表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
恵の物語  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
62/70

聖火の下の約束

『恵の物語』


第32話 聖火の下の約束


インスブルックの夜空は、澄み切っていた。


雪を頂いた山々が、開会式会場を取り囲んでいる。


スタンドを埋め尽くす観客。


無数に揺れる国旗。


会場の上空を走る光。


そして、世界中へ向けられたカメラ。


選手入場を待つ通路で、日本選手団が整列していた。


恵は公式ウェアの胸元にある日の丸を、そっと指先でなぞった。


四年前にも、同じような場所に立った。


しかし、あの時とは違う。


前回は、初出場の少女だった。


今は、三つの金メダルを持つ前回王者として、世界中から追われる立場にいる。


「緊張してるべか?」


隣から、光希が聞いた。


恵は少し考えてから答えた。


「してるべ」


「やっぱり、二回目でもするんだな」


「するに決まってるべさ。オリンピックだべ」


恵は光希の顔を見た。


光希は笑っていた。


けれど、その笑顔の奥にある緊張を、恵は見逃さなかった。


眉の動き。


少し浅い呼吸。


指先が、ジャケットの裾を何度も触っている。


初めてのオリンピック。


ついに夢をかなえた喜びと、これから世界の頂点へ挑む怖さ。


その両方を抱えている顔だった。


恵は、少しだけ光希へ近づいた。


「光希」


「ん?」


「金メダル、目指そう」


光希が恵を見る。


恵はまっすぐな目をしていた。


「うちも飛ぶ。光希も走る。二人とも、自分の競技で金メダル目指すべ」


光希は一瞬、言葉を失った。


上川のクロカンコースで、恵に相談した日のことを思い出した。


自分だけ結果が出ない。


恵と一緒にオリンピックへ出たい。


あの日の光希は、遠くにいる恵の背中を追いかけていた。


今は違う。


二人は同じ場所に立っている。


同じ日本代表のウェアを着ている。


同じオリンピックで、金メダルを目指している。


光希は力強く頷いた。


「んだ。二人で金メダル目指すべ」


恵が笑う。


「よし」


その笑顔を見ながら、光希は胸の中でもう一つの言葉を呟いた。


(競技が全部終わったら、今度は俺から未来の話をするべ)


婚約指輪の入った小さな箱は、選手村の部屋に置いてきた。


今は競技へ集中する。


結果がどうなっても、すべてが終わった後で伝える。


これから先も、隣にいてほしいと。



臨時休業のカフェ雪


同じ頃。


上川駅前。


普段ならコーヒーの香りと常連客の笑い声に包まれているカフェ雪は、静かだった。


入口のドアには、一枚の張り紙。


臨時休業のお知らせ


娘・恵と、地元出身の光希選手を応援するため、インスブルックへ行ってまいります。


帰国後、元気に営業を再開いたします。


カフェ雪 店主


張り紙の端には、常連客が勝手に書き足した小さな文字があった。


二人とも金メダル取ってこい!


その下には、別の誰かの字。


メダルがなくても、元気に帰ってくればよし!


