再び、オリンピックの空へ
『恵の物語』
第61話 再び、オリンピックの空へ
日本代表を乗せた飛行機が、インスブルックへ向けて飛び立った。
窓の外には、白い雲の海が広がっている。
恵は窓側の席で、静かに外を見つめていた。
四年前。
初めてオリンピックへ向かった時は、何もかもが新しかった。
選手村。
開会式。
世界中から集まった選手たち。
巨大なジャンプ台。
観客の大歓声。
そして、自分の胸へ掛けられた三つの金メダル。
あの時の恵は、まだ高校生だった。
怖いもの知らずで、ただ前を見ていた。
今は違う。
勝つことの難しさも知っている。
追われる苦しさも知っている。
練習しても結果が出ない日。
体の変化に合わせてフォームを作り直す苦しさ。
一日休むだけで、誰かに追い越されるような不安。
それでも、恵はここまで戻ってきた。
二十歳。
大学生となり、二度目のオリンピックへ向かっている。
隣の席には、光希がいた。
光希は何度もシートポケットの中を確かめている。
恵が横目で見る。
「光希」
「ん?」
「さっきから何してるべ」
光希の肩がわずかに跳ねた。
「何もしてないべ」
「三回くらい同じところ見てるべ」
「パスポートあるか確認してた」
「さっきも確認してたべ」
「大事だべ」
恵は不思議そうに首を傾げた。
光希は笑ってごまかす。
「初めてのオリンピックだから、落ち着かないんだべ」
それは嘘ではなかった。
光希にとっては、初めてのオリンピック。
世界選手権とも、ワールドカップとも違う。
四年に一度。
誰もが人生を懸けて集まる舞台。
そして何より――
ようやく、恵と一緒にここまで来られた。
国内大会でも表彰台に届かなかった頃。
恵は、すでに世界で勝っていた。
自分だけが置いていかれるような焦りを抱えながら、それでも光希は諦めなかった。
雪を見る。
拾う。
返す。
高地トレーニングで体を作り、フェリックス・アドラーとの接戦を重ね、ついに代表の座をつかんだ。
今、二人は同じ日本代表のジャケットを着ている。
同じ飛行機で、同じオリンピックへ向かっている。
それだけで、胸がいっぱいになった。
だが、光希の荷物の中には、競技用具でも、お守りでもないものが一つ入っていた。
小さな紺色の箱。
中には、婚約指輪。
光希は、このオリンピックが終わったら恵へプロポーズしようと決めていた。
結果がどうなっても。
金メダルを取っても。
届かなくても。
大会が終わり、一人の選手から、一人の二十歳の男へ戻った時に伝える。
これからも、隣にいてほしい。
一緒に札幌で学び、世界を目指し、いつか上川へ帰りたい。
そう伝えるつもりだった。
もちろん、恵は何も知らない。
今の光希は、ただ少し落ち着きのない初出場選手にしか見えていなかった。
⸻
インスブルック到着
飛行機を降りた瞬間、恵は深く息を吸った。
冷たい。
けれど、北海道とは少し違う空気だった。
山々が街を囲み、その斜面には白い雪が広がっている。
遠くには、巨大なジャンプ台。
そして、クロスカントリー会場へ続く雪深い山間部。
「着いたべな」
恵が言った。
光希も山々を見上げる。
「んだ。ほんとにオリンピックだべ」
高田空が隣で笑う。
「恵は二回目だから、もう慣れてる?」
「慣れるわけないべ」
「前回三冠なのに?」
「三冠と慣れは別だべさ。オリンピックは毎回、別物だべ」
早川美澄も周囲を見回す。
「街全体が大会みたい」
三枝莉央は日本代表のジャケットの胸元を見つめた。
「この日の丸、急に重く感じる」
恵は静かに言った。
「重くなったら、上川駅前の街灯を思い出すべ」
莉央が吹き出す。
「ここであのコント?」
「世界全部を背負わなくていいべ。目の前の一本を照らせばいい」
空と美澄も頷いた。
緊張はある。
だが、もう緊張に飲み込まれてはいなかった。
笑いながら戻れる場所を、四人とも持っていた。
⸻
ノルディック複合代表の四人も、選手村へ向かうバスに乗り込んだ。
相田飛竜は窓へ顔を近づける。
「うわ、本当に山だらけっすね」
佐々木正嗣が答える。
「クロカンコース、相当きつそうだな」
森崎岳人は資料を見ながら言う。
「後半に長い登りがあります。そこで差がつきそうです」
光希は車窓から、雪の斜面を見つめていた。
ラーシュが、その横顔を見る。
「怖いか?」
光希は正直に答えた。
「怖いです」
「いい」
「いいんですか」
「怖さを感じられない選手は、見ることをやめる」
ラーシュは遠くの山を指さす。
「怖いから観察する。怖いから準備する。怖さは敵ではない」
光希は頷いた。
「一緒に連れていきます」
「それでいい」
しばらくして、ラーシュが少し声を落とした。
「それと、光希」
「はい」
「荷物の中の大事なものは、落とすなよ」
光希の顔が固まる。
「な、何の話ですか」
