雪の中のプロポーズ
『恵の物語』
第70話 雪の中のプロポーズ
インスブルックオリンピック。
すべての競技が終わった。
上川恵は、女子スキージャンプで二大会連続三冠。
青柳光希は、ノルディック複合で金メダル二個、銀メダル一個。
二人は、それぞれの競技で世界の頂点に立った。
何年も積み重ねてきた練習。
厳しい遠征。
届かなかった表彰台。
負けた悔しさ。
故障への不安。
高地で息を切らした日々。
そして、仲間とつないだ金メダル。
それらすべてが終わり、選手村には少しずつ大会の終わりを告げる静けさが戻り始めていた。
だが、光希には、まだ一つだけ終わっていない勝負があった。
選手村の部屋。
机の引き出し。
奥に隠していた、小さな紺色の箱。
競技中よりも長く感じる数秒のために、光希はその箱を持って、恵のもとへ向かった。
⸻
閉会式の前日
閉会式を翌日に控えた夕方。
インスブルックの街には、細かな雪が降っていた。
大会期間中、多くの歓声に包まれていたジャンプ台も、今は静かだった。
照明に照らされた雪が、ゆっくりと夜の空から落ちてくる。
恵はジャンプ台の近くに立っていた。
競技用のスーツではない。
日本代表のジャケットに、厚手のマフラー。
足元には雪用のブーツ。
首にはメダルを掛けていなかった。
今日の恵は、二大会連続三冠の女王ではない。
ただ、すべての競技を終えた一人の女性だった。
「きれいだべな」
恵は、静かなジャンプ台を見上げた。
数日前。
あの場所から飛び出し、百四十三・五メートルを記録した。
空と同じバッケンレコード。
金メダル。
その後のミックス団体でも、日本の仲間とつないだ。
競技中は、風を読むことに集中していた。
助走。
踏切り。
空中姿勢。
着地。
だが、今はただ、巨大なジャンプ台の姿を見ていられる。
そこへ、雪を踏む足音が近づいてきた。
恵が振り返る。
光希だった。
「光希」
呼びかけても、返事がない。
光希は、数メートル手前で立ち止まった。
その顔を見た恵は、首を傾げる。
競技中でも見たことがないほど、表情が硬い。
クロスカントリーで五十九秒差を追う時も。
フェリックスと〇・三秒差を争った時も。
団体戦で最後の五十メートルをスパートした時も。
ここまで緊張した顔はしていなかった。
「うん?」
恵が光希の前へ歩み寄る。
「どうした?なんかあった?」
光希は口を開いた。
「いや、その……」
言葉が続かない。
「体調悪い?」
「違うべ」
「誰か怪我した?」
「違う」
「メダルなくした?」
「なくしてないべ!」
ようやく少し大きな声が出た。
だが、その直後、また黙る。
恵はますます不思議そうな顔をする。
「じゃあ、何だべ?」
光希の右手は、ジャケットのポケットの中に入っている。
中には、小さな紺色の箱。
何度も頭の中で練習した。
競技が終わったら。
雪の降る場所で。
ジャンプ台を見ながら。
恵へ、自分の気持ちを伝える。
言葉も考えた。
何度も繰り返した。
だが、いざ恵の前へ立つと、その言葉がすべて消えていた。
⸻
世界一緊張する一言
光希は、深く息を吸った。
クロスカントリーのスタート前と同じように。
だが、心拍は競技の時より速い気がする。
「恵」
「ん?」
「その……俺たち、ずっと一緒に競技してきたべ」
「んだな」
「高校の時から」
「んだ」
「遠征も、練習も、大会も……」
恵は黙って聞いている。
光希は、さらに緊張した。
恵が真剣に聞いてくれている。
それが余計に怖い。
「俺、恵がジャンプ飛んでる時、ずっと見てきて」
「うん」
「恵も、俺が走ってるところ見てくれて」
「うん」
「その……これからも、見ててほしくて」
ここまでは言えた。
だが、肝心の言葉が出てこない。
光希は、ポケットの中で箱を握りしめた。
「俺と……」
声が裏返る。
恵が少し目を見開く。
「俺と、け、けけけ……」
「け?」
「けっ……けっ……」
恵は、さすがに察し始めた。
頬が少しずつ赤くなる。
だが、光希は自分のことで精いっぱいで、気づいていない。
「けっこん……して……」
途中で言葉が切れた。