さらに、


お土産は茶色いチーズ以外でお願いします。


雪はそれを見つけて、思わず笑った。


「もう、誰が書いたの」


店内には、大きな旅行鞄が置かれている。


防寒着。


応援用の日の丸。


恵の名前が入った小さな旗。


そして、胸ポケットに収まるほどの層一の写真。


雪は仏壇の前へ座った。


遺影の層一へ向かって話しかける。


「そうちゃん」


「今度は、私たちがめぐのところへ行く番だね」


四年前のリレハンメルでも、層一の遺影を持って応援へ向かった。


あの時、恵はまだ高校生だった。


今は二十歳。


大学へ通い、一人暮らしをし、自分で体調を管理し、世界中を転戦する選手になった。


それでも雪にとっては、昨夜「母ちゃん、一緒に寝てもいいべ」と言ってきたあの娘と、どこか変わらなかった。


雪は遺影から持ち運び用の小さな写真へ視線を移す。


「そうちゃんも一緒に行こう」


「めぐの二度目のオリンピック、今度も一番近くで見ようね」


写真を柔らかな布で包み、コートの胸ポケットへ入れた。


心臓に近い場所。


歩くたびに、層一も一緒にいるように思えた。



旭川から出発


旭川空港の出発ロビーには、朝早くから大勢の人が集まっていた。


雪。


光希の父と母。


恵の祖父母。


光希の祖父母。


旭川東高校の卒業生たち。


恵の同級生や、部活動の後輩。


かつて教室の後ろに応援旗を作った仲間たちもいた。


その応援旗は、大切に折り畳まれて運ばれていた。


最後まで見ろ。風は味方だ。


文字の周囲には、高校卒業後に増えた寄せ書きがある。


二度目も自分の飛びを。


旭川東からインスブルックへ。


数学より遠くへ飛べ。


雪が最後の文字を見て笑う。


「まだ数学のこと言ってる」


恵の同級生だった女性が胸を張る。


「うちらの伝統です」


「めぐ、嫌がるよ」


「嫌がりながら笑います」


そこへ、光希の母が近づいてきた。


「雪さん」


「はい」


「二人、一緒にオリンピックへ行けましたね」


雪はゆっくり頷いた。


「本当に」


光希の父も、感慨深そうに言う。


「光希はずっと、恵ちゃんの隣に立ちたいと言っていました」


「めぐも、光希くんが追いついてくるのを待っていたと思います」


「今度は、二人とも追われる立場ですね」


雪は胸ポケットへ手を当てた。


そこには層一の写真。


「でも、二人なら大丈夫です。怖くなっても、ちゃんと笑って戻れますから」


祖父母たちも、搭乗手続きを済ませて集まってくる。


「インスブルックまで長い旅だねぇ」


「腰が固まらんように、途中で歩かんとな」


「応援で声枯らすんでないよ」


「もうのど飴持ってきた」


遠足前のような賑やかさだった。


だが、その奥には全員の強い思いがあった。


恵と光希が積み上げてきた年月を、現地で見届けたい。


勝っても、負けても。


競技が終わった時に、家族として迎えたい。



搭乗口へ向かう前、雪は窓の外を見た。


旭川の雪景色。


遠くに見える山々。


この空の向こうに、恵がいる。


「待っててね、めぐ」


胸ポケットの写真へ、そっと話しかける。


「そうちゃん。行こうか」


家族と仲間を乗せた飛行機が、旭川を離れた。


東京を経由し、ヨーロッパへ。


恵と光希の祖父母。


両親。


高校時代の仲間たち。


それぞれの思いを乗せて、インスブルックを目指していく。



開会式の始まり


会場の照明が落ちた。


スタンドから、巨大な歓声が上がる。


冬の山々を表現した映像が会場全体へ投影され、音楽が鳴り響く。


インスブルックの歴史。


アルプスの自然。


雪とともに暮らす人々。


そして、世界中から集まった選手たちを歓迎する演出。


選手入場が始まった。


国名が読み上げられるたびに、大歓声が起こる。


各国の選手たちは、自国の旗を振り、カメラへ笑顔を向ける。


やがて、日本の順番が近づく。


代表団の先頭で日の丸が揺れる。


通路の向こうには、まばゆい光。


光希が小さく息を吐いた。


「恵」


「ん?」


「足、震えてるべ」


恵は下を見た。


「ほんとだべ」


「笑わないの?」


「うちも震えてるから笑えんべ」


二人は顔を見合わせた。


そして、同時に吹き出した。


張り詰めていたものが、少しだけほどける。


恵が小声で言う。


「聖火と街灯、思い出すべ」


光希も頷く。


「世界全部を見なくていい」


「目の前の一歩だべ」


「んだ」


場内アナウンスが響いた。


「Japan!」


日本選手団が会場へ入る。


大歓声。


日の丸が振られる。


無数のカメラが、前回大会三冠の恵を捉える。


大型スクリーンに、恵の顔が映る。


スタンドから、さらに大きな歓声が上がった。


「Megumi!」


「Megumi Kamikawa!」


恵は笑顔で手を振った。


しかし、意識しているのは会場全体ではない。


隣を歩く光希。


自分の足元。


日の丸の動き。


一歩。


もう一歩。


世界を全部背負わない。


光希もまた、夢に見た行進路を歩いていた。


目の前には、日本選手団の仲間たち。


隣には恵。


スタンドには、これから到着する家族。


そして選手村には、未来を託す小さな箱。


胸がいっぱいになる。


「ほんとに来たべな」


光希が呟く。


恵は前を見たまま答えた。


「んだ。二人で来たべ」



応援団、インスブルックへ


開会式が始まる少し前。


雪たちの一行も、ようやくインスブルックへ到着していた。


