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恵の物語  作者: リンダ


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最後の一キロへ

『恵の物語』


第34話 最後の一キロへ


インスブルックオリンピック。


女子ノーマルヒルで恵が二大会連続の金メダルを獲得した翌日。


今度は、光希にとって忘れられない一日が始まる。


ノルディック複合個人ノーマルヒル。


初めて立つオリンピックのスタートラインだった。



静かな朝


まだ夜が明けきらない選手村。


窓の外では、アルプスの山々が薄い朝焼けに染まり始めていた。


光希は静かに目を覚ます。


目覚まし時計より先だった。


深呼吸を一つ。


窓を少し開ける。


冷たい空気が部屋へ流れ込む。


「今日だべ…」


ベッドの脇には、日本代表のウェア。


机にはワックスデータ。


雪温。


気温。


湿度。


コース図。


そして引き出しの奥には、小さな紺色の箱。


光希は一瞬だけその箱へ目を向けた。


しかし、すぐに引き出しを閉める。


「まだだ。」


「まずは競技。」



朝食会場


選手村の食堂。


恵が先に席へ座っていた。


「おはよう。」


「おはようだべ。」


恵は笑顔だった。


昨日、金メダルを取った人とは思えないほど、いつもの恵だった。


「眠れた?」


「ちょっとだけ。」


「うちも前の日そうだった。」


光希は苦笑した。


「やっぱり?」


「みんな同じだべ。」


二人は静かに朝食を食べる。


オートミール。


卵。


サラダ。


パン。


果物。


ラーシュとコスキネンも合流する。


ラーシュが言う。


「今日は勝とうと思うな。」


光希が顔を上げる。


「え?」


「今日やることは一つだけ。」


ラーシュは胸を指差した。


「昨日まで積み上げてきた滑りをするだけだ。」


コスキネンも頷く。


「恵も昨日そうだったべ。」


恵は笑う。


「金メダル取りに行くじゃなくて、自分のジャンプしに行っただけだべ。」


光希は深く頷いた。



ジャンプ会場


ノーマルヒル。


複合の前半ジャンプ。


フェリックス・アドラー。


ヨハン・ベルグ。


ルーカス・シュタイナー。


世界の強豪が次々と飛ぶ。


フェリックスは百二メートル。


トップ。


実況席。


「さすがフェリックス・アドラー!


ジャンプでも世界トップクラスです!」


ラーシュは静かだった。


「光希。」


「はい。」


「フェリックスを見るな。」


「え?」


「見るのは風だけ。」


光希は頷く。


スタートバーへ座る。


昨日の恵を思い出す。


見る。


最後まで見る。


風を見る。


旗を見る。


雪煙を見る。


遠くの木を見る。


そして。


スタート。


踏切。


空中。


風が少し浮かせる。


その瞬間。


ほんの少し板を開く。


百三メートル。


日本応援席がどよめいた。


実況。


「飛んだ!!


光希、トップです!!」


ラーシュは笑わない。


「よし。」


それだけだった。


前半終了。


一位 光希


二位 フェリックス


差は十八秒。



クロスカントリー


十キロ。


最初の一周。


光希は飛ばない。


ラーシュの指示。


「最後まで脚を残せ。」


フェリックスも動かない。


二人とも互いを見ている。


二周目。


三周目。


少しずつ差が縮まる。


十八秒。


十五秒。


十二秒。


実況。


「フェリックスが追い上げています!」


スタンド。


恵が思わず立ち上がる。


「光希…。」


雪も手を握る。


「頑張れ…。」



残り三キロ


フェリックスとの差。


八秒。


ラーシュが叫ぶ。


「まだだ!」


光希は頷く。


まだ行かない。


高地トレーニング。


空気の薄い山。


息ができなかった日。


脚が動かなかった日。


全部思い出す。


「最後まで残せ。」


その言葉だけを信じる。



残り一キロ


実況席。


「フェリックスとの差は五秒!」


世界中が立ち上がる。


残り九百メートル。


四秒。


残り八百。


三秒。


フェリックスが真後ろまで来た。


スタンド。


「追いつく!」


「アドラーだ!」


ラーシュが叫ぶ。


「今だ!!」


光希の目が変わった。


(ここだ。)


今まで我慢していた脚。


残していた腕。


呼吸。


全部解放する。


スケーティングが一段変わる。


実況。


「速い!!」


「光希、もう一段ギアを上げた!!」


フェリックスも驚く。


「What!?」


さらに加速。


残り六百。


差が再び五秒。


フェリックスも追う。


だが。


光希は止まらない。


残り四百。


七秒。


残り二百。


十秒。


実況席。


「これは強い!!」


「終盤で逆に突き放した!!」


恵が涙ぐむ。


「光希…。」


雪は層一の写真を胸へ抱いた。


「そうちゃん…。


見てる?」



ゴール


光希がトップで飛び込む。


金メダル。


初めてのオリンピック。


初めての金メダル。


両腕を大きく広げた。


その瞬間。


恵が観客席から涙を流して拍手していた。


ラーシュは珍しく笑った。


「Perfect。」


フェリックスもゴール後、


光希へ歩み寄る。


握手。


「Today…


You were stronger.」


光希も笑う。


「ありがとう。」


「次も負けない。」


「俺も。」


スポーツマンらしい握手だった。



家族の涙


雪は涙が止まらなかった。


「二人とも…。


本当に世界一になった。」


光希の両親も抱き合って泣いていた。


祖父母。


旭川東高校の仲間。


日本応援団。


全員が立ち上がる。


恵はスタンドから小さく親指を立てた。


光希もゴールエリアから親指を返した。


二人だけに分かる合図だった。


「約束、守ったべ。」



その夜。


選手村。


光希は金メダルを机へ置いた。


引き出しを開ける。


そこには、小さな紺色の箱。


光希はそっと箱を手に取った。


「あと少し。」


競技はまだ終わっていない。


ラージヒル。


団体。


すべて終わったら。


その時、この箱を開けよう。


そう静かに決意するのだった。



次回予告


オリンピック前半戦。


恵は金メダル。


光希も金メダル。


日本代表は最高のスタートを切った。


だが、本当の勝負はここから。


女子ラージヒル。


ノルディック複合ラージヒル。


そして団体戦。


世界中のライバルたちは、さらに攻めてくる。


フェリックス・アドラーは静かに笑う。


「次は、私の番だ。」


一方、光希のポケットには、誰にも言えない小さな箱。


競技が終わったその先に待つ、新しい人生への挑戦。


次回、


第35話 金メダルの、その先へ


世界一になっても、人生はまだ続いていく。

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