帰る場所の灯り
『恵の物語』
第29話 帰る場所の灯り
2041年の冬。
インスブルックオリンピックまで、残された時間はわずかになっていた。
代表争いは、もう「可能性」の話ではない。
一つの大会。
一本のジャンプ。
一度の転倒。
わずかな体調不良。
そのすべてが、四年に一度の舞台へ続く道を左右する。
しかし、その張り詰めた戦いの中でも、上川恵の成績は揺らがなかった。
優勝。
二位。
また優勝。
風が荒れた大会でも、雪が激しく降る大会でも、恵は必ず表彰台へ立った。
シーズン前半のワールドカップでは、十戦中六勝。
残る四戦も、二位が三回、三位が一回。
優勝回数は、他の選手を大きく引き離していた。
海外メディアは、彼女をこう評した。
「最も崩れないジャンパー」
だが、恵自身は、その言葉を聞いて苦笑した。
「うちだって、毎回崩れそうになってるべ」
コスキネンが隣で頷く。
「崩れない選手じゃない。崩れそうな時に戻れる選手だべ」
海斗も言った。
「それが強さだ」
寄子は、恵のコンディション記録を見ながら微笑んだ。
「練習する勇気だけじゃなくて、休む勇気も覚えた。今のめぐは、以前より自分の状態を正確に見られてる」
恵は胸元の鈴へ触れた。
「やっと、休む日も練習の一つだって思えるようになったべ」
少し前までなら、一日休むだけでも不安だった。
誰かに追い抜かれるのではないか。
感覚を失うのではないか。
けれど今は違う。
休む。
整える。
そして、次の一本で飛ぶ。
それもまた、最後まで勝ち続けるための技術だった。
四人の女子代表
12月下旬。
全日本スキー連盟本部の記者会見場には、大勢の報道陣が集まっていた。
2042年インスブルック冬季オリンピック。
女子ジャンプ日本代表の発表。
大型モニターに、四人の名前が映し出された。
上川 恵
高田 空
早川美澄
三枝莉央
会場に、無数のシャッター音が響いた。
恵は静かに息を吐いた。
選ばれることは、ほぼ確実だと言われていた。
年間成績。
ワールドカップランキング。
優勝回数。
どれを見ても、国内トップ。
それでも、自分の名前を実際に目にするまでは、心のどこかが落ち着かなかった。
リレハンメルに続く、二度目のオリンピック。
今度は追う立場ではない。
前回王者として、追われる立場で臨む。
隣では、高田空が両手を強く握っていた。
「……入った」
空の声が震えている。
恵は横を向き、笑った。
「やったべ、空」
「うん……やっと、恵と一緒に行ける」
早川美澄は、しばらく画面を見つめたまま動かなかった。
自分の名前が消えてしまわないか、確かめるように。
「夢じゃないよね」
三枝莉央が、涙を拭きながら答える。
「夢じゃない。私たち、四人で行ける」
かつて、コスキネンから厳しく言われた。
このままでは、恵以外はオリンピック代表など無理だと。
あの日は悔しかった。
自分たちの努力を否定されたようにも感じた。
だが、四人は逃げなかった。
恵の飛びをただ真似するのではなく、何を吸収し、自分の体へどう落とし込むかを考えた。
空は、柔軟な踏切り。
美澄は、風を読む速さ。
莉央は、荒れた条件でも飛型を崩さない安定感。
それぞれが自分の武器を見つけ、表彰台に立ち、時には優勝も経験した。
恵は、三人の名前を見つめた。
「日本は、うち一人じゃないべ」
その言葉に、三人が頷いた。
光希にも届いた切符
続いて発表されたのは、ノルディック複合日本代表。
青柳光希
相田飛竜
佐々木正嗣
森崎岳人
森崎岳人は長野県出身の二十二歳。
ジャンプの安定感に加え、長い登坂でもリズムを崩さない持久力を武器とする若手だった。
四人の名前が映し出された瞬間、光希は目を閉じた。
ようやく、届いた。
恵と一緒にオリンピックへ行きたい。
その願いを初めて口にした時、光希はまだ国内大会の表彰台にも安定して届かない選手だった。
クロスカントリーでは、最初に決めた作戦へしがみつき、途中の雪質変化を拾えないことも多かった。
筋力も足りなかった。
終盤になれば、ヨーロッパ勢に置いていかれた。
フェリックス・アドラーには、何度も最後の一キロで敗れた。
それでも、止まらなかった。
見る。
拾う。
返す。
そして、休む。
ラーシュの高地トレーニングに耐え、後半の加速力を身につけ、今ではフェリックスと優勝を分け合うまでになった。
相田が、隣から光希の肩を叩く。
「やりましたね」
光希は小さく笑う。
「んだな」
佐々木も言った。
「四人で行ける」
