花嫁になる日
第74話 花嫁になる日
新居が決まり、挙式の第一候補日も決まった。
二〇四二年九月十五日。
敬老の日。
恵と光希にとって、それはただ都合のいい祝日というだけではなかった。
これまで支えてくれた家族に感謝し、これから新しい家族を築いていく日にしたい。
二人は、そう考えていた。
だが、結婚式の準備は、競技のように努力した分だけ結果が出るものではなかった。
電話をかける。
予約で埋まっている。
別の会場へ問い合わせる。
そこも空いていない。
旭川市内だけでなく、周辺地域にも範囲を広げた。
それでも、九月十五日はどこも予約が埋まっていた。
サマージャンプ大会。
強化合宿。
スポンサーとの調整。
海外遠征へ向けた準備。
現役アスリート同士の二人にとって、日程を大きくずらすことも簡単ではない。
その日の午後。
恵と光希は、カフェ雪の窓際の席に並んで座っていた。
テーブルの上には、式場のパンフレット、カレンダー、競技予定表が広げられている。
恵はスマートフォンを耳に当て、相手の話を聞いていた。
「はい……分かりました。したら、今回は……はい。ありがとうございます」
通話を終えると、恵は大きく息を吐いた。
「また駄目だったわ」
光希が顔を上げる。
「ここも埋まってたのかい」
「うん。九月十五日は、もう一年以上前から予約入ってるって」
「これで何件目だべ」
「七件目」
「七件か……」
恵はテーブルに額をつけた。
「みんな、同じこと考えるんだね。三連休だし、敬老の日だし、家族も集まりやすいし」
「日程ずらすかい」
光希が静かに言った。
恵は顔を上げた。
「でも、九月十五日がいいんだわ」
「俺もそう思ってる」
「おじいちゃんも、おばあちゃんも来やすいし、今まで支えてくれた家族に、ちゃんとありがとうって言える日にしたいもん」
「うん」
「でも、会場がないんだわ」
二人は同時に黙り込んだ。
競技であれば、改善点を見つけ、何度でも挑戦できる。
飛距離が伸びなければ助走姿勢を見直す。
着地が乱れれば筋力とバランスを鍛える。
だが、予約で埋まった式場を、努力で空けることはできない。
カウンターの中では、雪がコーヒーを淹れていた。
湯気の向こうから、何度もため息をつく二人を見ている。
やがて、雪は二人の前にカップを置いた。
「そんな顔してたら、結婚する前に二人して老けてまうよ」
恵は顔を上げた。
「お母さん、笑いごとじゃないって」
「したって、式場がなきゃ結婚できないわけでないべさ」
「それはそうだけど」
雪は、ゆっくりと店内を見渡した。
木目の残るテーブル。
小さなカウンター。
窓際に並ぶ観葉植物。
壁には、恵がジュニア時代に使ったゼッケンや、初優勝を果たした時の写真が飾られている。
カフェ雪。
層一を亡くしたあと、雪が周囲の助けを借りながら守り続けてきた店。
恵が幼い頃から、何度も出入りしてきた場所。
大会で負けた日。
初めて表彰台に上がった日。
世界へ旅立った日。
金メダルを持って帰ってきた日。
すべてを見守ってきた場所だった。
「したら、ここでやったらいいんでないかい」
恵が瞬きをする。
「ここって?」
「カフェ雪でさ」
光希も、驚いた顔で店内を見回した。
「ここで、結婚式するんですか」
「大きな式はできんけどね」
雪は穏やかに笑った。
「家族と、本当に近い人だけ呼んで。テーブル寄せて、奥に小さな祭壇こしらえて、窓んとこに花飾ったら、それなりになるべさ」
「でも、ここ店だよ」
「店だからいいんでないの」
雪は恵を見る。
「あんたが育った場所だべさ」
その一言に、恵は黙った。
カフェの隅で宿題をした。
大会で負けて、人に見られないように泣いた。
初めて優勝した日には、常連客が小さなケーキを用意してくれた。
