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恵の物語  作者: リンダ


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父からの手紙

第45話 父からの手紙


 前撮りを終えてから、カフェ雪では本格的な挙式準備が始まった。


 二〇四二年九月十五日。


 敬老の日。


 その日に向けて、店内の片づけ、招待客の確認、料理の打ち合わせ、花の手配が少しずつ進められていた。


 普段は常連客たちがコーヒーを飲みながら世間話をしている店内も、その日ばかりは少し違っていた。


 窓際のテーブルは、挙式当日に親族が座る場所になる。


 カウンターの前には、小さな祭壇を置く。


 壁には、恵と光希の前撮り写真。


 そして、層一の写真も飾る予定だった。


 華やかな式場ではない。


 けれど、恵が育ち、雪が娘を守り、層一の記憶が残るこの場所には、ほかのどこにもない時間が積み重なっていた。


 その日の午後。


 恵と光希は旭川でのトレーニングへ向かい、カフェ雪は臨時休業となっていた。


 雪は一人で、店の奥にある倉庫を片づけていた。


 結婚式当日までに、長年積み上がった荷物を少しでも減らしておかなければならない。


「こんなに取っておいたんだねぇ……」


 雪は段ボール箱を開けるたび、苦笑した。


 恵が幼稚園の頃に使っていた水筒。


 小学校の運動会でもらった参加賞。


 初めてのスキー大会でつけたゼッケン。


 片方だけになった手袋。


 古い写真。


 雑誌の切り抜き。


 どれも、捨てようと思えば捨てられる物ばかりだった。


 けれど、それぞれに恵との記憶が染みついている。


「これ、めぐに見せたら、また何でも取っておくなって怒られるべね」


 そうつぶやきながらも、雪は捨てる箱ではなく、残す箱へ水筒を入れた。


 倉庫の一番奥。


 長い間動かしていなかった小さな木箱が出てきた。


 表面には薄く埃が積もっている。


 雪は手で埃を払い、しばらくその箱を見つめた。


 見覚えがあった。


 層一の遺品をまとめた箱だった。


 病院で使っていた腕時計。


 古い財布。


 結婚式でつけたネクタイ。


 恵が生まれた時の病院の記録。


 層一が好きだった本。


 葬儀を終えたあと、雪はそれらを一つずつ箱に入れた。


 当時は、見るだけで胸が裂けそうだった。


 それでも捨てることなどできず、層一の実家の離れからカフェ雪へ移る時も、その箱だけは大切に運んできた。


「そうちゃん……」


 雪は箱を抱え、店内のテーブルへ運んだ。


 椅子に腰を下ろし、ゆっくりと蓋を開ける。


 懐かしい匂いがしたわけではない。


 もう二十年以上の時が流れている。


 けれど、その中に残された品々を見るだけで、層一の声や表情が鮮やかによみがえった。


 照れたように笑う顔。


 恵を抱いた時の震える手。


 病院のベッドで、「雪」と呼んだ弱い声。


 そして、最後まで雪と恵のことを心配していた目。


 雪は腕時計を手に取った。


「お父さん、これ大事にしてたんだよね」


 恵の前で話す時の癖が、独り言にも出てしまう。


 すぐに小さく笑い、言い直した。


「そうちゃん、まだちゃんと残してるよ」


 時計の針は止まっていた。


 けれど、層一との時間まで止まったわけではない。


 雪の中では、あの日からずっと続いていた。


 箱の底には、古い書類や病院の封筒が重なっていた。


 雪は一つずつ取り出し、確認していく。


 診療明細。


 検査結果。


 病院内での結婚式について書かれた簡単な予定表。


 恵が生まれた時の小さな足形。


 その下に、一通の封筒があった。


 白かったはずの紙は、年月を経て少し黄色く変わっている。


 表には、震える字で書かれていた。


『雪へ』


 雪の胸が、大きく鳴った。


「そうちゃん……?」


 手が止まる。


