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恵の物語  作者: リンダ


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新しい春へ

第73話 新しい春へ


 インスブルック・オリンピックから帰国して、数日が過ぎた。


 上川町を覆っていた雪は、まだ深い。


 けれど、昼間の日差しには、ほんのわずかに春の気配が混じり始めていた。


 軒先から落ちる雪解け水。


 屋根の端にできた透明なつらら。


 遠くの山々はまだ真っ白だったが、その空は少しずつ明るさを増している。


 上川家の居間では、恵と光希、そして雪が、こたつを囲んでいた。


 テーブルの上には、婚約発表後に届いた祝福の手紙や新聞記事、地元の人たちから贈られた花束の写真が並んでいる。


 恵はその一枚を手に取りながら、照れくさそうに笑った。


「まだ、なんか実感ないんだよね」


「何が?」


 雪が尋ねる。


「オリンピックで三つ金メダル取ったこともそうだけど……」


 恵は隣に座る光希をちらりと見た。


「私、結婚するんだなって」


 光希も少し気まずそうに視線をそらした。


「俺も、まだ信じられない」


「自分からプロポーズしたのに?」


「それとこれとは別だろ」


「別なの?」


「別だよ」


 恵が笑う。


 雪も、二人のやり取りを見ながら穏やかに微笑んだ。


 けれど、その直後。


 雪はテーブルの上に置いていた手帳を開いた。


「それで」


「うん?」


「結婚式、いつにするの?」


 恵と光希の動きが、同時に止まった。


「えっ」


「もう、その話?」


 雪は呆れたように二人を見る。


「婚約発表までしたんでしょう。いつまでも決めないわけにはいかないでしょう」


「いや、まあ、そうなんだけど」


 恵は光希を見る。


 光希も恵を見る。


 二人とも、競技中なら一瞬で判断できるはずなのに、こういう話になると急に反応が遅くなる。


「何、その譲り合い」


 雪が笑った。


「二人の結婚式なんだから、二人で決めなさい」


「でも、競技の予定もあるし」


 光希が真面目な顔に戻る。


「夏場はサマージャンプの大会がある。秋からは海外遠征も始まる可能性があるし、冬は当然ワールドカップがある」


 恵もうなずいた。


「私も同じ。オリンピックが終わったからって、すぐ休めるわけじゃないもんね」


「だからこそ、早めに決めるんでしょう」


 雪は手帳を二人の前へ差し出した。


「お母さん、少し調べてみたの」


「もう?」


「当然です」


 手帳には、候補となる日程がいくつか書き込まれていた。


 夏の大会日程。


 強化合宿。


 海外遠征の可能性。


 休養期間。


 そして、二人の家族が集まりやすい時期。


 その中で、雪が丸をつけていたのは――


 九月だった。


「二〇四二年九月」


 雪は指先で日付を示した。


「敬老の日を中心に、前後の日程を組むのが一番よさそうなの」


 恵はカレンダーをのぞき込む。


「敬老の日って、九月十五日?」


「二〇四二年は九月十五日の月曜日になるみたい」


 その年の敬老の日は、九月十五日。


 三連休になる。


「土曜日に両家が集まって、日曜日に前夜の食事会。月曜日に挙式という形もできるし」


 雪が続ける。


「あるいは、敬老の日の前日に挙式して、翌日は家族でゆっくり過ごすこともできる」


 光希は少し考え込んだ。


「九月なら、冬のシーズン前だな」


「うん。トレーニングは続いてるけど、大きな国際大会が入らなければ調整できそう」


 恵もカレンダーを見つめた。


「それに、敬老の日っていうのもいいかも」


「どうして?」


 光希が尋ねる。


 恵は、仏間の方向を見た。


 そこには、父・層一の遺影がある。


「家族の日って感じがするから」


 雪も、恵の視線の先に気づいた。


「お父さんにも、ちゃんと見てもらえるね」


「うん」


 恵は静かにうなずいた。


「おじいちゃん、おばあちゃんも集まりやすいし。今まで支えてくれた家族に感謝する日にできる」


 光希は恵の言葉を聞き、ゆっくりとうなずいた。


「じゃあ、九月十五日を第一候補にしよう」


「本当に?」


「ああ」


 恵の表情が明るくなる。


「決まり?」


「まだ式場も空いてるか分からないし、家族の予定も確認しないといけないけど」


「でも、第一候補」


「第一候補」


 二人は顔を見合わせた。


 雪は手帳に、大きく丸を書き足した。


 二〇四二年九月十五日。


 敬老の日。


 その日が、二人の人生にとって、新しい記念日になるかもしれない。


 だが、日程を決めただけでは終わらない。


 次に待っているのは、新居探しだった。


◆ 新居はどこにする?