海外遠征の費用が足りなかった時には、店の客たちが募金箱を置いてくれた。
恵にとってカフェ雪は、単なる母親の店ではない。
自分の成長をずっと見守ってくれた、もう一つの家だった。
「ここなら、お父さんもいるね」
恵は壁に飾られた層一の写真を見つめた。
まだ病に倒れる前の、穏やかな笑顔。
光希もその写真へ視線を向ける。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「俺、ここがいい」
恵が光希を見る。
「本当に?」
「ああ」
「普通の結婚式場みたいに広くないよ」
「普通でなくていいべ」
光希はまっすぐ恵を見つめた。
「俺たちが大事にしてきた場所で、大事な人たちに見てもらえたら、それでいい」
恵の表情が、少しずつほころんでいく。
「じゃあ、決まりだね」
雪が言った。
恵は店内を見回した。
決して広くはない。
けれど、この小さな空間には、家族の時間が詰まっている。
「カフェ雪で、結婚式する」
「うん」
「九月十五日に」
「うん」
「敬老の日に」
「そうしよう」
雪は満足そうにうなずいた。
「したら、まず片づけだね」
恵が目を丸くする。
「今から?」
「式までに物減らさんと、花嫁より段ボールの方が目立つべさ」
「そんなに散らかってないしょ」
「倉庫、見たことあるかい」
「……ない」
「まずそこからだわ」
光希が少し楽しそうに笑う。
「昔の恵の写真、いっぱい出てきそうだな」
「勝手に見たら駄目だからね」
「もう遅いかもしれん」
「なんでさ」
久しぶりに、店内へ明るい笑い声が広がった。
結婚式は、立派な建物でなくてもいい。
大きなシャンデリアがなくてもいい。
家族が積み重ねた時間が、その場所を式場に変えてくれる。
そうして、二人の挙式会場は決まった。
カフェ雪。
恵が育ち、雪が娘を守り、層一の記憶が今も息づく場所だった。
前撮りの日
式場が決まると、次に進められたのは前撮りだった。
夏の大会や強化合宿が本格化する前。
二人がそろって時間を取れる貴重な一日。
撮影場所について、恵には最初から希望があった。
「最初は、あのジャンプ台がいい」
光希が尋ねる。
「あのジャンプ台って、ジュニアの時の?」
「うん。私が初めて優勝したとこ」
まだ世界大会の舞台など知らなかった頃。
オリンピックは、テレビの中にしかない遠い世界だった。
小さな体で助走路を滑り、怖さを押し殺して飛び出した。
着地した直後。
自分が優勝したことを理解できず、恵はしばらく呆然としていた。
やがて雪の姿を見つけ、泣きながら抱きついた。
あのジャンプ台だった。
「全部、あそこから始まったんだわ」
恵がそう言うと、光希は静かにうなずいた。
「したら、最初はそこだな」
前撮り当日。
道北の空は、すっきりと晴れ渡っていた。
遠くの山々にはまだ雪が残り、その上に澄んだ青空が広がっている。
恵は、純白のウエディングドレスを身にまとっていた。
長い裾が、春先の風に揺れている。
髪は柔らかくまとめられ、小さな白い花が飾られていた。
光希は黒のタキシード姿だった。
競技用スーツとは違い、立っているだけなのに落ち着かない。
恵が、くるりと一度回ってみせる。
「どうだい」
「何がさ」
「似合ってるか聞いてんの」
「似合ってる」
「それだけ?」
「すごく似合ってる」
「遅いわ」
「緊張してんだよ」
「ジャンプ台なのに?」
「ジャンプ台だから、余計に変な感じなんだわ」
撮影スタッフが笑った。
「もう少し、お二人近づいてください」
光希が一歩寄る。
恵も半歩近づく。
「新郎さん、肩に手をお願いします」
「こうですか」
「もう少し自然に」
「自然って難しいな」
恵が笑う。
「光希、競技の時より固いしょ」
「恵は平気なのかい」
「私は平気」