 封筒の裏を見ると、さらに小さな文字が添えられていた。


『いつか、恵が結婚する日が来たら渡してほしい』


 雪は息をのんだ。


 周囲の音が、急に遠くなったように感じた。


 店内には、壁掛け時計の音だけが響いている。


 一秒。


 また一秒。


 雪は封筒を両手で持ったまま、動くことができなかった。


「こんなの……残してたの」


 層一が亡くなったあと、何度もこの箱を開けた。


 けれど、すべてを細かく確認できたわけではない。


 当時の雪には、遺品の一つ一つを見るだけの心の余裕がなかった。


 見れば泣いた。


 触れれば、層一がもう戻らないという現実を突きつけられた。


 そのため、病院から渡された書類の一部は、確認もできないまま箱の底へ入れていた。


 その中に、この手紙があったのだ。


 娘が結婚する日まで。


 二十年以上。


 手紙は、誰にも読まれないまま待っていた。


 雪は封筒を胸元へ抱き寄せた。


「そうちゃん……」


 声が震えた。


「めぐ、結婚するよ」


「ちゃんと、あんたの手紙、間に合ったよ」


 頬を涙が伝った。


「よかったねぇ」


「ほんとに……よかったねぇ」


 雪はしばらく、その場で泣き続けた。


 悲しいだけではなかった。


 層一が、恵の未来を思い描いていたこと。


 自分がいない未来でも、娘が成長し、誰かを愛し、結婚する日が来ると信じていたこと。


 その優しさが、二十年以上の時を越えて届いた。


 雪は封を開けなかった。


 自分宛ての名前が書かれていたが、中身は恵へ向けたものだ。


 これは、恵が最初に読むべき手紙だった。


 雪は涙を拭き、封筒を大切にテーブルの上へ置いた。


「お父さんからだよ」


 誰もいない店内で、娘へ語りかけるようにつぶやいた。


「めぐに、ずっと会いたかったんだべね」



父から届いたもの


 夕方。


 カフェ雪の入口が開いた。


「ただいま」


 恵の声が響く。


「おじゃまします」


 光希も続いて店内へ入ってきた。


 二人はトレーニング帰りで、まだスポーツウエア姿だった。


 恵は肩にバッグをかけ、光希は大きな用具ケースを持っている。


「いやぁ、今日は脚にきたわ」


「最後のセット、少し無理したべ」


「光希が追い込めって言ったんでしょ」


「追い込めとは言ったけど、限界超えろとは言ってない」


「同じようなもんだわ」


「全然違うべ」


 二人のいつものやり取りが、静かな店内へ広がる。


 けれど、雪は笑わなかった。


 カウンターの近くに立ったまま、二人を見つめていた。


 恵が、その表情に気づく。


「お母さん?」


「どうしたのさ」


 雪は答えず、テーブルへ視線を向けた。


 そこには、古い木箱と、一通の封筒が置かれていた。


「めぐ」


「何?」


「ちょっと、こっち座りなさい」


 声が、いつもより少し震えていた。


 恵と光希は顔を見合わせる。


 何かあったのだと察し、荷物を床へ置いてテーブルへ近づいた。


「お母さん、何か見つけたの?」


「うん」


 雪は封筒を手に取った。


「お父さんの遺品、片づけてたんだわ」


 恵の表情が変わった。


「お父さんの?」


「そう」


 雪は、封筒の表を恵へ見せた。


 震える字。


『雪へ』


 その下に書かれた言葉。


『いつか、恵が結婚する日が来たら渡してほしい』


 恵は、何も言えなかった。


 目が、文字の上で止まったまま動かない。


「これ……」


 ようやく声が出た。


「お父さんが書いたの?」


「そうだと思う」


「いつ?」


「たぶん、あなたが生まれてから……亡くなるまでの間だわ」


 たった一週間。


 層一が父親として生きた時間。


 その短い時間の中で、層一は娘の遠い未来へ手紙を書いていた。


 恵は震える手で封筒を受け取った。


「私に?」


「うん」


「結婚する時に?」


「ずっと、待ってたんだねぇ」


 雪の目にも、再び涙が浮かんだ。


