながら笑った。


「したら、使おうか」


「うん」




 父の席


 式の席順を考える中で、恵が一つ提案した。


「お父さんの席、作りたい」


 美里が確認する。


「お写真を置く席ですか」


「はい」


「お母さんの隣に」


 雪が恵を見る。


「お母さんの隣?」


「夫婦でしょ」


「でも、お父さんは写真だよ」


「写真でも、席はあっていいべさ」


 恵は真剣だった。


「お母さん、一人で座るんでなくて、お父さんと一緒に座ってほしい」


「お父さんの写真置いて」


「前撮りのアルバムも置いて」


「青い花も飾って」


 雪は、視線を落とした。


「そうしたら、お母さん、ずっと泣いてるかもしれんよ」


「泣けばいいしょ」


「めぐ」


「私も泣くから」


 恵は笑った。


「光希も、たぶん泣くし」


「俺まで決めるな」


 光希が言う。


 だが、その声は少し詰まっていた。


 美里が静かに提案する。


「お父さまのお席に、手紙を置くのはいかがですか」


「層一さんから恵さんへ届いた手紙」


「そして、恵さんが書いた返事」


「二通を一緒に置いておく」


 恵はすぐにうなずいた。


「そうします」


 雪は、少しだけ天井を見上げた。


 涙をこらえるように。


「そうちゃん」


 心の中で呼ぶ。


「席、用意してもらえるって」


「あんたも、めぐの結婚式に出られるよ」


 それぞれの不安


 準備が進むほど、楽しみだけでなく、不安も増えていった。


 現役アスリート同士。


 挙式前にも、大会と合宿がある。


 体調管理。


 スポンサーへの説明。


 取材対応。


 結婚式の情報が広まりすぎれば、カフェ雪の周辺に人が集まる可能性もある。


 警備や近隣への配慮も必要だった。


 ある夜。


 恵と光希は、新居予定地近くの道を歩いていた。


 上川駅の灯りが見える。


 列車が出発し、遠ざかる音が夜の中へ消えていった。


「光希」


「うん」


「私たち、本当に結婚するんだね」


「今さらかい」


「今さらなんだけどさ」


 恵は笑ったあと、少し黙った。


「怖くない?」


「何が?」


「これから」


 光希は歩く速度を少し落とした。


「怖いよ」


 恵が驚く。


「怖いんだ」


「そりゃ怖いべ」


「競技も続く」


「家も建つ」


「結婚したら、今までとは違う責任も出る」


「ずっと順調とは限らん」


「怪我するかもしれんし」


「成績落ちるかもしれん」


「喧嘩もすると思う」


 恵は静かに聞いていた。


「でも」


 光希は続けた。


「怖いからやめようとは思わん」


「どうして?」


「一人で怖がるより、恵と一緒に怖がる方がいいから」


 恵は、少し笑った。


「何それ」


「変かい」


「変でない」


 恵は光希の手を握った。


「私も怖い」


「うん」


「でも、二人なら大丈夫って簡単に言うのも違う気がする」


「二人でも駄目な時はあると思う」


「ああ」


「だから、その時は周りに頼ろう」


「お母さんにも」


「光希の家族にも」


「先生たちにも」


「そうだな」


「二人で幸せになるって、二人だけで全部やるってことじゃないもんね」


「そうだと思う」


 父の手紙にも書かれていた。


 恵は一人ではない。


 母がいる。


 祖父母がいる。


 大切に思ってくれる人が、きっとたくさん現れる。


 その言葉の通り、恵の周りには多くの人がいた。


「私さ」


「うん」


「お父さんに幸せになるって約束した」


「ああ」


「だから、幸せにならなきゃって思うんでなくて」


「幸せになれるように、ちゃんと生きたい」


 光希は、握った手に少し力を込めた。


「俺も一緒に生きる」


「うん」


 二人は、新居が建つ予定の土地の前で立ち止まった。


 今はまだ、何もない。


 土と雪解け水。


 夜の風。


 遠くに見える駅の灯り。


 だが、ここに家が建つ。


 二人の帰る場所ができる。


「ここから始まるんだね」


「もう始まってるべ」


「そうかな」


「家決めた時から」


「いや、プロポーズした時からか」


「その前からでない?」


「いつからだ」


「分からんね」


 二人は笑った。


 大切なのは、始まりがいつかではない。


 これから、どう歩いていくかだった。


 雪の夜


 その夜。


 雪はカフェ雪の閉店後、層一の写真の前に座っていた。


 テーブルには、結婚式の予定表。


 招待客の名簿。


 花の見本。


 恵と光希が書いた誓いの言葉。


 そして、層一の手紙。


 雪は写真を見つめた。


「そうちゃん」


「めぐね、幸せになるって言ってたよ」


 写真の中の層一は、若いままだった。


 雪だけが年を重ねた。


 髪に少し白いものが混じり。


 目元にしわが増え。


 娘は大人になった。


「お父さんに愛されてたって、ちゃんと分かったってさ」


「よかったね」


 雪は微笑んだ。