ラーシュは窓の外を見たまま答える。
「パスポートの話だ」
光希は、しばらくラーシュの横顔を見つめた。
わずかに笑っている。
(知ってるべ……)
出発前、婚約指輪を選ぶ相談をしたのは、光希の両親とラーシュだけだった。
ラーシュはそれ以上、何も言わなかった。
競技が終わるまでは、心の奥にしまっておけ。
そう言われているようだった。
⸻
選手村
選手村へ到着すると、世界各国の旗が並んでいた。
ノルウェー。
ドイツ。
フィンランド。
スイス。
イタリア。
オーストリア。
カナダ。
アメリカ。
そして日本。
世界中の選手たちが、互いに挨拶を交わしている。
恵を見つけた海外選手たちが、次々に声をかけてきた。
「Megumi!」
「Welcome back!」
「This time, we will beat you!」
恵は笑って返した。
「どうぞだべ。うちも負けないべ」
高田空が耳元で言う。
「完全に世界の標的だね」
「今さらだべ」
そこへ、リレハンメルでメダルを争った北欧の選手たちも現れた。
前回大会では、若かった恵の勢いに敗れた。
だが、この四年間で彼女たちも強くなっている。
筋力。
飛型。
風への対応。
誰もが、今度こそ恵を倒すつもりだった。
その眼差しを受けても、恵は動じない。
「みんな強そうだべ」
空が聞く。
「怖くない?」
「怖いべ。でも、面白い」
恵は笑った。
「強い相手が多い方が、見るものも増えるべ」
⸻
一方、光希の前には、ドイツ代表のフェリックス・アドラーが現れた。
「ミツキ」
光希も笑う。
「フェリックス」
二人は強く握手した。
フェリックスは日本代表のジャケットを見て言う。
「ついに来たな」
「んだ。待たせたべ」
「ここでは、最後の一キロだけでは終わらない」
「最初から最後まで勝負だべ」
フェリックスは嬉しそうに笑った。
「その言葉を待っていた」
二人の間に、険悪さはない。
だが、握手する手には力が入っている。
互いに最大のライバル。
互いがいたから、ここまで強くなれた。
フェリックスが言う。
「金メダルは私が取る」
光希は即答する。
「それは俺のだべ」
「では、雪の上で決めよう」
「望むところだべ」
離れた場所で、ラーシュがその様子を見ていた。
光希はもう、世界の入口に立つ選手ではない。
世界の頂点を争う選手になっていた。
⸻
初めて見る五輪の舞台
翌日。
光希はノルディック複合会場の下見へ向かった。
ジャンプ台。
クロスカントリーコース。
どちらも、これまで経験した会場とは空気が違う。
観客席はまだ空いている。
だが、本番ではここが埋め尽くされる。
大歓声。
各国の旗。
実況。
世界中への中継。
光希はスタート地点に立ち、雪面を見つめた。
「ここを走るんだべな」
ラーシュが隣に立つ。
「何が見える?」
光希はコースを目で追う。
「序盤は下りが多い。みんなスピードを上げるべ。でも中盤から長い登り。そこで脚を使いすぎた選手が落ちる」
「後半は?」
「風が当たる区間がある。単独で走るときつい。集団の位置取りも大事だべ」
「最後は?」
光希は、ゴール前の坂を見る。
「フェリックスが仕掛ける」
ラーシュが笑う。
「予測か?」
光希も笑った。
「予測です。でも信じすぎない。最後まで見るべ」
「合格だ」
⸻
恵もジャンプ台を下から見上げていた。
巨大なラージヒル。
四年前に立ったリレハンメルの台とは違う。
助走路の角度。
飛び出した後の空間。
着地斜面の広がり。
周囲の山から入る風。
恵は旗だけではなく、木々の揺れ、雪煙、観客席上部の横断幕まで見ていた。
海斗が聞く。
「どうだ」
「上と中腹で風が違うべ。谷から入った風が、着地前に一回抜けるかもしれない」
寄子がノートへ書き込む。
「試技で確認だね」
コスキネンも頷いた。
「前回王者だからって、台が優しくしてくれるわけじゃないべ」
恵は笑う。
「知ってるべ。台はうちのメダルなんて興味ないべさ」
海斗の口元が少し緩んだ。
「その感覚を忘れるな」
⸻
二十歳の二人
その夜。
選手村の食堂。
恵と光希は、少し離れたテーブルで夕食を取っていた。
恵は大きな皿に料理を載せている。
光希も同じくらいの量を食べていた。
恵が言う。
「オリンピック来ても、結局腹減るべ」
「アスリートはどこでも腹減るべ」
「カフェ雪のザンギ食べたいべな」
「まだ着いたばっかりだべ」
「もう帰る話してるわけでないべ。食べたいだけだべ」
二人は笑った。
周囲には、世界中の代表選手。
壁には五輪マーク。
外には雪に包まれたインスブルックの街。
それでも二人の会話は、上川や札幌にいる時と変わらない。
二十歳。
世界最大の舞台に挑むには若い。
だが、二人はすでに多くの経験を積んでいた。
恵は金メダルを知っている。
光希は追いつけない苦しさを知っている。