森崎はまだ信じられないという顔だった。
「俺、本当に名前ありますよね」
光希が画面を指さす。
「あるべ。消えないから安心しろ」
そこへラーシュが近づいてきた。
いつもの厳しい表情ではない。
穏やかな、誇らしそうな笑顔だった。
「光希」
「はい」
「約束を果たしたな」
光希は、少し目を潤ませた。
「まだです。出るだけじゃなくて、勝たないと」
ラーシュは頷く。
「その答えなら、安心だ」
二度目の代表会見
代表発表後、女子ジャンプとノルディック複合の選手たちは会見場へ移動した。
壇上には八人の代表選手。
中央寄りには、前回大会三冠の上川恵。
その近くに、オリンピック初出場の青柳光希。
記者席は満員だった。
最初の質問は、やはり恵へ向けられた。
「上川選手、二大会連続のオリンピック出場となります。前回はノーマルヒル、ラージヒル、混合団体で金メダルを獲得しました。今大会に臨むお気持ちを聞かせてください」
恵はマイクを両手で持った。
一度、会場全体を見る。
無数のカメラ。
記者。
照明。
かつてなら、その全部を意識して緊張していた。
今は違う。
目の前の一人へ話す。
風を見る時と同じ。
全部を一度に背負わない。
「まず、もう一度オリンピックの舞台に立てることを、すごく嬉しく思っています」
少し間を置く。
「前回は、怖いもの知らずで飛んだ部分もあったべさ」
会場に、わずかな笑いが起こる。
「でも今回は、オリンピックで勝つ難しさも、その後も勝ち続ける難しさも知っています。世界のみんなが強くなって、うちの飛びも研究されています」
恵は、隣の三人を見た。
「でも今回は、日本にも頼もしい仲間がいる。うちだけが勝つんじゃなくて、四人全員で世界に挑みたいです」
記者が続ける。
「連覇への重圧はありますか?」
「あります」
即答だった。
「ないと言ったら嘘になるべ。でも、重圧は消そうとしないです。一緒に連れていきます」
美香たちから教わった言葉。
緊張は消さない。
連れていく。
恵は笑った。
「怖くなったら風を見る。迷ったら、今できることを見る。その一本に集中します」
高田空の決意
次に、高田空がマイクを持った。
「ずっと恵の背中を追ってきました。でも、恵と同じ飛びをしようとした時期は、全然結果が出ませんでした」
恵が静かに空を見る。
「体格も、筋力も、感覚も違う。そこに気づいてから、自分の飛びを作ってきました」
空はまっすぐ前を見た。
「オリンピックでは、恵の後ろをついていくのではなく、日本代表の一人として、自分のジャンプをします。個人でも、表彰台を狙います」
恵は小さく頷いた。
それでいい。
仲間であっても、勝負では譲らない。
それが、本当の代表チームだった。
美澄と莉央
早川美澄は、少し緊張した表情で話した。
「私は、風が変わると怖くなって、最初に決めたフォームへ戻ろうとする癖がありました。でも代表合宿で、決めつけないことを学びました」
記者席の一部がざわつく。
美澄は少し笑う。
「ギャグコントを使った、かなり変わった練習でしたけど」
会場に笑いが広がった。
「でも、予想外の返事が来ても止まらない。風が変わっても、その場で返す。その力は身についたと思います」
三枝莉央も続けた。
「私は、国際大会で一度優勝できました。でも、それで自信がついたというより、自分にもまだ伸びる場所があると分かりました」
少し息を吸う。
「オリンピックでは、条件が悪くても飛型を崩さない、自分の強みを出したいです」
光希の決意
ノルディック複合では、光希に質問が向けられた。
「青柳選手は初めてのオリンピックです。世界の強豪、特にドイツのフェリックス・アドラー選手との対決にも注目が集まっています」
光希は、少し笑った。
「フェリックスは最大のライバルです。何度も最後の一キロで負けましたし、何度か勝てるようにもなりました」
「勝敗を分けるものは何だと考えていますか?」
「最後まで自分を見失わないことだと思います」
会場が静かになる。
「以前の俺は、最初に決めた作戦だけで走ってました。でも雪も風も、体の状態も、レース中に変わります。今は、予測はするけど信じすぎない。最後まで見るようにしています」
さらに続けた。
「高地トレーニングで後半の筋力もつきました。休むことも覚えました。インスブルックでは、ジャンプで前へ出て、クロスカントリーの最後まで勝負します」
記者が尋ねる。
「目標は?」
光希は迷わなかった。
「金メダルです」
その声は、会場の奥までまっすぐ届いた。
相田、佐々木、森崎
