女王の最初の一本
『恵の物語』
第33話 女王の最初の一本
インスブルックオリンピック。
女子スキージャンプ、ノーマルヒル決勝。
前回大会で三つの金メダルを獲得した上川恵にとって、二度目のオリンピックで最初に迎える競技だった。
この四年間、世界中の選手が恵を追い続けてきた。
踏切りの角度。
助走姿勢。
空中での体の傾き。
腕の開き方。
板の先端を安定させる体幹。
着地へ入る直前の膝の準備。
恵の映像は何度も分析され、その飛型を研究した選手たちは、それぞれの体格に合わせて新たな形へ進化させていた。
恵型ジャンプ。
いつしか世界でそう呼ばれるようになった技術は、もう恵一人だけのものではなかった。
それでも、恵は焦らない。
形は研究できる。
映像も数値も分析できる。
だが、その日の風と話しながら、空中でほんのわずかに姿勢を変える感覚までは、簡単にはコピーできない。
そして恵には、もう一つの武器があった。
相手を見る力。
相手が何を考え、自分をどう見ているのかを読む力。
その力は、この日の試技からすでに使われていた。
⸻
あえて伸ばさない試技
本番前の試技。
スタンドには、世界各国の観客が詰めかけていた。
雪と光希の両親。
両家の祖父母。
旭川東高校の卒業生たち。
応援旗も大きく広げられている。
最後まで見ろ。風は味方だ。
その横には、相変わらず目立つ文字。
数学より遠くへ飛べ。
雪は胸ポケットに層一の写真を入れ、ジャンプ台を見上げていた。
「そうちゃん。めぐの最初の競技、始まるよ」
層一の写真は、雪の胸元から娘のジャンプ台を見つめている。
一方、翌日にノルディック複合の初戦を控えた光希も、代表チームの関係者席にいた。
ラーシュは光希へ尋ねる。
「恵の試技、どう見る?」
「飛距離だけでは見ないべ」
光希は即答した。
「どこで風を受けるか。踏切りの入り方。着地前の余裕。そこを見るべ」
ラーシュは満足そうに頷く。
「君も分かるようになったな」
「恵の試技は、勝負じゃないべ」
光希はジャンプ台を見上げた。
「情報を取りにいく一本だべ」
⸻
試技では、海外の有力選手が次々と大きな飛距離を記録していた。
ノルウェーの新鋭、イングリッド・ラーセン。
飛距離、102メートル。
オーストリアのハンナ・グルーバー。
103メートル。
カナダのエミリー・マクレガー。
102.5メートル。
フィンランドの若手、エリナ・ラウタヴァーラ。
103.5メートル。
試技とは思えないほど、各国の選手が積極的に飛距離を狙っていた。
実況も、その好調ぶりを伝える。
実況
「海外勢が非常にいい飛距離を出しています。前回王者・上川恵を倒そうという意気込みが、試技から伝わってきます」
解説
「ただ、本番前の試技です。ここでどれだけ力を使うかは、選手やチームによって考え方が違います」
やがて、恵の順番が来た。
スタートバーへ座る。
眼下に広がる着地斜面。
観客席。
風の旗。
中腹の雪煙。
恵は一つずつ確認する。
上では、わずかな向かい風。
中腹では、右から入る風。
着地前では、ほぼ無風。
飛距離を伸ばそうと思えば、伸ばせる条件だった。
しかし、恵は全力では飛ばなかった。
助走姿勢を少し高めに保つ。
踏切りでも、板へ力をすべて伝えきらない。
空中へ出た後も、攻める角度を深くしない。
風の流れだけを確認する。
中腹で右から触られる。
その瞬間、体をわずかに合わせる。
着地前の空気の抜け方も見る。
そして、安全にテレマークを入れた。
飛距離、96.5メートル。
会場が、わずかにざわついた。
実況
「上川、96.5メートル。海外勢が102メートル、103メートルと飛距離を伸ばす中、少し物足りない数字でしょうか」
解説
「ただ、踏切りから全力ではなかったように見えます。飛距離より、台と風の情報を取りにいった可能性がありますね」
海外選手の待機エリアでは、いくつもの視線が交わされた。
「上川は不調なのではないか」
「新しい台に合っていない」
「体を絞った影響が出ているのでは」
そんな空気が、少しずつ広がっていく。
