世界一の、その先へ
『恵の物語』
第53話 世界一の、その先へ
世界選手権、最終日。
女子ジャンプ個人最終戦。
恵は表彰台の真ん中に立っていた。
金メダル。
世界の強豪たちが追いかけてきた。
恵型ジャンプを研究し、自分たちの体に合わせて進化させてきた。
それでも、最後の一本で恵は崩れなかった。
勝った。
けれど、恵の表情は浮かれきっていなかった。
首にかかった金メダルを見つめながら、彼女は小さく呟いた。
「……まだ、軽くなれるべ」
隣で銀メダルのアイノ・コスキネンが聞く。
「何?」
恵は笑った。
「次の課題、見つけたべ」
アイノは一瞬驚き、それから笑った。
「勝った日に?」
「んだ。勝った日ほど、見えるべ」
同じ頃。
ノルディック複合最終戦。
光希は銅メダルを獲得した。
十分すぎる結果だった。
世界の強豪を相手に、初出場の世界選手権で表彰台。
だが、ゴール後の光希は雪に手をつき、しばらく動かなかった。
嬉しい。
でも、悔しい。
最後の二キロ。
ドイツのルーカス・ヴァイス。
スイスのマルコ・シュタイナー。
ヨーロッパ勢の後半の爆発力は、想像以上だった。
光希も粘った。
最後まで見た。
雪も読んだ。
ラインも選んだ。
それでも、最後に脚の力が足りなかった。
ラーシュが近づく。
「よくやった」
光希は息を切らしながら言った。
「でも……足りなかったべ」
ラーシュは頷いた。
「そうだ。足りなかった」
優しい嘘は言わない。
だからこそ、光希は顔を上げた。
「筋力。スタミナ。最後の爆発力。全部、足りないべ」
ラーシュは静かに笑った。
「なら、次はそこを鍛える」
光希は頷いた。
「インスブルックまでに、変えるべ」
夜。
ホテルの部屋。
恵と光希は、窓の外の雪を見ながら話していた。
恵は金メダル。
光希は銅メダル。
結果だけ見れば、最高に近い世界選手権だった。
でも二人のノートには、もう次の課題が書かれていた。
恵のノート。
課題:体の線を少し絞る。
目的:空中姿勢の入りを速くする。着地前の余白を増やす。
注意:軽くするだけではだめ。筋力を落とさない。
光希のノート。
課題:筋力強化。後半の爆発力。
目的:ラスト2kmで欧州勢に置いていかれない。
必要:スタミナ、登坂力、最後まで諦めない精神力。
光希がため息をつく。
「ヨーロッパ勢、後半が化け物だべ」
恵も頷く。
「うちも、空中であと少し軽く入りたい。でも筋力落としたら意味ない」
二人とも、勝った日なのに、もう次を見ていた。
その時、光希がふとスマホを見た。
「恵」
「ん?」
「精神力って、どう鍛えるべか」
恵は少し考える。
「ラーシュさんに聞く?」
「聞く。でも、別の角度でも聞きたい」
「別の角度?」
光希はビデオ通話の画面を開いた。
「光子さん、優子さん、美香さん」
恵は一瞬で察した。
「ああ……大観衆の前で崩れない人たちだべ」
通話がつながる。
画面に、博多の三人。
光子
「めぐ!光希くん!メダルおめでとうたい!」
優子
「金と銅!すごすぎるやろ!」
美香
「ほんまよう頑張ったね」
恵と光希は頭を下げた。
「ありがとうございます」
光希が真剣な顔で聞いた。
「聞きたいことがあります」
光子
「お、何ね?」
光希
「あれだけの大観衆を前にして、崩れない精神力って、どうやって持つんですか?」
画面の向こうで、三人が少しだけ静かになった。
美香が最初に口を開いた。
「崩れない、というよりな」
優子が続ける。
「崩れそうになる前提で立つ、やね」
光希は目を見開いた。
「崩れそうになる前提?」
光子が頷く。