「お父さん、あなたが大きくなるところ、見たかったんだべさ」


「歩くとこも」


「学校行くとこも」


「ジャンプ始めるとこも」


「金メダル取るとこも」


「光希くんと出会って、結婚するところも」


 恵は、封筒を胸元へ抱いた。


「私……お父さんの声、覚えてない」


「そりゃそうだよ。生まれて一週間だったんだもの」


「顔も、写真でしか知らない」


「うん」


「でも、お父さんは、私のこと考えてくれてたんだね」


「当たり前だべさ」


 雪は涙を拭きながら笑った。


「お父さんね、あなたを抱いた時、ずっと泣いてたんだよ」


「目にごみが入ったって言い張ってたけど」


 恵も、涙の中で少し笑った。


「病室なのにね」


「病室なのにさ」


 光希は二人の向かい側に座り、静かに見守っていた。


 やがて恵が封筒へ目を落とす。


「読んでいいかな」


「あなたへの手紙だもの」


「お母さんも一緒に聞いて」


「いいのかい」


「うん」


 恵は光希を見る。


「光希も」


「俺も?」


「うん」


「お父さんが、私の結婚する日に渡してほしいって書いた手紙だから」


「これから一緒に生きる人にも、聞いてほしい」


 光希はゆっくりとうなずいた。


「分かった」


 三人はカフェ雪のテーブルを囲んだ。


 窓の外では、夕暮れの光が少しずつ薄くなっている。


 恵は、封筒の端を丁寧に開いた。


 中には、数枚の便箋が入っていた。


 文字は小さく、ところどころ震えている。


 病気で力の入らない手を動かし、何度も休みながら書いたことが分かる。


 恵は最初の一行を見つめた。


 唇が震えた。


 そして、ゆっくりと読み始めた。



層一から恵へ


『恵へ。


 この手紙を読んでいる時、恵は何歳になっているんだろう。


 二十歳かな。


 二十五歳かな。


 それとも、もっと先かな。


 お父さんには、分かりません。


 ただ、いつか恵が大きくなって、大切な人と出会い、結婚する日が来たら、この手紙を読んでもらいたいと思って書いています。』


 恵の声が、最初から震えた。


 雪は口元へ手を当てていた。


 層一が、確かに娘へ語りかけている。


 あの病室で。


 残された時間が少ないことを知りながら。


 まだ生まれたばかりの娘の未来を想像して。


 恵は息を整え、続きを読んだ。


『恵。


 生まれてきてくれて、ありがとう。


 お父さんとお母さんのところへ来てくれて、本当にありがとう。


 お父さんは、恵を初めて抱いた時、こんなに小さい命が、この先どうやって大きくなっていくんだろうと思いました。


 最初に笑うのは、いつだろう。


 最初に歩くのは、いつだろう。


 最初に話す言葉は、何だろう。


 好きな食べ物は何になるんだろう。


 どんな友達ができるんだろう。


 どんな夢を持つんだろう。


 考え始めたら、見たいものがたくさんありすぎて、困ってしまいました。』


 恵の頬を、涙が伝った。


「お父さん……」


 雪も俯きながら、静かに泣いていた。


 層一は知っていた。


 それらの瞬間を自分が見られないことを。


 だからこそ、一つ一つを想像した。


 恵の未来を。


 自分のいない時間を。


 それでも、娘が生きていく日々を。


 恵は、続きを読む。


『でも、恵が物心つく頃には、お父さんは、たぶんそばにいません。


 歩けるようになった恵の手を引いてやることも。


 転んだ時に抱き起こしてやることも。


 学校へ行く朝に、行ってらっしゃいと言ってやることも。


 運動会で応援してやることも。


 悪いことをした時に叱ることも。


 悲しい時に隣へ座ってやることも。


 できないと思います。


 ごめんな。


 お父さん、恵のそばにおってやれなくて、本当にごめんな。』


 そこまで読んだところで、恵の声が途切れた。


 便箋を持つ手が震える。


「お父さん……謝らなくていいのに」


 絞り出すような声だった。