恵は着地地点から戻りながら、その視線を感じていた。
だが、表情を変えない。
コスキネンが待っていた。
「どうだったべ?」
「中腹で右から入る。でも、一気には来ないべ。半拍遅れて肩の辺りに触る感じ」
海斗が尋ねる。
「着地前は?」
「試技では抜けなかった。でも、気温が下がれば、少し風が落ちるかもしれないべ」
寄子が記録する。
「十分、情報は取れた?」
恵は頷いた。
「取れたべ」
コスキネンは小さく笑う。
「海外勢、恵は調子悪いと思ってるべな」
恵も口元だけで笑った。
「思ってもらっていいべ」
海斗が言う。
「試技で勝つ必要はない」
「んだ」
恵はジャンプ台を見上げる。
「試技で百五メートル飛んでも、得点は一ポイントも入らないべ」
寄子も頷いた。
「本番二本へ、体も集中力も残す」
恵は静かに息を吐いた。
「勝負は、ここからだべ」
⸻
日本勢の挑戦
本番一回目。
競技が始まると、ノーマルヒルの空気は一気に変わった。
試技とは違う。
観客席の歓声。
得点表示。
メダルへの重圧。
一本の失敗が、四年間を左右する緊張。
日本勢の最初は、三枝莉央。
試技では着地前に少し姿勢が乱れていた。
だが、本番では焦らない。
空中で飛距離を欲張らず、最後まで飛型を崩さなかった。
飛距離、99メートル。
テレマークも決め、高い飛型点を得る。
暫定六位。
実況
「三枝莉央、安定したジャンプです。飛距離だけでなく、しっかり着地をまとめました」
解説
「彼女の強みが出ましたね。条件が少し変わっても、空中姿勢を乱しません」
続いて、早川美澄。
風を読む力を大きく伸ばしてきた選手。
スタート直前、上の風は弱かった。
しかし、美澄は中腹の旗がわずかに揺れ始めたことを見逃さない。
踏切りで押しすぎず、風が入るまで体を待たせる。
中腹で向かい風を受けると、そこから飛距離を伸ばした。
101メートル。
暫定三位。
日本応援団が大きく沸く。
雪も立ち上がった。
「美澄ちゃん、いいよ!」
旭川東高校の仲間たちも旗を振る。
そして、高田空。
恵と長く一緒に戦ってきたジャンプ仲間。
かつては恵の飛型をそのまま真似しようとして、成績を落とした。
だが今は、自分の柔軟性を生かす飛びを身につけている。
踏切り。
柔らかく、しかし力強い。
空中では、恵よりも少し高い姿勢で風を受ける。
飛距離、102.5メートル。
着地も決まった。
暫定二位。
実況
「高田空、素晴らしい!日本勢、ここでメダル圏内へ入ってきました!」
解説
「もう上川選手の後ろを追うだけの選手ではありません。自分の飛びで世界と戦っています」
空は着地地点で、思わず拳を握った。
「よし!」
恵は待機エリアのモニターを見ながら、力強く頷く。
「いいべ、空」
日本は、恵だけではない。
そのことを、世界へ見せるジャンプだった。
⸻
海外勢の高得点
終盤に入り、メダル候補が次々と登場する。
カナダのエミリー・マクレガー。
103メートル。
力強い踏切りと、伸びのある空中姿勢。
高い飛距離点でトップへ立つ。
オーストリアのハンナ・グルーバー。
102メートル。
テレマークをきれいに決め、飛型点でマクレガーへ迫る。
ノルウェーのイングリッド・ラーセン。
103.5メートル。
地元ヨーロッパの観客から、大歓声が上がる。
一回目のトップへ。
そしてフィンランドのエリナ・ラウタヴァーラ。
102.5メートル。
わずかな追い風の中でも、体幹で姿勢を保ち、暫定二位に入った。
実況
「前回王者・上川を迎える前に、世界の強豪が高得点を並べています!」
解説
「試技の上川選手は96.5メートルでした。もし本当に調子を落としているなら、かなり厳しい戦いになります」
光希は、その解説を聞いて小さく笑った。
相田が隣で聞く。
「何で笑ったんすか?」
「恵は、試技と顔が違うべ」
「顔?」
「今の恵は、もう答えを見つけた顔してるべ」
⸻
女王の最初の一本
上川恵。
名前が場内に響く。
会場の歓声が、一段と大きくなる。
前回大会三冠。
ワールドカップ通算優勝を重ね、世界ランキング首位を走る女王。