「うちらも緊張するたい。めちゃくちゃする。大観衆の前で滑ったらどうしよう、変な間ができたらどうしよう、って思うことはある」
優子
「でも、“緊張せんようにしよう”って思うと、逆に緊張が大きくなるっちゃん」
美香
「だから、緊張は消さん。連れていく」
恵が静かに呟く。
「怖さは同僚……」
美香が笑う。
「そう。それに近い」
光子
「あとね、観客全員を見ようとすると無理たい」
優子
「何万人を相手にするんやなくて、目の前の一人に届ける感じ」
美香
「客席全部を背負うんじゃなくて、一人の笑顔を見つける」
光希は黙って聞いていた。
光子
「ギャグも同じたい。全員笑わせようとした瞬間、力む」
優子
「目の前の相方の言葉を聞く。客席の一人の反応を見る。そこから返す」
美香
「競技なら、観客じゃなくて、雪でも風でもいい。目の前の“今”に戻るものを決めておくこと」
恵が頷く。
「うちは、風を見る」
光希が言う。
「俺は、雪を見る」
美香
「それでいい。大観衆は大きいけど、勝負の瞬間に相手するのは、結局そこやと思う」
優子が少し笑う。
「あと、滑ったら滑ったで、ネタにする覚悟」
光希
「それはハードル高いべ」
光子
「でも強いよ。失敗したら終わり、じゃなくて、失敗しても次の返しがあるって思えるから」
恵は、静かにメモを取った。
崩れそうになる前提で立つ。
緊張は消さず、連れていく。
大観衆ではなく、目の前の一つに戻る。
失敗しても次の返しがある。
光希もノートに書いた。
「これ、めちゃくちゃ大事だべ」
美香が優しく言う。
「光希くん、後半で苦しくなった時は、全部を見ようとせんでいい。次の一歩だけ見る。それを積む」
優子
「最後まで諦めないって、根性論だけじゃないっちゃん」
光子
「次の一歩を見つける技術たい」
光希の目が変わった。
「次の一歩を見つける技術……」
恵も静かに頷いた。
世界一の、その先。
そこには、ただ強くなるだけでは届かない場所がある。
体を整える。
筋力をつける。
スタミナを伸ばす。
でも同時に、心の戻り場所を作る。
翌朝。
恵はコスキネン、海斗、寄子と話した。
「体の線を少し絞りたいべ。でも筋力は落としたくない」
海斗は頷く。
「やるなら計画的にだ。体重を落とすことが目的じゃない。動きの質を上げる」
寄子
「栄養管理と睡眠を崩さないこと」
コスキネン
「細くなるんじゃない。研ぐんだべ」
恵はその言葉に笑った。
「研ぐ。いいべな」
一方、光希はラーシュに言った。
「後半で爆発する筋力と、最後まで諦めない心を作りたいです」
ラーシュは頷いた。
「なら、これから地獄だ」
光希
「やっぱりそうなるべか」
ラーシュ
「でも笑える地獄にする」
光希
「それ、怖いべ」
ラーシュは真顔で言った。
「次のメニュー名は、“雪だるま脱出坂道走”だ」
光希は頭を抱えた。
「また変な名前だべ!」
世界選手権は終わった。
でも、恵と光希の目はもう次を向いていた。
2042年、インスブルック。
その場所へ向かうために。
勝った日ほど、課題を探す。
悔しい日ほど、次の一歩を見る。
笑いながら、観察しながら、体と心を研いでいく。
恵は胸元の鈴に触れた。
ちりん。
「世界一の、その先へ行くべ」
光希も頷いた。
「一緒に行くべ」
次回予告
世界選手権を終えた二人は札幌へ戻る。
恵は体の線を絞り、空中姿勢をさらに研ぐ新メニューへ。
光希は筋力と後半の爆発力を鍛える地獄の坂道トレーニングへ。
だが、待っていたのは競技だけではない。
大学の後期授業。
栄養管理。
睡眠管理。
そして、なぜか命名される謎メニューの数々。
次回、
第24話 研ぐ身体、鍛える心
強さは、派手な勝利の翌朝に作られる。




