インスブルックへの灯
『恵の物語』
第60話 インスブルックへの灯
2042年。
インスブルックオリンピックの年が明けた。
上川町は、深い雪に包まれていた。
カフェ雪の窓の外では、朝から細かな雪が降り続いている。
恵と光希は正月休みを使い、札幌から上川へ帰ってきていた。
遠征と合宿に追われ、二人そろってカフェ雪で新年を迎えられるのは久しぶりだった。
雪の作った雑煮を食べ、地元の人たちから何度も声をかけられ、カフェの常連客からは、
「いよいよだね」
「今度も思いっきり飛んできなさい」
「光希くんも、最後の一キロで負けるんでないよ」
と、次々に激励を受けた。
恵は笑顔で応じながらも、胸の奥には少しずつ緊張が積もっていた。
二度目のオリンピック。
前回王者。
連覇への期待。
光希にとっては、初めてのオリンピックだった。
世界の舞台へ立てる喜びと、それ以上の不安。
誰にも見せまいとしても、心のどこかが硬くなっていた。
出発前の夜。
恵と光希は、仏壇の前に並んで座った。
層一の遺影は、いつもの優しい笑顔で二人を見つめている。
恵は手を合わせた。
「お父さん。いよいよ行ってくるべ」
光希も深く頭を下げる。
「恵と一緒に、最後まで戦ってきます」
恵は遺影を見つめながら続けた。
「前みたいに、怖いもの知らずでは飛べないべ。オリンピックがどれだけ大きい舞台か、もう知ってるから」
少しだけ笑う。
「でも、怖さも一緒に連れていく。最後まで風を見る。一本ずつ飛ぶべ」
雪は少し後ろから、二人を見守っていた。
「そうちゃん。二人を頼んだよ」
その夜、カフェ雪の外では、駅前の街灯が静かに雪道を照らしていた。
派手ではない。
けれど、夜遅く帰ってくる人にも、朝早く出ていく人にも、変わらず明かりを届けていた。
⸻
数日後。
日本代表の最終合宿。
女子ジャンプ代表とノルディック複合代表が、最後の調整に入っていた。
だが、練習場の空気は明らかに硬かった。
高田空は、踏切りで肩に力が入る。
早川美澄は、いつもなら拾える小さな風の変化を見逃している。
三枝莉央は、着地を失敗しないことばかり意識して、飛距離を伸ばせない。
相田飛竜は、ジャンプ一本目の失敗を二本目まで引きずった。
佐々木正嗣も、クロカンで呼吸を意識しすぎ、いつものリズムを失う。
森崎岳人は、練習後も黙ったまま、何度もタイム表を見返していた。
光希も例外ではなかった。
高地トレーニングで身につけた後半の加速。
フェリックス・アドラーと何度も優勝を争った自信。
それがあるはずなのに、最後の坂で体が固くなる。
ラーシュが笛を鳴らした。
「止める」
選手たちが足を止める。
「今日は、全員がオリンピックを背負いすぎている」
誰も答えなかった。
コスキネンも、ジャンプ台から戻ってきた女子選手たちを見回す。
「みんな、失敗しないことしか考えてないべ」
海斗が腕を組む。
「これでは本番まで持たない」
寄子も静かに言った。
「心が縮んだら、観察できる範囲も縮むよ」
その時だった。
合宿所の大型モニターに着信表示が出た。
画面に現れたのは、博多にいる光子、優子、美香。
光子
「日本代表のみなさーん、顔が固まりすぎたい!」
優子
「みんな冷凍庫から出てきた餅みたいになっとるばい!」
美香
「オリンピック前に肩の力抜いてもらおうと思ってな」
相田が嫌な予感を覚えた顔をする。
「まさか……」
光子が得意げに一枚の紙を掲げた。
「最後の即興課題たい!」
選手たちから一斉にため息が漏れる。
画面に表示されたお題。
『オリンピックの聖火と、上川駅前の街灯が自慢合戦を始めたら?』
沈黙。
高田空
「難しくない?」
早川美澄
「片方はオリンピックの象徴で、片方は駅前の街灯……」
相田
「規模が違いすぎるっす」
佐々木
「どうやって会わせるんだ」
森崎
「そもそも街灯は上川から動けないですよね」
優子
「はい、もう説明を始めとる!」
光子
「説明じゃなくて関係を作るとよ!」
美香
「制限時間十分。一人で考えても、組んでもよし」
選手たちは頭を抱えた。
⸻
最初に挑戦したのは、高田空と早川美澄だった。
空が聖火役。
美澄が街灯役。
空
「私はオリンピックの聖火です。世界中から注目されます」
美澄
「私は上川駅前の街灯です。毎日、駅前を照らしています」
二人、沈黙。
空
「……すごいね」
美澄
「そっちもすごいね」
終了。
恵が吹き出した。
「平和すぎて自慢合戦になってないべ!」
優子
「褒め合うて終わった!」
美澄は顔を覆う。
「難しいんだって!」