長い移動。


乗り継ぎ。


時差。


祖父母たちは疲れていたが、ホテルへ荷物を置くと、すぐに観戦用の支度を始めた。


旭川東高校の卒業生たちは、応援旗を広げる。


「破れてない?」


「大丈夫」


「数学の文字も見える?」


「そこ確認せんでいいでしょ」


光希の母が、会場へ向かうバスの中で言った。


「光希、どんな顔で歩くかしら」


父は窓の外を見ながら答える。


「多分、緊張して引きつってる」


雪が笑う。


「めぐが隣にいるから大丈夫ですよ」


胸ポケットの層一の写真に触れる。


「そうちゃんもいるし」


会場へ近づくにつれ、夜空が明るくなる。


聖火台周辺の光。


観客の歓声。


遠くからでも伝わる熱気。


雪は窓の外を見つめた。


四年前は、北海道の小さな店でテレビ越しに見ることしかできないと思っていた光景。


それが今、すぐ目の前にある。


しかも、娘は二度目の舞台に立っている。


今度は恋人の光希も一緒に。


雪の目に、静かに涙が浮かんだ。


「そうちゃん」


「めぐ、またここまで来たよ」



聖火の下で


全選手の入場が終わる。


大会旗が運ばれてきた。


選手宣誓。


審判宣誓。


そして、会場が再び暗くなる。


最後の聖火ランナーが姿を現した。


スタンドが揺れるほどの大歓声。


聖火は、人から人へ渡される。


階段を上り、聖火台へ近づいていく。


恵は、その炎を見上げた。


隣には光希。


「きれいだべな」


「んだ」


「上川駅前の街灯より派手だべ」


「それは聖火に失礼だべ」


「でも毎日点くのは街灯だべ」


「まだ自慢合戦続けるべか」


二人は小さく笑った。


その時、聖火が点火された。


炎が大きく上がる。


会場中が光に包まれる。


花火が夜空へ広がる。


恵は炎を見つめながら、層一のことを思った。


父が立ったオリンピックの舞台。


その背中を追い、自分も飛び始めた。


四年前、初めて金メダルを取った。


そして今、二度目のオリンピックへ戻ってきた。


「お父さん」


歓声に消えるほどの小さな声。


「また来たべ」


光希は、その横顔を見ていた。


そして胸の中で誓う。


この大会では、全力で戦う。


恵と約束した金メダルを目指す。


すべてが終わったら、もう一つの約束をお願いする。


これからの人生を、一緒に歩いてほしいと。


恵が光希を見る。


「光希」


「ん?」


「絶対、最後まで見るべ」


「んだ」


「怖くなったら、上川の街灯を思い出す」


「俺は恵の顔も思い出すべ」


恵が少し照れる。


「なんだべ、それ」


「戻る場所の一つだべ」


恵はしばらく光希を見つめた。


やがて、柔らかく笑った。


「なら、うちも光希の顔思い出すべ」


光希の胸が強く鳴った。


だが、今はそれ以上言わない。


二人は再び聖火を見上げた。


世界を照らす炎。


帰る場所を照らす街灯。


どちらの光も胸に抱き、二人は競技へ向かっていく。



開会式後


開会式が終わると、選手たちは選手村へ戻った。


恵のスマートフォンに、雪からメッセージが届いていた。


着いたよ。開会式、会場で見たよ。


そうちゃんも一緒です。


写真も添えられていた。


会場のスタンド。


日の丸。


恵と光希の名前が書かれた応援旗。


そして、雪の胸元から少しだけ見える層一の写真。


恵の目が潤んだ。


「母ちゃん、来たべ」


隣から光希が画面を覗く。


「うちの両親もいるべな」


「祖父母も、旭川東のみんなも」


応援旗を拡大する。


最後まで見ろ。風は味方だ。


その横に、やはりあの文字。


数学より遠くへ飛べ。


恵は吹き出した。


「インスブルックまで数学追いかけてきたべ!」


光希も笑う。


「世界大会より執念深いべ」


恵は笑いながら涙を拭いた。


家族が来た。


仲間が来た。


父も、写真の中で一緒に来た。


もう一人ではない。


恵は雪へ返信した。


来てくれてありがとう。


金メダル目指して飛ぶべ。


光希も両親へ短いメッセージを送った。


明日から競技に集中する。見ててくれ。


送信した後、光希は選手村の自室へ戻った。


荷物の奥にしまった紺色の箱を、もう一度だけ確認する。


競技が終わるまでは触れない。


「まず、金メダルだべ」


箱を戻し、ノートを開く。


雪質。


ジャンプ台。


クロカンコース。


フェリックスの動き。


見るべきものは、目の前にある。



聖火は、インスブルックの夜空を照らし続けていた。


その炎の下で、二人の約束が交わされた。


金メダルを目指す約束。


最後まで見る約束。


そして、まだ恵だけが知らない未来への約束。


二十歳の二人にとって、長いオリンピックが幕を開けた。



次回予告


開会式が終わり、最初に競技へ向かうのは恵。


女子ノーマルヒル。


前回王者を倒そうと、北欧、カナダ、オーストリアの強豪が大ジャンプを連発する。


試技では、恵の飛距離が思うように伸びない。


風を読み違えたのか。


それとも、新しい台と体がまだ噛み合っていないのか。


一方、スタンドには雪と層一の写真、光希の両親、祖父母、旭川東高校の仲間たち。


そして競技を翌日に控えた光希も、恵の一本を見守る。


次回、


第33話 女王の最初の一本


前回の金メダルは、今日の得点にはならない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