「ウエディングドレス初めてだべ」
「細かいこと言わんの」
二人のやり取りに、周囲の空気もほぐれていく。
やがて、ジャンプ台を背景に二人は並んだ。
恵はゆっくりと後ろを振り返る。
ここで初めて勝った。
雪が、泣きながら喜んでくれた。
層一の写真を胸に抱き、「お父さんにも見せるべ」と笑ってくれた。
あの日の自分が、今の姿を見たら、どう思うだろう。
金メダルを取ったことよりも。
隣に、生涯をともに歩こうとする人がいることに驚くかもしれない。
「恵」
光希が呼んだ。
「何さ」
「今、泣きそうだったべ」
「泣いてない」
「目、赤いぞ」
「風強いからだわ」
「そういうことにしとく」
シャッター音が響いた。
風に揺れるドレス。
その隣で、少し照れながら笑う光希。
二人の背後には、恵の競技人生の原点となったジャンプ台が立っていた。
過去と未来が、一枚の写真の中で重なっていた。
神居古潭
二つ目の撮影場所は、旭川市にある神居古潭だった。
深い渓谷。
石狩川の流れ。
古い橋。
周囲を囲む山々。
雪解け水を含んだ川は力強く流れ、谷あいには春の冷たい空気が残っていた。
恵はドレスの裾を持ち上げながら、慎重に歩く。
少し離れた場所から、雪が声をかけた。
「転ばんように気ぃつけなさいよ」
「大丈夫だって」
「競技でないんだから、受け身取れんよ」
「取れるわ」
「ウエディングドレスで受け身取る花嫁なんか、聞いたことないわ」
光希が恵の手を取った。
「ほら」
「ありがと」
「ここ、滑るぞ」
「私より光希の方が危ないんでないの」
「俺は大丈夫だ」
そう言った直後。
光希の靴が小さな石に引っかかった。
「危ないべさ!」
恵が反射的に腕をつかむ。
光希はどうにか姿勢を立て直した。
雪と撮影スタッフが、一斉に息を吐く。
恵はすぐ撮影スタッフへ振り返った。
「今の、撮れてた?」
「はい。しっかり撮れています」
「消してもらっていいですか」
「いや、残そう」
光希が言った。
恵がにらむ。
「なんでさ」
「自然な写真だべ」
「転びかけた花婿のどこが自然なの」
「結婚してからも、こうやって支えてもらうかもしれん」
「最初から頼る気満々でないの」
神居古潭の岩肌に、二人の笑い声が響いた。
その後、古い橋の中央で撮影が行われた。
光希が恵の肩を抱く。
恵は少しだけ体を預ける。
眼下では、石狩川が絶えず流れていた。
雪は、その姿を少し離れたところから見つめていた。
娘はもう、一人で立っているのではない。
これからは、隣に光希がいる。
転びそうな時には支え合い。
迷った時には、同じ方向を見る。
そんな人と巡り会えたことが、何よりもうれしかった。
同時に。
雪の胸の奥には、決して消えることのない一人の姿が浮かんでいた。
層一。
雪が、生涯をかけて愛した人。
共に過ごせた時間は、あまりにも短かった。
カフェ雪での撮影
最後の撮影場所は、カフェ雪だった。
店内のテーブルは壁際へ寄せられ、窓辺には白い花が飾られていた。
普段は常連客がコーヒーを飲み、恵の試合について語り合う店。
そこへウエディングドレス姿の恵が立つと、まるで別の空間のように見えた。
「お母さん、どう?」
恵が振り返る。
雪は、すぐに答えることができなかった。
白いドレス。
柔らかく微笑む娘。
その姿を見た瞬間。
遠い日の記憶が、鮮明によみがえった。
病院内の結婚式
白い壁。
小さな窓。
花瓶に飾られた、看護師たちが用意してくれた花。
病院の一室に、簡素な祭壇が設けられていた。
層一は車椅子に座っていた。
白血病の治療によって、体はひどく痩せていた。
頬はこけ、肩幅に合わせて用意したはずのタキシードも、どこか大きく見えた。
それでも。
雪を見つめる目だけは、昔と何も変わっていなかった。