「お父さんが悪いわけでないのに」


 雪は椅子を寄せ、恵の肩を抱いた。


「そうだね」


「お父さん、最後までそればっかり気にしてたんだわ」


「あなたのそばにいられないこと」


「お母さんとあなたを残していくこと」


「自分の病気より、そればっかり心配してた」


 恵は便箋を胸へ押し当てた。


「会いたかった」


 その言葉に、雪の顔が歪んだ。


「お父さんに、会いたかった」


「うん」


「一回でいいから、抱っこしてもらったこと、覚えていたかった」


「うん」


「声、聞いてみたかった」


「お母さんも、聞かせてあげたかったよ」


 雪は恵の髪を撫でた。


「お父さんの声」


「笑い方」


「歩き方」


「全部、あなたに見せてあげたかった」


 二人はしばらく抱き合って泣いた。


 光希は何も言わず、ただそばにいた。


 やがて恵は涙を拭き、再び便箋を開いた。


「最後まで読む」


 雪はうなずいた。


「うん」


『けれど、恵。


 お父さんがそばにいなくても、恵は一人ではありません。


 お母さんがいます。


 おじいちゃんも、おばあちゃんもいます。


 恵を大切に思ってくれる人が、きっとたくさん現れます。


 お母さんは、強い人です。


 でも、本当はとても寂しがり屋で、泣き虫です。


 お父さんがいなくなったあと、お母さんは無理をすると思います。


 何でも一人でやろうとすると思います。


 だから、恵が大きくなったら、時々お母さんの話を聞いてやってください。


 お母さんが疲れていたら、そばに座ってやってください。


 お父さんができない分まで、お母さんを大切にしてください。』


 今度は雪が顔を覆った。


「そうちゃん……」


 それは、恵の前ではなく。


 亡き夫へ向けた、妻の呼び方だった。


「そんなことまで……書いてたの」


 恵は便箋から目を上げ、母を見る。


「お母さん」


「何さ」


「私、ちゃんとできてたかな」


「何を?」


「お母さんの話、ちゃんと聞けてたかな」


 雪は涙を流しながら笑った。


「十分だよ」


「あなたがいてくれたから、お母さん、生きてこられたんだわ」


「あなたの寝顔見て」


「泣いて」


「笑って」


「毎日、もう一日頑張ろうって思えたんだよ」


 恵は、雪の手を握った。


「これからも大切にする」


「結婚しても」


「遠征が続いても」


「ちゃんと帰ってくる」


「お母さんの話も聞く」


「うん」


「だから、一人で何でも抱え込まないでね」


 雪は何度もうなずいた。


「分かった」


 恵は続きを読む。


『恵がどんな子に育つのか、お父さんには分かりません。


 勉強が得意かもしれない。


 歌が好きかもしれない。


 絵を描くのが好きかもしれない。


 もしかしたら、スポーツが好きになるかもしれない。


 どんな夢を選んでも構いません。


 大きな夢でなくてもいい。


 誰かに自慢できる仕事でなくてもいい。


 恵が自分で選び、自分の足で歩いていけるなら、それで十分です。


 うまくいかない時もあると思います。


 負けることも。


 諦めたくなることも。


 自分なんか駄目だと思うこともあるかもしれません。


 そんな時は、覚えていてください。


 恵が生まれた日、お父さんとお母さんは、恵がそこにいてくれるだけで幸せでした。


 何かができるから、大切なのではありません。


 勝ったから、愛されるのではありません。


 恵が恵であること。


 それだけで、お父さんとお母さんにとっては、何より大切です。』


 恵は、声を出さずに泣いた。


 オリンピックで金メダルを取った。


 世界王者になった。


 二大会連続で三冠を達成した。


 多くの人から称賛され、期待され続けてきた。


 勝てば喜ばれた。


 負ければ理由を問われた。


 記録を出せば歴史的快挙と呼ばれ、少し調子を落とせば限界説を書かれた。


 けれど父は、二十年以上前に書いていた。