相田飛竜は、自身の弱点を隠さなかった。
「以前は、一本失敗すると焦って、次で取り返そうとしてさらに崩れていました。今は一つの失敗を、次の情報として扱えるようになりました」
佐々木正嗣は、団体への思いを語った。
「個人でも結果を狙います。でも、四人で力を合わせる団体では、誰か一人に背負わせないチームにしたいです」
森崎岳人は、初選出への喜びを噛み締めた。
「ずっと代表の外側にいました。選考大会で結果が出ない時も多かったです。でも、光希さんたちの観察力トレーニングを取り入れてから、自分の滑りを言葉にできるようになりました」
一度、恵と光希の方を見る。
「ギャグコントで代表を取った、と言われるのは少し複雑ですけど」
会場から大きな笑いが起きた。
光希が横から小声で言う。
「俺も複雑だべ」
恵も肩を震わせている。
森崎は笑いながら続けた。
「でも、あの練習がなかったら、俺はここにいなかったと思います」
伝説の見出し
会見が終わる頃には、インターネット上に記事が次々と掲載されていた。
「上川恵、五輪連覇へ。重圧も一緒に連れていく」
「青柳光希、宿敵アドラーへ金メダル宣言」
「日本女子ジャンプ、上川一強から四人の代表へ」
そして、当然のように、あの見出しも出た。
「ギャグコントで強くなった日本代表、インスブルックへ」
恵はスマホを見て、額に手を当てた。
「またこれだべ……」
光希も隣で苦笑する。
「競技で代表になったこと、もう少し大きく書いてほしいべ」
空が笑う。
「でも否定できないよね」
美澄も言う。
「利尻島と礼文島のコント、今でも練習に使ってるし」
莉央が続ける。
「私は凍った湖と白鳥の課題で、風を待つ感覚をつかんだ」
相田も頷く。
「俺、複線の函館本線から立ち直り方を覚えました」
佐々木
「聞けば聞くほど、競技団体の会話じゃないな」
一同が笑った。
カフェ雪の夜
その日の夜。
上川駅前のカフェ雪では、小さな報告会が開かれていた。
常連客。
地元のジャンプ関係者。
恵と光希の家族。
海斗、寄子、コスキネン、ラーシュ。
代表選手となった恵と光希は、札幌から戻ってきていた。
壁には、手書きの横断幕。
恵ちゃん・光希くん
インスブルック代表決定おめでとう
雪は料理を運びながら、二人を見ていた。
「また二人とも、よく食べるねぇ」
恵はザンギを頬張りながら答える。
「代表になっても、アスリートは腹減るべ」
光希もご飯をよそう。
「選考期間で腹も心も減ったべ」
雪
「心はご飯で満たせないよ」
恵
「母ちゃんのご飯なら、半分くらいはいけるべ」
店内に笑いが広がった。
報告会が終わったあと。
雪は仏壇の前に座った。
層一の遺影。
その前には、代表決定を報じる新聞が置かれている。
雪は静かに話しかけた。
「そうちゃん」
遺影の中の層一が、優しく笑っている。
「めぐ、またオリンピックに行くよ」
少し声を詰まらせる。
「今度は光希くんも一緒なんよ」
雪は、隣の部屋から聞こえる二人の笑い声へ耳を傾けた。
「小さい頃は、あんなに怪我して、もう飛べんかもしれんって泣いた日もあったのにね」
目元を拭う。
「こんなに大きくなったよ」
その時、恵が仏間へ入ってきた。
「母ちゃん」
「ん?」
恵は雪の隣へ座った。
層一の遺影を見る。
「お父さん。代表、決まったべ」
少し笑う。
「二連覇とか、三冠とか、いろいろ言われてる。でも、まず一本ずつ飛んでくる」
胸元の鈴へ触れる。
「お父さんも一緒に来てな」
雪が小さく頷く。
「そうちゃん、きっと行くよ」
恵は遺影へ向かって、いつもの親指を立てた。
「行ってくるべ」
2041年の終わり。
恵と光希は、ついにインスブルックへの切符をつかんだ。
だが、代表決定は終着点ではない。
ここからが、本当の勝負。
四年間積み重ねてきたすべてを、世界で証明する時が近づいていた。
カフェ雪の灯りは、その夜も上川駅前を優しく照らしていた。
遠くへ行く二人が、いつでも帰ってこられるように。
次回予告
2042年。
インスブルックオリンピックの年が明ける。
恵と光希は上川で正月を迎え、層一の遺影へ出発を誓う。
しかし、最終合宿では張り詰めた緊張から、代表選手たちの動きが硬くなっていく。
そこで光子、優子、美香から届く、最後の即興課題。
お題は――
「オリンピックの聖火と、上川駅前の街灯が自慢合戦を始めたら?」
次回、
第30話 インスブルックへの灯
世界を照らす火も、帰る場所を照らす灯りも、どちらも人を前へ進ませる。