「雪」
層一の声は弱かった。
「何?」
「きれいだな」
雪は純白のドレスを着ていた。
大きな式場ではない。
豪華な料理もない。
招待客も多くない。
医師。
看護師。
両家の家族。
限られた人だけが見守る、小さな結婚式だった。
雪は層一の前にかがみ、細くなった手を握った。
「そうちゃんも、かっこいいよ」
「痩せすぎて、服余ってるべ」
「そういうこと言わんの」
「ごめん」
二人は、かすかに笑った。
だが、笑うだけでも層一は咳き込んだ。
雪はすぐに背中をさする。
「無理しないで」
「今日くらい、無理させてくれや」
層一は、震える指で雪の手を握り返した。
「ちゃんと、雪の夫になりたいんだ」
その言葉に、雪の目から涙がこぼれた。
幸せだった。
同時に、怖かった。
この時間があまりにも尊く、あまりにも短いことを、二人とも分かっていた。
それでも。
二人は誓いを交わした。
病める時も。
健やかなる時も。
命の続く限り。
層一に残された時間が長くないことを、皆が知っていた。
だが、その誓いは決して偽りではなかった。
たとえ夫婦でいられる時間が短くても。
二人の愛まで短かったわけではない。
恵の誕生
やがて、恵が生まれた。
小さな命だった。
雪は、生まれたばかりの娘を層一のもとへ連れていった。
「そうちゃん、見て」
「私たちの娘だよ」
層一は、震える腕で恵を抱いた。
力がほとんど入らない。
それでも、娘を落とさないよう、必死に両腕で支えていた。
「ちっちゃいな」
「うん」
「かわいいな」
「うん」
「名前、恵でよかったな」
「そうちゃんが決めた名前だもん」
層一は、恵の頬へ指先でそっと触れた。
「この子に、たくさんの恵みがありますように」
そして、雪を見た。
「雪」
「何?」
「この子、頼むな」
雪はすぐに首を振った。
「一緒に育てるんでしょ」
層一は答えなかった。
ただ、少し困ったように笑った。
それから一週間後。
層一は静かに息を引き取った。
父親になってから、わずか七日。
雪は、恵を抱いたまま、層一の最期を見送った。
泣き崩れることさえできなかった。
腕の中では、何も知らない赤ん坊が泣いている。
自分が倒れれば、この子を守る人がいなくなる。
その思いだけで、雪は立っていた。
層一の実家の離れで
層一を亡くしたあと。
雪は、層一の実家の離れで恵と暮らし始めた。
小さな家だった。
冬は冷え込み、夜になると風が壁を揺らした。
恵が泣けば、雪は夜中に何度も起きた。
熱を出せば、雪の方が泣きそうになりながら病院へ走った。
仕事へ出る時は、層一の両親や近所の人たちが恵を預かってくれた。
食べ物を届けてくれる人。
雪かきを手伝ってくれる人。
恵の服を譲ってくれる人。
雪は決して、完全に一人ではなかった。
けれど。
夜。
恵が眠ったあと。
小さな部屋で層一の写真を見る時だけは、どうしようもなく孤独だった。
「そうちゃん」
「今日ね、めぐが初めて笑ったんだわ」
「今日は寝返りしたよ」
「歩いたよ」
「お父さんって言ったよ」
本当は、最初に「お母さん」と呼んでほしかった。
けれど、恵が層一の写真を指さし、「おとうさん」と口にした時。
雪は泣きながら笑った。
層一はそこにいなくても、家族の中から消えてはいなかった。
恵は少しずつ成長した。
雪の手を離れ、雪の上を走るようになった。
スキー板を履いた。
ジャンプ台を見上げた。
初めて飛んだ。
初めて転んだ。
初めて勝った。
そのたびに、雪は層一へ報告した。
「そうちゃん、あんたの娘、すごいんだわ」
「怖がりなのに、空飛んだよ」
「今日、初めて優勝したんだよ」
「世界へ行くって言ってるわ」
「オリンピックで金メダル取ったよ」
そして今。
恵はウエディングドレスを着て、雪の前に立っていた。