「それで、家はどうするの?」


 雪の次の質問に、恵はまた固まった。


「結婚式より先に、そっちを決めないといけないんじゃない?」


「そうだった」


 恵は額に手を当てた。


「結婚するって、決めること多いね」


「今さら気づいたのか」


 光希が苦笑する。


 現在、恵は上川町の実家を拠点にしながら、札幌や旭川、海外を行き来している。


 光希もまた、競技拠点と実家、合宿先を行き来する生活だ。


 二人とも、年間の半分近くを遠征先で過ごす。


 だから、新居には普通の夫婦とは違う条件が必要だった。


 空港へのアクセス。


 トレーニング施設への距離。


 スキー板や競技用具を保管できる十分な収納。


 体のケアができるスペース。


 そして、遠征から戻ったときに、心から休める場所。


「札幌?」


 恵が言った。


「札幌なら、空港にも行きやすいし、医療施設もトレーニング施設も揃ってる」


「でも、上川から離れるな」


 光希が雪を見る。


 雪は静かに笑った。


「私は大丈夫よ」


「でも」


「めぐ」


 雪は、娘の言葉を遮るように優しく呼んだ。


「あなたは、これから光希くんと生活するの」


「お母さんのために、場所を決める必要はないのよ」


 恵は黙り込んだ。


「でも、札幌まで行ったら、すぐには帰れないし」


「何時間もかかる遠い外国へ行くわけじゃないでしょう」


「まあ、そうだけど」


「それに、あなたたちはどうせ一年中、世界中を飛び回るんだから」


 雪は冗談めかして言った。


「上川に住んでも、札幌に住んでも、家にいない時は同じでしょう」


 光希が思わず笑った。


「確かに」


「ちょっと、そこで納得しないでよ」


 恵が光希の腕を軽く叩く。


「でも、札幌だけじゃなくて、旭川も候補にしていいと思う」


 光希は地図を広げた。


「旭川なら上川にも近い。空港もあるし、競技施設への移動もしやすい」


「札幌より落ち着いて暮らせそうだよね」


「家も広めのところを探せるかもしれない」


「スキー板、何本置くつもり?」


「恵の分も合わせたら、かなり必要だろ」


「確かに」


 二人は地図の上に候補地を書き込んでいく。


 札幌市内。


 旭川市内。


 上川町から通える近郊。


 場合によっては、競技拠点の近くにマンションを借り、上川の家も行き来する二拠点生活。


 雪はそんな二人を見ながら、少しだけ寂しさを覚えていた。


 生まれたばかりの恵を抱きしめた日。


 夜泣きが止まらず、二人で朝まで起きていた日。


 初めて歩いた日。


 初めてスキー板を履いた日。


 転んでは立ち上がり、泣いては笑ってきた日々。


 その娘が今、自分の家を出て、新しい家庭を築こうとしている。


 寂しくないわけではない。


 けれど、それ以上に誇らしかった。


「まずは、旭川から見てみる?」


 恵が光希に尋ねる。


「そうしよう。上川にも帰りやすいし、現実的だと思う」


「じゃあ、明日、不動産屋さんに連絡してみる」


「明日?」


 光希が驚く。


「早い方がいいでしょ」


「さっきまで何も決まってなかったのに、急に速くなったな」


「ジャンプも家探しも、踏み切りが大事なの」


「同じにするなよ」


 雪が吹き出した。


 層一の遺影も、どこか楽しそうに笑っているように見えた。


◆ 二人の条件


 翌日。


 恵と光希は旭川市内の不動産会社を訪れた。


 婚約発表を終えたばかりの二人が店内へ入ると、担当者は一瞬、言葉を失った。


「上川恵選手と、青柳光希選手……ですよね?」


「はい」


「新居を探していまして」


 光希が答えると、担当者はさらに驚いた。


「本当にご結婚されるんですね」


「テレビで発表したばかりなので、本当です」


 恵が笑う。


 担当者も緊張しながら、条件を聞き始めた。


「ご希望の間取りは?」


 恵と光希は顔を見合わせた。


「三部屋くらい?」


「いや、競技用具の部屋が必要だろ」


「じゃあ四部屋?」


「ケアルームも欲しい」


「待って。家の半分が競技用になってない?」


「現役中は仕方ないだろ」


 担当者が慎重に確認する。


「では、四LDK以上で、収納が広く、トレーニングやケアに使える部屋がある物件ということでしょうか」


「あと、スキー板を置ける場所」