 勝ったから愛されるのではない。


 何かができるから大切なのではない。


 恵が恵であること。


 それだけでいいと。


「お父さん、私がジャンプするなんて、知らなかったんだね」


 恵が涙の中で笑った。


「そうだね」


 雪も笑う。


「スポーツが好きになるかもしれない、だって」


「まさか空飛ぶとは思ってなかったべね」


「びっくりしてるかな」


「してるさ」


 雪は壁の写真を見た。


「この子、何やってんだべって、最初は腰抜かしてたかもしれんね」


 光希も小さく笑った。


「でも、すぐ自慢してると思います」


「うちの娘、空飛ぶんだぞって?」


「はい」


「言いそうだわ」


 ほんの少しだけ、店内に温かな笑いが生まれた。


 恵は息を整え、次の便箋を開いた。


『そして。


 この手紙を、恵が結婚する日に読んでいるのなら。


 きっと、隣には恵が選んだ大切な人がいるのだと思います。


 その人へ。


 お父さんは、あなたに会うことができません。


 どんな顔をしているのか。


 どんな声なのか。


 どんな人なのか。


 何も知ることができません。


 だから、本当なら直接会って、たくさん話をしたかった。


 恵のどこを好きになったのか。


 どんな家庭を作りたいのか。


 ちゃんと恵を守ってくれるのか。


 父親らしく、少しくらい厳しいことも言ってみたかった。』


 光希の表情が引き締まった。


 層一の言葉は、自分へ向けられている。


 会うことのできなかった、未来の娘婿へ。


『でも、恵が自分で選んだ人なら、お父さんは信じます。


 恵を幸せにしてください、とは言いません。


 恵の幸せを、あなた一人の責任にしたくないからです。


 二人で幸せになってください。


 恵が苦しい時は、そばにいてください。


 あなたが苦しい時は、恵に頼ってください。


 どちらか一人が支えるのではなく、支えたり、支えられたりしながら、一緒に歩いてください。


 喧嘩をしても構いません。


 意見が違う日もあるでしょう。


 でも、黙ったまま離れていかないでください。


 ちゃんと話してください。


 ちゃんと謝ってください。


 ちゃんと、ありがとうを伝えてください。


 二人で、できるだけ長く一緒に生きてください。』


 光希は俯き、両手を強く握っていた。


 恵が便箋から顔を上げる。


「光希」


「うん」


「お父さんからだよ」


「ああ」


 光希は、壁に飾られた層一の写真を見た。


 そして、静かに頭を下げた。


「お義父さん」


 声が少し震えていた。


「直接お会いできなかったこと、俺も残念です」


「本当なら、恵のことをたくさん聞きたかったです」


「小さい頃、どんな子だったのか」


「どんな顔で笑ったのか」


「抱いた時、どんな気持ちだったのか」


 光希は顔を上げた。


「恵を幸せにします、とは言いません」


「二人で幸せになります」


「俺が支えるだけじゃなくて、俺も恵に支えてもらいます」


「喧嘩しても、黙って逃げません」


「ちゃんと話します」


「ちゃんと謝ります」


「ありがとうも伝えます」


「できるだけ長く、一緒に生きます」


 恵は涙を流しながら、光希の手を握った。


 雪も、層一の写真を見つめる。


「お父さん、聞こえたかい」


 娘の前だから。


 雪は「そうちゃん」ではなく、「お父さん」と呼んだ。


「光希くん、ちゃんと約束してくれたよ」


 夕暮れの光が、写真の中の層一の笑顔を照らしていた。


 恵は最後の部分を読んだ。


『恵。


 お父さんは、恵の成長を見届けることができません。


 それが、本当に悔しいです。


 そばにおってやれないことが、苦しいです。


 でも、恵が生まれてきてくれたことを、後悔したことは一度もありません。


 短い時間でも、恵のお父さんになれたことを、心から幸せに思っています。


 たった一週間だったかもしれない。