母と娘
「お母さん?」
恵の声で、雪は現在へ戻った。
「どうしたのさ」
雪は、慌てて笑おうとした。
だが、涙が頬を伝った。
「お母さん、泣いてるしょ」
「泣いてないって」
「泣いてるよ」
「ちょっと、昔のこと思い出しただけだわ」
恵はドレスの裾を持ち上げながら、雪のそばへ歩いてきた。
「お父さんとの結婚式?」
雪は驚いたように恵を見た。
「分かるのかい」
「何となくね」
雪は、恵のドレスへそっと触れた。
柔らかな布。
純白の色。
あの日、自分が着たドレスとは違う。
それでも、胸へ迫る思いは同じだった。
「お父さんもね」
雪は、ゆっくりと話し始めた。
「病院でタキシード着たんだわ」
「白血病で、もうすっかり痩せてたから、肩んとこ余ってた」
恵は黙って聞いていた。
「それでも、お母さんに『きれいだ』って言ってくれたんだよ」
「咳するだけでも苦しそうだったのに、ずっと笑ってた」
雪の涙は止まらなかった。
「あなたが生まれて、一週間で亡くなった」
「本当に、短い時間だった」
「でもね」
雪は、涙を拭おうともせずに続けた。
「お母さん、幸せだったんだわ」
「お父さんと結婚できたことも」
「あなたを授かったことも」
「全部、お母さんの人生で一番大事なことだった」
恵の目にも涙がにじんだ。
「お母さん」
「何さ」
「ありがとう」
「何がさ」
「私を育ててくれて」
雪は首を振った。
「お母さん一人で育てたんでないよ」
「おじいちゃんも、おばあちゃんも、近所の人も、カフェのお客さんも」
「みんなが、あんたを育ててくれたんだわ」
「でも、一番頑張ったのはお母さんだべさ」
恵は雪の手を取った。
「私、覚えてるよ」
「大会で遠く行く日は、朝早く起きて弁当作ってくれたこと」
「遠征費足りない時、お母さんが夜まで働いてたこと」
「負けて帰ってきた時、何も言わんで温かいスープ出してくれたこと」
「全部、覚えてる」
「めぐ……」
「だからさ」
恵は、雪の手を強く握った。
「このドレス姿、お母さんに一番最初に見てほしかったんだわ」
雪は、もう涙をこらえられなかった。
娘を強く抱きしめる。
ウエディングドレスが少し崩れることも気にしなかった。
生まれたばかりの恵を抱いた時と同じように。
小さかった娘。
層一の腕の中に収まっていた娘。
その娘が今、自分より少し大きくなり、誰かと人生を歩こうとしている。
「立派になったねぇ」
雪は泣きながら言った。
「ほんとに、立派になったわ」
「お母さんが育ててくれたからだよ」
「違うよ」
雪は恵の頬へ触れた。
「あんたが、自分で頑張ったんだわ」
「何回転んでも立ち上がって」
「怖くても飛んで」
「自分の人生、ちゃんと歩いてきたんだよ」
光希は、少し離れた場所で二人を見守っていた。
やがて、雪が光希へ目を向ける。
「光希くん」
「はい」
「めぐのこと、よろしく頼むね」
光希は、深く頭を下げた。
「はい」
「必ず大切にします」
「競技で苦しい時も、暮らしの中で迷った時も、逃げないで隣にいます」
「二人で支え合って生きていきます」
雪は、静かにうなずいた。
「お父さんにも、そう伝えとくわ」
恵が壁の写真を見る。
「お父さん、見てるかな」
「見てるさ」
雪は迷わず答えた。
「今頃、大泣きしてるべさ」
「お父さん、泣き虫だったの?」
「ものすごかったよ」
「そうなの?」
「あなたが生まれた時も、誰より泣いてたんだわ」
雪は少し笑った。
「でも、『目にごみ入った』って言い張ってた」
「病室で?」
「病室でさ」
恵と光希が笑う。
雪も、涙を拭いながら笑った。
撮影スタッフが、静かにカメラを構えた。
「三人で、一枚撮りませんか」
雪が戸惑う。
「三人?」
「はい。お母さまと、お二人で」
「でも、私、普段着だよ」