二人とも、勝つことも、負けることも、休むことも、戻ることも覚えた。
恵がふと尋ねる。
「光希」
「ん?」
「一緒に来られたな」
光希の箸が止まる。
「んだ」
「高校の時、言ってたべ。うちと一緒にオリンピック行くって」
「言ったべな」
「ほんとに来たべ」
恵は、少し嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
光希は胸の奥が熱くなった。
言いたかった。
競技が終わったら、その先も一緒に歩いてほしいと。
だが、今ではない。
今は二人とも選手だ。
目の前の競技だけを見る。
光希は笑って答えた。
「まだ終わってないべ」
恵も頷く。
「んだ。ここからだべ」
⸻
小さな箱
夜。
男子選手棟の部屋。
相田と佐々木、森崎は、翌日の予定を確認していた。
光希は自分の荷物を整理する。
衣類。
競技ノート。
ワックスの資料。
お守り。
その一番奥に、小さな紺色の箱がある。
誰にも見られないよう、そっと取り出す。
箱を開ける。
静かな光。
派手すぎない、小さなダイヤモンドの指輪。
恵が競技中にも、普段の生活にも似合うように。
世界女王としてではなく、一人の女性として身につけられるように。
光希は箱を閉じた。
「終わったら、言うべ」
小さく呟く。
金メダルを取れたから言うのではない。
恵が金メダルを取ったから言うのでもない。
二人の競技が終わり、結果を受け止めた後に伝える。
勝っても負けても。
笑っても泣いても。
これからも一緒にいてほしい。
光希は箱を荷物の奥へ戻した。
その時、背後から声がした。
「何を隠したんすか?」
相田だった。
光希は勢いよく振り返る。
「何でもないべ!」
相田が目を細める。
「怪しいっすね」
佐々木も顔を上げる。
「光希があんなに慌てるの珍しいな」
森崎まで身を乗り出す。
「お菓子なら分けてください」
「お菓子でないべ!」
「じゃあ何です?」
「言わん!」
三人が顔を見合わせた。
相田が小さく言う。
「もしかして……」
光希は目で止める。
相田は数秒黙ったあと、にやりと笑った。
「了解っす」
佐々木
「何が分かった?」
相田
「まだ言えません」
森崎
「余計気になる」
光希は頭を抱えた。
「頼むから競技に集中してくれだべ……」
相田
「光希さんも別の勝負の準備してるじゃないですか」
「声でかいべ!」
部屋に小さな笑いが広がった。
緊張していた代表選手たちの夜に、ほんの少しだけ柔らかな空気が戻った。
⸻
開会式前夜
翌日は、開会式。
選手村では、日本代表の公式ウェアが配られた。
恵は部屋でジャケットを羽織り、鏡を見る。
四年前と同じ日の丸。
だが、その中にいる自分は違う。
高田空が隣で言う。
「恵、似合ってる」
「空もだべ」
美澄は少し震える手でファスナーを上げる。
「明日、あの会場を歩くんだね」
莉央が深呼吸する。
「大丈夫。世界全部を見ない。足元の街灯を見る」
恵が笑う。
「んだ。転ばないように、ちゃんと前見るべ」
「そこ?」
「入場行進で転んだら、競技前に世界配信されるべ」
三人が吹き出した。
緊張が少しほどける。
その夜、恵は雪へ電話をかけた。
「母ちゃん」
「無事着いた?」
「んだ。ジャンプ台も見たべ」
「大きかった?」
「大きかった。でも、飛ぶのは一本ずつだべ」
雪は安心したように笑う。
「そうちゃんにも伝えておくね」
恵は少し黙ってから言った。
「お父さんも、また一緒に飛んでくれるべか」
「もちろん。もうインスブルックに先回りしてるかもしれないよ」
「早すぎるべ」
二人は笑った。
通話の向こう、カフェ雪の仏壇には層一の遺影。
窓の外には、上川駅前の街灯。
遠く離れていても、帰る場所の灯りは消えていなかった。
⸻
インスブルックの夜。
雪をまとった山々の向こうに、開会式会場の光が見える。
光希は窓辺に立ち、その光を見つめていた。
初めてのオリンピック。
恵と立つ夢の舞台。
宿敵フェリックスとの勝負。
そして、大会が終わった後に待つ、もう一つの勝負。
光希は胸の中で静かに言った。
(まず、競技だべ)
目の前の雪を見る。
目の前の一歩を積む。
すべてが終わった時、自分の言葉で恵へ伝える。
二人の二十歳の冬は、競技人生だけでなく、その先の人生を変える冬になろうとしていた。
⸻
次回予告
インスブルックオリンピック開会式。
大歓声に包まれ、日本選手団が会場へ入る。
前回三冠の恵へ向けられる、世界中のカメラ。
初出場の光希は、夢に見た五輪の行進路を恵と並んで歩く。
聖火が点火される瞬間、二人は上川駅前の街灯を思い出す。
だが、光希の胸にはもう一つ、誰にも明かせない決意がある。
次回、
第62話 聖火の下の約束
世界を照らす炎の下で、競技への誓いと、未来への誓いが静かに重なる。