光希は一度目を閉じる。
もう一度。
「俺と、けっこ、結婚してくだ……くだ、くださ……」
噛んだ。
完全に噛んだ。
恵は、口元を押さえた。
光希は、さらに焦る。
「違う、違わないべ。結婚してほしいんだべ。いや、してほしいです。いや、してください。いや、その……」
言葉がどんどん崩れていく。
競技中なら、風向きが変わっても冷静に修正できる。
クロスカントリーで相手が仕掛けても、状況を見て対応できる。
だが、今は何一つ修正できない。
光希はついに、ポケットから紺色の箱を取り出した。
手が震えている。
箱を開く。
中には、雪明かりを反射する指輪。
光希は、ほとんど勢いだけで言った。
「恵。俺と結婚してください!」
今度は、噛まなかった。
ただし、顔は緊張で完全に固まっていた。
⸻
見せたくなかった顔
恵は、その場で両手を顔へ当てた。
返事がない。
光希の心臓が、さらに強く鳴る。
「恵?」
恵は顔を隠したまま、少し横を向く。
光希から見えないように。
頬も。
耳も。
首元まで。
真っ赤に紅潮していた。
競技で優勝しても、ここまで顔が赤くなったことはない。
世界中の観客が見守る中でジャンプ台へ座ることはできる。
百四十三メートル先へ飛び出すこともできる。
だが、今の顔を光希へ見せることだけは、どうしても恥ずかしかった。
「恵……」
光希の声が少し不安になる。
「嫌だったべか?」
その一言を聞いた瞬間、恵は顔を隠したまま首を振った。
強く。
何度も。
「違う」
「じゃあ……」
「ちょっと待って」
声まで震えている。
「今、顔見せられん」
「何で?」
「真っ赤だから」
「見たいべ」
「絶対嫌だべ!」
恵は顔を隠したまま、さらに背中を向けようとする。
光希は、ようやく少しだけ緊張が解けた。
断られるわけではない。
そのことが分かっただけで、膝から力が抜けそうになる。
「返事は?」
「今する」
「顔隠したまま?」
「今はこれでいいべ!」
恵は、両手の間から少しだけ光希を見た。
だが目が合った瞬間、またすぐに隠す。
「光希」
「ん」
「ありがとう」
声は小さかった。
だが、はっきり届いた。
「うちでよければ」
少し間を置く。
「これからも、よろしくね」
光希は、しばらく動けなかった。
頭の中で、恵の言葉をもう一度確認する。
これからも、よろしく。
それは、答えだった。
「本当に?」
「本当だべ」
「結婚してくれる?」
「何回言わせるべ!」
恵は顔を隠したまま笑った。
そして次の瞬間。
両手を下ろすより先に、光希へ飛びついた。
⸻
雪の中の約束
恵が光希へ抱きつく。
光希は一瞬よろめきながらも、しっかり受け止めた。
「ありがとう」
恵が、光希の胸元で言う。
「うちを選んでくれて、ありがとう」
光希の腕が、恵の背中へ回る。
「俺の方こそ」
「これからも、よろしくね」
「んだ」
「競技でも」
「んだ」
「競技をやめた後も」
「んだ」
「おじいちゃんとおばあちゃんになっても」
光希は少し笑う。
「そこまで行くべ」
「途中で置いていくなだべ」
「置いていかない」
雪が、二人の肩へ静かに積もっていく。
ジャンプ台の照明が、白い斜面を照らしている。
世界一を争った場所。
何度も怖さを乗り越えた場所。
風を読み、踏切り、飛び出した場所。
その前で、二人は競技とは違う未来へ踏み出した。
光希が、少し体を離す。
「指輪、つけていいべか?」
恵はようやく顔を上げた。
まだ真っ赤だった。
目にも涙が浮かんでいる。
「見るな」
「もう見えてるべ」
「忘れろ」
「無理だべ」
「今すぐ忘れろだべ!」
光希は笑いながら、恵の左手を取った。
手袋を外してもらう。
震えているのは、寒さのせいだけではない。
光希も緊張している。
指輪を落とさないよう、慎重に持つ。
だが、緊張しすぎて、最初は違う指へ入れようとした。
恵が止める。
「そこじゃないべ」
「分かってる!」
「分かってないべ!」
「緊張してるんだべ!」
「競技より緊張してるべか?」
「比べものにならんべ!」
二人は笑った。
光希はあらためて、恵の左手の薬指へ指輪を通した。