恵は雪の腕を取った。
「そのままがいいんだって。一緒に撮ろ」
光希も反対側へ立つ。
三人は、カフェ雪の中央に並んだ。
背後には、層一の写真。
窓から差し込む春の光。
純白のドレス姿の恵。
タキシード姿の光希。
そして、二人をつないできた雪。
シャッターが切られた。
その瞬間。
雪には、層一も隣に立っているような気がした。
出来上がった写真
数週間後。
前撮り写真が完成した。
カフェ雪のテーブルの上に、厚いアルバムが置かれている。
恵と光希。
雪。
両家の家族が集まり、一ページずつめくっていった。
最初のページ。
思い出のジャンプ台を背景に並ぶ二人。
次のページ。
神居古潭の橋の上で、手を取り合う二人。
そして。
光希が転びかけ、恵が腕をつかんで支えている瞬間も、しっかりと残されていた。
「これ、消してって言ったしょ」
恵が言う。
光希は写真を見ながら笑った。
「いい写真だべ」
「光希はそう言うと思ったわ」
「夫婦らしいべさ」
「まだ夫婦になってないからね」
家族たちが笑う。
そして、最後のページ。
カフェ雪で撮った三人の写真。
中央に雪。
その両側に恵と光希。
背後には、層一の写真。
雪は、その一枚をじっと見つめた。
やがて、棚から古い写真を一枚取り出した。
病院内で行われた、雪と層一の結婚式。
車椅子に座った、痩せ細った層一。
その隣で、涙をこらえながら笑う若い雪。
二枚の写真が並ぶ。
過去の花嫁。
未来へ歩く花嫁。
短い夫婦の時間。
長い母娘の時間。
雪は指先で、層一の姿へそっと触れた。
「そうちゃん」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
「見て」
「めぐ、こんなにきれいになったよ」
恵は母の隣に座った。
光希も反対側へ腰を下ろした。
雪は二人の手を取った。
「あなたたちは、長く一緒にいなさいよ」
「勝った時だけでなくて、負けた時も」
「元気な時だけでなくて、病気の時も」
「楽しい時だけでなくて、苦しい時も」
「ちゃんと話して、ちゃんと支え合って」
「できるだけ長く、一緒に生きるんだよ」
恵はうなずいた。
「うん」
光希も強く答えた。
「はい」
雪は二人の手を重ねた。
「お父さんとお母さんは、短い時間しか一緒にいられなかった」
「でもね」
「愛した時間まで短かったわけでないんだわ」
「お母さんは今でも、ずっとお父さんを愛してる」
「だからこそ、あんたたちには、できるだけ長い時間を一緒に過ごしてほしいんだよ」
窓の外では、雪解けが進んでいた。
白一色だった大地から、少しずつ黒い土が見え始めている。
新しい春。
新しい家。
新しい家族。
恵の人生は、競技だけではない新しい舞台へ向かっていた。
そして雪もまた、娘を送り出す覚悟を少しずつ固めていた。
寂しさが消えることはない。
層一に会いたい気持ちも、これから先ずっと消えない。
それでも。
娘の幸せを見届けること。
それが今を生きる雪の、新しい夢になっていた。
第44話 終
次回予告
前撮りを終え、カフェ雪での挙式準備が本格的に始まる。
店内の片づけ。
招待客の選定。
料理の相談。
花の手配。
だが、恵と光希には、もう一つ大切なことが残されていた。
結婚式で交わす、誓いの言葉。
型どおりの言葉ではなく。
二人がこれまで歩いてきた道と、これから歩いていく未来を、自分たちの言葉で伝えたい。
一方、雪は、層一の遺品を整理する中で、一通の手紙を見つける。
封筒には、震える字でこう書かれていた。
「いつか、恵が結婚する日が来たら渡してほしい」
父から娘へ。
二十年以上の時を越えて届く言葉。
次回、
第45話「父からの手紙」
会えなかった時間を越えて。
お父さんは、娘の未来へ言葉を残していた