 でも、その一週間は、お父さんの人生で一番幸せな時間でした。


 恵を抱けたこと。


 恵の顔を見られたこと。


 恵の小さな手が、お父さんの指を握ってくれたこと。


 全部、お父さんの宝物です。


 いつか、恵が苦しい時。


 自分は一人だと思った時。


 この手紙を思い出してください。


 お父さんは、ずっと恵のことを想っています。


 そばに見えなくても。


 声が聞こえなくても。


 恵が生きている限り、お父さんは恵のお父さんです。


 結婚、おめでとう。


 大切な人と、笑って暮らしてください。


 お母さんを、よろしくお願いします。


 そして。


 生まれてきてくれて、本当にありがとう。


 お父さんより。』


 最後まで読み終えた瞬間。


 恵は便箋を胸に抱き、声を上げて泣いた。


「お父さん……」


「お父さん、私も会いたかったよ」


「私も、抱っこしてほしかった」


「ジャンプしてるところ、見てほしかった」


「金メダル、見せたかった」


「光希のこと、紹介したかった」


 雪は恵を抱きしめた。


「うん」


「うん」


「全部、見てるよ」


「お父さん、全部見てるから」


「本当に?」


「本当だよ」


 雪自身も泣いていた。


「あなたが初めて飛んだ日も」


「初めて勝った日も」


「オリンピックで金メダル取った日も」


「光希くんにプロポーズされた日も」


「ずっと、見てたさ」


 恵は子どものように、母の胸で泣き続けた。


 光希は隣から、恵の背中へそっと手を添えた。


 三人の間に、長い時間を越えて層一の言葉が流れていた。



お父さんへの返事


 どれほど時間がたったのか。


 外はすっかり暗くなっていた。


 カフェ雪の照明が、三人の姿を柔らかく包んでいる。


 恵は涙を拭き、もう一度手紙を丁寧に畳んだ。


「お母さん」


「何?」


「私、お父さんに返事書きたい」


「返事?」


「うん」


「届かないかもしれないけど」


「届くさ」


 雪は迷わず言った。


「書いたら、ちゃんと届くよ」


 恵は便箋とペンを用意した。


 しばらく何も書けず、白い紙を見つめていた。


 伝えたいことが多すぎた。


 生まれてからのこと。


 雪に育ててもらったこと。


 スキージャンプと出会ったこと。


 初めて優勝したこと。


 負けて泣いたこと。


 オリンピックで金メダルを取ったこと。


 光希と出会ったこと。


 結婚すること。


 父に会いたかったこと。


 やがて、恵はゆっくりとペンを動かした。


『お父さんへ。


 手紙、読みました。


 二十年以上、待たせてごめんね。


 私は元気に大きくなりました。


 お母さんと、おじいちゃん、おばあちゃん、近所のみんなに育ててもらいました。


 そして、スキージャンプの選手になりました。


 お父さんが想像していたより、少し高いところから飛んでいます。』


 恵は少し笑った。


 雪も隣から手紙をのぞき込み、涙の中で笑った。


『オリンピックにも出ました。


 金メダルも取りました。


 でも、お父さんの手紙を読んで、金メダルを取ったから大切なんじゃないって分かりました。


 何もできなくても、私はお父さんとお母さんの大切な娘だったんだね。


 それが、すごくうれしかったです。


 私は、光希と結婚します。


 光希は、優しくて、真面目で、競技の時はすごく頼りになるけど、プロポーズの時はびっくりするくらい言葉を噛みました。


 お父さんに会わせたかったです。


 きっと二人で、私の知らないところで話が盛り上がったと思います。』


 光希が隣から口を挟む。


「そこ、書く必要あるかい」


「あるよ」


「お義父さんに最初から格好悪いところ伝わるべ」


「嘘書くよりいいしょ」


 雪が涙を拭いながら笑った。


「お父さん、そういう話好きだったから、喜ぶべさ」


「そうですか」


「うん。絶対笑ってるわ」


 恵は続きを書いた。