しかし、前回の金メダルは、今日の得点にはならない。
恵はスタートバーへ座った。
目の前にあるのは、一本の助走路だけ。
大歓声も。
世界中のカメラも。
前回王者という肩書も。
今は、すべて遠くへ置く。
見る。
上の旗。
中腹の雪煙。
観客席上部の横断幕。
風は、試技より少し遅く入っている。
右からの風は同じ。
だが、その後に正面から薄い向かい風が続く。
(中腹まで待てば、乗れるべ)
下から海斗の合図。
まだ待て。
恵は動かない。
五秒。
八秒。
旗の向きが揃う。
海斗の腕が振り下ろされた。
行け。
青信号。
恵はバーを押した。
助走。
試技とは違う。
体を低く保ち、空気抵抗を削る。
スピードが一気に上がる。
踏切り台が迫る。
最後まで足裏で圧を感じる。
押し急がない。
だが、力は逃がさない。
踏切り。
空中へ飛び出した瞬間、体が一気に前へ入る。
実況
「上川、踏切った!」
試技とはまるで違う。
低く、鋭い空中姿勢。
板と体が一つの線になる。
中腹。
予想どおり、右から風が入る。
恵は右肩を固めず、腕を数センチだけ調整する。
体の傾きをほんの少しだけ左へ戻す。
板先が安定する。
その直後、正面から向かい風。
(来たべ)
腕をわずかに開く。
背中全体で風を受ける。
体が落ちない。
まだ伸びる。
観客席がざわつき始める。
実況の声が上がる。
「伸びる!上川、まだ落ちない!」
解説
「試技とはまったく違います!完全に力を残していました!」
K点を越える。
ヒルサイズへ迫る。
恵は最後まで空中姿勢を保ち、着地の準備へ入る。
膝を急がせない。
着地前の風は、ほぼ無風。
余裕を持って脚を前後へ開く。
テレマーク。
着地。
距離表示が出た。
106メートル。
会場が爆発した。
それまでの最長を、一気に大きく更新する異次元の飛距離。
実況
「出ました!上川恵、106メートル!試技の96.5メートルから、実に9.5メートル伸ばしてきました!」
解説
「これは驚きました。試技では明らかに力を温存していました。本番で助走姿勢も踏切りも、すべて一段上げてきた。完全な勝負のジャンプです!」
雪は両手で口元を押さえた。
涙が一気に込み上げる。
「めぐ……!」
胸ポケットの層一の写真へ手を当てる。
「そうちゃん、見た? めぐ、飛んだよ!」
光希は立ち上がり、拳を握る。
「やったべ!」
旭川東高校の仲間たちは、応援旗を大きく揺らしていた。
最後まで見ろ。風は味方だ。
得点表示。
飛距離点。
高い飛型点。
わずかなウィンドファクター。
合計点は、二位へ大差をつけるトップ。
一回目を終え、恵が首位。
高田空は三位。
早川美澄は六位。
三枝莉央は八位。
日本勢四人全員が、上位で二回目へ進んだ。
⸻
控室で明かされた作戦
控室へ戻ると、高田空が恵へ駆け寄った。
「恵、試技から十メートル近く伸ばしたじゃん!」
恵は水分を取りながら笑う。
「試技では力入れてなかったべ」
美澄が目を丸くする。
「やっぱり、わざとだったの?」
「んだ」
莉央も驚く。
「海外勢、不調だと思ってたよ」
「それでいいべ」
コスキネンが横から言う。
「試技で飛距離を競っても、得点にはならないべ。体力も集中力も使う。恵は台と風の情報だけ取った」
海斗も続ける。
「ただし、誰でもできる作戦ではない。本番で確実に切り替えられる技術と経験が必要だ」
寄子が恵へタオルを渡す。
「二回目も同じ。一本目の大差があるからといって、力を抜きすぎないこと」
恵は頷く。
「分かってるべ」
空が笑う。
「ほんと、海外勢からしたら嫌な選手だね」
恵は少し考える。
「褒められてるべか?」
「たぶん」
「なら、ありがとうだべ」
四人が笑った。
だが、勝負はまだ半分。
二回目。
海外勢は、必ずさらに攻めてくる。
⸻
二回目、追う者たち
二回目は、一回目の順位が低い選手から飛ぶ。
三枝莉央。
一回目八位。
飛距離を伸ばせば、さらに上へ行ける。
だが、莉央は無理をしなかった。
自分の強みは、崩れないこと。
風が少し横から入る中、姿勢を保ち続ける。
飛距離、100メートル。
高い飛型点。