「手紙、見つかってよかった」


「遅くなってごめんね」


「もっと早く箱の中、ちゃんと見てたらと思ったけど」


 少し考え、首を振る。


「でも、今でよかったのかもしれんね」


「めぐが結婚する今だから、あの手紙の意味、ちゃんと受け取れたんだと思う」


 雪は、誓いの言葉が書かれた紙を手に取った。


『どちらかがどちらかを幸せにするのではなく。


 二人で幸せになることを誓います』


「いい言葉だべ」


「そうちゃんも、そう思うしょ」


 雪の目に涙が浮かんだ。


「私たちは、長く一緒にいられなかったね」


「支え合う時間も、喧嘩する時間も」


「年を取る時間もなかった」


「本当はさ」


 雪の声が少し震えた。


「めぐの家の図面、一緒に見たかったよ」


「ここ広すぎでないかとか」


「ローン大丈夫かとか」


「孫の部屋はここだべとか」


「勝手なこと言いながら、みんなで笑いたかった」


 涙が頬を伝う。


「でもね」


「めぐ、ちゃんと相手見つけたよ」


「一人で守ろうとしない人」


「一緒に生きようとしてくれる人」


「だから、安心していいよ」


 雪は写真へ手を伸ばし、額縁の端へ触れた。


「私も、もう少し長く生きるから」


「めぐの子ども、見たいし」


「新しい家にも行きたいし」


「光希くんとめぐが喧嘩したら、両方叱らんとならんし」


 涙の中に、少し笑いが混じった。


「忙しいんだわ」


 店の外で、風が吹いた。


 扉の鈴が、かすかに鳴る。


 雪は、その音を聞いて微笑んだ。


「そうちゃん」


「式の日、隣の席空けとくからね」


「ちゃんと来るんだよ」


 二人で幸せになる


 数日後。


 カフェ雪の壁に、新しい紙が貼られた。


 挙式当日の進行表。


 入口。


 祭壇。


 親族席。


 父の席。


 料理を出す順番。


 手紙を読む時間。


 誓いの言葉。


 音楽。


 一つひとつが、形になっていく。


 恵はその紙を見上げながら、胸の中に手を当てた。


 父の手紙は、競技人生とは違う場所で、自分を支えていた。


 勝たなくてもいい。


 完璧でなくてもいい。


 愛されるために、何かを証明し続けなくてもいい。


 その言葉が、恵の中にあった硬いものを、少しずつ溶かしていた。


 光希が隣に立つ。


「あと何残ってる?」


「招待状の最終確認」


「花の数」


「料理の試食」


「衣装の調整」


「家の設備」


「多いな」


「多いね」


「逃げるか」


「どこにさ」


「海外遠征」


「どうせ一緒に行くしょ」


「逃げられんな」


「最初から逃げる気ないくせに」


 二人は笑った。


 その笑い声を聞きながら、雪はカウンターの中でコーヒーを淹れていた。


 層一が見ることのできなかった未来。


 それは、悲しみだけでできているのではない。


 今ここには、笑いがある。


 生活がある。


 準備に追われる忙しさがある。


 少しの不安がある。


 そして、幸せになろうとする二人がいる。


 恵は、壁に飾られた父の写真を見た。


「お父さん」


 心の中で呼びかける。


「私、一人で頑張るんでないよ」


「光希と」


「お母さんと」


「みんなと一緒に生きていく」


 そして、隣にいる光希を見る。


「光希」


「何?」


「私たち、幸せになろうね」


 光希は、少し照れたように笑った。


「ああ」


「どっちかがどっちかを幸せにするんでなくて」


「二人で」


「うん」


 二人は手を握った。


 その手は、競技で傷つき、何度も冷たい雪に触れ、何度も転び、何度も立ち上がってきた手だった。


 これからも、すべてが順調とは限らない。


 けれど。


 勝った時も。


 負けた時も。


 飛べる時も。


 立ち止まる時も。


 互いに手を離さず。


 周りの人たちにも支えてもらいながら。


 二人は、自分たちの幸せを作っていく。


 父の願いを背負うのではなく。


 父の愛を胸に抱きながら。


 恵は、新しい人生へ踏み出そうとしていた。


 第46話 終

 次回予告


 招待客が決まり。


 誓いの言葉が完成し。


 上川駅近くでは、新居の建設に向けた準備が始まる。


 そして、二〇四二年の夏。


 恵と光希は、それぞれ現役アスリートとして大会へ向かう。


 結婚式を控えていても、競技に妥協はできない。


 サマージャンプ大会。


 ノルディック複合の強化合宿。


 すれ違う時間。


 疲労。


 焦り。


 そんな中、恵は練習中の着地でバランスを崩す。


「めぐ!」


 結婚式まで、あとわずか。


 花嫁として迎える秋を前に。


 現役選手として、もう一つの試練が訪れる。


 次回、


 第47話「秋まで飛び続ける」


 結婚するから、競技を緩めるのではない。


 空を飛ぶ自分もまた、恵自身なのだから。

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