⸻
次は相田と佐々木。
相田が聖火。
佐々木が街灯。
相田
「俺は世界中に中継される聖火だ!」
佐々木
「私は一年中働く街灯です」
相田
「俺は四年に一度だぞ!」
佐々木
「勤務日数なら私の圧勝です」
会場から笑いが起きる。
相田
「でも俺は世界中の人が見る!」
佐々木
「でも消えたらニュースになるのは一瞬です」
相田
「え?」
佐々木
「私は消えたら、駅前の人が普通に困ります」
少し笑いが大きくなる。
しかし、そこから続かない。
相田
「……どうしよう」
佐々木
「もう勝負ついた気がする」
ラーシュが真顔で言う。
「街灯が強い」
相田
「聖火役なのに負けたっす!」
⸻
森崎は一人で挑戦した。
右を向いて聖火。
左を向いて街灯。
森崎・聖火
「私は世界を照らす!」
森崎・街灯
「私は駅前を照らす!」
森崎・聖火
「規模が違う!」
森崎・街灯
「でも吹雪の日、誰が上川駅の利用者を助ける?」
森崎・聖火
「……私じゃない」
森崎・街灯
「はい、勝った」
森崎は自分で言い終えると、首をひねった。
「これ、聖火が弱すぎません?」
光子
「街灯の圧が強すぎるたい!」
優子
「自慢合戦じゃなくて聖火の公開処刑やん!」
会場が笑いに包まれる。
少しずつ、張り詰めていた空気が緩んでいった。
⸻
最後に、光子が言った。
「では、代表して恵ちゃんと光希くん!」
恵
「やっぱり来たべ……」
光希
「この流れなら逃げられんべな」
二人は前へ出た。
打ち合わせはしない。
恵が聖火。
光希が上川駅前の街灯。
美香がナレーション役を買って出た。
⸻
即興コント
『聖火と街灯、明かり界の頂上決戦』
美香
「ある冬の夜。インスブルックへ向かう途中で、オリンピックの聖火が、なぜか上川駅前に迷い込みました」
恵・聖火
「ここ、インスブルックでないべ?」
光希・街灯
「どう見ても上川だべ」
恵
「おかしいべ。世界中から注目される火なのに、北海道の駅前に着いたべ」
光希
「列車、乗り間違えたんでないか?」
恵
「聖火が列車で移動すると思ってるべか!」
会場から笑いが起こる。
光希
「じゃあ何で上川におるべ」
恵
「たぶん、炎の勢いで飛んできたべ」
光希
「火の粉飛ばすな。消防呼ぶべ」
優子が画面の向こうで机を叩く。
「聖火、早くも不審火扱い!」
⸻
恵・聖火は胸を張る。
「まあいいべ。うちはオリンピックの聖火。世界中の人が注目する、特別な火だべ!」
光希・街灯
「へぇ」
恵
「反応薄いべ!」
光希
「私は上川駅前の街灯。毎晩ここで働いてるべ」
恵
「地味だべな」
光希
「今、地味って言ったべか」
恵
「だってうちは世界を照らすべ。そっちは駅前だけだべ」
光希
「駅前だけをなめるな」
一同、爆笑。
光希は街灯役のまま、急に声を低くする。
「吹雪の夜、最終列車から降りた人が、足元見えなくて困った時、誰が照らすべ?」
恵
「街灯さんだべ」
「朝早く、受験に向かう高校生が駅へ急ぐ時、誰が見送るべ?」
恵
「街灯さんだべ」
「札幌へ旅立つ娘を、お母さんがホームで見送った朝、最後まで誰が照らしてたべ?」
恵の表情が一瞬変わる。
「……街灯さんだべ」
会場が少し静かになる。
光希・街灯
「世界中には見られなくても、目の前の一人を照らす。それが私の仕事だべ」
美香
「街灯、急に名優になりました」
笑いが戻る。
⸻
恵・聖火は負けじと胸を張る。
「でも、うちだってすごいべ!世界中の選手が、うちを見て夢を感じるんだべ!」
光希
「四年に一度しか働かんけどな」
恵
「そこ言うな!」
光希
「私は年中無休だべ」
恵
「休め!働き方改革しろ!」
会場はさらに大笑い。
光希
「聖火さん、雨降ったらどうするべ?」
恵
「意地でも消えないべ」
光希
「風が吹いたら?」
恵
「係の人に守ってもらうべ」
光希
「一人じゃ何もできないべな」
恵
「街灯だって電気止まったら終わりだべ!」
光希
「そこを言うのは反則だべ!」
⸻
二人はしばらく睨み合う。
恵・聖火
「うちは世界を照らす」
光希・街灯
「私は帰る場所を照らす」
恵
「規模ならうちの勝ちだべ」
光希
「毎日の役立ち度なら私だべ」
恵
「人気なら聖火!」
光希
「安定感なら街灯!」
恵
「世界的知名度!」
光希
「地域密着度!」
恵
「夢!」
光希
「生活!」
二人同時に叫ぶ。
「どっちも大事だべ!」
会場が一瞬止まり、次の瞬間、大爆笑と拍手に包まれた。
恵はさらに続けた。
「じゃあ、うちがインスブルックを照らすべ!」
光希