最終順位、8位。
オリンピック初出場で入賞を果たした。
莉央は着地地点で、両手を握った。
「入賞した……!」
次に早川美澄。
一回目六位。
二回目の風は、少し読みにくかった。
上では向かい風。
中腹で一度弱まり、着地前にまた戻る。
美澄は、旗の動きを最後まで見た。
踏切りで力まない。
風が弱まる中腹では体を薄くし、着地前の風へ乗り直す。
101.5メートル。
最終順位、5位。
美澄も入賞。
日本応援団から、大きな拍手が送られた。
⸻
メダル争い。
オーストリアのハンナ・グルーバーは、102メートル。
総合四位。
カナダのエミリー・マクレガーは、101.5メートル。
最終的に高田空との点差を詰めきれない。
そして高田空。
一回目三位。
初めて、オリンピックのメダルを懸けて飛ぶ。
緊張で、指先が冷たくなる。
コスキネンが声をかけた。
「空。恵を見なくていいべ」
空はコスキネンを見る。
「自分の踏切りだけ見なさい」
空は深く息を吐く。
「はい」
スタート。
柔らかな踏切り。
風を強く取りにいかず、自分の体へ入ってくるのを待つ。
空中姿勢が安定する。
飛距離、103メートル。
テレマーク。
高得点。
暫定トップ。
少なくとも銅メダル以上が確定した。
空は着地地点で両手を顔へ当てた。
「やった……!」
恵は待機エリアで、何度も頷いた。
「空、やったべ」
⸻
フィンランドのエリナ・ラウタヴァーラ。
一回目二位。
二回目も素晴らしいジャンプ。
104メートル。
空を上回り、暫定トップ。
これで高田空は銅メダル。
ラウタヴァーラは銀メダル以上を確定する。
残るは、上川恵ただ一人。
⸻
最後の一本
恵はスタートバーへ座った。
一回目の大差がある。
安全にまとめれば、金メダルへ届く可能性は高い。
だが、恵は守るためだけには飛ばない。
二度目のオリンピック。
最初の種目。
ここで世界へ見せたい。
女王とは、過去の金メダルを守る者ではない。
今日の一本で、新しく勝つ者だ。
風は、一回目より難しい。
上では弱い向かい風。
中腹で横風。
着地前では、わずかな追い風。
実況
「上川恵、二大会連続の金メダルへ。最後の一本です」
解説
「一回目で大きなリードがあります。ただ、着地前が追い風です。安全なジャンプを選ぶのか、それとも最後まで攻めるのか」
海斗の合図。
待て。
恵は、深く息を吐く。
聖火。
上川駅前の街灯。
母の雪。
父・層一。
光希。
仲間たち。
全部が胸の中にいる。
でも、今見るのは風だけ。
横断幕が動く。
中腹の風が、少し正面へ変わる。
海斗の腕が動いた。
行け。
助走。
一回目と同じく低い姿勢。
だが、力みはない。
踏切り。
空中へ。
最初の風は弱い。
(待つべ)
腕を開きすぎない。
体を薄く保つ。
中腹。
横風が来る。
恵は肩ではなく、腰と背中で受ける。
板先が揺れない。
さらに、わずかな向かい風へ乗る。
実況
「また伸びる!上川、二本目も強い!」
着地前。
追い風。
背中から下へ押される力が働く。
普通なら、ここで飛距離が止まる。
恵は無理に姿勢を保ち続けない。
膝の準備を早める。
腕を少し閉じ、落下へ合わせる。
最後まで安全に飛び切る。
テレマーク。
飛距離表示。
105メートル。
二本目も全体最長。
追い風の中で、一人だけ飛距離をほとんど落とさなかった。
実況
「105メートル!上川恵、二本目も圧倒しました!」
解説
「追い風の条件でこの飛距離です。空中後半で押し下げられながら、体幹で板を安定させました。そして着地への切り替えも完璧です!」
得点が表示される。
一位。
金メダル。
二大会連続、女子ノーマルヒル制覇。
恵は着地地点で両拳を握った。
そして、観客席へ向けて親指を立てる。
最高の笑顔。
「やったべ!」
コスキネンが走る。
海斗も寄子も、着地エリアへ向かう。
三人が恵へ駆け寄った。
コスキネン
「やったぞ〜!」
寄子
「二連覇だよ!」
海斗
「よく見た。二本とも完璧だった」
恵は三人に抱きしめられながら、何度も頷いた。
「ありがとうだべ……!」
高田空も駆け寄る。
「恵!」