『光希と、二人で幸せになります。


 喧嘩しても、黙ったまま離れません。


 ちゃんと話します。


 ちゃんと謝ります。


 ありがとうも、忘れません。


 できるだけ長く、一緒に生きます。


 それから、お母さんのことも大切にします。


 お父さんができなかった分まで、なんて言わないよ。


 お母さんは、お父さんのことを今もずっと愛しています。


 だから、お父さんもこれからずっと、お母さんのそばにいてください。


 私も、お父さんの娘でいられて幸せです。


 生まれてきてよかったです。


 お父さんの娘に生まれて、本当によかったです。


 いつか会えた時は、たくさん話を聞いてください。


 それまで、もう少し待っていてね。


 恵より。』


 恵はペンを置いた。


 便箋の上に、涙が一滴落ちた。


「できた」


 雪はその手紙を見つめ、静かにうなずいた。


「いい手紙だわ」


「お父さん、読んでくれるかな」


「読むさ」


「絶対?」


「絶対だよ」


 恵は父の手紙と、自分が書いた返事を一緒に封筒へ入れた。


 そして、カフェ雪の壁に飾られている層一の写真の前へ立った。


「お父さん」


「手紙、ありがとう」


「結婚式の日にも、もう一回読むね」


「お父さんの席も、ちゃんと用意するから」


 光希も隣へ立つ。


「お義父さん」


「九月十五日、よろしくお願いします」


「恵の隣で、ちゃんと誓います」


 雪は少し後ろから二人を見つめていた。


 層一の写真。


 その前に立つ娘と、娘が選んだ人。


 自分と層一が夢見ることしかできなかった未来が、今、目の前にある。


 雪は胸の中で語りかけた。


「そうちゃん」


「めぐ、ちゃんと大きくなったよ」


「優しい子になったよ」


「あんたが書いた通り、ちゃんと自分の足で歩いてるよ」


「光希くんっていう、大事な人も見つけたよ」


「だから、安心してね」


 雪の頬を、また涙が伝った。


「でもね」


「やっぱり、あんたに会いたいわ」


「めぐの花嫁姿、一緒に見たかった」


「隣で、二人して泣きたかったよ」


 その時。


 店の外から、春の風が吹いた。


 入口の扉につけられた小さな鈴が、誰も触れていないのに、かすかに鳴った。


 恵が振り返る。


「今、鳴った?」


「風だべ」


 光希が答える。


 けれど雪は、層一の写真を見つめて微笑んだ。


「そうだね」


 声には出さなかった。


 ただ、心の中でつぶやいた。


「そうちゃん、返事してくれたんだね」


 父から娘へ。


 二十年以上の時を越えた手紙は、ようやく届いた。


 層一が見ることのできなかった娘の成長。


 抱きしめることのできなかった年月。


 そばにいてやれなかった日々。


 そのすべてを越えて。


 父の愛は、確かに恵の人生へつながっていた。



第45話 終


次回予告


 層一の手紙を受け取った恵。


 父が残した言葉は、結婚式で交わす誓いを考える二人の心にも、大きな変化を与えていく。


「幸せにする、じゃなくて」


「二人で幸せになるって誓いたい」


 恵と光希は、型どおりではない、自分たちだけの誓いの言葉を書き始める。


 一方、カフェ雪では、地元の人たちが次々に手伝いへ集まってきた。


 テーブルを運ぶ人。


 花を飾る人。


 料理を考える人。


 恵の幼い頃の写真を勝手に持ち出し、会場へ飾ろうとする人。


「ちょっと待って。それ、寝癖ひどい時の写真でないの!」


 結婚式を前にして、カフェ雪は笑いと涙で大忙し。


 そして、雪は一つの決断をする。


 層一から届いた手紙を、挙式当日、家族全員の前で読みたい。


 父の言葉を、娘の新しい人生へつなぐために。


 次回、


第46話「二人で幸せになる」


 守るのではなく。


 支え合う。


 二人は、自分たちだけの誓いを言葉にする。

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