「私は上川で帰りを待つべ!」
恵
「でも街灯さん、うちが金メダル取ったらちゃんと明るくしてくれるべか?」
光希
「銀でも銅でも、メダルなしでも照らすべ」
恵が少し驚く。
光希・街灯
「帰ってくる人を照らすのに、順位はいらないべ」
その一言に、選手たちは静かになった。
コスキネンがゆっくり頷く。
ラーシュも腕を組んだまま、柔らかく笑っている。
恵は街灯役の光希を見て、少し照れたように言った。
「なら、安心して行けるべ」
光希
「行ってこい。帰ってきたら、またここで照らすべ」
美香
「こうして、世界を照らす火と、帰る場所を照らす灯りは、どちらが上か決めるのをやめました」
優子
「最初から決めんでよかったやろ!」
光子
「でも自慢合戦せんと、この結論には行けんかったたい!」
恵・聖火
「では最後に一つだけ」
光希・街灯
「何だべ」
恵
「街灯さん、オリンピック会場まで来ないべか?」
光希
「地面に埋まってるから無理だべ!」
一同、完全に腹筋崩壊。
相田は床に座り込み、佐々木は机へ突っ伏して笑っている。
高田空は涙を拭きながら、
「最後、それで落とすんだ」
と声を震わせた。
ラーシュも腹を押さえていた。
「素晴らしい。街灯は移動できない」
海斗
「そこが感想か」
⸻
笑いが落ち着いたあと、コスキネンが前へ出た。
「今のコントの意味、分かるべか」
選手たちは少しずつ姿勢を正した。
「聖火は大舞台。世界中から注目されるもの」
「街灯は日常。毎日を支えるもの」
寄子が続ける。
「オリンピックだけが、みんなを作ったわけじゃないよ」
毎日の練習。
大学の講義。
失敗した一本。
休養日。
家族との食事。
くだらないギャグで笑った時間。
その全部が、代表選手を作ってきた。
ラーシュが選手たちを見渡した。
「大観衆の前で苦しくなったら、聖火だけを見るな」
「自分をここまで連れてきた、小さな灯りを思い出せ」
光希は上川駅前の街灯を思い浮かべた。
恵は、カフェ雪の明かりを思い出した。
雪の笑顔。
層一の遺影。
旭川東高校の教室。
札幌の部屋。
海斗、寄子、コスキネン。
ラーシュ。
仲間たち。
すべてが、小さな灯りだった。
恵は静かに言った。
「オリンピックで失敗したとしても、帰る場所は消えないべ」
高田空が頷く。
「だから、失敗を怖がりすぎなくていい」
早川美澄
「世界中を一度に見なくていい。目の前の一本を見ればいい」
三枝莉央
「自分を照らしてくれた人たちを思い出せば、戻れる」
相田
「俺、少し肩の力抜けたっす」
佐々木
「俺も。代表になった時点で、何か特別なものにならないといけないと思ってた」
森崎
「でも、毎日やってきた自分のままでいいんですね」
海斗が短く答えた。
「その自分を、最高の状態で出せ」
⸻
翌日の練習。
選手たちの動きは、明らかに変わっていた。
高田空の踏切りから、余計な力が抜ける。
美澄は、風が変わっても慌てない。
莉央は、飛距離を恐れず、最後まで空中姿勢を保つ。
相田は一本目の失敗を引きずらず、二本目で修正する。
佐々木のクロカンには、いつものリズムが戻る。
森崎も、終盤までフォームを崩さない。
そして恵。
スタートバーに座る。
胸元の鈴に触れる。
世界を照らす聖火。
帰る場所を照らす街灯。
どちらも、自分の中にある。
「行ってくるべ」
助走。
踏切り。
空中。
恵は、力まず、静かに風へ入った。
その飛びは、オリンピック前の最終合宿で見せた中でも、最も柔らかく、最も遠かった。
光希も、最後の坂で加速する。
フェリックスを想定した追い込み。
だが、もう「負けられない」とは考えない。
次の一歩。
その次の一歩。
街灯一つ分の距離を、積み重ねる。
ゴール。
自己最高タイム。
ラーシュが叫んだ。
「それだ、光希!」
光希は息を切らしながら、親指を立てた。
恵も着地地点から、同じように親指を立てる。
二人の視線が重なった。
インスブルックへの灯は、もうはっきりと見えていた。
⸻
次回予告
最終合宿を終え、日本代表はインスブルックへ出発する。
空港に集まる報道陣。
日の丸を背負う選手たち。
上川駅前では、雪が層一の遺影とともに、恵と光希の出発を見守る。
そして現地到着後、二人を待っていたのは、巨大なジャンプ台と、雪深いクロスカントリーコース。
宿敵フェリックス・アドラー。
前回大会でメダルを争った北欧の強豪たち。
四年間のすべてが集まる場所へ。
次回、
第31話 再び、オリンピックの空へ
帰る場所の灯りを胸に、二人は世界最大の舞台へ向かう。