二人は強く抱き合った。
「空、銅メダルだべ!」
「恵、金メダル!」
「日本、二人表彰台だべ!」
美澄と莉央も加わる。
四人全員が笑い、泣き、互いの肩を叩いた。
⸻
日本女子ジャンプの結果
最終結果。
一位、上川恵。
金メダル。
二大会連続のノーマルヒル制覇。
三位、高田空。
銅メダル。
五位、早川美澄。
入賞。
八位、三枝莉央。
入賞。
日本代表四人全員がトップ8へ入った。
かつて、恵一人しか世界で戦えないとまで言われた女子ジャンプ陣。
コスキネンに厳しく叱られた日。
恵の真似で終わるなと言われた日。
利尻島と礼文島の写真を前に、何も思いつかず頭を抱えた日。
そのすべてが、この結果へつながっていた。
実況席でも、声が震えていた。
実況
「日本女子ジャンプ、金メダルと銅メダル!そして四人全員が入賞です!」
解説
「上川選手の圧倒的な強さはもちろんですが、高田選手が銅、早川選手が五位、三枝選手が八位。日本はもう、上川一人のチームではありません」
⸻
表彰台
表彰式。
中央に恵。
向かって左に銀メダルのエリナ・ラウタヴァーラ。
右に銅メダルの高田空。
恵と空は、表彰台の上で顔を見合わせた。
空の目には、まだ涙が残っている。
「一緒に表彰台、立てたね」
恵も目を潤ませた。
「んだ。ずっと待ってたべ」
金メダルが恵の首へ掛けられる。
銅メダルが空の首へ掛けられる。
日本の国旗が二本、掲揚される。
そして、君が代。
雪は立ち上がり、胸ポケットに入れた層一の写真をそっと取り出した。
「そうちゃん」
涙で声が震える。
「めぐ、また金メダル取ったよ」
層一の写真を、表彰台へ向ける。
「空ちゃんも銅メダル。日本のみんな、頑張ったよ」
光希も立ち上がり、表彰台の恵を見ていた。
金メダルを胸に、晴れやかに笑う姿。
その笑顔を見ながら、光希は心の中で呟く。
(次は俺だべ)
恵と交わした約束。
二人で金メダルを目指す。
その最初の一つを、恵がつかんだ。
光希の競技は、翌日。
宿敵フェリックス・アドラーとの戦いが待っている。
そして、大会が終わった後には、もう一つの決意もある。
光希は表彰台の恵へ向かって、親指を立てた。
恵はそれに気づいた。
金メダルを胸へ当てながら、同じように親指を立てて返す。
言葉はない。
だが、意味は伝わった。
次は光希の番。
⸻
表彰式後
表彰式を終えた恵は、家族の待つ場所へ向かった。
雪が最初に抱きしめる。
「めぐ、おめでとう」
「母ちゃん、来てくれてありがとうだべ」
「そうちゃんも見てたよ」
雪は胸ポケットから層一の写真を見せた。
恵は写真へ触れる。
「お父さん。また一緒に飛べたべな」
祖父母たちも、涙を浮かべながら祝福した。
旭川東高校の仲間たちは、応援旗を広げている。
「恵、数学より飛んだ!」
「そこ、今言うべか!」
笑いが起こる。
金メダルを取っても、仲間たちとの空気は変わらなかった。
そこへ光希が来る。
恵は、金メダルを少し持ち上げて見せた。
「先に取ったべ」
光希は笑った。
「見てたべ。すごいジャンプだった」
「次、光希だべ」
「んだ」
恵は、光希の胸を軽く拳で叩いた。
「金メダル、目指そうって言ったべ」
光希は、まっすぐ恵を見る。
「絶対、最後まで諦めないべ」
「それでいいべ」
その時、光希はふと、選手村の部屋に置いてきた小さな箱を思った。
競技が終わるまでは、未来の話をしない。
まずは目の前の雪。
目の前の一歩。
明日、光希自身のオリンピックが始まる。
⸻
次回予告
女子ノーマルヒルで、恵が二大会連続の金メダル。
高田空も銅メダルを獲得し、日本女子ジャンプは四人全員入賞を果たした。
その喜びを胸に、今度は光希が初めてのオリンピック競技へ挑む。
ノルディック複合ノーマルヒル。
前半のジャンプ。
そして後半のクロスカントリー。
最大のライバル、フェリックス・アドラー。
ジャンプで先行する光希。
驚異的な追い上げを見せるフェリックス。
勝負は、最後の一キロへ。
次回、
第34話 雪上の約束
恵がつないだ金メダルへの思いを、今度は光希が受け取る。