大きすぎない。
小さすぎない。
ぴったりだった。
恵は指輪を見つめる。
「いつ買ったべ?」
「大会前」
「選手村まで持ってきた?」
「んだ」
「なくしたらどうするつもりだったべ」
「メダルより厳重に管理した」
「それはそれでどうなんだべ」
また笑いが起こる。
だが、すぐに恵の目から涙がこぼれた。
「嬉しい」
光希は、その涙を指で拭う。
「俺も」
「泣いてないべ」
「泣いてる」
「雪が目に入っただけ」
「横から降ってないべ」
「今日だけ横から降ってるべ」
「無理あるべ」
恵は、もう一度光希へ抱きついた。
⸻
家族への報告
二人は、まず家族へ伝えることにした。
最初に雪。
電話をかけると、雪はホテルの部屋にいた。
「もしもし、めぐ?」
「お母さん」
「どうしたの?こんな時間に」
恵は光希を見る。
さっきまであれほど真っ赤だったのに、家族へ報告する段階になると急に恥ずかしさが戻ってくる。
「その……」
光希が小声で言う。
「言えないなら俺が」
恵は首を振る。
「うちが言う」
電話の向こうで、雪が待っている。
「お母さん」
「うん」
「うち、光希と結婚することになったべ」
数秒の沈黙。
「え?」
「結婚する」
「今?」
「今じゃないべ!婚約したってこと!」
雪の声が、一気に明るくなる。
「本当に!?」
「んだ」
「光希くん、ちゃんと言ったの?」
恵は、光希の顔を見る。
先ほどのカミカミの光景を思い出す。
「一応」
光希
「一応って何だべ!」
雪
「光希くん、そこにいるの?」
「います」
「おめでとう。めぐを、よろしくお願いします」
光希は電話へ向かって深く頭を下げた。
「はい。必ず大切にします」
雪は泣きながら笑っていた。
「そうちゃんにも、報告しなくちゃね」
恵の表情が柔らかくなる。
「んだな」
雪は、層一の写真を電話の近くへ置いた。
「そうちゃん。めぐ、光希くんと結婚するんだって」
恵は電話越しに言う。
「お父さん。うち、光希と一緒に生きていくべ」
光希も続ける。
「層一さん。恵を幸せにします」
雪がすぐに返す。
「二人で幸せになるんだよ。どちらか一人が幸せにするんじゃなくて」
二人は同時に頷いた。
「んだ」
「はい」
⸻
続いて、光希の両親。
母は電話口で泣いた。
父は最初こそ落ち着いていたが、光希の声を聞くうちに、だんだん声を詰まらせた。
「そうか。決めたか」
「んだ」
「恵さん」
「はい」
「不器用な息子だけど、よろしくお願いします」
恵は笑う。
「今日、よく分かりました」
光希
「何がだべ」
恵
「めちゃくちゃ不器用だってこと」
母が尋ねる。
「光希、ちゃんとプロポーズできたの?」
恵は少し考える。
「最後はできました」
「最後は?」
光希
「そこ詳しく言わなくていいべ!」
恵
「最初、けけけけってなってたべ」
電話の向こうで、両親が笑う。
光希は頭を抱えた。
「もう報告終わりでいいべ!」
⸻
仲間たちの反応
翌朝。
日本代表の食堂。
恵と光希が並んで入ってくる。
空が最初に、恵の左手へ気づいた。
「ちょっと待って」
恵は反射的に手を後ろへ隠す。
遅かった。
空が立ち上がる。
「それ、指輪?」
相田も振り返る。
「え?」
佐々木が、光希の顔を見る。
「まさか」
森崎が声を上げる。
「プロポーズしたんですか?」
食堂中の視線が、二人へ集まる。
恵は顔を赤くする。
光希も同じくらい赤くなる。
空が近づく。
「ねえ、返事は?」
恵が小さく言う。
「受けたべ」
次の瞬間。
日本代表の食堂が大歓声に包まれた。
「おめでとう!」
「やったな!」
「ついに!」
相田が光希の肩を叩く。
「金メダルより緊張しました?」
光希は即答する。
「比べものにならん」
佐々木が笑う。
「噛んだだろ」
光希は黙った。
その沈黙だけで答えになった。
森崎
「どれくらい噛みました?」
恵が再現する。
「俺と、けけけけ、けっこんしてくだ、くだ、くださ……」
食堂が爆笑に包まれる。
光希
「再現するなだべ!」
空は腹を抱えている。
「光希さん、クロスカントリーのラストスパートより言葉出てない!」
相田