「乾燥室があると助かります」


「駐車場は二台分」


「空港や駅へのアクセスも重視したいです」


 担当者は次々にメモを取る。


「普通の新婚家庭とは、少し違いますね」


「自覚はあります」


 光希が真顔で答えた。


 数件の物件を見学したあと、最後に案内されたのは、旭川郊外の一戸建てだった。


 広い玄関。


 競技用具を保管できる土間収納。


 一階には、ストレッチやマッサージに使える洋室。


 二階には寝室と、将来子ども部屋にもできる二つの部屋。


 窓の外には、遠く大雪山系を望むことができた。


 恵はリビングの中央に立ち、ゆっくりと辺りを見回した。


「ここ、いいね」


「ああ」


 光希も窓の外を見る。


「山が見える」


「雪も近い」


「上川にも帰りやすい」


 恵は、まだ家具も置かれていない部屋を見つめた。


 ここにテーブルを置く。


 壁にはオリンピックの写真ではなく、二人の日常の写真を飾る。


 遠征から戻った夜には、ソファに座って温かい飲み物を飲む。


 勝った日も、負けた日も、ここへ帰ってくる。


 そんな未来が、少しずつ形を持ち始めていた。


「ここで暮らす?」


 恵が尋ねる。


 光希はすぐには答えず、部屋の中をもう一度見渡した。


 そして、恵の隣へ立つ。


「ここから始めよう」


 恵は笑った。


「うん」


◆ 両家への報告


 その夜。


 上川家に、両家の家族が集まった。


 テーブルの中央には、雪が用意した料理が並んでいる。


 恵と光希は、新居の資料と、結婚式の日程候補を家族へ見せた。


「第一候補は、二〇四二年九月十五日」


 光希が説明する。


「敬老の日に挙式したいと思っています」


 家族たちは、一瞬驚いたあと、穏やかにうなずいた。


「いい日だね」


「家族みんなで集まりやすい」


「層一さんも、きっと喜ぶよ」


 その言葉に、雪は仏間へ視線を向けた。


「そうね」


 恵も同じ方向を見る。


「お父さんにも、一番近い席を用意する」


 光希が続ける。


「式の会場には、層一さんの写真も置きたいです」


 雪は目を潤ませた。


「ありがとう、光希くん」


「当然です」


 光希は真っすぐ答えた。


「恵のお父さんですから」


 恵はテーブルの下で、そっと光希の手を握った。


 新居も決まった。


 挙式の第一候補日も決まった。


 まだ正式な契約も、会場の予約も終わってはいない。


 それでも、二人の未来は確かに動き始めていた。


 金メダルの先にあるもの。


 それは、競技の記録ではない。


 勝敗でもない。


 誰かと一緒に暮らし、支え合い、帰る場所を作ること。


 人生という、終わりのない競技のスタートラインだった。


 夜が更けたあと。


 雪は一人で仏壇の前に座った。


「そうちゃん」


 遺影に向かって、静かに微笑む。


「九月十五日だって」


「めぐの花嫁姿、ちゃんと見ていてね」


 窓の外では、春を待つ雪が、月明かりを受けて白く輝いていた。


 雪は遺影を見つめ、もう一度つぶやいた。


「私たちの娘が、新しい家族を作るよ」


「寂しいけど……うれしいね」


 返事はない。


 けれど、その静けさは、決して孤独ではなかった。


 層一と雪が守り、育ててきた命が、今度は誰かと手を取り合い、新しい未来へ踏み出そうとしている。


 春は、まだ遠い。


 それでも、新しい季節は確かに始まっていた。



第43話 終


次回予告


 新居が決まり、挙式の第一候補日は二〇四二年九月十五日。


 だが、現役アスリート同士の結婚準備は、そう簡単には進まない。


 サマージャンプ大会。


 強化合宿。


 スポンサーとの調整。


 海外遠征の予定。


 さらに、式場側から告げられたのは――


「敬老の日は、すでに予約が入っています」


 第一候補の日程に、思わぬ壁。


 それでも恵と光希は、家族全員が集まれる結婚式を諦めない。


 そして雪は、ウエディングドレスを試着する娘の姿を前に、亡き層一との短い結婚生活を思い出す。


 次回、


第44話「花嫁になる日」


 母から娘へ。


 受け継がれるのは、ドレスだけではない。

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