「フェリックスの後ろにはつけても、結婚の“け”から前に出られなかったんすね」
光希
「うまいこと言うな!」
佐々木
「最後の五十メートルじゃなくて、最後の五文字でスパートしたのか」
また大爆笑。
恵も笑いながら、光希の隣へ立っていた。
その左手には、指輪が光っていた。
⸻
閉会式
夜。
閉会式。
オリンピックスタジアムには、世界中の選手たちが集まっていた。
競技を終えた選手たちは、開会式の時より柔らかな表情をしている。
メダルを取った選手。
届かなかった選手。
怪我で途中棄権した選手。
自己最高を更新した選手。
思うような結果を残せなかった選手。
それぞれが、同じ会場で大会の終わりを迎える。
恵と光希は、日本選手団の中を並んで歩いていた。
手はつないでいない。
だが、何度も目が合う。
そのたびに、二人は少し照れたように笑う。
空が後ろから言う。
「婚約したなら、もう少し堂々とすればいいのに」
恵
「閉会式中だべ」
相田
「競技じゃないっすよ」
光希
「だから余計恥ずかしいんだべ」
佐々木
「ジャンプ台の前では堂々とできたのか?」
恵が笑う。
「光希の顔、全然堂々としてなかったべ」
光希
「もうその話やめろだべ!」
聖火がゆっくりと消えていく。
インスブルックの夜空へ、最後の花火が上がる。
恵は、左手の指輪へ触れた。
大会は終わる。
だが、二人の人生はここから続いていく。
世界一を争う日々も。
結果が出ない日も。
競技を引退した後も。
二人は並んで歩いていく。
⸻
後年の自叙伝
それから長い年月が過ぎた後。
恵は、自らの競技人生を振り返る自叙伝を出版した。
オリンピック。
世界選手権。
ワールドカップ。
母・雪。
父・層一。
光希。
仲間たち。
数々の記録と、その裏側にあった不安や迷い。
その中には、インスブルックでのプロポーズについて書かれた章もあった。
恵は、こう記している。
光希は、競技中でも見たことがないくらい緊張していた。
五十九秒差を追う時よりも、団体戦のアンカーを走る時よりも、顔が固まっていた。
「結婚」の最初の一文字が、なかなか出てこなかった。
あの時の光希の顔は、正直に言えば埴輪みたいだった。
その一文は、出版直後から大きな話題となった。
光希は取材で尋ねられる。
「埴輪みたいだったと書かれていますが」
光希は、しばらく黙った後に答えた。
「本人がそう見えたなら、そうだったんでないべか」
記者席に笑いが起こる。
隣にいた恵が、さらに付け加えた。
「口だけちょっと開いて、目が完全に止まってたべ」
光希
「細かく説明するなだべ!」
恵
「でも、今まで見た中で一番かわいかったべ」
光希は何も言い返せなくなった。
記者席から、温かな笑いと拍手が起こった。
⸻
インスブルックのジャンプ台
二人が約束を交わした場所。
雪の降るインスブルック。
ラージヒルのジャンプ台。
競技では、飛び出すための場所だった。
だが、二人にとっては、人生をともに歩き始める場所にもなった。
世界一を決める大会の終わり。
誰にも順位をつけられない、二人だけの約束。
光希は、震える手で指輪を差し出した。
恵は真っ赤になった顔を隠した。
そして最後は、笑いながら抱き合った。
その夜に交わした言葉は、メダルの色よりも長く、二人の人生に残り続けることになる。
「これからも、よろしくね」
「んだ。ずっと一緒だべ」
雪は、静かに降り続いていた。
⸻
次回予告
インスブルックのジャンプ台前。
光希は、競技中にも見せなかった緊張した顔で、恵へプロポーズした。
何度も言葉を噛みながら、それでも最後には、はっきりと思いを伝えた。
恵は顔を真っ赤にし、光希へ抱きつく。
二人は家族と仲間へ婚約を報告。
閉会式を終え、インスブルックを離れる。
だが、日本へ帰れば、祝福だけが待っているわけではない。
世界中のメディア。
記者会見。
結婚時期への質問。
競技との両立。
新居。
家族への正式な挨拶。
そして、次のシーズンへ向けたトレーニング。
次回、
第41話 金メダルのその先へ
人生は、表彰台を降りた後も続いていく。




